All Chapters of 魔法学院の囁き〜貴族と庶民、禁断の恋愛地獄〜: Chapter 11 - Chapter 20

48 Chapters

銀月の令嬢、背徳の微笑

理事会の結果が学院中に伝わった午後。石造りの教室には、いつもの喧騒が戻りつつあった。窓際に座るトマスは、机に押しつけた拳を白くなるほど握りしめている。肩は落ち、背中は丸い。呼吸は浅く、力を込めるたびに指先が震えていた。視線は窓の外に向いているはずなのに、そこに何も映していない。彼だけが世界から切り離されたような沈黙が、席の周囲に漂っている。少し離れた場所から、マリナがその姿を見つめていた。口元に一瞬だけ笑みが浮かぶ。けれどそれは誰にも気づかれることなく消え、すぐに憂いを帯びた表情に変わった。足取りを静めて近づき、隣へ腰を下ろす。視線を落とし、呼吸を整えるように一拍置いてから声を落とした。「……カリダの推薦、通ったんでしょ? 保留が解除されたって聞いたわ」トマスは顔をわずかに上げる。掠れた声が漏れた。「ああ。……あいつはもう、大丈夫だ」「そう、よかった」それきり言葉は続かない。沈黙が長く降り、遠くのざわめきすら遠ざかっていくように思える。やがてトマスが視線を落としたまま、低く呟いた。「……お前は、大丈夫なのか?」問いかけにマリナは驚いたように瞬きをした。唇が一瞬震え、答えを探すように視線が揺れる。それでも小さく首を振り、柔らかく微笑んだ。「私のことなんていいの。心配するのは、あなたの方よ」「……俺は、何も守れなかった。レナータも、お前も……」その吐息は苦く、自嘲めいていた。マリナは力強く首を振り、彼を正面から見つめ返す。「……それでも、私はあなたを信じてる。ずっと」彼女の指先がそっと彼の手に触れる。冷たく硬いその感触に、ほんの一瞬ためらいが過ぎる。だが逃げずに握り込むと、トマスの指が震え、やがてぎゅっと握り返した。「…ありがとう…ごめんな…」崩れ落ちるような声。マリナは静かに首を振り、彼の肩に顔を寄せた。「謝らなくていい。私は、ずっと……あなたの味方だから」涙を浮かべているように見える横顔。その唇の端がわずかに吊り上がっていたことに、トマスは気づかなかった。廊下の影に立つレナータは、二人の姿を見つめて胸を押さえた。紅い瞳が揺れ、息が詰まり、指先が冷たくなる。必死に笑顔を作ろうとするが、唇は震えて形にならない。頬を伝う涙を慌てて拭きながら、喉の奥から掠れた声が漏れた。「私、何をやってるの……」低い呟きは、自分を責める刃と
last updateLast Updated : 2025-09-03
Read more

歪な友情

冷たい鏡に自分の顔を映していた時、背後から甘い香りが忍び寄った。コツリ、と響いた足音ののち、月光を抱いたような銀髪が揺れる。少女は唇を歪め、濡れた瞳で鏡越しに視線を送った。「ふふ、怖いわね。いつもの仮面はどこにやったのかしら」挑発めいた声。鏡に映る影を射抜くように視線を返し、胸の奥で熱が小さく揺れた。「あなたの前で仮面を付けてもしょうがないでしょう」銀髪の少女――ルクシアは、わざとらしく吐息を零しながら胸元に指を滑らせた。柔らかな曲線を際立たせ、次いで喉元を指先でなぞる。わずか二つの仕草だけで空気が濡れ、重くなる。「ふふ、そうね。聖職者の前で嘘は禁物よ」レナータの唇は笑みを作らず、ただ形だけで冷たさを刻んだ。「あなたが王国一の大聖堂の令嬢だなんて。世も末ね」ルクシアは床を滑るように歩み寄り、鏡に映る自分を楽しむかのように髪を撫で上げた。「あら、そう邪険に扱わないでよ。友達が心配で駆け付けたのに」レナータは肩をすくめる。その動きに温度はなく、氷のような拒絶だけが滲む。「誰が友達よ」艶めく声が耳をくすぐる。「仲がいいだけが友達じゃないでしょ。あなたと私みたいな歪な友情もあるわ」わざと身体を寄せ、頬をかすめる距離で囁いた。「庶民の彼、何がそんなにあなたを動かしたの?」レナータは顔を背け、声を乾かす。「別に。ただの遊びよ。女王や貴族の檻の中が飽きたから、少し外に出ただけ」「…まあいいわ。今はそう言うことにしておきましょう」ルクシアは唇を舐め、湿った音を残した。「私が興味があるのは彼ではなく、あの彼女の方よ」「マリナのこと?」「ええ。彼女、見込みがあるわ。私の右腕になれるかも」レナータの口元が引きつり、歯の裏で息が軋む。「マリナも厄介なのに目をつけられたわね…」「ふふ、止めてみる?彼女は友達でしょ」挑発の言葉とともに、指先が金の髪を一房すくい上げ、さらりと離れていった。「さぁ、向こうはどう思ってるのかしらね…」ルクシアのまぶたの奥で冷えた光が揺れた。「何か知ってるのね。私には…話してくれそうにないわね」「ええ、もうこれ以上あなたと会話して気分を害したくないわ。もういくわね」「元気出しなさい。彼のこと、諦めない方がいいわ。リヴァリスも、あなたたちならなんとかできるでしょう」レナータの胸がわずかに震えた。小さな
last updateLast Updated : 2025-09-04
Read more

三つの影

朝の石畳は、夜の冷たさをほんの少し残していた。トマスとマリナは並んで歩いている。トマスは靴先ばかりを見つめ、石畳の継ぎ目を数えるように足を運んでいた。マリナはその横顔をそっと盗み見て、声をかけたいのにかけられず、歩幅だけを合わせてついていく。角を曲がった先で、レナータが姿を現した。ほんの一瞬、表情が固まる。けれどすぐに、いつもの微笑みを取り繕って近づいてくる。その姿に気づいたトマスの肩が小さく震え、足が止まりそうになる。「おはよう」声はやさしい響きなのに、瞳の奥は冷えたままだ。「……お、おはよう」視線を合わせられず、小さく応じる。言葉は途中で切れ、喉に硬さが残っていた。「今日も授業、大変そうだね……ね?」マリナは必死に笑ってみせるが、笑顔は不安定に揺れる。「……そうだな」トマスは答えながら視線を下に落とし、歩幅だけをわずかに早めた。「そうね。みんな頑張らないと」レナータの返事は無難で、形だけ。三人の間には、言葉にできない気まずさが置かれたように広がっていく。やがて、レナータはふっと笑みを浮かべ、背を向けた。「それじゃあ、また」トマスは何も言わず、遠ざかる背中を見送る。マリナは慌てて声をかけた。「レナータ、またね!」返事はなく、風だけが通り過ぎた。俯いたまま、トマスが誰にも届かない小さな声でつぶやく。「……レナータ」その声を拾ったのは、マリナだけ。彼の横顔を不安そうに見つめる。去っていく髪が風に揺れ、隙間から覗いた紅い瞳が、一瞬だけ冷たく光って消えた。柱の影。三人を見届けたあと、エリシアはゆっくり回廊へ出た。レナータが一人になるのを待って、ためらいを踏みつけるように歩みを近づける。「……さっき、また庶民と一緒にいたのね」声は落ち着いているのに、目元には薄い氷のような色が浮かんでいた。「ええ。マリナも……色々大変そうだから」レナータはわずかに首筋を強張らせ、視線を逸らして答える。「庶民なんかに気を遣う必要、あるかしら」微笑んだ口元とは裏腹に、吐息は硬く切れた。「……さぁね」短く、切り捨てるような声。「ほんと、あんたって……優しすぎる」エリシアの声はやわらかく見せかけて、爪は掌を掻くほどに食い込んでいた。その後、鏡の前。自分の姿を見つめながら、エリシアは小さく呟く。「レナータは、私の親友のはず」
last updateLast Updated : 2025-09-05
Read more

仮面の会話

学院の中庭は春の風が柔らかく通り抜け、若葉の匂いがまだ湿った石のベンチにまとわりついていた。そこに腰掛けるのは、トマスとマリナ。だが、トマスの表情は晴れない。昨日からまとわりつく視線の気配が、どうにも拭えなかった。膝の上で握った拳が、何度もほどけては固まる。そこへ学院の使いが駆けてきた。「カーター君、教師から呼び出し。来年度の騎士団推薦の書類確認だって」タイミングが悪い。トマスはちらとマリナを見る。「……マリナ、すぐ戻るよ。気をつけろよ」「うん、大丈夫だよ」マリナは笑ってみせたが、瞳の奥で不安が揺れていた。トマスはその影を見逃さなかったが、断る理由もなく、後ろ髪を引かれる思いで立ち去った。残された中庭は、風が枝を揺らす音ばかり。マリナは胸に本を抱え、小道を一人で歩く。靴音が、やけに大きく響いた。背後の植え込み。その影に潜むエリシアの瞳が冷たく光る。「レナータの時間を奪って……」「私の居場所を取って……」「庶民のくせに、なんで私より……」恨み言は低く積もり、指先から光が弾けた。ぱち、と小さな火花。次の瞬間、魔法弾が飛び、マリナの袖口を掠めて焦がした。マリナは息を呑み、振り向く。だが防御は間に合わない。――その刹那。ひとりの青年が、片手で魔法を弾き払った。肩に埃を落とし、鼻で笑う。「ったく、誰だよ。女に向かって魔法を放つかよ」背中に煙の匂いを纏いながらも、余裕しかない顔。ヴァレン・マルケスだった。「あ、あの……すみません」マリナは声を小さく落とした。本を胸に抱え、袖で口元を隠す。伏せた瞳が、一瞬だけ彼を盗み見た。「ん? なんでお前が謝るんだよ」ヴァレンはにやりと口角を上げ、覗き込む。「え、えーっと……ヴァレン様ですよね」ぎこちなく笑むマリナ。その笑みが崩れる直前、睫毛の影にちらりと光が走った。「知ってるのか?ああ、まぁ当然か」ヴァレンは腕を組み、赤褐色の瞳で彼女を眺め回す。値踏みするような眼差しを隠そうともしない。「はい、有名人ですから。その……お怪我は大丈夫ですか?」言葉は心配げ。だが指先はスカートの裾を摘み、わずかに揺らした。「この程度で怪我するかよ。俺を誰だと思ってる」ヴァレンは胸を張り、豪快に笑う。「さすがヴァレン様です。でも……私のせいで」マリナは俯く。その口元には、謝罪ではない薄
last updateLast Updated : 2025-09-06
Read more

微笑の裏側

マリナは中庭の片隅で本を抱え、わざと人通りの多い場所を避けて歩いていた。遠巻きにエリシアの冷たい視線を感じると、小さく肩を震わせて見せる。そこへ、計算通りにヴァレンが現れた。「おいおい、お前か。また一人でふらついてるのか?」ヴァレンの声に、マリナは驚いたように振り返る。「ヴァレン様……」「昨日の魔法、まだ怖がってるのか?」マリナは俯き、本を胸に強く抱きしめた。「実は……また狙われているみたいで……」「ほう?」ヴァレンは興味深そうに眉を上げる。マリナの震える声に、下心と好奇心が混じった視線を向けた。「エリシア様が……私のことを恨んでいるみたいで」「具体的にはどんなことを?」一瞬の沈黙。マリナは小さく息を呑み、目線を伏せたまま言葉を探す。「廊下ですれ違うたびに、冷たい視線を……それに、さっきも空気が歪んで見えて」彼女は不安そうに周囲を見回す。その仕草は完璧に怯えた少女を演じていたが、瞳の奥には計算の光が宿っていた。「ああ、幻惑魔法か。あいつらしいな」ヴァレンは鼻で笑う。「女の嫉妬ってのは面倒だ。特に貴族の女は陰湿だからな」マリナは胸元で本を強く抱きしめ、わざと一歩下がった。風が木の葉を揺らす間を置いてから、か細い声で返す。「私、どうしたらいいのか分からなくて……」「他に頼れるやつでもいんのか?」マリナは一瞬だけ迷ったが、首を横に振る。「いえ……迷惑をかけたくなくて」「ふーん」ヴァレンはマリナを値踏みするように見下ろした。震える肩、俯いた顔、抱きしめた本。どれも弱々しく見えるが、どこかに違和感がある。「お前、本当に怖がってるのか?」沈黙。マリナの肩がわずかに強張る。「え?」「いや、何でもない」ヴァレンは口角を上げる。面白くなってきた。「で、俺に何を求めてるんだ?」「そんな……別に何も」「嘘つけ。俺のところに相談しに来たんだろ?」マリナは慌てたように手を振る。「そんなつもりじゃ……ただ、偶然お会いしたから」「偶然ねぇ」ヴァレンの視線が鋭くなる。マリナは内心で舌打ちした。この男、思ったより鋭い。「あの……やっぱり私、行きますね」立ち去ろうとするマリナの腕を、ヴァレンが軽く掴む。「待てよ。せっかく相談してくれたんだ。聞くだけ聞いてやる」「でも……」「エリシアのことだろ?俺が何とかしてやる」
last updateLast Updated : 2025-09-08
Read more

甘い毒

ヴァレンが去ったあと、中庭には風のざわめきだけが残った。マリナは胸に本を抱きしめ、小さく吐いた息を、誰にも気づかれないように隠した。その仕草さえも「見られること」を前提とした、仮面の一部だった。「……マリナ」背後から落ちた声に振り返ると、そこにトマスがいた。眉間には深い影が刻まれ、いつもの穏やかな面差しが硬く見える。「あ、トマス」マリナは自然な笑みを浮かべた。作られた柔らかさが光をまとったように。「さっき……あの貴族と何を話してた?」声は落ち着いているが、底には抑えきれない揺らぎが混じっていた。「別に大したことじゃないよ。エリシアさんのことで、少し相談をしただけ」軽やかに答えながらも、言葉の端にわずかな揺れを忍ばせる。「相談なら……俺に言ってくれればよかったのに」トマスの目が伏せられ、声が少し沈む。「トマスに迷惑かけたくなくて」申し訳なさそうに口にする。けれど瞳の奥は、彼の反応を測る光を隠していた。「でも……貴族は、俺たちとは違うから」遠回しの心配。そこには距離を感じさせる影があった。「大丈夫だよ。ヴァレンさんは……いい人だから」わざと名前を口にする。柔らかく響いた言葉に、トマスの表情がわずかに曇った。それは嫉妬というより、不安と疎外感の影に近かった。「心配しすぎだよ」マリナは笑って誤魔化す。その声は軽やかだが、沈黙の空気に吸い込まれていく。ふと、風が枝を揺らし、木漏れ日が石畳にちらつく。その光と影の揺れが、言葉の途切れを際立たせた。「ごめん……俺が、力不足だから」ぽつりと漏れる声。自分を責めるように俯くトマス。「そんなことないよ」即座の返事は優しくも、慰め以上ではなかった。マリナは視線を合わせず、本を抱く手に逃がす。ほんの一瞬、心に「もっと強く縋ってきて」と願う気配が過った。けれど顔には出さない。代わりに、足を半歩引いて距離を置く。「……私、先に帰るね」声は柔らかいが、背を向ける仕草には冷たさが漂っていた。「あ、ああ……」引き止めようとした言葉は喉に絡まり、短い相槌に変わった。去っていく背中は軽やかで、それでいて儚さを残していた。見送るトマスの拳は震えて、力なく下ろされたままだった。──そのやり取りを、石造りの回廊の影から眺めていた者がいた。ルクシア。午後の光に揺れる銀の髪を、指先で
last updateLast Updated : 2025-09-09
Read more

力を問う声

昼下がりの食堂はざわめきに包まれていた。木漏れ日の差し込む窓辺の席で、マリナとトマスは向かい合って座っている。温かなスープの香りが漂い、穏やかな空気が満ちていた。「トマス、スープ冷めちゃうよ。……ほら、座って」マリナが微笑んで促すと、トマスは肩を落としつつ席に腰を下ろす。「ああ。いただくよ、マリナ」その瞬間、背後から割り込むような声。「よぉ、仲良くやってんじゃねぇか。ここ、空いてるか?」振り返ったマリナの表情はわずかに揺れたが、すぐに柔らかく整えられる。「ヴァレン様……こんにちは」トマスは身構えるように口を開いた。「……あなたは」赤褐色の瞳が冷たく笑う。「お前がカーターか。名前は聞いてるぜ。騎士団志望の庶民だってな」「……はい。トマス・カーターです」硬さを滲ませながら応じると、ヴァレンは唇を歪める。「堅ぇな。まぁいい。――マリナ、その後どうだ? 例の件」マリナは胸に置いたスプーンを小さく揺らし、視線を伏せる。「……ありがとうございます。おかげさまで今日は落ち着いてます」マリナのまつげがわずかに震え、不安げに揺れた視線が一瞬だけトマスを探す。けれどすぐに、穏やかな笑みに切り替わる。「例の件……?」トマスの問いに、ヴァレンは鼻で笑った。「ちょっとした女の揉め事だ。庶民には関係ねぇことだよ」「……そうですか」トマスは短く答える。テーブルの下で、マリナの手が本の背表紙を撫でる仕草をした。「二人とも、食事中ですし……」マリナがやわらかな声で間に割って入る。「はは、悪い悪い。マリナ、パン足りてるか?俺の分やるよ」「……お気持ちだけで十分です」トマスが即答すると、ヴァレンは面白そうに目を細める。「お前に聞いてねーよ、カーター。――なぁマリナ、昨日の話、覚えてるか? 何かあったら“俺に言え”ってやつ」「……はい。覚えてます」マリナはゆるく頷き、声を落とした。「マリナに何かあれば、まず俺に言ってもらいます」トマスの言葉に、ヴァレンは低く笑う。「はは、順番待ちってやつか?悪いが俺、割り込み得意なんだわ」「ヴァレン様、冗談が過ぎます」「冗談半分、本気半分。――なぁ、今日の午後、ラウンジで少し話さねぇか?」トマスの声が硬くなる。「……マリナが困るような誘いはお控えください」「おいおい、初対面で随分強気だな。監視か
last updateLast Updated : 2025-09-10
Read more

獲物の微笑み

石造りの廊下に差し込む午後の光が、長い影を落としていた。 人通りの少ないその一角で、二つの影が向かい合う。 リヴァリスの赤黒い外套が風に揺れ、その視線は冷たく横に立つ男を射抜いていた。 口元に薄い笑みを浮かべると、その声は乾いた石壁に淡く響いた。 「随分と楽しそうだな、ヴァレン」 「ああ。もう少しで落ちそうでな。あの娘の目が揺れる瞬間が、たまらなく面白ぇ」 ヴァレンは肩を揺らし、愉快そうに息を吐いた。赤褐色の瞳に宿るのは、獲物を追う狩人の光。 「お前なら力で屈服させるのが早いだろう。なぜ時間をかける」 「力だけじゃ物足りねぇ。自分で抗おうとして、結局俺に縋る……その瞬間が欲しいんだよ」 ヴァレンの低い声に、石畳の空気がじわりと濃くなる。口調は軽やかなのに、吐き出す言葉には粘つく熱がこもっていた。 「……俺には理解できんな」 リヴァリスの瞳は氷のように冷ややかだ。対照的に、ヴァレンは唇を吊り上げた。 「そうだろうな。お前は支配することしか知らねぇ。でも俺は違う。怯えも涙も、最後に快楽に変えて抱き潰す――それが俺のやり方だ」 声を潜めるでもなく、石壁に荒々しく散る言葉。 「……馬鹿げてる。欲に溺れて身を滅ぼすつもりか」 「滅ぼすかどうかは知らねえが、つまらん人生よりマシだ」 ヴァレンは片手を掲げ、指先で宙をなぞる仕草をした。 「俺の掌で泣き笑いを繰り返す女の顔……それを見下ろす瞬間こそ、最高の愉悦だ」 「……下卑た幻想だな」 リヴァリスの声は氷刃のように鋭かった。だがヴァレンは口角を吊り上げ、さらに挑発を重ねる。 「それに、あの庶民――トマスとか言ったな。あいつの顔が歪む瞬間を想像すると、最高に笑える」 ヴァレンの笑い声が石壁に弾み、薄暗い回廊に不気味な残響を落とした。 「庶民ひとりに執着するとは……」 「執着じゃねぇよ。遊びだ。あいつも、女も。全部俺が楽しませてもらう」 リヴァリスの瞳がさらに冷たさを増す。だがヴァレンはあくまで楽しげに、唇の端を吊り上げたまま、光の差す方へと歩み去っていった。 「……下品な男だ」 残されたリヴァリスは、小さく舌打ちを零した。 ―― 中庭の片隅。風に揺れる木陰の下で、マリナの足が止められた。 正面に立ちはだかったのは、苛立ちを隠そうともしないエリシアだった。 「……あんた、調子
last updateLast Updated : 2025-09-11
Read more

爪を隠す女たち

夕陽の光が差し込むルクシアの部屋。黒檀の机に整えられたティーセットからは、甘い香りがふわりと立ちのぼっていた。彼女は余裕の笑みを浮かべ、銀の匙をゆるやかに回す。指先の動きは優雅でありながら、どこか獲物を弄ぶ狩人めいていた。「お二人とも、落ち着いたかしら。せっかくのお茶会だもの、肩の力を抜いて」エリシアの指がカップの取っ手をきしませる。苛立ちを隠さず、冷たい視線をマリナへ突き刺した。けれどその奥には焦りの色が揺れていた。――自分の立場が脅かされる不安が、怒りの形をとってあふれている。「……私は落ち着いてるわ。ただ、この子が調子に乗ってるだけ」マリナは小さく首をかしげ、申し訳なさそうに口を開く。けれど瞳には冷静な光が宿っていた。表情は柔らかいのに、その笑みは計算の仮面のようだった。「そう見えるのなら、ごめんなさい。でも私は、ただ静かに過ごしたいだけよ」ルクシアは薄紅の唇を艶やかに歪め、扇で喉元を仰ぐ。その仕草はわざとらしいほどの色気を含んでいた。「静かに、ね。――でも沈黙だけでは、女は生き残れないわ。時に笑みも、時に爪も必要よ」エリシアの頬が赤く染まり、声が鋭さを帯びる。怒りに見せかけて、胸の奥では嫉妬が煮え立っていた。「爪? この子にそんなものあるはずないわ!」マリナはわずかに息を吐き、冷たく言い返す。その声音は、彼女が決して“弱いだけの庶民”ではないことを告げていた。「……爪を隠すこともあります」ルクシアの目が細められ、艶やかに微笑む。「面白い」という一語を口にしたが、その裏には「退屈させない」という評価が潜んでいた。「面白い? 何を言ってるの? こんなのただの庶民よ」エリシアの声は震えている。怒りに支配されながらも、孤独に取り残される恐怖がにじみ出ていた。「庶民だからこそ、磨かれれば光るの。あなたには分からないかもしれないけど」ルクシアは吐息を含ませ、カップの縁を唇でなぞる。艶やかさと毒を同時に見せる仕草。マリナはわずかに唇を吊り上げた。「磨かれるかどうかは……私が決めます」「強がりね! レナータの隣に立てるのは、私だけよ!」エリシアは叫ぶが、その瞳には泣き出しそうな影も差していた。ルクシアは軽く笑いをこぼした。「嫉妬って、綺麗な感情よ。でも持ちすぎれば醜くなる」マリナは静かに応じる。「嫉妬も使いように
last updateLast Updated : 2025-09-12
Read more

蜜と影

乱れたシーツの上に、熱の名残がまだ漂っていた。ワインの赤がゆっくり揺れる。ヴァレンは裸の上半身を投げ出し、肩で息をしながら天井を眺めている。ベッド脇の卓上には、一通の封書。濃紺の紙に黒い蝋が固められ、紋章は鋭い意匠を結んでいた。差出人の名は記されていない。それでも、彼らにとって見覚えのある影を放っていた。その横で、ルクシアは薄布を肩にすべらせ、扇を胸元で開いては閉じる。銀の髪は背に散り、汗の縁が淡く光を宿していた。余裕の笑みを崩さず、彼女はグラスを手に取る。「ふふ……相変わらず荒っぽいのね」「お前が艶めかしい顔をするからだろ。堪えるのが馬鹿らしくなった」ヴァレンが唇を歪めると、ルクシアは肩を小さく揺らし、喉に赤を落とした。その滑りが肌の奥まで熱を帯びさせる。「口が上手いこと。……でも嫌いじゃないわ」「はは、そう言ってくれるなら光栄だ。――で、今日は何のつもりだったんだ? あの茶会は」ルクシアは脚をゆるく組み、ワインを一口含む。赤が舌を染め、その艶を見せつけるように唇を拭った。「ただの気まぐれよ。マリナと、ついでにエリシアも誘ったの。思ったより退屈しなかったわ」「ふん。エリシアは相変わらず嫉妬深そうだな」「嫉妬は燃料になるもの。可愛いけれど、あの子は単純すぎる」「マリナは?」ルクシアの視線が一拍だけ鋭く光を帯びる。扇の骨が、指の間で乾いた音を立てた。「……あの子は違うわね。笑みの奥に冷たいものを隠していた。ああいう目は、簡単に潰れないわ」「庶民の娘に何を見出したんだ?」「面白そうな素材よ。育て甲斐があるかもしれないわ」「はっ。素材だと?あいつは庶民だ。俺にはただの遊び相手にしか見えねぇ。……庶民が気取って歩き回るのは見苦しいだけだ」ヴァレンの笑い声が寝室に弾む。封書の黒い蝋に、ワインの赤い揺らぎがかすかに映った。ルクシアは眉ひとつ動かさず、その音を受け流しながら唇に毒を宿す。「でもあなた、食堂でわざわざ庶民とやり合ったじゃない。……トマス、だったかしら」「そうだ。堅物で笑えたぜ。俺は割り込みが得意だって教えてやった。顔を真っ赤にして庇いやがって。……あの必死さは、妙に鼻についたな」「その割に、あなたは楽しそうに話すわね」「当たり前だ。あいつの顔が歪む瞬間を思うと、最高に笑える。……けどな、ああいう真面目面が群れ
last updateLast Updated : 2025-09-13
Read more
PREV
12345
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status