All Chapters of 失われた二つの旋律: Chapter 41 - Chapter 50

68 Chapters

古びた空間に漂う偽り ⑧

「何人かの職員が辞めたのは事実だ。だが、それだけじゃない。中に一人、正義感の強いのがいてね。会社の体質をどうにかしようと、外に話を持ち出した奴がいたんだ」 宅間は口元をわずかに歪めた。 その表情にあるのは、嘲りと軽蔑──まるで正義感などというものが、いかに滑稽なのかを語っているかのようだ。「社員を救おうとしたのか、更なる被害者が出ないようにしたかったのか知らないが、本当に迷惑な奴だったよ。事実でもない話を並べ立てられて、名誉を傷つけられた」 リサは宅間の言葉を黙って聞きながら、内心で思考を巡らせた。──事実ではない、か…… その言い回しに、リサはため息を漏らしそうになるのを堪えた。宅間は、どこまでも自分の非を認めようとしない。たとえ何が起きようと、誰が傷つこうと、自分が“正しい側”であるという立場だけは、決して手放さないつもりなのだ。「こっちは散々争ったよ。侮辱罪と名誉毀損でね。いくつかは勝ち取ったが、それも私個人に対する発言だけだ。社内のことに関しては勝ち取ることが出来なかった。その結果、私はここにくる羽目になったというわけだ」 宅間は肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。「まあ、金を支払わせることができたんだから、私の勝ちと言っていい。あれはただの印象操作だな。悪意のある奴が勝手に騒いだだけだ」──この男は一体、何を言っているのだろう。 宅間は”侮辱罪と名誉毀損でいくつか勝ち取った”と言っている。しかし、それは宅間という人間に対して、誰かが何かしらの発言をしたというだけの話だ。 ここまで悪質な人物であれば、何かしら発言したくなるのも当然だろう。そのうちの一部が法的に行き過ぎと判断されたにすぎない。 社内での問題行動に関して、勝ち取ることができなかったのであれば、それはどう冷静に見ても敗訴だ。他の関係のないことで金を奪い取ることができたからといって、それが、どうして勝ちになるのか。 その論理の捻れ方に、リサは言いようのない寒気を覚えた。 やはり宅間は反省をしていない。 きっと今もなお、被害を受けた者や声を上げた者たちのことを、悪意を込めて周囲に吹聴して回っているに違いない。 自身の行動を正当化するためなら、他人を犠牲にすることも厭わない──そんな非情さが、この男にはある。 正義や真実など、宅間の関心にはない。この男にとって重要な
last updateLast Updated : 2025-11-17
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古びた空間に漂う偽り ⑨

 オフィスを出ると、冷たい風が彼女の頬を撫でた。──何か余計なことを口にしなかっただろうか。 歩みを進めながら、リサはふと胸の奥に不安を覚える。 宅間という男は情報の出どころを突き止めて、封じ込めようとする人間だ。わずかな言葉の綾さえ利用されかねない。 リサはそう考え、足を止めかけた。だが、すぐに首を振って払拭した。 大丈夫なはずだ──危ういことは何ひとつ言っていない。 そのように結論に達すると、そのままリサは歩みを続けた。 それにしても誠意の欠片も何もない男だった。 あの態度は責任を引き受ける気のない者の典型──責任を回避する言い回しは、もはや一種の様式美にまで昇華している。 あのようにして周囲の人間は少しずつ、その空気に慣れ、そして黙ることを覚えていくのだろう。 問題の核心には決して触れず、責任の所在をぼかし、話の焦点を巧みに逸らす──それがあの男の常套手段なのだ。 言葉を発するたびに口元には薄い笑みが浮かんでいた。しかし、それは安心感でも誠意でもなく、自分の立場を守るための仮面のようなもの。真剣さを装いきれていない。嘘をつく者、特有の目をしていた。相手の反応を探りながら自分の言葉の正当性を計算しているような目── その裏には、責任から逃れたいという思惑が見え隠れしていた。 言葉は整っているが、どこか空々しい。言葉を並べるたびに、彼の指先は机の縁を無意識に叩いていた。その仕草が、内心の落ち着かなさを露わにしていた。──一体、どのような過程を辿れば、あのような歪んだ人格が形成されるのか。 宅間や石場から被害を受けた人々の傷は、宅間が左遷された程度で癒えるものではない。 このような社会の仕組みは、常に加害者に有利にできている。加害行為に対する処罰はあまりにも軽く、時には一切の罰を受けない者すらいるほどだ。 今回のケースは、たまたま行動を起こした人がいたことで、宅間が雑居ビルに追いやられる結果となったが、このようなケースは残念ながら少ない。社会とは本当に不公平であり、理不尽に満ちているのが現状だ。『悪いことをすれば、いずれ自分に返ってくる』と、よく言われるが、現実はそんなに甘くはない。そのセリフが口から簡単に出てくる人というのは、大抵、社会に揉まれずに生きて来れた人だ。 問題が起きた時、自身で解決することが出来ないのであれば、本社
last updateLast Updated : 2025-11-18
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古びた空間に漂う偽り ⑩

 帰宅したリサは、ひと息ついた後、机に向かい、ノートパソコンをゆっくりと開けた。 指先がキーボードに触れ、軽やかにタイピングを始める。──まずは宅間から聞いた話を整理しておこう。 石場が営業先から突然姿を消すことが度々あり、その理由を一切説明しようとしなかったこと。 宅間が何度も問いただしても、石場は「用事があった」などと曖昧な返答しかしなかったこと。 そしてベテランであるにもかかわらず、新人でも知っている基本的な知識を知らないことが多かったことなど、リサはその一つひとつを記録しながら、石場の不可解な行動の背後に何が潜んでいるのかを思案した。 次に、美咲から得た証言── 石場の元同僚たちの情報も追加した。 彼らによれば、石場はオフィス内だけでなく営業先でも彷徨い歩くことがあり、その姿は「まるで夢遊病者のようだった」という。 奇妙なことに、この件についてはカフェの店員も同様のことを語っていた。 同僚たちの石場に対する印象は最悪なものだ。 しかし、本当にそれをそのまま信じて良いのだろうか。 彼らの言葉の端々には、嫌悪と偏見が混じっているようにも感じられる。 果たして彼らが目撃した姿こそが石場の真実なのか──それとも歪められた噂が形を変えて広がったものにすぎないのか。 リサは記録を重ねながら、答えの見えない闇に足を踏み入れていくような感覚を覚えた。「人が変わったように突然、高圧的に振る舞うこともあった」と同僚たちは口を揃える。 確かに、上司の前では善人を演じていた可能性は高い。だがその一方で、彼らが石場を毛嫌いするあまり、必要以上に悪く言っている可能性も否定できないのだ。 同僚たちが語る石場の姿こそが、彼の本質に近いのかもしれない──それでも、どこか釈然としないものが残る。──この拭いきれない引っ掛かりは一体、何なのか。 石場の職員たちへの振舞いについては、宅間は「指導の一環であり、不自然なものではない」と結論づけていた。だが、宅間とは実際に会ったから肌感覚で分かる。あの男の言葉は、まるで当てにならない。 とは言え、すべてが嘘とも言えないのも事実だ。 上司の言葉も、同僚たちの証言も、どちらも偏りを含んでいるように思える。 真実の石場像は、その狭間に隠されているのかもしれない…… 考えるべきは、石場の不可解な行動だ。 彼は仕事
last updateLast Updated : 2025-11-20
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閉ざされた扉の向こう側 ①

 秋の風が冷たく感じられる日、リサはコートの襟を正し、石場の母親である佐和子の家へと向かった。 到着して辺りを見渡すと、そこには二階建ての古びたアパートが佇んでいた。 外壁は色褪せ、鉄製の階段は錆びついて踏み板には小さな穴が開いている。 随所に残る長年の風雨に耐えてきた痕跡── このような場所に高齢の夫婦が住んでいる。その事実は生活を切り詰めていることを如実に物語っていた。 リサは深く息を吸い込んで呼吸を整えると、そっと呼び鈴を鳴らした。ドアがゆっくりと開き、年配の女性が姿を現す。 彼女の冷たい眼差しと厳しい表情から、すぐにこの女性が石場の母親である佐和子であることが分かった。電話で話した時に頭の中で思い描いた通りの女性だ。「こんにちは、沢村理沙と申します。本日はお忙しいところお時間をいただき、ありがとうございます」 リサは礼儀正しく挨拶をした。「どうぞお入りなさい」 佐和子は抑揚のない声でそう言い、リサを家の中へと招き入れた。 くすんだ蛍光灯が廊下をぼんやりと灯している。その暗がりの中をリサと佐和子がゆっくりと進んでいった。歩くたびに床板がきしみ、所々、隙間から冷たい空気が流れ出てくる。 リビングに通されると、リサは差し出されたお茶に手を伸ばし、一口だけ飲んで緊張をほぐした。 思っていたほど部屋は荒れておらず、部屋は整然としている。佐和子の几帳面さが伝わってくるかのようだ。だが、その整えられた空間に漂うのは温もりではなく、長年積み重なった疲労と諦念の影── リサはその空気を肌で感じ取り、ここで語られる石場の過去が決して軽いものではないことを直感した。「本日は失踪したエミリアさんの件でお伺いしました。石場さんが疑われているのですが、私は彼が疑われるのは間違っているのではないかと思っています。真相を明らかにするために、石場さんについてお話を伺いたくて参りました」 リサは慎重に言葉を選びながら、佐和子がどのような反応を示すか見守った。「息子がエミリアさんの失踪にね……」 その言葉を口にした瞬間、佐和子の視線が一瞬だけ揺らいだ。まるで心の奥に触れられたくない記憶を思い出したかのように、眉間に細い皺が寄る。だがすぐに表情を整え、氷のような眼差しを取り戻した。「まあ別に良いですけど。どのようなことを知りたいのですか?」 佐和子は椅子に腰
last updateLast Updated : 2025-11-21
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閉ざされた扉の向こう側 ②

 リサは声を落とし、静かに切り出した。「実は……エミリアさんの失踪について、石場さんが関わっているのではないかと疑う声を耳にしました。かつての職場の同僚たちや、行きつけのカフェの店員までもが、彼の行動に不自然さを感じています。皆、口を揃えて“犯人ではないか”と……」 佐和子は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに冷静な表情に戻った。 現時点では、まだ石場を犯人だとする声は聞かれない。だが、心の奥底では、石場が犯人だと思っている人もいるはずだ。美咲のように……「もちろん、私はそのまま鵜呑みにするつもりはありません。ただ、真相を明らかにするためには、石場さんの過去やご家族との関わりを知る必要があると考えています。佐和子さんから見て、息子さんは本当にそのような疑いを向けられる人なのでしょうか?」 リサは佐和子の表情を探るように視線を向けた。「あの子は小さい頃から少し変わっていて……。誤解されることばかりしていましたから」「誤解……ですか」「はい。今回のように、何もしていないのに疑われることが子どもの頃からありました。他の子と比べると、行動も考え方も随分と異なっていましたからね」 まるで他人事のように淡々と話している。宅間と言い、石場の周囲にはどうしてこのような人ばかりが存在するのか。「行動や考え方が異なっているというのは、具体的にどのようなことを指すのでしょう?」「興味の対象がすぐに変わってしまうんです。何かに集中していたかと思えば、次の瞬間には、もう別のことに気を取られている。笑っていたかと思えば、急に怒り出したりと……。その時々で異なる人物になると言いますか。ですが、他人に危害を加えるような子では決してありませんでしたよ」 佐和子の話し方は、どこか宅間に似ている。宅間と違い、仕草に表れることがない分、少し分かりづらいが、何かを隠している口ぶりだ。 佐和子が息子の存在を重荷に感じているのは確かだろう。 他の子と比べ、自分の息子が逸脱した行動を取るのだ。重荷に感じるのは仕方のないことでもある。 親であっても、世間の目を気にせずに「わが子には伸び伸びと成長してほしい」と心から願える人は多くはない。 仮に自由にさせたいと思ったとしても、周囲の理解がなければ難しい。社会はそう簡単に許してはくれないのだ。 多くの人は自分と他人を混同する。他人を自
last updateLast Updated : 2025-11-22
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閉ざされた扉の向こう側 ③

「子どもの頃のことですが、石場さんに対しては、どのような対応を?」 石場の上司である宅間は、注意しても無駄だと悟り、石場を巧みに利用することを考え、実行に移した。問題が生じた時は他人の責任に仕立て上げ、隠蔽にも手を染めている。母の佐和子はどうしたのだろう。「始めの頃は注意をしました。ですが、理由を聞いても嘘をついて言い逃れをしたり、何も知らないふりをするので、そのうち私たちもどうしようもできなくなってしまって……」「見て見ぬふりをするようになったと?」「……ええ、そうですね」 佐和子は深い溜息を一つ吐き出し、目を伏せた。 だが、その仕草の割に苦悩の色はほとんど感じられない。表情は硬く閉ざされているものの、そこに痛みや動揺は映っていなかった。 長年の諦めが心を覆い尽くし、苦しみさえも表に出すことを拒んでいるのか──それとも元から息子に対して無関心なのか。リサには判断しかねた。 部屋の静けさが二人の間に、ある種の緊張感を漂わせる中、リサはさらに踏み込むことにした。石場の行動には家族との関係や過去の経験が大きく影響しているはずだからだ。 生まれつき奇妙な行動を取る子供も勿論存在するが、こういったものは家庭に問題があることが多い。「息子さんの行動について、もう少し詳しく教えていただけますか。具体的にどのようなことがあったのか、詳細を知りたいのですが……」 佐和子は一瞬、言葉を探すように口を閉ざした後、やがてゆっくりと話し始めた。「例えば、息子は昼夜問わず突然、家を出て行くことがあり、どこに行ったのか戻ってくるまで分からないことが度々ありました。また小さい頃から友達と上手く付き合えず、揉め事を起こして先生方から度々連絡を受けたほどです。でも、その程度ですよ。あの頃はまだ子どもでしたから、私たちは特に強く注意するようなことはしませんでしたし」 大人になってからではなく、子どもの頃から脈絡のない行動を取っていたのか……。話を聞く限りでは一度や二度の偶発的な話ではなさそうだ。おそらく日常的な出来事だったのだろう。 それは佐和子にとって耐え難い心労が絶えなかったことを意味する。 佐和子の感情が感じられなかったのは当然だ。 長年にわたる息子の行動が、徐々に彼女の心から生気を奪い取り、感情を擦り減らしていったのだから。 石場は一体、何かのきっかけがあっ
last updateLast Updated : 2025-11-24
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閉ざされた扉の向こう側 ④

 手帳にペンを走らせた後、リサは伏せられた佐和子の顔へ視線を移した。「佐和子さんが長年、大変な思いをされてきたことは承知しています。そのうえで、一つお尋ねしたいことがあります」 佐和子は目線を下げたまま、小さく「……はい」とだけ答えた。「石場さんが何の前触れもなく家を飛び出すようになったり、トラブルを繰り返すようになったということですが、何かきっかけとなる出来事があったのでしょうか。例えば、転校や大きな病気、あるいはご家庭での環境の変化など……」 リサの言葉には核心を突く鋭さがあった。伏し目がちだった佐和子がゆっくりと顔を上げる。その瞳には動揺の色はない。代わりに不躾な問いを突き返すような反発がそこにあった。「いいえ、ありません。何もありませんでしたよ。特別な出来事など一つも。私たち家族は、どこにでもある、ごく普通の家族でした」 早口でそう言い切ると、佐和子はまるで話題そのものを遮断するかのように、再び目を伏せた。 佐和子の突然の変化に驚き、リサは一瞬言葉を失った。 先ほどまで帯びていた陰りのある瞳は、もう見る影もない。今の強気な姿勢は何か重大な事実を覆い隠すための、仮初めの壁のように見える。 家族が石場にどのように接していたのか、その全容は未だ掴めない。 ただ、腫れ物に触るように距離を置いていた──そう考えるのが自然だが…… 石場が非常に敏感な子どもであったことに関しては、確かに事実なのだろう。それが些細な理由によるものなのか、あるいは本当に理由らしい理由が存在しなかったのかは分からない。ただ一つ言えるのは、彼の行動が周囲を絶えず惑わせていた、ということだ。 家族は、そのような石場を支えようと必死に努力した可能性はある。だが、解決しようにもできなかったのだろう。自分の子供とはいえ、他人の性格や行動パターンを根本から変えることなどできるはずもない。せいぜいできたとしても、押さえつけて行動を抑制することくらいだ。 それにしても、佐和子の先ほどの変わりようは一体、何だったのか。その様子に強い違和感を覚える。 私は別に佐和子を責めているわけではない。それなのに、佐和子は弁明とも受け取れる発言をしていた。 これまで散々、周囲の人たちから責め立てられてきたことは、容易に想像することができる。その記憶が今、彼女の中でフラッシュバックでもしているの
last updateLast Updated : 2025-11-25
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閉ざされた扉の向こう側 ⑤

 怒りの表出は、不安な心の裏返しでもある。 きっと今の私は、触れてはならないものに手を伸ばそうとしているのだろう──佐和子が必死に隠してきた何かに。 これまで多くの人と会い、話を聞いてきたからこそ分かる。本人は誠意を尽くしたつもりでも、受け手はまったく逆の印象を抱くことがある。そうしたすれ違いは決して珍しくはない。 相手の視点に立って物事を見る。それは非常に難しいことだ。 自分がそのように感じたから、相手も同じように思っているはずだと、人は往々にしてそう解釈してしまう。 だから人間関係は上手く行かないのだ。相手が自分の思う通りに動かないだけで、途端に苛立ちを募らせる。 人というのは、相手を自分と同一視せずにはいられない生き物なのかもしれない。 石場も佐和子も、ある意味では犠牲者だ。 リサは、佐和子の表情を窺った。 佐和子は未だ顔を伏せたまま、押し黙っている。リサの問いに対する反発の感情は消えていないようだ。 これ以上、踏み込むのは止めておいた方が良さそうだ。 おそらく、石場と家族との間で何か決定的となることが起きている。それが分かっただけでも収穫はあった。「佐和子さん、本日は本当にありがとうございました。失礼なお話まで伺ってしまい、申し訳ありませんでした。ですが、お話を聞けたことで石場さんのことを少し理解できたように思います。これからも調査を続け、石場さんの無実を明らかにしたいと考えています」 リサは感謝の言葉を述べる傍ら、佐和子の話の裏に隠された、より深い真実に迫らなければならないと感じていた。 佐和子への聞き込みを終えた後、予定では近隣住民にも話を聞くつもりだった。しかし、今日は切り上げて帰った方が良さそうだ。 きっと佐和子が警戒して、こちらの動向を伺うはずだからだ。近隣住民への聞き込みなど、好意的に受け止められるはずがない。 ここで関係をこじらしてしまえば、今後の調査に深刻な支障をきたしてしまうことになる。 それに佐和子と石場との関係次第では、今日の訪問で交わした言葉が、そのまま石場の耳に届くことも十分に考えられる。 仮にそうなってしまった場合──私も美咲のように危険な目に遭うことになるのではないか。 リサは深々と頭を下げて、アパートの玄関を後にした。 背後で重い扉が閉じる音が響き、冷たい風が頬をかすめる。コートの襟を
last updateLast Updated : 2025-11-25
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午後のノイズ ①

 石場は、自宅から数ブロック離れた廃墟の屋上から、双眼鏡で母・佐和子の家を監視していた。 佐和子に話を聞きに来た女── あいつは美咲と一緒にいた奴だ。リサで間違いない。 石場は双眼鏡を降ろすと、口の端をわずかに歪めた。 美咲の奴が姿を現さなくなったと思ったら、また目障りな奴が現れやがった。 午前の優雅なひと時を壊しやがって── 石場はその日、自宅で新聞を広げていた。 ふと窓の外に目をやると、見慣れた女が家の前を通り過ぎていくのが見えたのだ。──カフェで見た奴に似ている。 そう思い、反射的に立ち上がって、窓辺から彼女の後ろ姿を目で追った。彼女は迷うことなく母と父が暮らすアパートへと向かって行く。 心に冷たい影が差し込む中、石場は靴を突っかけると、通りに出てリサの動きを追った。距離を保ちながら、彼女がアパートの玄関に消えていくのを確認する。この時間帯は母しかいないはずだ。──なぜ母のもとへ向かったのか。あいつは何を聞き出そうとしているのか。 疑念が頭の中で渦を巻く。石場は足を止め、しばらくその場に立ち尽くした。──まさか、あいつも私を監視しているとでもいうのか。 そんな被害妄想が、石場の足を地面に縫い付ける。 やがて周囲の静けさを確かめるように視線を巡らせると、石場はようやく近くの廃墟へと足を向けた。 廃墟は、今となっては誰も寄りつかない古いビルだ。石場は錆びた鉄骨と崩れかけた壁の隙間を抜け、屋上へと駆け上がった。 その場所からなら、両親の家を真正面から見渡せる。 石場は双眼鏡を構え、アパートの玄関を凝視した。 何を企んで母に近づいて来たのか、確かめなければならない。 気味の悪い奴だ。隠すべき秘密など何もないというのに。 冷たい風が屋上を吹き抜ける中、やがて石場は双眼鏡を下ろすと、ゆっくりと柵に寄り掛かった。──中々、出てこないな。家の中に入り込み、長話をしていやがる。これだから女は嫌なんだ。これ以上、ここで待ち続けても、何の意味もないな。 石場はそう心の中で吐き捨てると、足早に廃墟を後にした。階段を下りる途中、ふと視線の端に人影が映る。 リサではない。だが、その人物は廃墟の壁際に身を寄せ、こちらを意識しているように見えた。 一瞬、石場の足が止まる。「……まただ」 石場は人影の動きをじっと見計らい、相手が廃墟の周辺
last updateLast Updated : 2025-11-25
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午後のノイズ ②

 向かった先は、石場自身の記憶と行動の痕跡が残る、特別な場所だった。 石場がたどり着いたのは、近隣の小さな川辺──兄が亡くなった場所だ。 幼い頃、ここで遊んでいたことを思い出す。 あの日の川の流れも穏やかだった── 岸辺に生い茂る柳の葉はすでに色褪せ、その枝は冷たい秋の朝の光を透かしている。石場は誰もいない岸辺の岩に腰を下ろし、水面をじっと見つめた。 ここは、石場にとって唯一、心が安らぐ場所だ。世間からの詮索や、周囲の目、そして自分の中に広がる不穏なざわめきから逃れられる、自分だけの精神的な避難所── まだこの場所に兄の面影が残っているような気がする。「兄さん……」 石場の口から声が漏れる。 兄の死は、石場の記憶の中で決して触れられない、耐えがたい悲しい事故として定着していた。他の記憶が朧げになる中、兄が突然いなくなったことによる深い喪失感だけは鮮明に残っている。 私がどれほど兄を慕っていたか…… しばらくの間、石場は水面に映る光の揺らめきを眺め、その穏やかな光景に心を委ねた。 しかし、その静寂は長く続かなかった。 突如、水面が鋭く光を跳ね返したかと思うと、石場の脳裏にガラス片のような記憶の断片が突き刺さったのだ。 それは兄の顔でも、川の音でもない。──誰かの、短い、断続的な咳き込む音──そして、冷たい手が必死に自分の腕を掴もうとする映像だった。 その感覚はすぐに消失した。だが、石場の心は激しく揺さぶられ、平静を取り繕うことができない。 胸の奥で不穏な影が波紋のように広がり、彼を締め付けていく。「……何だ、これは」 石場は混乱と恐怖に、奥歯を強く噛み締めた。 ここは彼を癒す場所であったはずだ。 兄の思い出が私を慰めるどころか、私の存在そのものを否定するかのように、内側から何かが突き上げてくる。 偽りの平静が崩れ去っていく…… 石場は両手で頭を抱え、前のめりになった。額に冷たい汗が滲む。視界の端で柳の枝がまるで生き物のように、激しく揺れているように見えた。 胸の奥から熱いものがせり上がり、立っている岩の上から今にも川へ転がり落ちそうになる。兄の面影が笑い声ではなく、無言で自分を見つめる視線となって、水面から凝視している── そんな錯覚に囚われた瞬間、石場の意識は闇に呑まれた。          ◇       
last updateLast Updated : 2025-11-25
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