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第2話

Author: ハサウェー
凪紗は「自分のマンションが改装中だから」という理由で、しばらく九条家のゲストルームに滞在することになっている。

そして航介もあっさり承諾した。

「白鳥家とは長年のビジネスパートナーだから、粗略に扱うわけにはいかない」もっともらしい理由を並べ立てて。

私の意見など一度も尋ねない。まるで、私は透明な存在であるかのように。

こうして凪紗は堂々と九条家に住みつき、屋敷の中を好き勝手に歩き回った。

それはまるで、彼女こそがこの家の女主人であるかのように。

彼女はしばしば、セクシーな部屋着のままリビングを歩き、さらに私と航介の会話にいきなり口を挟み、私たちの話をぶった切る。

航介はそれを嫌がるどころか、むしろ彼女の親しさを楽しげに受け入れている。

ある日、私は書斎の前を通りかかり、扉の隙間から凪紗の笑い声を耳にした。

中では、彼女が航介の隣に座り、二人で一枚の書類を覗き込んでいた。互いの距離はとても近かった。

凪紗の紅い唇が、航介の耳朶に触れんばかりに近づく。

「航介、覚えてる?昔、あなたが私の数学の宿題を手伝ってくれたこと」

彼女は甘えたような笑い声をあげた。

航介も穏やかに笑い返した。

「忘れるわけがないだろう。お前の数学の出来は散々だったからな。仕方なく手伝ってやったんだ」

その声は、私が一度も聞いたことのないほど柔らかい。

胸がずしんと沈み、足が止まる。

部屋に入る気力が失せ、踵を返そうとしたが、もう遅かった。航介が私に気づいた。

「寧々、ちょうどいい。凪紗が庭にブランコを置こうって提案していてな。形をどうするか一緒に考えよう。お前はどんなのがいい?」

彼が手招きする。

私は引きつった笑みを浮かべ、無理に歩み寄った。

「えっと……なんでもいいわ。私、卒論の仕上げがまだ残っているから。二人で決めてちょうだい」

私は頭をかきながらそう言った。もうすぐここを離れるのだ、ブランコの形なんてどうだっていい。だってそれは、私の為にあるものじゃないんだから。

凪紗はわざとらしく唇を尖らせた。

「卒論?なんだそれ?ああ、思い出した。私も大学を卒業するときに書いたわね。もっとも、その時は航介が手伝ってくれたけど。

あなたも航介に頼めば?彼なら完璧に仕上げてくれるわよ」

航介がちらりと私を見た。その視線は、私の口から「助けて」と言わせたいかのようだ。

だが私は助けなんかいらない、一人でも完成できるし。

「いいわ。自分でできるから」

下を向いたまま早足で部屋を出る。胸の奥に鉛のような塊が沈み込み、息が詰まりそうだ。

その夜、航介が寝室に戻ってきたのは深夜だ。

彼の体からは、あの凪紗がよく使う香水の匂いが微かに漂っている。

私はベッドに横たわり、目を閉じて眠ったふりをしている。

彼が隣に身を横たえ、片腕をそっと私の腰に回し、唇が首筋をかすめた。

私は全身を硬直させた。胸の奥から得体の知れない感情が押し寄せる。

突き放したいのに、体は意志に反して逆らえず、自然と彼に寄り添っていった。

三年という年月の中で、私は彼の温もりに慣れてしまった。彼の触れ合いも、吐息も。

なのに、今夜は突然吐き気がして、喉の奥まで込み上げてきた。

「……どうした?」航介が異変を感じ取り、心配そうな声をかけてきた。

「……なんでもない。食べたものがちょっと悪かったのかも」私は背を向けて、低い声でそう答えた。

彼はそれ以上追及せず、背中を軽く撫でた。

耳のすぐそばで聞こえる彼の呼吸音に、私は闇の中で彷徨うように心を見失った。

その時、階下から物音が響き、続いて凪紗の悲鳴が聞こえた。

「航介!急に電気が消えて……誰かが部屋に入ったみたい!」

航介は思わずベッドから起きて、上着を掴んで慌てて階下へ駆け降りていった。

三十分後、彼は戻ってきた。何事も起きていなかった。

ただの電球のショートで、そこへちょうど野良猫が一匹、部屋に迷い込んだだけだった。

なのに、あんなにも焦り、真っ先に駆けつける。まるで凪紗こそが彼にとって一番大切な人であるかのように。

翌朝。私は人より早く起き、研究室へ行く支度をした。

航介はまだ眠っており、凪紗の姿もない。少しだけ、胸が軽くなる。

けれどリビングに着いた瞬間、思い出した。かばんを部屋に置き忘れたのだ。

中には署名済みの離婚届と、ノルウェーにおける現地研究申請書が入っている。

取りに戻ろうとした時、背後から航介の声が響いた。「寧々、何か忘れ物か?」

振り返ると、航介が私の書類を手にしている。

血の気が一気に引く。

「そ、それは私の……」口ごもりながら説明しようとする。

「これは……ノルウェーにおける現地研究申請書?」

航介は書類に一瞥し、表情が急に変わった。

「お前、ノルウェーへ行くつもりなのか?いつだ?俺は許さない」

「ち、違うの。これは友達の代わりに受け取っただけで……」私は必死に嘘をついた。

「ノルウェーか……お前は寒い気候が嫌いだったはずだ」彼は全く気にしないように、淡々と呟いた。

けれどその言葉が刃みたいに、私の胸に力強く突き刺さる。

私たちはかつてノルウェーに新婚旅行で行った。あの時、私は「この環境が好き」と彼に伝えた。

でも今、彼はもう覚えていないのか。それとも――最初から私の言葉など心に留めていなかったのか。

「それより、お前が研究を続けたいなら」航介が急に言い始めた。「九条医療センターが新しく立ち上げる研究室で主任研究員を任せたい。卒業証書を手にしたら、すぐに来い」

私は一瞬言葉を失ったが、すぐに首を振った。

「必要ないわ。自分の道は、自分で決めるから」

研究者としての実力は、指導教授たちも認めている。私はもう、彼の庇護や施しの中で生きるつもりはない。

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