All Chapters of 魔法学院の囁き〜貴族と庶民、禁断の恋愛地獄〜: Chapter 51 - Chapter 60

63 Chapters

選ばれ始める声

朝の光は、雨上がりの校舎をゆっくり洗った。廊下の窓辺に湿った匂いが残り、床に落ちた影は薄く、遠くで鳥の声がか細く続く。昨日の焦げ跡の掲示板はそのままで、けれど視線はそこに長く留まらない。足音は速くなく、囁きは低い。「昨日の……聞いた?」「白い紙、二枚並んでたって」「昼に読み合わせ、またやるらしいよ」言葉の形はやさしくなって、温度だけが残る。壁に新しい紙が一枚。細い字で〈読み合わせ 参加者募集〉。名前を書く欄は小さく、最初の行に、まだ乾ききらない墨の点があった。マリナは紙の前で立ち止まり、指先に残る昨日の紙のざらつきを思い出す。喉の奥に小さく息が溜まり、吐くと肩が少し軽くなった。——一日で、こんな。胸の奥で言葉がほどけて、背筋に沿って広がる。希望がひとつ、怖さがひとつ。どちらも同じくらい静かだった。* * *教室の空気は、昨日より柔らかいのに、机の角だけがはっきりしている。ノートを開く音が何度も重なり、その間に小さな声が滑り込む。「マリナさん……あの、昨日……」振り向くと、目を伏せたままの子がいて、手の甲にインクの汚れがついていた。「前で、読んでほしい、です。次……」「私じゃなくても——」言い終わる前に、顔が上がる。「マリナさんじゃないと……届かないから」言い切られたわけじゃない。声がそこで止まり、唇が揺れただけ。それでも胸の内側に、二つの針が同時に刺さってくる。嬉しさと、重さ。両方に触れられて、体の奥がきゅっと鳴る。——私の声が、私だけのものじゃなくなる。目を閉じて確かめ、開いたとき、視界の色は少し落ち着いていた。マリナは小さく頷いて、ノートの端をそっと叩いた。「……一緒にね」それで十分だと自分に言い、息を整えた。* * *訓練場の砂はまだ湿っていて、足の跡が浅く残る。空気の音が近く、話し声は低い。トマスの周りに、庶民の顔と貴族の顔が混ざって集まり、視線はほとんど同じ高さだった。「次の監査、日程……」「出入口、誰が見る?」「紙、どこに置く?」質問は短く、間は小さく、答えは増えていく。トマスは指で砂をなぞり、形のない地図を作っては消す。「——午前。入り口は二人ずつ。読み手は……替えながら」言葉は長くない。周りの肩が順に落ちる。安心、というより、重さの向きが揃う音。仲間のひとりが笑って、軽く肩を叩いた。「お前が
last updateLast Updated : 2025-10-18
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読み間違える手

朝の空気は薄く冷たかった。講堂前の掲示板に、白い紙が一枚増えている。「公開読み合わせ 本日正午/監督:臨時補佐(上席委任)」その下に細かな規定。発言は一人三回まで。質疑は色札で挙手——赤が先攻、青が後攻、白が補足。読み終わる前から、廊下のどこかでくすくすと笑いが走る。「赤もらう?」「青はエリシア派ってこと?」「白なら無難?」言葉の先に小さな色がつく。わずかな差が、今日の列を作る。* * *午前の終わり、三人は講堂の脇で合流した。声は揃っていないのに、息は合っている。「台本、作った」マリナが小さな紙束を見せる。手書きの矢印が並ぶ。「原本→改訂→原本」。交互に耳に残るよう、短く区切ってある。「動線、見た。出口、二つ。上級生、四人」トマスが指で示し、扉の開閉の癖を確かめる。「押し合いになったら、開ける合図を出す」「記録は二重にするわ」エリシアが黒板の位置を見てから、チョークの数を数える。「監督側の議事録とは別に、ここに“公開記録”。見ながら書く。要約は後」「二読目、私やる」少し離れた柱の影から、前に名乗り出た生徒が顔を出す。小柄で、姿勢が正しい。「名前は……まだ、いい?」「今は、リオで」マリナが微笑む。「息、浅くならないように。途中で止めていいから」* * *正午、鐘が一度だけ鳴った。講堂の中に、色の波が押し寄せる。入口で配られた札は、赤が多い。監督補佐の笑顔は固い。「時間厳守。質疑は“色札優先”でお願いします」短い前置きのあと、すぐに始まる。「原本、第3段落」マリナが息を吸い、音を柔らかく落とす。文字は硬いのに、声はなめらかだ。「——協力して、手順を……」「はい、ここ」監督がすっと手を挙げる。「“協力”という言葉は、ほぼ“統合”に近い意味ですね」場がざわつく。前列の赤札が一斉に動く。マリナは頷かない。代わりに、同じ行をもう一度、少しだけゆっくり読んだ。「——協力して、手順を守る。各班は、それぞれの役割で……ここ」エリシアが黒板に句点の位置を打つ。小さな丸を二つ、少し離して置く。チョークがきゅっと鳴る。「意味は、ここで変わる。——ここ」トマスは赤札の列に一歩だけ近づいた。腕を組まず、背筋だけ伸ばす。「順番、守って。今は、“読む”」声の温度を下げるだけで、揺れが一度止まる。マリナは頷かず、ページを
last updateLast Updated : 2025-10-20
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選ばされる声

朝の鐘がほどけていく。冷たい光が廊下の床を細くなぞり、新しい紙が一枚、掲示の上段に貼られた。赤い印字がまだ濡れている。――臨時選好調査 本日昼まで/匿名一人一札/赤・青・白・空白。紙の下で、札を配る箱。指先が迷わず伸びて、色の薄い木片が音を鳴らす。「どれ行く?」「赤だろ、熱があったし」「青のほうが安全よ」「白ってさ、結局……」軽い笑い。賭け事みたいな空気。言葉より、色のほうが先に流れていく。マリナは少し離れて見ていた。胸の奥がざらつく。喉に水をひと口、落とす。(声を、聞かれる前に。選ばされてる)指先が上着の端を探す。布の感触で、呼吸が戻る。「……空白って、どうして“選ばない”って呼ばれるの」近くにいた子が振り返る。答えない。目だけが揺れて、すぐに札の箱へ戻る。* * *訓練場の端で、トマスは出入口の柵を確かめていた。木の節目に触れる。軋むところ、なし。上級生に短く声をかける。「昼、列が詰まったらここを開けてくれ。押し合いになったら、外へ流す」「了解。……お前、顔がこわい」「そうか」口元だけで笑う。指先にさっきの紙のざらつきが残っている。目の端で、色の札が胸元に差し込まれるのが見える。赤が多い。青が次いで、白は薄い。空白は、手に取られないまま光っている。(放っておけば、戻る。怒りのほうが早い。先に道を作っておく)息をひとつ沈める。* * *教員室の前で、エリシアは書類棚の規定集をめくっていた。紙の端を揃え、綴り糸の具合を確かめる。「昼、講堂の記録係は誰?」「臨時補佐が入るわ。上席委任」事務係の声は乾いていた。「公開の記録、黒板写しは許可?」「……規定にない」「禁止、でもない」エリシアは短くうなずく。背筋を伸ばし、紙を閉じると、胸の奥で小さな音が立つ。(壊さず、中から。まだ道はある)* * *昼が近づくころ、廊下の片隅で小さな紙片が増え始めた。手書きで、細い字。――旧図書室 色なし読み合わせ。誰が貼ったのか分からない。紙は薄く、糊も弱いのに、目に入る。マリナは一枚を読む。小さく息が弾む。「……誰か、もう動いてる」トマスが同じ紙片を指で押さえる。「止めるか?」「ううん。今は……見たほうが、いい」エリシアは視線だけ動かす。「誰のものでもない言葉。……一度、場に置かせて」* * *中庭の台に
last updateLast Updated : 2025-10-21
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声を守る嘘

朝は鳴らなかった。鐘の代わりに、紙の擦れる音だけがした。講堂前の掲示に、三つの名前。トマス、マリナ、エリシア。短い命令文。出席。廊下の空気が薄くなる。肩ですれ違うと、誰かが息を止めたまま言う。「……処分、なのかな」「票、拮抗してたのに」三人はほとんど喋らない。靴音だけが揃っていて、曲がり角ごとに同じ速度で止まる。視線が重なるたび、少しだけ頷く。言葉は要らない時間だった。*白い部屋は、冷たくも熱くもない光で満ちていた。長い机。向こう側に評議補佐が座り、背後に封筒が置かれている。机の端には、昨日の結果表。赤、青、白、そして空白。補佐は挨拶を省いた。「“第四の声”の中心は、あなたたちですか」空気が一段下がる。マリナの指先が、机の縁を探して止まった。エリシアの視線がまっすぐに伸び、トマスが小さく息を吸う。沈黙がひとつ、数えられないほど長くなって、トマスが先に口を開いた。「俺たちは……知らない。けど、聞いた。誰かが“読む”って」補佐は目だけ動かす。「名前は」マリナは、喉を湿らせてから。「ありません。そういう……声でした」紙がめくられる音。補佐は別の紙を表にして、淡々と。「旧図書室は、あなた方の許可で?」エリシアは姿勢を変えない。「規定にない場所。許可も……禁止も」わずかな間。補佐の眉が、疲れの形にだけ寄る。「つまり、“偶発的な行動”で——よろしいですね」三人、同時に言葉を選ばず、静かにうなずく。うなずきの角度は、三人とも少しずつ違っていた。*机の下で、マリナの親指がノートの角を撫でる。磨いた木の感触。トマスがちらりと見て、視線で「分かってる」と返す。エリシアは補佐から目を外さない。まつ毛の影が動くたび、呼吸は浅く揃った。補佐の声は、遠くで鳴る。「上は“事実確認”を求めています。協力を拒むなら、記録から除名されます」除名。文字になる前に、誰かの中から消えるという意味。マリナの喉が小さく鳴る。トマスは手を組み替え、関節が静かに鳴った。エリシアは、紙の端を一度だけ真っ直ぐに揃える。トマスが言う。「……それで、済むなら」マリナが続けて、言葉を落とす。「記録、なんて。誰が書いても、同じ」エリシアだけが、少しだけ首を振った。「……違うわ。書くのは、まだ終わってない」補佐の目が動く。ペン先が一瞬止まり、また紙の上で走る
last updateLast Updated : 2025-10-22
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記録の影

朝の空気は軽く湿っていて、紙の匂いが濃かった。講堂前の掲示板に、新しい貼り紙が一枚。上段の太字が目に刺さる。「代表者会議・再開/議題:記録統一・改訂版確定」小さく付記があった。「活動停止中の発言は“参考記録”扱い」廊下のざわめきは低く、長い。足音が近づいては離れていく。「また、決められる側……?」「“参考”って、捨てる前の箱だよね」誰かがそう言って、笑いは出ない。マリナは紙の端にそっと触れて、冷たさだけを確かめた。「……冷たいね」横でトマスが短く息を吐く。「紙の温度、もう知ってる」エリシアが視線だけ動かして、薄く笑う。「なら、手袋じゃなくて——手順」三人は紙から指を離し、言葉の続きは持たないまま歩き出した。* * *小部屋。窓は半分だけ開いて、外の音が遠い。黒板の端に白い粉が残っている。エリシアがチョークを持ち、四つの言葉を書いた。〈読む/問う/確かめる/記す〉その下に、短く三行。〈三筆同時/時刻印/署名は記号〉トマスが椅子の背にもたれ、簡潔に言う。「見張りは俺。出入口、二人。合図は二回叩いて一息」エリシアは頷いて、板の隅に細い線を足した。「記録は二系統。紙と板。板は写して配る」マリナはノートを開き、顔を上げる。「読み手、探す。怖がってる子から」一瞬の静けさ。外で鳥が鳴く。マリナが声を落とす。「ねえ、失敗したら」トマスは目を閉じて、開いた。「その前に動く」エリシアは呼吸を整え、視線を黒板に置いたまま続ける。「その後にも、残す」小さく頷きが三つ並ぶ。それで足りた。* * *廊下の陰で、袖を引かれた。振り向くと、リオがいた。視線は揺れるけれど、手は離れない。「……書くの、私も。字、綺麗じゃないけど」マリナは迷わず笑った。「綺麗は、いらない。読めれば」もう一人、貴族側の生徒が一歩出た。髪を耳にかけ、声は小さい。「順番、守るなら……私も」トマスが頷きだけで受け入れ、肩に手を置く。「怖かったら、途中で交代」二人とも、うなずく。息はまだ浅いけれど、足は引かない。* * *事務窓口。窓の向こうで帳簿が重なり、印の音が規則的に響く。エリシアは書類ではなく、メモだけを差し出した。「保管告知です。規程第七“閲覧控え”」事務の女性は眉を上げる。「活動停止中の書類は受け取れません」エリシアは微
last updateLast Updated : 2025-10-23
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息のかたち

朝、廊下の白い壁が紙で埋まっていた。どれも同じ筆跡で、三語だけが並ぶ。〈読む・確かめる・信じる〉。角はきっちり揃い、端を押さえる蝋は薄い。足音が近づくたび、誰かが紙に指を触れ、息を吸って、そのまま吐かない。空気が長く止まる。マリナは一枚の端をそっと押さえ、目を細めた。「……綺麗。でも、空気が死んでる」隣でエリシアが、文字の線を追う。「筆圧が一定。機械みたい」トマスは壁の向きと窓の位置を見て、低く言った。「ここ、風も通らない場所に貼ってある」三人とも、しばらく口を閉じた。紙は揺れない。人の声も、揺れない。* * *小部屋の黒板に、三語だけを残す。〈読む/問う/記す〉。マリナがチョークの粉を払って、背を伸ばした。「息がないなら、入れ直すしかない」トマスが椅子の背にもたれ、額を指で押さえる。「どうやって?」短い沈黙。エリシアが黒板の縁に手を置き、ゆっくり言う。「呼吸のズレを、印にする」視線が集まる。マリナは机の紙を引き寄せ、ゆっくり一行を書いた。最後の「る」の下に、針の先ほどの点を打つ。「吸って、吐いて——ここ」紙の面が、ほんの少しだけ波打った。トマスが顔を寄せる。「……今の、音がした」マリナは小さく笑った。「これ、消えない“息”の跡になるかも」エリシアが頷き、黒板の隅に小さく〈息点〉と書き加えた。* * *廊下の曲がり角で、リオが袖を引いた。目はまだ揺れている。「……わたしも書いていい?」マリナはためらわずペンを渡す。「息を止めなければ、誰でも書ける」リオは一行をなぞり、最後に小さな点を打った。点は少し歪んだ。「下手」ぼそりとこぼす声。マリナが肩を揺らして笑う。「だからいい」トマスはその様子を見ながら、窓の外へ視線を逃がした。守るより、今は見ていたい。そう思って、言葉を飲み込む。* * *中庭に、また張り紙。〈無色読み合わせ〉と均一な筆致。数人がその紙を掲げて朗読を始める。どの声も同じ高さ、同じ速さ。合図のない合唱みたいに、ぴったりと重なる。マリナが足を止める。「……音が呼吸してない」トマスが低く応じた。「合唱、じゃないのに」エリシアは手帳を開き、一行だけ書く。“同じ音は、人じゃない”紙の音だけが続く。聞いているうちに、胸が少し詰まる。* * *マリナは群れの先頭に近づき、紙を一枚受け
last updateLast Updated : 2025-10-24
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遅れて届く声

朝の鐘のあと、廊下の壁が白く埋まっていた。どこを見ても同じ紙、同じ筆跡。三語だけが並ぶ。〈読む・確かめる・信じる〉指でなぞった生徒が小さく息を吸い、吐かずに行ってしまう。吸って、止まって、歩く。そんな気配が続く。「……綺麗」紙の端を押さえて、マリナが言う。声は細い。「でも、空気が死んでる」エリシアは筆跡を斜めから見て、軽く首を傾けた。「筆圧が一定。機械みたい」トマスは視線を壁から外して、天井の換気口を見上げる。「ここ、風が通らない場所ばかりに貼ってある」三人の間に、言葉のない呼吸が落ちる。壁だけが白い音を返していた。*小部屋。窓は少しだけ開いていて、冷たい空気が入る。黒板の端に、かつての四語がうっすら残っていた。〈読む/問う/確かめる/記す〉マリナがチョークを取り、ためらってから、点をひとつ打つ。四語の横、わずかな空白に、小さい息の跡みたいな点。「……息がないなら、入れ直すしかないね」「どうやって?」トマスの声は低い。無理をしない音。エリシアはノートの端に短く線を引き、間をあける。「呼吸のズレを印にする。——“息点”」自分で言って、少しだけ息を吐く。「句読点じゃない。人の間。読む人ごとに違う」マリナは紙を一枚取り、一行だけ書く。「読む、問う、確かめる、記す」最後の「す」の下に、小さく点。書いてから、指先で触れる。「吸って、吐いて……ここ、で止まる」紙がわずかに波打つ。光の角度が変わって、小さくきらめいた。「署名の代わりに、間で分かる」エリシアが続ける。「印じゃない、呼吸」トマスは頷き、扉に目をやる。「やるなら、今」小さく叩く音がして、扉が細く開いた。リオが顔を出し、すぐ引っ込めかけて——戻る。「……わたしも、書いていい?」マリナは笑ってペンを渡す。「息を止めなければ、誰でも」リオは震える手で一行を書いた。最後に点。点は少し歪んで、紙の上で小さく滲む。「下手」自分で言って肩をすくめる。「だからいい」マリナの声は、軽い。「揺れてるほうが、生きてる」トマスはその様子を見て、視線を床に落とし、それから戻す。(守る、だけじゃない。——今は、見ていたい)*廊下の角で、揃った靴音が近づく。同じ制服、同じ歩幅、同じ高さに持たれた束。「回収隊」エリシアが小さく言う。「統一紙
last updateLast Updated : 2025-10-25
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耳の輪

朝の廊下は、白い紙と同じ音で息をしていた。天井の受音具から、細い声が降ってくる。息継ぎの位置まで揃っていて、少しだけ冷たい。新しい掲示が一枚、二枚。「統一朗読 正午一斉/文言は校内放声に準ず」マリナは紙の端を指で押さえた。「……遅れまで、同じ」エリシアが首を傾ける。「“息点”の模倣。機械の呼吸ね」トマスは受音具を見上げ、短く吐いた。「音、冷たいな」三人の間に、わずかな間。廊下の風は薄い。*小部屋。黒板には、いつもの四語が残っている。〈読む/問う/確かめる/記す〉。エリシアが白いチョークをもう一度握った。「ここに——」新しく一語を書く。〈聴く〉。「先に“聴く”。返事の揺れは、写せない」マリナが頷く。「読むより、先に、耳」トマスが腕を組み、少し笑った。「返事の“間”で、合図を出す。殴るより早い」リオが控えめに手を上げた。「練習……しても、いい?」「うん」マリナが紙を渡す。「揃えないで返して。好きな呼び方で」読み手の声が一行。「——読む、問う、確かめる、記す」三人とリオが、少しずつずらして返す。「うん」「はい」「……うん」「ええ」リオが照れて笑う。「揃わない……けど、近いね」エリシアはチョークで点を散らす。「それが耳印。記号じゃなく、返事の散り」トマスが窓の外に視線を流した。「よし、外に持ってく」*回収隊が廊下をゆっくり進む。肩章の補佐が拡声の魔具を増設して、天井の受音具と同じ高さで音を重ねていく。放声は均一のピッチで流れ続けた。〈読む・確かめる・信じる〉トマスが低い声でぼそっと。「あれ、殴り合いより厄介だ」マリナは短く息を吸う。「じゃあ、被せ返す」エリシアが黒板を小さく持ち上げた。手順の五語が、揺れずに並ぶ。*中庭。人垣は、朝の光より少し暗い色で渦になっている。放声が遠くでも、近くでも鳴る。マリナが前に出て、一行だけ読んだ。「読む、問う、確かめる、記す」トマスが横に立ち、低く告げる。「返事は自由で。合図はしない」少しの沈黙。それから、あちこちで音が生まれる。「うん」「はい」「……うん」「ええ」「うん」放声の均一な遅れが、薄くなっていく。返事の“ズレ”がゆっくりと広がり、人の位置に点の地図を描いた。エリシアは白板を引き出して、五語をもう一度。〈聴く→読む→
last updateLast Updated : 2025-10-26
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笑う息

朝の鐘が終わっても、教室は静かだった。壁に小さな黒い円が増えている。札に、細い字。返答の種類と回数を記録。廊下の声が、ひとつ分、低くなった気がした。笑いの音だけが、どこにもいない。マリナが貼り紙を見上げる。「……音が、生きてない」トマスが肩を回して、息を短く吐く。「笑い、消えるだけで、こんなに冷えるんだな」エリシアは黒い円をじっと見た。「高さと回数と、強さは取れる。揺れは、取れない」マリナはうなずく。「じゃあ、揺らす」彼女の目が、少しだけ笑った。小部屋の机に、紙を四枚並べた。リオが椅子の端に座る。指先が落ち着かない。エリシアが収音具の仕組みを、簡単な線で描いた。「ここで拾って、ここで数える。――でも、息の外れは数字にならない」マリナがペンを置く。「笑えば、外れる」トマスが目を瞬く。「笑う、だけ?」「理由は、いらない。合図じゃなくて、呼吸」リオが息を飲む。「できるかな……」エリシアはノートを閉じた。「練習するしかない。“笑う息”」夜。旧図書室は静かで、紙の匂いが薄くあった。四人は丸く座り、灯りを一つだけ置いた。マリナが吸う。小さく、漏らす。「……ふ」短い、笑いの前。エリシアが続ける。「ふ、……ふ」喉の奥で、音がほどける。トマスが肩を揺らす。「は、……無理だ、わざとは」リオが目を伏せ、息をためてから。「……ふ」それは本当に小さくて、でも温かかった。全員がつられて、少しずつ、笑いが生まれる。音ではなく、息が混ざる。温度が重なる。エリシアが手帳に短く書く。「笑い=呼吸の乱れ。均一化、不可」マリナが灯りを見た。「今の、拾えないよね」トマスが笑うのをこらえる顔のまま、うなずいた。「数えられない」翌朝、天井の放声機が鳴った。規則正しい間で、笑いが流れる。「ハ、ハ、ハ……」滑らかで、同じ高さ。どこにも息の外れがない。生徒の歩幅が、半分だけ短くなる。マリナが顔を上げる。「……真似、された」エリシアは耳に手を当て、目を細める。「呼吸まで“作って”きた」トマスは腕を組む。「笑ってないのに、笑いがある。気持ち悪い」通路の角で、誰かの足音が止まる音。みんな、笑えない顔になる。小部屋に戻る。紙の上で、マリナが指を転がす。「作った笑いは、同じ高さで、同じ間」彼女は短
last updateLast Updated : 2025-10-28
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沈黙の前で

朝、掲示板の紙が増えていた。角がそろっていて、文字は二声の和音みたいに並んでいる。「二声朗読 本日正午/返答の種類は記録」小さく但し書き。「沈黙は“未回答扱い”」天井の放声機が同じ高さで文言を流す。息継ぎまで揃っている。マリナは紙の端を指で押さえた。「……声、増えたのに、狭い」エリシアが目を細める。「“未回答”に落とすための但し書き」トマスが短く息を吐いた。「沈黙、点数外ってことか」小部屋。黒板にはいつもの四語が残っている。〈読む/問う/確かめる/記す〉。その下に〈聴く〉。エリシアがチョークを持ち足した。一語、静かに。〈黙す〉「返事は奪われる。なら、返さないことを返事に」マリナが頷く。「黙る時間を、決める」トマスは黒板から視線を外に向けた。「二呼吸。短く、揃えない」机の上に紙を並べ、四人で稽古する。「読むね。——ここまで」マリナの声が止む。全員で二呼吸の沈黙。空気がわずかに動く。三呼吸目、リオだけ遅れる。リオが目を上げた。「揃わないのに、同じ感じがする」エリシアは手帳に短く書く。「黙印は記号じゃなく、時間の体温」トマスが肩を回す。「殴り合いより難しいな。止まるの」廊下を回る回収隊が増えた。肩章の補佐が先頭で歩く。「沈黙=未回答」の小札を貼り足していく。紙が白く増えて、視線が泳ぐ。「黙ったら負け、って見える」マリナが小声で言う。「負けじゃないって、どうやって伝えるの」トマスは首を横に振っただけ。エリシアは掲示の時刻を目で追い、歩く速さを少し落とした。中庭に人が集まる。放声は二声で始まっている。同じ和音、同じ間。マリナが一行だけ読む。「読む、問う、確かめる、記す」合図はない。輪の内側で、全員が二呼吸の沈黙に入った。第三拍、誰かが故意に遅れる。音がないまま、放声の和音がわずかに浮いた。エリシアは白板を引き出して、小さく点線を書く。「二/二/三(黙)」トマスが外縁に立つ。「殴る手は外。ここは止まる場」補佐が前に出る。「いまの沈黙は未回答。記録上、空白」エリシアが静かに返す。「空白は“無い”ではなく、“未だ”。——時刻、ここ」スタンプが落ちる音。白板の端に時刻印。空白の横に二本の短い線。マリナは客席を見渡し、声を戻す。「続き、読むね」再読。場の緊張が少し下がる。息が動く。ヴァレ
last updateLast Updated : 2025-11-01
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