All Chapters of 魔法学院の囁き〜貴族と庶民、禁断の恋愛地獄〜: Chapter 21 - Chapter 30

48 Chapters

折れた杖、月下に影す

石畳の渡り廊下は、夜の冷えをたっぷり吸いこんでいた。月光に濡れた床は白銀に光り、柱の影が長く伸びる。風が抜ける音だけが響く静寂の回廊に、軽やかな靴音が重なる。マリナが姿を見せた。両腕には数冊の本。書庫からの帰りだろう。肩を小さく竦め、吐息を白く散らす。歩みは穏やかでも、瞳の奥は今日の出来事を反芻していた。――ルクシアの笑み。毒を含んだ言葉。その一つひとつが胸に焼きついて離れない。そんな彼女の前に影が差す。柱の陰から現れたのはエリシア。月明かりに照らされた顔は怒りと焦燥に紅潮していた。「こんな夜更けに……熱心ね、庶民のくせに」彼女は腕を組み、マリナの進路を塞ぐ。マリナは足を止め、抱えた本を整えながら静かに応じた。「勉強するのは、誰の邪魔にもならないでしょう」その落ち着きが、逆にエリシアを苛立たせる。昼間の茶会での劣等感が蘇り、胸を焼く。「……やっぱり気に食わない。レナータの隣に立てるのは、私だけなのに!」彼女の指先に冷気が集まり、廊下の空気が震えた。氷片が生まれては消え、夜気を歪ませる。マリナの髪が風に揺れる。膝が勝手に震え、両の手は氷のように冷たく固まった。喉が張り付く感覚に、必死に息を整える。反撃の力はある。けれど――貴族に正面から抗えば、破滅。理性が声を上げ、身体を縛り付ける。「やめて。こんなところで魔法を使えば騒ぎになる」声は震えを押し殺していたが、抱えた本の下で指先が強く震えている。その様子を見て、エリシアは歪んだ笑みを浮かべた。「怖いの? 庶民らしくていいわね」冷気がさらに広がり、石畳に白い霜が走る。マリナは顔を逸らさず、ただ瞳で射返した。「……しつこい」その拒絶の響きに、エリシアの顔が一瞬揺れる。悔しさに唇が震える。だが彼女はすぐに顔を背け、踵を返した。「覚えておきなさい。レナータの隣に立つのは――私よ」名を残すように吐き捨てて、足音を響かせながら闇に消えていった。残された空気は冷たく重く、マリナの呼吸を奪う。胸の奥に焦げるような痛みが残った。――その時。「随分楽しそうだな」低く気怠げな声が廊下を震わせた。マリナが振り返ると、月光の先からヴァレンが歩いてくる。赤褐色の瞳が愉快そうに細められ、口元には狩人の笑み。「ヴァレン……」マリナの声に緊張が滲む。「可哀想にな。怖い目で睨まれて、凍りついたか
last updateLast Updated : 2025-09-15
Read more

紅き鎖、約された決戦

石畳の渡り廊下は、夜気を吸い込んでひどく冷たかった。月光が白銀の帯となって床を照らし、柱の影が長く伸びる。その真ん中に、二人の影がぶつかり合っていた。折れた杖を構えるトマス。赤褐色の瞳をぎらつかせるヴァレン。マリナは柱のそばに立ち尽くし、胸の鼓動を抑えられずにいた。耳の奥で心臓の音がやけに大きく響く。喉は砂を飲み込んだように渇き、吐息は白く震える。逃げたいのに、足は石に縫い付けられたように動かなかった。「庶民の分際で……俺に刃を向けるか」ヴァレンの声は押し殺した獣の咆哮のように低く重い。掌に赤黒い魔力が渦を巻き、鎖の光が編まれていく。鎖が床を擦る音が響いた瞬間、マリナの全身に寒気が走った。幼い頃、庶民が貴族に逆らって罰を受けた話を聞いたことがある。跡形もなく消されたと。その恐怖が現実になろうとしていた。トマスは一歩も退かず、折れた杖を握りしめる。その木目には幾筋もの修復跡。みすぼらしい道具――だが、その瞳には鋼の意志が燃えていた。「俺は庶民だ。それがどうした」淡々とした声。恐怖よりも怒りが勝っている。「……マリナに触れさせはしない」その一言が廊下を裂く刃となる。ヴァレンは鼻で笑った。「いい目だ。折れた杖一本で俺とやり合う気か?面白ぇ!」鎖が閃き、床を穿った。石畳が砕け、白い破片が宙を舞う。轟音にマリナの膝が震え、視界が揺れる。トマスは横に飛び、杖を振る。細い光の盾が弾けるように生まれ、鎖を受け止めた。火花のような魔力が散り、焦げた匂いが鼻を刺す。次の鎖は喉元を狙った。蛇のように伸び、鋭く締め上げる。トマスは間一髪で杖を差し込み、火花が顔の間近で弾けた。頬に熱が走り、焦げ跡が残る。さらに別の鎖が天井を叩き、石片が雨のように降る。大きな塊がマリナの頭上へ――「下がれ!」トマスが飛び込み、肩で庇いながら杖を振る。石塊は弾かれ、床で砕け散った。衝撃に足を取られ、彼は片膝をつく。「トマス!」マリナの声が震える。次の瞬間には彼女自身も理解していた――次に外れれば死ぬ、と。ヴァレンは嗤う。「どうした庶民。力尽きるのは一瞬だぞ」鎖が叩きつけられ、床が抉れた。石畳が裂け目を晒す。トマスは歯を食いしばり、裂け目を越えて踏み込み、杖を叩きつける。閃光が走り、鎖を弾き返した。火花がヴァレンの頬をかすめる。わずかに彼が後退する。赤褐色の
last updateLast Updated : 2025-09-16
Read more

鏡に映る矜持

学院の夜は昼と別の顔をしていた。石壁に囲まれた中庭に月が落ち、木々の影だけが足を這わせる。吐息すら響きそうな静けさ。遠くで衛兵の靴音が反射していたが、ここまでは届かない。まるで舞台に立たされたような孤独な空間だった。その片隅に、トマスが腰を下ろしていた。膝に折れた杖を抱え、目を閉じて呼吸を整える。指先にはまだ先日の衝撃の痺れが残っていた。ヴァレンの鎖に弾かれた痛みが骨の奥で脈打つ。それでも胸の奥では、それ以上に熱いものが燃えていた。「……トマス」かすかな声が夜を裂いた。顔を上げると、月光に照らされたマリナが立っていた。肩を強張らせながらも、瞳は真っ直ぐに彼を射抜いている。「どうした、こんな時間に」「あなたこそ」言葉が途切れ、沈黙が落ちた。マリナは袖をぎゅっと捻り、震える声を零す。「……お願い。無理をしないで。みんな、あなたに期待してない。――勝てるなんて思ってない。だから、見たくないの」トマスは視線を落とし、杖を握り締めた。木の棘が掌に刺さり、痛みが鮮烈に伝わる。「負けるわけにはいかない」「でも――」「俺が負ければ、俺だけじゃない。母も、妹も……そしてお前も。全部、あいつらに踏み潰される」言葉は鋼のように重く、揺るぎなかった。マリナの瞳に涙が滲む。必死に堪えるが、唇はかすかに震えている。「庶民が立てる道は一本しかない。ここで抗わなければ、俺たちはずっと踏みつけられるだけだ」強い声に、マリナの胸は乱される。守られている安堵と恐怖が絡み、奥底には別の熱が芽生えていた。唇がひくっと震え、瞳に複雑な光が宿る。彼女はただ小さく頷く。それ以上は誰にも見せなかった。トマスはその横顔を見つめ、決意をさらに強めた。同じ夜、学院の別棟。渡り廊下を赤黒の残光が染めていた。窓辺に寄りかかり、月を仰ぐ影――ヴァレンだ。気怠げに笑みを浮かべ、指先で鎖の欠片を弄ぶ。「退屈だな。庶民を叩き潰すなんざ、時間の無駄だ」背後から足音。リヴァリスが姿を現す。背筋を伸ばし、冷たい視線をヴァレンに投げかける。「遊びで済ませるな」「は?」「これは学院の秩序を示す舞台だ。庶民を勝たせれば、貴族の権威は地に落ちる」リヴァリスの声は乾いていた。かつて庶民が推薦戦で勝ちかけ、理不尽に潰された例を彼は知っている。あの混乱は秩序を脅かした。二度と許してはならなかった。
last updateLast Updated : 2025-09-17
Read more

舞台の前夜、ざわめく学院

推薦試合を明日に控えた学院は、昼から妙な熱に包まれていた。授業の声も、訓練場の掛け声も、どこか上の空だ。誰もが同じ話題を口にし、心のどこかでそわそわと落ち着かない。――庶民の少年が、ヴァレンに挑むらしい。――折れた杖しか持たないらしい。――笑いものになるのか、それとも。「勝負は一瞬で終わるさ。あいつの鎖を防げるもんか」「いや、あの顔を見たか? 負け犬の目じゃなかった」「負け犬ほどそういう目をするんだよ」食堂の一角。貴族生徒が余裕げに盃を傾けて笑う。一方で、庶民の席ではスープを零す者がいて、銀の匙を握る手が震えていた。笑い声がこだまし、うつむく彼らの顔を容赦なく照らす。侮蔑と嘲笑、祈りと期待。視線の交錯は学院全体を渦に巻き込み、空気を熱で満たしていった。女子寮の一室。カーテン越しに月が射し込み、室内を淡く照らしている。机に頬杖をついていたエリシアが苛立ちを隠さず声をあげた。「ねえレナータ、ほんと信じられる? 庶民が推薦戦に出るなんて」ベッドに腰を下ろして本を読んでいたレナータは、指でしおりを挟み、顔を上げる。「信じるもなにも、現実よ」「屈辱よ。学院の品位が下がるじゃない!」エリシアは立ち上がり、窓辺を歩き回った。ドレスの裾が揺れ、怒りが声に滲む。「もしあいつが勝ったら……貴族の私たちがどう見られると思う?」レナータは静かに言った。「屈辱かどうかは結果次第。笑いものになるか、英雄になるか。……どちらでも学院は沸く」「勝てるわけないでしょ! ヴァレンよ? あの鎖に抗える庶民なんているはずない!」「確かに過去の推薦試合でも、庶民が立った例はほとんどないわ」レナータは顎に指をあて、ゆっくり続けた。「十年前に一人だけ、推薦戦に出た庶民がいた。二合ももたず叩き潰され、今も笑い話にされている」「……そう」エリシアの声が低く沈む。先ほどの叫びとは違う。「でも、もし勝ったら? 私たちの血筋の価値まで疑われる。私が、私が埋もれるなんて――許せない」爪が掌に食い込み、白い手が震えた。「でも、だからこそ面白い」レナータの声は冷静で、どこか熱を帯びていた。「もし勝てば、歴史が変わる。庶民が英雄になる。負けても語り草になる。舞台に立つ価値はあるわ」「……あなたって本当に冷めてる」エリシアは吐き捨てるように言った。だがそ
last updateLast Updated : 2025-09-18
Read more

開戦、庶民と貴族の舞台

朝から学院が落ち着かない。普段より早く人が集まり、廊下の端までざわめきが続く。掲示板の前には人だかりができ、闘技場へ向かう道には屋台まで出ていた。教師の姿も多い。推薦者の紋章をつけた騎士たちが並び、無言で座席を見回している。「庶民なんて瞬殺だろ」「いや、昨日も遅くまで灯りがついてたぞ。練ってる顔してた」「折れた杖で何をするってんだ」「逆に見ものだよ。折れたままで出るって腹、普通じゃない」観客席はすぐ埋まった。貴族席では果実酒を掲げて笑う声が響き、庶民席では椅子がきしむ。誰も口を開かず、喉だけが上下する。視線は舞台中央の白い線に吸い寄せられていく。最前列にはリヴァリスの姿。腕を組み、視線は一度も揺れない。瞬きすら惜しんでいるようだった。控室の扉が開く。トマスが出た。背筋を伸ばし、折れた杖を手に持つ。歩幅は一定。足音が石に吸い込まれていく。「来たぞ」「本当にあの杖で……?」「顔、上げてるな」闘技場の中央に立つと、空気が変わった。対面の入場口からヴァレン。肩で笑い、片手を上げて観客に応える。鎖の飾りが腰で鳴っただけで、周囲がわっと沸く。「待ってたぜ、庶民」ヴァレンは片目で合図するみたいに顎を上げる。「今日は観客が多い。俺を楽しませろよ」トマスは視線を逸らさない。「ここで折れはしない」「はは、それだ。そういう顔が一番いい」ヴァレンが口の端を上げる。審判が前へ出て、両者に視線を配った。「両名、位置につけ。武具、確認。魔法具の違反なし。――よし」観客席のあちこちで声が重なる。「マリナ、あれ……大丈夫かな」「……祈るしかない」手を握る音が近い席からも聞こえた。マリナは胸の前で指を組み、まばたきを忘れていた。「トマス」小さく呼ぶ声は誰にも届かない。目の奥で、別の言葉が静かに揺れる。――勝って。ここで勝てば、あなたはもう離れない。指に力がこもる。――この手、離さない。彼女はその考えをすぐに沈め、唇を噛んだ。貴族席の一角。エリシアが身を乗り出す。「早く始めなさいよ。さっさと終わるんだから」落ち着いた声が隣から返る。レナータだ。「早い勝負ほど、読み違えると痛いの。ね、静かに見ましょう」「……あんたはいつも余裕ぶって」「余裕じゃないわ。情報よ。さて、どう動くかしら」審判が手を上げる。「――始め!」風が走
last updateLast Updated : 2025-09-20
Read more

限界を越える瞬間

鎖が増えた。一本ではない。ヴァレンの指先からいくつもの輪が生まれ、重なり、舞台の床も空も埋めていく。音は低い。地面の下からも同じ音が響く気がした。「見せてやるよ。貴族の狩りってやつを」鎖の列が弧を描き、観客席の前縁すれすれで止まる。息を呑む音がいっせいに重なった。庶民席は静かだ。呼吸の音だけが近い。貴族席には余裕の笑いが戻る。「終わりだな」「鎖の壁だ。逃げ場はない」トマスは前を見た。逃げ場がないなら、立つしかない。折れた杖を握り直す。掌が汗ばみ、古い傷が痛む。ヴァレンの顎がわずかに動く。合図もなく鎖が走った。床が割れる。砂が舞う。上からも、横からも。背中にも風が当たる。「っ――!」一撃目。肩で受ける。腕が痺れる。二撃目。足首を刈る軌道。杖で払う。三撃目。頭上からの落下。間合いを詰めて最小で受ける。受けるたびに痺れが増え、指先の感覚が遠のく。「ほら、見たか」「速さが違う。無理だ」床に細い線が走った。次の瞬間、頬を熱がかすめる。血が落ちる。赤い点が石に吸われていく。観客がざわついた。「終わった」「まだ立ってるけど、次で――」トマスは息を整える。鏡の前で繰り返した呼吸だ。――ここで折れたら、母も妹も守れない。――ここで折れたら、あの家の灯りが消える。ヴァレンが笑う。「横で受けられるうちは遊んでやる。正面から潰すと舞台が持たねぇ」鎖がまた増える。輪が重なるごとに重さが変わる。圧が肌に触れた。冷たくも熱い。息が短くなる。「トマス!」観客席。マリナの声は小さい。届かない。指は祈りの形のまま固まっている。涙がこぼれそうで、上を向いた。――折れないで。ここで折れないで。喉の奥で、別の言葉が形を持つ。――勝って。勝てばもう離さない。彼女は気づかないふりをして、手に力を込めた。「なぁに、余裕ぶって」エリシアが前のめりになる。「鎖の数が違うのよ。ほら、もう体が流れて――」レナータは視線を動かさずに答える。「体は流れてる。でも崩れてない。足の裏、まだ地面を掴んでる」最前列のリヴァリスは腕を組んだまま。まばたきの気配がない。高い席のルクシアは客席まで含めて視線を巡らせ、すぐに舞台へ戻した。「立ってる者の数が増えた。視線の色が変わると、盤は動く」鎖が一斉に沈んだ。合図。ヴァレンが片手を上げ、笑
last updateLast Updated : 2025-09-21
Read more

鎖を超えて

「俺はまだ折れていない」その声が舞台に響いたあと、闘技場は一瞬、風の音すら消えた。だがすぐにざわめきが戻る。「強がりだ」「奇跡はここまでだ」貴族席から冷笑が飛び、果実酒を掲げる声が重なる。庶民席では、唇を噛みしめる音や、祈る声がかすかに響いた。「立ってくれ…」「まだやれる」握った拳が震えている。椅子がきしむ。誰かが落とした匙が床を跳ね、すぐに拾われた。「あと一歩でいい」「頼む」小さな声が列の奥へ伝わっていく。高い席でルクシアは目を細め、観客席まで含めて視線を動かした。「盤面が動く」その声は自分にだけ届くほど小さかった。レナータは何も言わなかった。ただ口元に淡い笑みを浮かべ、視線を舞台の中央に置き続ける。最前列に立つリヴァリスは腕を組み、目を瞬かずにいた。やがて低く、吐き捨てるように言う。「ばかが…」ヴァレンが肩を揺らす。笑っている。「これで終わりだ」腰の鎖がうなりを上げる。いくつもの輪が絡み合い、束ねられ、巨大な塊になっていく。空気が重く沈み、砂が舞い上がる。近い席の生徒が身を引き、教師が腕を伸ばして制止の合図を出した。「庶民なんて粉々だ!」貴族席から叫びが飛ぶ。「お願い、立ってくれ!」庶民席から震えた声が返る。「うつむくな、見てろ」「負けるなよ」別の列でも低い声が重なった。鎖の塊が振り下ろされた瞬間、石畳が裂け、轟音が空に広がった。観客席から悲鳴が溢れる。砂煙が白線を呑み、舞台の端で旗が大きくはためいた。衝撃を受けたトマスは膝をつきかけた。だが折れた杖を地に突き、体を支える。「……っ」掌に血がにじむ。脳裏に浮かぶのは、母の背中。粗末な台所で働きづめの姿。笑顔を絶やさなかった妹。そして、祈るようにこちらを見つめるマリナの顔。土間の冷たさ。薪の匂い。夕飯の鍋が静かに湯気を上げていた小さな家。――ここに帰る場所を守る。あれを、奪わせない。――ここで折れたら、全部が潰される。鏡の中で見た“弱い自分”が頭をよぎる。額に汗をにじませ、震える顎で自分を睨み返していた顔だ。だが次の瞬間、トマスははっきりと告げた。「……あれはもう終わった」声は震えていなかった。「俺は守るために勝つ」息を深く入れ、痺れた指をもう一度杖に絡める。「母も、妹も、ここにいる皆も――目を逸らさせない」ヴァレ
last updateLast Updated : 2025-09-22
Read more

医療室での余韻

白い布で仕切られた医療室は、薬草の匂いが濃かった。窓は半分だけ開き、遠くの歓声が薄く届く。トマスは上半身に包帯を巻かれ、ベッドに横たわっている。脇の台には折れた杖。亀裂はまだ赤く脈を打つように見えた。「動くな。深く吸って、吐いて」治療師が掌をかざすと、温い光が傷口に沈んでいく。「よく立っていられたものだ」「……何とか」「何とかで済む相手じゃない。今日は運が味方した。次は知らんぞ」「覚えておきます」布が擦れる音がして、カーテンが少しだけ開いた。「入っていい?」「マリナ……」マリナは小走りで近づき、ベッドの端に手を添えた。「無茶しすぎよ。倒れるまで戦うなんて。あの鎖、どれだけ危なかったか——」「心配かけた。……来てくれて、ありがとう」「礼なんていらない。怒ってるんだから」口ではそう言いながら、指は包帯の端をそっと撫でる。「痛む?」「少し。息をすると胸が」「喋らないで。今は休むのが仕事」叱る声は強いのに、手のひらは離れない。瞳の奥で何かが静かに結ばれていく。——もう離れない、と。トマスは目を細め、かすかに笑った。「勝てたのは……お前が見ていたからだ」「なにそれ。嘘ばっかり」「本当だ」「——もう、黙って。喉が渇くでしょう」彼女は水差しを持ち、杯を口元へ運ぶ。「ありがとう」「次は、あんな無茶はしないで」「努力する」扉が強く開いた。「邪魔するぜ」鋭い空気が同時に流れ込む。ヴァレンだ。肩と脇腹に包帯、歩き方は堂々としている。治療師たちが一歩引き、視線だけで警戒を示す。「ここは治療所だ。短く済ませろ」治療師の低い声にも、ヴァレンは肩をすくめるだけだった。「わかってるよ」マリナがすっと立ち、トマスの前に一歩出る。「用がないなら出てって」「あるんだよ、これが」ヴァレンは笑ってトマスへ顎を向けた。「お前、やるじゃねえか。面白いな」トマスは息を整え、背もたれに手を添えた。「……それはどうも」「庶民が俺の鎖を押し返す日が来るとはな。退屈は嫌いだからな。今日は悪くなかった」マリナが目を細める。「褒め言葉のつもり?」「事実を言っただけだよ」ヴァレンは手をひらひらさせ、わざとらしくため息をついた。「騎士団志望だろ? 俺が第一団に推薦しといてやるよ」治療室の空気がわずかに揺れる。治療師が思わずトマスを
last updateLast Updated : 2025-09-23
Read more

告白と誓い

医療室を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。昼間の喧騒は遠のき、学院の中庭には遅い光が点々と残っている。芝は踏むたびにわずかな湿りを返し、薬草の匂いが包帯の中から立ちのぼった。トマスは杖を片手に、息を整えながらゆっくり歩く。傍らでマリナが歩調を合わせ、肩と肘の距離を保ちながら、その実いつでも支えられるように指先に力をためていた。「無理に歩かなくてもいいよ」彼女は横顔を覗き込むようにして言う。「今日は休むべき日でしょ。転んだらどうするの」「平気だ。立てる」トマスは短く答えた。「立って、歩ける。……それだけで十分だ」「十分じゃない。あなたの身体はあなた一人のものじゃないの」マリナは眉を寄せ、包帯の下に目を落とす。「私が心配することも、入れて」「それも……覚えておく」彼は苦笑して、痛まない側の口角だけをわずかに上げた。歩みは緩めないが、速度は上げない。二人の影が石畳の上で重なり、離れて、また重なる。ベンチまで辿り着くと、トマスは杖を膝に横たえ、腰を落ち着けた。マリナは一呼吸置いてから隣に座り、指先で包帯の端をそっとなぞる。「戦えたのは……お前が見てくれたからだ」トマスがふと口にすると、マリナの肩がわずかに跳ねた。「なに、それ。……からかってるの?」「いや、本当だ」彼は視線を外さない。「あのざわめきの中で、お前がどこかにいるって分かった。だから、折れなかった」「……もう」マリナの声はそこで切れて、代わりに浅い息が漏れた。「無茶しないでって言ったのに。あの鎖、見えてた? 当たったら、終わってたかもしれないんだよ」「見えてた」トマスは静かに答える。「怖くなかったわけじゃない。けど、逃げたら……何も守れないと思った」「守る、ね」マリナは俯き、膝の上で手を組んだ。「ずっと見てた。手が震えて、爪が掌に食い込んで、血が滲むのも分からないくらい。怖かった。あなたが倒れたら、その瞬間に私も壊れると思った」「……ごめん」「謝るのは違う」マリナは首を横に振る。「私、ずっと自分の気持ちを誤魔化してきた。怖いから、あなたが遠くへ行ったら耐えられないから、誤魔化してた。でも、もうやめる」夜の空気が少し動き、細い髪が頬にかかる。彼女はそれを耳にかけ、正面から彼を見た。「怖かった。でも、それでも私はあなたの隣にいたい。だからもう離れな
last updateLast Updated : 2025-09-25
Read more

仕組まれた盤上

夜の学院は、昼の熱気が嘘みたいに静かだった。高い窓からの風がカーテンを動かし、燭台の火が小さく揺れる。リヴァリスは私室の窓辺に立ち、闘技場の方角をただ見ていた。「庶民が勝った、か」独り言は短い。けれど、口調に感情は乗らない。「価値はない。だが――利用はできる」背後では従者が控えている。足音ひとつ立てない気配が、この部屋の規律を物語っていた。「レナータは俺のものだ。形だけでは足りない。心も、視線も、時間も――全部だ」リヴァリスは窓から身を離すと、机に置いた学院配置図を指先でなぞった。図の上には小さな駒が三つ置かれている。庶民棟の方向に「トマス」、女子寮の近くに「マリナ」、貴族寮側に「エリシア」。ただの白木だが、視線の置き方に迷いはない。「順番は崩すな。まず、揺れるところからだ」「ご命令を」「三人とも動かす。だが、自分で歩いたと“思わせろ”。気づかせるな。……できるな」「承知しました」リヴァリスは短く頷くと、再び窓に目を戻した。外は穏やかだ。けれど、彼の中で盤はもう回り始めていた。夜の洗面所は静かで、鏡に映る灯りが一段と白い。エリシアは一人、前髪を撫でてから、鏡越しに自分を見据えた。「……負ける気はないのよ」小さく呟く。けれど胸の奥でひっかかる。今日、視線の集まり方は、いつもと少し違っていた。レナータへ向かう視線は当然だとしても、庶民のくせに舞台の真ん中に立った少年へ、そして――その隣に寄り添っていた女の子へ。「なんでよ。どうして、あの子に……」言葉はそこで止まる。自分の声が少し揺れたのが分かったからだ。エリシアは深呼吸を一つして、鏡に近づく。「私は私。あの子はあの子」背後で、空気がわずかに動いた。振り返ると、人影が扉の影から一歩進み出る。黒い上衣に手袋。学院で見かける「影の仕事」の服だ。「どなた?」「敵ではありません、エリシア様」落ち着いた声。男は適度な距離を保ち、視線を下げたまま続けた。「お耳に入れたいのは短い言葉です。“レナータの影”で終わるには惜しい、と」エリシアは目を細めた。「どういう意味かしら」「そのままです。あなたにはあなたの光がある。――嫉妬は毒にもなりますが、磨けば武器になりますよ」「武器?」「はい。あなたが一歩踏み出すなら、舞台はこちらで整えましょう。選ぶのは、あなた」男はそれだけ告げると、
last updateLast Updated : 2025-09-26
Read more
PREV
12345
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status