All Chapters of 魔法学院の囁き〜貴族と庶民、禁断の恋愛地獄〜: Chapter 31 - Chapter 40

48 Chapters

ゆっくり動く影

朝の鐘が鳴るころ、学院の廊下はいつもより声が多かった。窓の近くで数人が立ち止まり、顔を寄せる。「聞いた? 庶民が勝ったって」「推薦者もざわついてるらしいよ」「でもさ、あの子――マリナ? 結局はレナータ様の影でしょ」別の角では、紙束を抱えた男子が笑いを押し殺す。「エリシア様、このところ足並み遅れてない?」「庶民に話題、取られたってさ」教室の扉が開く音に混じって、囁きは自然に流れを変える。誰かが用意したみたいに、言いまわしが似ている。それなのに、言った本人は自分の言葉だと信じている顔だった。* * *昼の食堂。湯気の向こうで、席を決める視線がすばやく動いた。マリナが盆を持って歩くと、空いているはずの席に先客が腰を下ろす。「ごめーん、ここ、取ってて」「向こう、空いてるよ」笑顔は柔らかい。けれど、距離ははっきりしている。マリナは一瞬だけ足を止め、すぐに別の席へ向かった。「調子に乗ってるんじゃない?」「レナータ様の隣にいるからって」背中に届く声は小さい。マリナは盆を置き、向かいの椅子を引いた。誰も来ない。スープの表面に灯りが揺れて、静かな円を作る。「……おいしい」自分に向けて言って、ひと口すする。味は変わらない。けれど、喉を通るまでに少し時間がかかった。席を立つとき、彼女はトレイを持たない手で小さく拳を握る。震えはない。骨が当たる感触を確かめただけだった。廊下に出ると、二人組が声を潜める。「結局さ、レナータ様ありきだよね」「うん。あの庶民の子、あの場所にいる顔じゃない」マリナは笑って通り過ぎる。足取りは変えない。曲がり角に入る直前、笑みが薄くなり、すぐ元に戻る。* * *同じころ、貴族寮の洗面所でエリシアは鏡の前に立っていた。タオルで指を拭き、顔をまっすぐ見る。「“影”ね」小さく言って、頬に指先を当てる。鏡の向こうで、唇が細く結ばれた。「私は負けない」言葉は硬いが、砕けてはいない。昨日の囁きが耳の奥で反芻される――嫉妬は武器になりますよ。あの仄暗い声が、今日は少しだけ甘く聞こえた。「武器にするなら、握る」エリシアは髪を耳にかけ、身だしなみを整える。「舞台、ね」ドアの外で、少女たちの笑い声が遠く聞こえる。彼女は鏡から目を離さず、深呼吸を一度だけ行い、脚を前に出した。足音が石に吸い込まれる。背筋は崩れない。* * 
last updateLast Updated : 2025-09-27
Read more

誇張される声

朝の支度の時間帯、廊下はもう噂で満ちていた。掲示板の前で、紙を抱えた生徒が顔を寄せる。「結局さ、マリナってレナータ様を“利用”してるんだろ?」「ほら、昨日もずっと一緒にいたし。あの位置、普通じゃ無理だよ」「庶民のくせに手を伸ばしすぎ。調子に乗ってる」角を曲がった先では、別の声が重なる。「エリシア様、最近影が薄いって」「庶民に話題、取られたとかさ。かわいそう」言い回しが似ている。言った本人は気づかないまま、まるで同じ紙から写したように同じ言葉を口にする。鐘が鳴り、戸が開く音に混じって、噂は次の教室へ流れ込んだ。* * *午前の座学。教室に入ると、マリナの席には誰かの道具袋が置かれていた。机の角には小さな水染み。ノートを挟んでいたしおりが抜かれて、床に落ちている。「これ、あなたの?」マリナは近くの子に穏やかに尋ねる。「え、ああ、ごめん。置くとこなくて」返事は軽い。袋はゆっくりどかされたが、水染みはそのままだ。「ノート、昨日貸したやつ……」マリナが別の子に声をかけると、返ってきたのは肩越しの視線だけだった。「今、回してるとこ。あとで」授業が始まる。先生の声とページをめくる音に、背中のほうで小さな笑いが混じる。誰かの筆がわざと音を立てて転がり、拾いにいった手が白線の外で止まる。マリナは落ちたしおりを拾い、ノートの間に挟み直した。休み時間、友人グループの輪が机一つ分ずれている。視線が合えば笑顔が返る。けれど、椅子は引かれない。「大丈夫。こっちで書くから」マリナは自分に向けて小さく言い、席に座る。ペンをとる指は静かで、帰り際、机の下で握った拳もまた静かだった。骨の感触だけ確かめ、すぐ開く。* * *貴族寮の洗面所で、エリシアは鏡の前に立つ。冷たい水で頬を撫で、髪を整え、顔を正面から見た。「庶民の話題なんて、長くは続かない」言葉に刺はあるが、崩れてはいない。耳の奥で、昨夜の囁きがまた蘇る。――嫉妬は毒にもなるけれど、磨けば武器になりますよ。「武器にする」エリシアはタオルを畳み、口元だけ笑った。「次は、私が出る番」吐き出した息が整う。足音は一定。鏡の前を離れても、背筋は落ちず、踵は浮かない。* * *昼の食堂は賑やかだ。盆を持って列に並ぶトマスに、庶民の少年たちが次々声をかける。「トマス、昨日の話もっと聞かせてくれよ」
last updateLast Updated : 2025-09-28
Read more

矢が放たれる

朝の鐘が鳴り終わらないうちに、学院の廊下は言葉でいっぱいになっていた。掲示板の前で肩を寄せる生徒たちの口からは、昨日までの噂と同じ響きが出てくるのに、焦点だけが違う。「やっぱりさ、マリナって信用できないよ」「レナータ様の側にいれば目立てるからって、寄り添ってるだけでしょ」「この前もずっと一緒にいたじゃん。あの場所、努力だけで届く?」別の角では、笑いを押し殺した声が続く。「エリシア様も大変だよね。影、薄くなってきたとか」「庶民に話題を取られるなんて、前代未聞」言い回しは妙に揃っている。誰かが書いた台本をなぞるみたいなのに、口にする本人たちは自分の言葉だと信じている顔だった。扉が開く音と同時に、囁きが教室の中へ流れ込み、席と席のあいだに沈んでいく。* * *一限の前、教室に入ったマリナの机には、見覚えのない箱が置いてあった。表には「回収」とだけ墨で大きく書かれ、底がわずかに湿っている。机の端には小さな水染み。昨日挟んでいたしおりは床に落ちて、靴の跡を薄くつけられていた。「これ、あなたの?」マリナは近くの生徒に声をかける。穏やかで、刺のない調子だ。「え、あー、ごめん。係のもの置く場所がなくて」返事は軽く、箱はのろのろとどかされた。けれど、濡れた跡と紙のしわはそのままだ。「昨日、ノート借りたよね。返してくれる?」マリナが別の生徒に向き直る。返ってきたのは、肩越しに上から下まで一度だけなぞる視線。「今、別の子が見てる。あとで回すよ」始業の声が響く。先生の説明とページをめくる音の向こうで、机をこつこつ叩く小さな音や、笑いを噛む気配がこぼれる。筆が床に転がる音がわざとらしく響いても、誰も拾いにいかない。マリナは落ちていたしおりを拾い、紙のしわを指で伸ばすようにして、静かにノートにはさみ直した。休み時間、いつも集まる輪が机ひとつ分ずれていた。目が合えば笑みは返ってくる。けれど、椅子は一つも引かれない。「大丈夫。こっちで書くから」自分に向けて言って、マリナは席に座った。ペン先は震えない。ページを閉じるとき、机の下で握った拳にも震えはない。骨の当たる感触だけを確かめ、すぐに手を開いた。* * *昼の少し前、食堂の入口で空気が変わった。ざわめきが一点に集まり、視線がひとところへ吸い寄せられていく。そこにいたのはヴァレンだった。片手で杯を弄び、
last updateLast Updated : 2025-09-29
Read more

揺れる立場

朝の鐘が止む前から、廊下の空気は昨日よりはっきりした色を帯びていた。掲示板の前、窓辺、曲がり角の陰。どこでも同じ一幕が別の形になって繰り返される。「昨日、聞いた? マリナが必死に否定してたって」「“利用なんてしてない”ってさ。そこまで言うの、逆に図星じゃない?」「レナータ様の隣にいると、声大きくなるよね。あれで誤魔化せると思ってるのかな」笑いは淡く、語尾は軽い。けれど、同じ言葉が何度も何度も口にされるうち、芯だけが固くなっていく。教室の扉が開くと、そのままの温度で噂は席と席の隙間に入り込み、ノートの影や椅子の脚に引っかかった。マリナが廊下を歩くと、視線は揃って逸れた。さっきまでこちらを見ていたはずの目が、掲示の紙や窓の外に逃げる。彼女は足を止めない。背筋と歩幅をいつも通りに保ち、胸の中だけで呼吸の数を数えた。「おはよう」「……おはよう」近くの子が一拍遅れて返す。会釈は小さい。会話は伸びない。マリナは笑みの角度をそのままに、教室へ入った。* * *席の上は整っていた。昨日のような箱も、水染みもない。ただ、椅子の向きが少しだけ外へ向いていて、通り道が狭い。マリナは肩をすぼめるようにして身体を入れ、鞄を置き、筆記具を並べた。背後の列で紙が破れる音がして、かすかな笑いが二つ三つこぼれる。「昨日の、見た?」「見た。必死だったね。顔、赤くなってた」「……」マリナは黒板から視線を外さない。手のひらの汗は、ノートの紙に移らない程度に留まっている。鼓動は速い。速いのに、今日は逃げる方向に動かない。喉の奥に、言葉の芯だけが小さく立っていた。——言い返す。次は、きちんと。拳は握らない。代わりに、ペンの位置を一度直し、深く息を吐かず、背もたれから少し離れて座った。先生の声が入ってくる。黒板に文字が増える。ノートに線を引く。いつも通りの手順を、いつも通りの速度で続けた。* * *同じころ、食堂の列。トマスの肩には、今日も何度も手が置かれた。「よ、英雄。昨日の踏み込み、あれだよあれ」「先生も褒めてたぜ。“力に流されない線”って」「……たいしたことじゃない」トマスは苦笑して、拳を軽く合わせる。杯が触れ合う音が少しずつ溜まって、胸の違和感を薄めていく。けれど、目の端には食堂の隅がちらついていた。盆を持ったまま席を探す女の子の姿。昨日の一幕が、味のない影
last updateLast Updated : 2025-09-30
Read more

広がる火種

朝の鐘が終わるころ、学院の空気は昨日よりはっきり二つに割れていた。掲示板の前、配布資料の列、講堂へ続く渡り廊下。どこでも同じ言葉が色を変えて繰り返される。「英雄を気取る庶民、まとめて図に乗ってるよな」「昨日のあれ見た? “庶民代表”って顔、してた」「レナータ様の隣にいる庶民の子もさ、結局は同じ穴でしょ」「でも、みんな頑張ってるだけじゃない?」「頑張るのは勝手だけど、節度ってあるでしょ」声の調子は柔らかいのに、芯だけが固い。言葉は個人を離れて、“庶民全体”へ向かい始めていた。扉が開くと、その温度のまま噂は教室へ流れ込み、席順の紙やノートの余白に貼りつく。* * *一限の教室。マリナの机は整っている。けれど、椅子の背には誰かの上着がかかっていて、どかす手がわずかに止まる。すぐに笑って、丁寧に畳んで隣の机に置いた。「ありがとう。そこ、借りるね」「ごめん、忘れてた」返事は軽い。周囲の視線は一瞬だけ集まり、すぐ散る。彼女が座ると、後ろの席で小さな囁きが交わされた。「庶民グループ、今日もまとまってるね」「うちの列、貴族多いから静かで助かる」マリナはペンを持ち直し、深呼吸はしない。動悸は速い。けれど、胸の奥に小さく火がある。昨日と違うのは、その火に蓋をしないことだ。ページをめくる手は落ち着いている。黒板の文字を書き写しながら、言葉の芯を確かめる。——逃げない。言うべき時は、言う。休み時間、庶民の友人が二人、彼女の机の端に寄った。笑い方はいつも通りだが、その肩越しに貴族生徒の視線がいくつも刺さる。遠くの机から椅子を引く音がわざと大きく響き、短い笑いが連なる。「一緒に次の資料、取りに行く?」「うん。……行こ」立ち上がると、通路の真ん中で誰かと肩が触れた。視線がこちらを上から下へなぞり、すぐに逸れる。「ごめん」「大丈夫」声は短い。刺はない。けれど、マリナの足取りは止まらない。資料台の手前で列が詰まり、前方から小さな皮
last updateLast Updated : 2025-10-01
Read more

舞台を取るもの

昼の鐘が鳴り終わらないうちに、食堂はもう声で満ちていた。皿が触れ合う音より、囁きのほうがよく響く。列のあちこちで同じ言い回しが繰り返され、色だけが濃くなっていく。「英雄ぶる庶民、ほんと増えたよな」「昨日の演習も見た? “代表”って顔だった」「レナータ様の隣にいる庶民の子もさ、あれ、結局は利用じゃない?」「でも努力してるだけでしょ」「努力は結構。でも節度は必要」言葉は柔らかく、芯は硬い。マリナが盆を持って入口をくぐると、視線がすっと移動し、次の瞬間には掲示の紙へ逃げる。彼女は立ち止まらない。空いている席を見つけ、盆を置き、スープに口をつけた。味は同じでも、喉を通るまでに少し時間がかかる。「ねえ、聞いた?」近くのテーブルで、誰かが声を落とす。「昨日、“違う”って反論してたらしいよ」「図星だからでしょ。そういうの、見苦しいよね」マリナは顔を上げた。「違う」短い声。張らないが、逃げない。周囲の笑いが一瞬止まり、すぐに別の笑いが覆う。視線が集まり、居場所が狭くなる。盆の縁に置いた指が白くなるのを、自分で自覚できるくらいには、鼓動が速い。——怖い。でも、下は向かない。彼女は椅子を引き、背を正した。二口目のスープを飲む。味は、さっきより少し分かる。* * *反対側の列から、トマスが入ってきた。仲間が肩を叩き、杯を掲げる。「トマス、午後の見本、頼まれたんだろ?」「先生、期待してたぞ。“庶民の底上げ”ってやつだ」「……たいしたことじゃない」トマスは苦笑し、拳を軽く合わせる。言葉の波が彼の背に乗り、視線が同時に刺さる。離れた席から、わざとらしい調子が飛ぶ。「ほら、“庶民代表”のご到着」「星は眩しいね。影もできる」笑いが重なる。仲間の一人がトマスの耳元で囁く。「お前が答えろよ。変なこと言わせるな」「……」喉の奥に言葉が溜まる。出せば、庶民全体が巻き込まれる。出さなければ、誰か一人に矢が集まる。昨日の後悔が、今日の迷いと同じ場所で絡む。「今、出るのは悪手だ」頭の中の声は、理屈として正しい。けれど、正しさは軽くない。トマスは盆を持ったまま足を止め、マリナの席を横目に探った。彼女は俯いていない。視線を返せば、きっと届く距離だ。肩にまた手が置かれ、足が列へ戻る。* * *ざわめきの中心を、エリシアは遠巻きに見ていた。列の流れ、椅子の
last updateLast Updated : 2025-10-02
Read more

割られる列

朝の鐘が止むころには、学院の空気が二つの色に分かれているのがわかった。掲示板の前、配布物の列、講堂へ続く渡り廊下。どこでも同じ言葉が繰り返される。「庶民って、すぐ“代表”みたいな顔するよな」「いや、庶民は庶民でいいんだよ。背伸びしなければ」柔らかい調子のまま、芯だけが固い。昨日まで曖昧だった生徒たちも、席の選び方や並び方で自然に二つに分かれていく。気づいたときには、長机の片側に貴族、もう片側に庶民。列の先頭も末尾も、同じ色で揃っていた。* * *一限の教室。マリナは庶民の仲間がいる列に椅子を引いた。筆箱を置き、いつもと同じ順序でノートを開く。背後から、わざとらしくない程度の声量で言葉が投げられた。「まとめて、うるさい」振り向けば、笑顔の形をした無表情が二つ並んでいる。マリナは息を整えた。昨日までの矢は“個人”に向いていた。今日は、列ごと狙われている。「騒いでないよ。いつも通りだよ」「へえ」短い返事。背に視線が多い。仲間の肩越しにも、いくつもの目が刺さる。庶民全体に向けられた色が、ここにも落ちている。笑って受け流すだけでは、今日は残らない。——ここで逃げたら、私も、みんなも下を向くことになる。マリナはノートの端を軽く押さえ、筆先の向きを整えた。心拍は速い。けれど、手は震れない。前の席に座る友人が、こっそり親指を立てる。マリナは小さく頷き、黒板の文字を写し始めた。休み時間、資料を取りに立つと、通路の真ん中で肩が触れた。「ごめん」「大丈夫」言葉は短く、刺はない。彼女はすれ違いざまに列の後ろをちらりと見る。庶民の仲間たちの肩は少し張っている。けれど、立ち止まってはいない。資料台の前で、小さな皮肉が落ちた。「庶民の列、今日も長い」「人気者がいるから?」マリナは前を向く。「順番、守ろ」語尾を強くしすぎない。けれど、飲み込まない。窓の外の光が動き、鐘が次の時刻を知らせた。* * *訓練場。砂地に薄い影が伸び、担当教員の前に生徒の列が揃う。見学の先生が二人いる。片方は記録をとり、もう片方は腕を組んで様子を見ていた。「模範、頼む」教員の視線がトマスに向く。仲間の声が背中を押した。「行け、頼む」「見せてやれよ」トマスは杖を軽く握り直した。呼吸を一つ整える。列の向こうから、ひそひそ声が届く。「ほら、“庶民代表”」「失敗したらど
last updateLast Updated : 2025-10-03
Read more

揺れる舞台

朝の鐘が半分も鳴り終わらないうちに、掲示板の前に人だかりができた。上の段に新しい紙が貼られている。大きく「合同演習予告」とあり、下に細かな要項が並ぶ。班ごとの模擬戦。午后。見学可。採点は担当教員と外部教員の連名。編成は原則として当日発表。「庶民も貴族も、同じ舞台か」「どうせ庶民代表はトマスでしょ」「失敗したら庶民全体が沈むぞ」「いや、うまくいけば英雄だ」廊下のあちこちで同じ言い回しが繰り返され、食堂でも配膳の列でも、紙の内容に合わせるようにざわめきが増えた。言葉の調子は柔らかいのに、芯だけが固い。昨日までぼんやりしていた境界が、掲示の一枚で線になった。* * *一限の前。教室の隅で、マリナは庶民の仲間と机を囲んだ。ノートを開き、筆を並べる。向かいの列から、軽い調子の声が飛ぶ。「庶民席、賑やかだね」「今日も“代表”の応援?」一緒にいた子が反発しかけて身を乗り出した。マリナは袖をそっと引く。「やめよ。——順番は守る。私たちは騒がない」短い声でいい。強く押さない。けれど、飲み込まない。彼女は視線を黒板へ戻し、配られた資料の端を整えた。胸の内側で、昨日までの火が少し形を変える。守りたい。自分ひとりではなく、同じ列でノートを開いている全員を。笑って流すだけでは、今日は残らない。そう思うだけで、背筋がはっきり立った。「マリナ、ありがと」隣の子が小さな声で言う。マリナは首を振り、ページをめくった。* * *二限と三限の間。訓練場の砂地は湿り気を含み、足の跡が浅く残る。トマスは杖を肩に乗せ、担当教員の前へ進んだ。外部教員が二人。ひとりは記録帳を、もうひとりは腕を組んで様子を見ている。「午後の合同演習で、模範を見せよ」担当教員が短く言った。「……俺が、ですか」「そうだ。動きは簡潔に。手順を崩すな」仲間が背から支えた。「期待してる」「頼む」反対側から、別の声が刺す。「庶民代表、転ぶなよ」「星は目立つぶん、落ちると大きいからな」トマスは返さない。胸の奥で言葉が二つぶつかる。やれば背負わされる。やらなければ裏切りになる。昨日から続いている“やらされる”覚悟が、少しずつ“やるしかない”に染まっていくのを、はっきり感じた。「分かりました」彼は短く答え、肩の力だけ抜いた。午後までにやることは決まっている。足の置き場、踏み込みの角度、回
last updateLast Updated : 2025-10-04
Read more

最初の衝突

午後の鐘が鳴り終わると、訓練場の砂地に全班が集まった。風は弱く、砂は乾いている。中央に広い間が作られ、両側に列が二つ。貴族側と庶民側。間に一本だけ、細い道が残る。担当教員が前に立ち、短く告げた。「本演習は模擬戦形式。目的は“連携の確認”だ。力試しではない。動き、手順、合図、交代。相手の手順を崩すのではなく、自分たちの段取りを通せ。採点は私と外部教員の連名で行う」言葉は淡々としている。けれど、生徒たちの空気はもう“勝負”のほうに傾いていた。「庶民の代表はトマスだろ」「貴族側は誰が出る?」「負けたらどうなる」「いや、勝てば英雄だ」ざわめきは砂の上で弾む。列の後ろまで同じ言い回しが届き、色だけが濃くなる。* * *教員の視線が庶民側の先頭に止まった。「模範。——トマス」名指しは短い。背後で仲間が息を吸う。「行け」「信じてる」肩に手が乗る。別の列から、軽い調子の声が落ちてきた。「星は高く昇るほど、落ちるのも早いぞ」トマスは返さない。杖を握り直し、前へ出る。足の置き場を決め、肩を落とす。胸の中で言葉が整った。——もう“やらされる”じゃない。ここで見せる。庶民が立てるってことを。視界の端に、貴族側の列が動くのが見える。前に出たのは、よく通る声で笑う青年だ。ヴァレン。肩の力は抜けて、目だけが冷たい。「模範、ね。手順は守るよ。節度も。——見学の先生もいるし」「始め」教員の合図が短く落ちる。* * *庶民側の列の中で、マリナは拳を小さく握っていた。汗は出ていない。けれど、手のひらの内側に骨の感触がはっきりある。隣の子が喉の奥で呟く。「……怖い」「大丈夫。私たちは下を向かない」マリナは短く答え、前を見る。トマスが踏み込み、肩を開く。彼の線はいつもより簡潔だ。迷いのない一歩を作って、回収の角度を綺麗に戻す。ヴァレンは一手遅れて受け、そのすぐ後に小さな挑発を混ぜる。砂が浅く動く。審判の合図を待つ前に、空気だけを乱す手だ。——背負わせたくない。彼ひとりに。トマスが一撃を受けるたび、マリナの胸が同じ場所で揺れる。息を合わせるみたいに、列の肩が一斉に上がったり下がったりするのが分かる。マリナは視線を外さない。次に自分たちが動く番が来る予感だけが、胸の奥で静かに形を取っていた。* * *貴族側の列の端で、エリシアは腕を組み、模擬戦を見て
last updateLast Updated : 2025-10-05
Read more

盤が動き出す音

午後の鐘が鳴り、廊下の流れが一度だけ滞った。掲示板の上段に新しい紙が貼られている。大きく「合同演習・班別協議」とあり、下には要項が続く。――模擬戦ではなく、各班で連携方法を協議し、手順と役割を発表する形式。採点は担当教員と外部教員の連名。発表順は当日決定。「形式、変わった?」「いや、前から“演習”って書いてたけど」「庶民代表はトマスで決まりだろ」「庶民が目立てば、貴族側も黙ってないよ」声は低いが、刃は隠れない。紙は“話し合い”を求めている。けれど、生徒たちは分かっている。ここで決まるのは「誰が真ん中に立つか」だ。* * *庶民班の机を囲む。資料を広げ、配役表の空欄に指が行き来する。誰かが当然のように口を開いた。「発表はトマスだろ。動きも分かってるし」「そうだな。見栄えも――」マリナは静かに首を振った。「一人に背負わせたら、また同じことになる」短い言葉が落ちる。紙の上で指が止まり、視線が一斉に上がった。「じゃあ、誰が立つ?」「全員で組む。声も、手も。前に立つ人がいても、周りが“支える形”を決める。順番も、応答も」沈黙が一度だけ通り過ぎる。反論は出ない。けれど、誰かの喉が小さく鳴った。マリナは目を伏せずに続ける。「守るだけじゃ足りない。立ち方を決めよう。こぼれない形で」「……いいな」「賛成」丸めた紙が一つ置かれ、別の手が役割欄に印をつける。端の席の子が確認するように言った。「じゃあ、前に出るのはトマス。導入は私。要点は二人で分ける。質問が来たら――」「順に受ける。声が重なったら、近いほうが引く」マリナは要点の欄に短く書き加えた。肩が少しだけ軽くなるのを自覚する。守りたいのは、自分一人ではない。同じ列でノートを開いている全員だ。* * *教員が見回りに来た。書類を一枚ずつ受け取り、確認していく。「班代表案、まとまっているか」近くの仲間が反射的に言いかける。「トマ――」トマスが指で合図した。彼は一瞬だけこちらを見て、マリナと目が合う。「……俺が前に出る。でも、背中を預ける場所はほしい」うなずきが三つ、四つ続く。さきほどのマリナの言葉と噛み合う音が、机の上で静かに整った。「分担はこれで。導入、要点、補足、応答。それから締め」「締めは短く。手順に戻す」教員は頷き、控えに印をつけた。「よし。時間内に整えろ。発表
last updateLast Updated : 2025-10-06
Read more
PREV
12345
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status