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気づかせないまま離婚届に署名させる
気づかせないまま離婚届に署名させる
Auteur: ハサウェー

第1話

Auteur: ハサウェー
私は離婚届を手に持ち、法律事務所に足を踏み入れた。

正面に座る弁護士は、私を一瞥しただけで、依頼者とも思っていないような無関心な表情を浮かべている。

彼はオーダーメイドのスーツを着こなし、磨き上げられた革靴を履いている。

一方の私は、ただの膝丈スカートにニットの上着という平凡な格好。おそらく学生か何かに見えたのだろう。

「離婚届はこのままの状態で提出可能ですか?その後に夫が署名すれば、提出できるんでしょうか?」

弁護士は少し眉をひそめた。まさか私が既婚者だとは思っていなかったようだ。彼はうつむくと、私が差し出した書類をじっくりと確認し始めた。

「……この離婚届なら問題ありません」

その言葉を聞いて、私はふうっと安堵の息を漏らした。

九条航介(くじょう こうすけ)――私たちの結婚は、こうして静かに幕を閉じるのだ。

書類を手に九条家へ戻ると、ゲート前の警備員はいつもと変わらず私を透明人間のように扱った。

無理もない。彼らは一度たりとも航介から「妻」の存在を告げられたことはないのだろう。

きっと、私のことをただの「援助を受けている貧しい学生」くらいに思っている。

この別荘の中で、私を女主人と見なすのは航介以外に一人もいない。

いや、航介自身でさえ――私を妻と思っていないのかもしれない。

カチャ……

書斎の扉を押し開けると、そこには白鳥凪紗(しらとり なぎさ)の姿がある。

彼女はソファに腰掛け、航介がキャビアを乗せた小さなビスケットを、彼女の口元に差し出している。

凪紗はそれを素直に口に含み、二人で目を合わせて笑みを交わす。

キャビア。それは航介が昔から嫌っていた食べ物。

彼は「家にキャビアを持ち込むな」と厳しく言った。ましてや彼の聖域とも言える書斎に、飲食物を置くなど絶対に許されないはずだった。

それは結婚当初、彼が私に求めたルールだった。

けれど今凪紗は、彼が最も嫌う食べ物を、彼の書斎という聖域で口にしている。それが意味するものは明白だ。

航介にとって、凪紗は私よりずっと特別な存在なのだ。

その事実は一ヶ月前から知っていた。けれど改めて目の前で思い知らされると、やはり心は静かに痛んだ。

私は心の中の苦しみを抑え、何もなかったかのように、平静を装う。

「航介、これは学校の健康診断の同意書。署名をお願い」

まっすぐに机に歩み寄り、健康診断の書類を上に、そしてその下に離婚届をほんの少し角が覗くように重ねて差し出した。

凪紗は私に気づき、にこやかに立ち上がって、熱心に声を掛けてくる。

「寧々、帰ってきたのね?私と航介、今夜の食事の相談をしていたの。一緒にどう?」

笑みを浮かべ、さりげなく航介の腕に手を回す。その仕草は、私への挑発のようにも見える。

航介は一度、机上の書類に目を落とし、取り上げようとした。だが凪紗が何気ない笑みを浮かべて言った。

「ただの健康診断の書類でしょ?そんなの大して見る必要もないわ。

航介って寧々にすごく厳しいじゃない?まるで旦那様というより、お兄さんみたい。厳しい保護者って感じ!」

その言葉に、航介は書類を置くと、さっと署名を入れた。「そうか?俺はそんなに堅い人間じゃないと思うけどな」

ペンを置いた瞬間、私の心臓は激しく跳ね上がった。興奮を必死で押さえながら、すぐに書類を畳み、かばんへ押し込む。

「……ありがとう」

小さな声でそう言い残し、彼を振り返ることなく急ぎ足で書斎を出た。

指先は震え、胸は高鳴る。――ついに、彼が署名した。

これで私は自由になれる。航介から、そしてこの婚姻から解き放たれる。

私と航介の結婚は、最初から過ちだった。

私の父は九条家の先代当主の運転手であり、ライバルの策略から彼を庇って命を落とした。その縁で、私は九条家に引き取られたのだ。

十年前に先代が亡くなってからは、航介と共に暮らしてきた。

彼は私より十歳年上。普段は冷徹で笑顔を見せない、商談の場では常に決断力が強くて、知り合いが誰も彼の頭脳に屈服する。

私は彼を兄のように思い、密かに憧れ、誰にも言えない恋心を胸に秘めていた。

けれど交わりはほとんどなかった。すべてが変わったのは、ある家族の宴の夜。

酔った航介が、私の部屋に入り込んできて――そして私たちは結ばれた。

責任を取ると言い、彼は私と結婚した。

その時、私は信じていた。これが幸せの始まりなのだと。

だがあとに気づいた。それは、束の間の幸せの幻に過ぎなかった。

凪紗が帰国したその日から、航介の私への態度は、日を追うごとに冷たくなっていった。

――だから今、ようやくこの婚姻を終わらせ、自分の自由を取り戻す時が来た。

私は固く握りしめた。その署名済みの離婚届は、まるで自由への鍵のようだ。

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