All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 871 - Chapter 880

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第871話

翌日、泰造は血相を変えて華栄キャピタルのオフィスへ謝罪に駆け込んだ。しかし対面した詩織は、ただ不思議そうに首を傾げるだけだった。「……河村さん、何か誤解されていませんか?」「いや、その……お恥ずかしい話ですが、私の妻は外の世界の厳しさを知らず、どうにも浅はかなところがありまして。もし彼女が江崎社長に対し、何か無礼な振る舞いや言動をしたのであれば、夫である私から深くお詫び申し上げます。どうか、あの阿呆の戯言など笑って許してやってはいただけないでしょうか」泰造は額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭いながら、必死に取り繕った。詩織はあっさりと答えた。「申し訳ありませんが、河村さん。私は本当に何もしておりません。奥様の発言についても、いちいち気にするつもりはありませんから」本当にただの事実だった。他人の心無い噂話や陰口など、いちいち相手にしていたら、この業界で今の地位まで登り詰めることなどできるはずがない。上に立てば立つほど、視野は広がり、視座は高くなる。そんな些末なことに割く時間など、彼女には一秒たりとも持ち合わせていなかったのだ。泰造は平謝りして帰っていったが、その後も彼の会社のプロジェクトは一向に動かず、各所からの冷遇は続いた。家に帰れば、すべての元凶である優杏が能天気に待ち構えている。怒りの持って行き場を失った泰造が、ついに逆上して彼女にひどい暴力を振るい、夫人たちの集まりへの出席を固く禁じたのは、また別の話である。泰造がオフィスを去った瞬間、詩織の頭からその件は完全に消え去っていた。彼女はとにかく忙しかった。他人のゴシップを楽しむ時間さえ取れないほどに。丸々一週間に及ぶ出張を終え、飛行機が空港に降り立った直後、向井文武からの食事会の誘いが入った。ちょうど彼に相談したい件があった詩織は、そのまま会場へと向かった。到着した頃には、すでに会は始まっていた。顔なじみの面々ばかりだ。向井が詩織を誘ったのには、やはり狙いがあった。グラスを傾けながら、彼が探りを入れてくる。「華栄キャピタルが、『ココロ』の株をすべて手放すという噂は本当ですか?」「ええ。事実です」詩織はあっさりと認めた。その場にいるのは、みな一筋縄ではいかない海千山千の経営者たちばかりだ。誰もが腹の底でそれぞれの思惑を巡らせている。宴もた
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第872話

「かしこまりました」密は、慣れた様子で頷いた。そこは詩織が普段からよく立ち寄る場所だった。江ノ本市の南山湖。入口にある平面駐車場にスムーズに車を停めると、詩織は一人でドアを開けた。「ついてこなくていいわ。少し歩いたら、すぐ戻るから」江ノ本市の気候は、秋が一番美しい。春のような浮き足立った落ち着きのなさもなく、夏のうだるような熱気もない。もちろん、冬の肌を刺すような凍てつく空気とも無縁だ。湖面を撫でてきた澄んだ秋風が、胸に溜まった鬱々とした思考をすっきりと洗い流してくれる。遊歩道をしばらく歩くうち、残っていたわずかなアルコールの熱も、夜風に完全に持っていかれた。ふと足を止めたとき、詩織ははっと息を呑んだ。無意識のうちに歩き続けていたその場所は、かつて彼女が「あの指輪」を水底へ投げ捨てた、因縁の場所だった。あれほどの痛みを伴った別れから何年も経ち、当時の張り裂けそうな感情など、とうの昔に忘れたつもりでいた。しかし、実際にこの景色を前にすると、まるで昨日のことのように、あの瞬間の記憶が恐ろしいほど鮮明にフラッシュバックしてくる。吸い寄せられるように、詩織は水際へと続く石段を降りていった。身を屈め、静かに波打つ湖面へそっと指先を浸す。秋の湖水は酷く冷たく、指先から骨の髄まで凍りつくような冷気が這い上がってきた。たまらず、彼女はすぐに手を引っ込めた。立ち上がろうとした、その瞬間だった。彼女から一メートルも離れていない水面が突然大きく盛り上がり、ザバァッと激しい水音を立てて、黒い人影が水面から飛び出してきたのだ。「……ッ!」詩織は心臓が口から飛び出そうになるほど驚き、息を呑んだ。背後にある街灯が周囲を明るく照らしていなければ、間違いなく悲鳴を上げていただろう。バクバクと暴れる心臓を必死に抑えつけ、滴る水から顔を覗かせたその人物に目を凝らす。――そこにあったのは、あまりにも見慣れた男の顔だった。真正面から視線がぶつかり合い、互いに一歩も動けないまま硬直する。柊也の漆黒の瞳が、詩織の顔を食い入るように見つめていた。死に絶えたように静まり返っていた彼の心の湖に、唐突に激しい波が立ち、幾重にも波紋となって広がっていく。愛する女性を前にして、狂おしいほどの感情が爆発しそうになった。だが――次の瞬間。ミキか
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第873話

ドン、とミキがスマホを置く音が響いた。彼女は不機嫌そうに眉を吊り上げる。「はあ?なんであいつが?二度とあなたにまとわりつかないように、私がきっちり警告しておいたのに」その言葉に、グラスを置こうとした詩織の手が止まった。「警告したって……あなたが彼に?」しまった、という顔をしたミキだったが、どう見ても今さら取り繕える空気ではない。彼女はバツの悪そうな顔で、観念したように白状した。「だって、あの頃のあなた、あいつのせいでだいぶ参ってたじゃない。これ以上あなたに傷ついてほしくなかったから、ほんのチクッと釘を刺しただけよ」「チクッと?」「……わかったわよ。脅したの! これ以上あなたの前に現れて邪魔をするようなら、この私が物理的にボコボコにしてやるってね!」詩織は思わず、呆れたように額を押さえた。どうりで先ほど、彼があんな回りくどく不器用な言い訳をしたわけだ。全てはミキから突きつけられた言葉に縛られていたせいだったのか。だが、詩織にとってさらに予想外だったのは、他でもないあの柊也が、ミキの警告を馬鹿正直に――それも真夜中の冷水に浸かり続けるという、あそこまで異常な形で――聞き入れていたという事実だった。「次からは、あんな無茶は絶対にしないでね」胸が熱くなるのと同時に、詩織はどうしてもミキのことが心配になった。何と言っても、あの柊也は賀来家の人間なのだ。かつては気まぐれ一つで表舞台を意のままに操っていた絶対的な御曹司である。権力も後ろ盾もないミキを社会的に葬ることなど、彼にとっては赤子の手をひねるより容易い。万が一、ミキが報復されでもしたら取り返しがつかない。ミキも詩織の懸念を察していた。「あの時は私もさすがにビビったのよ。でも、あんたの泣きはらした目を思い出したら、もう後先なんて考えていられなくて」そう言って、ミキは苦笑いする。「でも心配しないで。あいつ、一言も反論してこなかったし、私がまくし立てたら今にも泣き出しそうな顔で黙り込んでたから。……もちろん、私があんなに喰ってかかっても許されたのは、全部あんたの存在があるからだってことはわかってるわよ」その辺りの実力差と力関係は、ミキ自身も冷静に理解しているのだ。彼女は詩織の手を取り、ぎゅっと握りしめた。「私はただ、あいつが昔、あんたをあんなに惨めな目に遭わ
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第874話

その時、詩織は役員会議の真っ最中だった。会議室のドアが突然開き、乱入してきた太一の姿に、その場の全員が呆気に取られた。密が、申し訳なさそうに詩織に駆け寄る。「申し訳ありません、詩織さん。お止めしたのですが……! 今すぐ警備員を呼んで連れ出します」しかし、太一はそんな密の言葉など耳に入っていない様子だった。彼の目は真っ赤に充血し、いつも小綺麗にしている服装もひどく乱れている。ただならぬ様子の太一を見て、詩織は密を片手で制した。そして自ら会議室を後にし、太一と二人きりになる。「江崎……」太一は、すがるような、ほとんど懇願に近い声で呼びかけた。「お願いだ、柊也のところへ行ってやってくれないか」詩織が拒絶するのを恐れたのか、彼はすかさず一つの過去を持ち出した。「柊也が……昔、あんたのお母さんに腎臓を提供した恩に免じてさ。頼むから、一度でいいから様子を見に行ってやってくれよ!」目に見えない何かに喉を射抜かれたように、詩織は息を呑んだ。声が出ない。心臓の鼓動すら数秒間止まってしまったかのような錯覚の中、ようやく絞り出した声はひどく震えていた。「……今、なんて言ったの?」「何かの間違いじゃないの? 彼は母に、骨髄を提供してくれただけで……」太一は乱暴に目尻の涙を拭った。「嘘なんかじゃない。あの時、お母さんに移植された腎臓は……柊也のものなんだ。あんたには絶対に知られたくないって、今まで誰にも口外してなかった。俺だって、弁護士の峰岸さんとの話を偶然聞いちゃって知ったんだ」二日前、柊也が遺言書のことで弁護士の峰岸と面会していた時のことだ。太一は本当に偶然、その事実を知ってしまった。正直なところ、太一自身も激しく動揺した。いったいどれほど深く愛していれば、そこまでの自己犠牲を払えるというのか。たまらず本人に尋ねた太一に対し、柊也はどこまでも静かにこう答えたという。『もし詩織がいなかったら、この世界に俺はとっくに存在していない』自分の命は、彼女に救われたものだから。それに比べれば、腎臓の一つなど安いものだ、と。その事実は、凄まじい威力の爆弾となって詩織の心を木端微塵に打ち砕いた。目の前が真っ白になり、長い睫毛が小刻みに震える。目頭が焼け付くように熱くなり、喉の奥から込み上げる嗚咽を必死に押し殺した。「
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第875話

ただ「待つ」という行為がこれほどまでの拷問なのだと、彼女は今生で二度目の実感として味わっていた。一度目は、母である初恵の手術の時だった。一分一秒が、じりじりと身体を焼かれるように過ぎていく。処置室の重い扉を瞬きすら忘れて見つめ続け、きつく唇を噛み締めていたが、熱い涙がとめどなくあふれては視界をぼやけさせた。きつく握り合わせた両手は、氷のように冷え切っている。七年、そして五年。合計十二年にも及ぶ激しい愛憎の絡み合いも、絶対的な「生死」の前では、広大な海に浮かぶ粟粒のようにちっぽけなものでしかなかった。私は一体、何を意地を張っていたのだろう。どんな憎しみも、裏切りも、執着も、死という現実の前では取るに足らないことだ。もう、何も気にしない。過去の精算なんてどうでもいい。彼に生きていてほしい。ただ、きちんと生きていてくれさえすれば、他にはもう何も望まない。......江ノ本市への出張が決まるやいなや、沙羅はミキに連絡を入れ、飲みに行く約束を取り付けていた。出会った瞬間からすっかり意気投合した年齢差のある二人は、顔を合わせるなりおしゃべりが止まらない。ミキはグラスを片手に、この高級クラブ『ラウンジ・ノクターン』にいる男の子たちのレベルが低すぎる、宣材写真の加工詐欺ばっかりだと愚痴をこぼしていた。沙羅は面白そうに笑って尋ねる。「じゃあ、ミキはどんなタイプが好みなの? 今度いい子を探してあげるわよ」「うーん……『顔が良くて、おっきい人』がいいわね」「ん?背が高い人ってこと?」「ううん」ミキは悪戯っぽく笑った。「夜のベッドで頼りになるサイズってことよ」沙羅は一瞬きょとんとした後、お腹を抱えて笑い出した。「あはは!その二つの条件を完璧に満たす優良物件なんて、そうそう転がってないわよ」「だから退屈なのよね」ミキはつまらなそうにため息をついた。「それなら今度、S市にいらっしゃい。私がとびきりいい店で目の保養をさせてあげるから」沙羅はミキのグラスにお酒を注ぎ足しながらウインクした。「やっぱり、お酒の席にはいい男がいないとね。酔い潰れたら優しく介抱してくれるし、いい感じに酔えれば、ベッドで乱れたホルモンバランスだって整えてくれるんだから」二人のそんな赤裸々で際どいガールズトークに、詩織はいつも通り
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第876話

その声に詩織は足を止め、横目で女を見た。数秒の沈黙の後、ようやくその正体に思い当たる。なんと、志帆の従妹である美穂だった。以前の面影はすっかり消え失せている。体型は随分と崩れ、全身から場末の水商売のようなすれた空気を漂わせていた。彼女の嫌味など気にも留めず、詩織は淡々と言った。「お楽しみのところ悪かったわね。でも、次はもう少し場所を選んだ方がいいわよ」あくまで親切心からの忠告だったが、美穂は顔を激しく歪ませた。羞恥からか、あるいは激しい怒りのせいか。詩織の余裕に満ちた冷淡な態度が、美穂の神経をひどく逆撫でしたのだ。「江崎詩織……!あんたも賀来柊也も、絶対にろくな死に方をしないわよ!」美穂は憎悪を剥き出しにして叫んだ。「あいつは志帆お姉ちゃんの心を弄んで、あんたはお姉ちゃんの栄光をすべて奪い取った!あんたたち、地獄に落ちればいいのよ!」詩織はひややかな目を向け、容赦なく事実を突きつけた。「呪いの言葉に効果があるなら――あなたの従姉は、とっくに精神を壊したりしなかったでしょうね」普段なら相手にもしないところだが、詩織は珍しく丁寧に言葉を続けた。「それにね、もしそれが本当に彼女自身が手に入れた輝きだったなら、誰にも奪うことなんてできない。奪われたということは、最初から彼女が誰かから盗んだものだったって証拠よ。本来、彼女のものではなかったの」一切の温度を持たない正論に、美穂は息を詰まらせた。彼女だって、何が真実かなど痛いほどわかっているのだ。ただ、どうしても納得がいかないだけだった。自分自身の人生が転落していく中で、今や手の届かない高みから自分を見下ろしている詩織の存在が、狂おしいほど妬ましかった。「じゃあ、賀来柊也はどうなのよ!?なんでお姉ちゃんの気持ちを騙したのよ!婚約も嘘! 優しくしたのも全部嘘!それどころか、あいつ自身の手でお姉ちゃんとおばさんを刑務所に叩き込んだじゃない!」「あいつは、最初から最後までお姉ちゃんのことなんか、これっぽっちも愛してなかった……!」喉から血が出るような声で叫ぶ美穂の目には、どろどろとした暗い狂気が渦巻いていた。詩織の顔に一瞬、明らかな驚きが走り、やがてそれは何とも言えない複雑な色へと変わった。美穂のヒステリックな絶叫を聞きつけ、『ラウンジ・ノクターン』の黒服たちがす
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第877話

「柊也、もう待たないで。江崎は来ないよ」太一は、あえて残酷な事実を告げた。詩織の心は、自分たちが思うよりもずっと冷徹に閉じられているのだろう。柊也は静かに目を伏せ、底知れない喪失感を隠して、ゆっくりと病院の外へ出た。また雨だった。この街の晩秋はいつも霧雨に包まれ、心までじっとりと湿らせる。太一が車を取りに行っている間、柊也は入り口で待つことになった。太一は「雨に当たらないで」としつこく言い残していった。病院の入り口は、季節を問わず常に多くの人々が行き交っている。ふと、花束を持った小さな女の子が、おずおずと彼に近づいてきた。「こんにちは」柊也が視線を落とすと、そこには六、七歳くらいの、おさげ髪をした女の子が立っていた。透き通るような、綺麗な瞳。――詩織に似ている。柊也は、吸い寄せられるようにその瞳を見つめた。不意に、記憶の奥底に眠っていた切ない思いが呼び覚まされる。もし、あの子が生きていて、今ここにいたとしたら。今ごろ、ちょうどこのくらいの年齢になっていただろうか。もし女の子だったら。きっと、詩織によく似ていたはずだ。この子のように、キラキラとした瞳を持っていただろうか。「この花、全部もらうよ」柊也はポケットからスマホを取り出し、送金しようとしてふと手を止めた。こんな小さな子が電子決済を使えるわけがない。彼は女の子と同じ目線になるようにしゃがみ込み、真剣な顔で語りかけた。「ごめん、現金を持っていなくて。二分だけ待ってくれるかな?すぐにおろしてくるから」だが、女の子はふるふると首を横に振った。「このお花は、最初からお兄さんに渡す約束なの」「俺に?」柊也は訝しげに眉をひそめる。女の子はこくりと頷いた。「綺麗なお姉さんが、もうお金を払ってくれたの。『あそこにいる人に渡してあげて』って」「お姉さん?どこに!?」柊也は弾かれたように立ち上がり、必死になって行き交う人々の中にその姿を探した。しかし、女の子は無残にも告げる。「もう、行っちゃったよ」爆発するほどの希望と、突き落とされるような絶望。正反対の感情が同時に押し寄せ、柊也の心を激しく掻き乱した。女の子は抱えていた花束を柊也の腕に押し付けると、今度はポケットから小さな布製の袋を取り出して差し出した。「これも、お姉さんから」そ
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第878話

彼女の味わった苦痛と悲しみは、彼の浅はかな想像など及ばないほど深かった。あの地獄のような日々を、彼女はどうやって耐え抜いたのだろうか。あの頃の彼女が、誰も寄せ付けまいと全身に棘を逆立てていた理由が、今なら痛いほどわかる。もし、ほんの少しでも彼女の心に寄り添えていたら。もう少しだけ気遣って、深く向き合って言葉を交わしていれば。二人は、今とは違う未来を迎えられたのだろうか?しかし、時計の針は決して戻らない。二人の間に『もしも』という甘い仮定は存在しなかった。ここまで決定的に壊れてしまったのは、すべて自身が撒いた種だ。もう彼女に許しを乞う資格などない。彼自身が、こんな自分を絶対に許せないのだから。詩織――その名前を胸の内で反芻するだけで、冷たい鉄の爪が心臓を鷲掴みにしてくる。呼吸が詰まり、全身の血の巡りが凍りついてとまるような絶望感の中で、柊也は激しい痛みに耐えるように深く目を閉じた。太一は無言のまま、車で柊也を今の住まいまで送り届けた。正直なところ、太一はいまだに信じられずにいた。あの柊也が、かつて詩織が借りていたような古びたアパートに住んでいるという現実が。あの部屋は……あまりにも狭すぎる。太一の自宅マンションにある、主寝室のバスルームよりも狭いくらいだ。それなのに、柊也はもう半年近くもここに住み着いており、引っ越す気配は微塵もなかった。そもそも、こういった安い賃貸アパートに快適さなど望めるはずもない。住環境はお世辞にも良くなく、住人の層も決して褒められたものではなかった。太一は玄関のドアの前まで彼を付き添い、「薬と飯はちゃんと時間通りにとって、しっかり休めよ」と説教じみた小言を並べていた。その時、隣の部屋から突然、女の甲高い悲鳴が響き渡った。「助けて!誰か助けて!」ほら見ろ。ドアの防音すらまともに機能していないじゃないか。太一がため息をつきつつ、やっぱりセキュリティのしっかりした高級マンションへ移って療養しろ、と言いかけたその時だった。隣のドアが乱暴に開け放たれた。腕に刺青を入れた男が、女の髪を掴んで廊下へ力任せに引きずり出してきたのだ。「このクソビッチが!金出し惜しみしやがって!ぶっ殺すぞ!」女の顔や腕には痛々しい痣がいくつも浮かび上がり、さらに最悪なこ
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第879話

圧迫を繰り返す。その一回一回が、かつて自分が踏みにじった純粋な愛情からの、鋭い鞭打ちのように胸をえぐった。それでも、柊也は手を止めなかった。退院したばかりの体力が、とうに限界を超えていることなど関係ない。十五分近く休みなくマッサージを続け、両腕は鉛のように重く痺れ、痙攣寸前だったが、それでも絶対に諦めなかった。諦めてなるものか。頭の中には、ただ一つの強烈な執念しかなかった。死なせるな。絶対に命を繋ぎ止めろ。彼が必死に救い出そうとしているのは、たまたま出くわした見ず知らずの赤の他人ではない。それはまるで、彼が心の底から愛し、最も深い罪を背負わせてしまった『彼女』の命そのもののように思えたのだ。太一は赤信号を無視して飛ばしに飛ばし、最短ルートで病院へと滑り込んだ。車が停まるやいなや、待ち構えていた医療スタッフが即座に柊也から引き継ぎ、ストレッチャーに女を乗せて心臓マッサージを続行する。緊迫した空気の中、一行は足早に救命室へと消えていった。重い扉が閉ざされてから随分と時間が経っても、柊也は壁にもたれたまま動けずにいた。体側の両腕は、いまだに目に見えて震え続けている。「……タバコ、あるか」太一は何も聞かず、わざわざ外のコンビニまで買いに走った。薄暗い喫煙所。柊也は何かを取り憑かれたように、深く、何度も煙を肺に吸い込んだ。そうやってニコチンを摂取することでしか、自分が今生きているという実感を持てなかった。死というものの圧倒的な気配に直面して、彼は初めて、あの時詩織がどれほどの恐怖と綱渡りの中で生還したのかを、肌で理解した。もしも許されるなら、過去に戻りたい。暗闇の中にいた彼女を見つけ出し、強く抱きしめたい。「怖がらなくていい、俺が付いているから」と、耳元で繰り返してやりたい。冷たい死の淵に、彼女をたった一人で立たせたりなどしたくなかった。戻れるなら、もっと前へ。彼女が仕事で初めて酒を強要されたあの夜。あのグラスを彼女の口に運ばせる前に、奪い取って飲み干したかった。お酒の付き合いなんて覚えなくていいんだと。無理して必死に這い上がる必要なんてないのだと。ドロドロとしたビジネスの法則を、血を吐く思いで学ばせることなんてしたくなかった。誰もが恐れるような「冷酷な女社長」
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第880話

立っている気力さえも完全に失い、柊也は廊下の待合用ベンチに力なく崩れ落ちた。そのまま一人、薄暗い病院の廊下で、気の遠くなるような長い時間をただじっと座り込み続けていた。救急外来というのは、病院の中で最も慌ただしく、最も残酷な場所だ。女の命を繋ぎとめたことでようやく消灯したかに見えた処置室のランプが、再び赤く点灯した。今度は交通事故だった。全身血まみれになった重傷者が運び込まれていく。だが、その傷者は先ほどの女のように幸運ではなかった。中に運ばれてから三十分も経たないうちに、無情にも蘇生無効、死亡という宣告が下された。駆けつけた家族がその場に泣き崩れる。夫らしき男は床に膝をつき、「助けてください、もう一度だけ診てください。妻がいなくなったら俺は……子供から母親を奪わないでくれ!」と、すがるように医師の白衣を掴んで泣き叫んでいた。しかし、医師は深く頭を下げ、「ご愁傷様です」と告げるしかなかった。この世で最も耐え難い別れとは、死別である。それは生き別れなどよりもずっと凄惨で、容赦がない。どれほど後悔しようとも、やり直す余地など一ミリも残されていないのだから。その光景を目の当たりにした瞬間、柊也の背筋にゾッと冷や汗が走った。虚ろだった瞳の奥で、激しい波が逆巻く。彼は突然ベンチから弾かれたように立ち上がると、出口に向かって足早に歩き出した。手続きを終えて戻ってきた太一は、血相を変えて歩き去ろうとする背中を見て慌てて声をかけた。「柊也、どこ行くんだよ!?」「詩織のところだ」「はあ!? 今から!?」太一はギョッとして、彼の悲惨な有様を指差した。今の柊也は、先ほど女を心臓マッサージしたせいで、服のあちこちに血がこびりついている。すでに乾いて酸化した血の痕が、シャツやジャケットに赤黒い染みを作っており、身だしなみや体裁などあったものではない。太一は慌てて小走りで追いかけた。「頼むから、一度戻って服だけでも着替えようぜ」だが、柊也の耳には全く届いていないようだった。足を止める気配すら見せない。「マジでその格好じゃ、江崎を震え上がらせるだけだって!」太一のその一言で、柊也はピタリと動きを止めた。視線を落とし、自らの姿をじっと見下ろす。――確かに、血まみれで薄汚れていて、あまりにも不気味だ。こんな姿を見
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