All Chapters of 失われた二つの旋律: Chapter 31 - Chapter 40

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沈黙の夜 ①

 夜の静けさがリサの部屋を包んでいた。リビングの照明は柔らかく、本のページをめくる音だけが空間に溶け込んでいる。 その静かな夜、リサがリビングのソファに座って心を落ち着けていた時、穏やかな時間を破るようにスマートフォンが震えた。 画面に映った「美咲」の名前にリサの指が一瞬止まる。 リサは本を閉じて、スマートフォンを取った。 沈黙のあとに聞こえてきたのは、美咲の掠れた声だった。 語尾が震え、呼吸が浅い。言葉を選ぶ余裕もないようだ。 何かに追われているような、あるいは何かを押し殺しているような——そんな気配が美咲の声の奥に滲んでいた。「美咲、どうしたの?」 リサは思わず身を乗り出した。美咲の声の震えが、ただ事ではないことを物語っている。「リサ、あいつ、やっぱりおかしい」 電話越しに聞こえる息遣いは、何かに怯えているようだった。「あいつって? 石場のこと?」 石場の名前を口にした瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。 美咲は事を大袈裟に捉えるところがある。しかし、それにしても怯えすぎではないか。何かあったのだろうか。「石場に追いかけられたの……」 リサは言葉を失った。電話口から美咲の恐怖が伝わってくる。「追いかけられた? 石場に?」 どうして石場が……。美咲の居場所を知っているはずがないのに……。一体、どこで遭遇したというのか。「どうにかして逃げることができたけど、もう無理……。私、この件から身を引かせてもらうね。ごめん、リサ」 美咲の声は、何かに押し潰されそうなほど弱々しい。 電話越しにも、美咲が今どれほど追い詰められているかが、伝わってくるかのようだ。 その場で膝を抱えて座っているのか、それとも壁にもたれて立っているのか——その姿は見えないはずなのに、リサには美咲の姿がはっきりと想像することができた。 美咲は今、心細さと恐怖の中で、誰にも頼れない孤独に身を置いている。「美咲、分かった。無理はしないで。後は私に任せて」 リサは美咲の不安を包み込むように、穏やかな口調で応えた。 どんな手段を使ったのかは分からない。だけど、石場が美咲の居場所を突き止め、実際に追跡したことは、どうやら事実のようだ。 それほどまでに執着するということは——もはや、疑う余地はない。 石場はエミリアの失踪に何らかの形で関与している。「リサ、危ないっ
last updateLast Updated : 2025-11-06
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沈黙の夜 ②

 リサはスマートフォンを耳から離し、しばらく、そのまま手の中で握りしめていた。通話は切れているのに、美咲の震える声がまだ耳の奥に残っている。「もう無理……」 その言葉が胸の奥に重く沈み込む。 美咲は、まさか危険な目に遭うとは思ってもいなかったのだろう。ただ少し気になっただけなのだ。 石場の挙動、エミリアの失踪、そしてアレックスの沈黙——それらが繋がっているような気がして、放っておけなかったのではないか。 おそらく、美咲が本当に気にしていたのはアレックスだ。エミリアではない。 エミリアの失踪に対して、そこまで強い思い入れがあるようには見えなかった。 異国の地で言葉も文化も違う中、アレックスは一人、孤独に耐えていた。誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず、ただ音楽だけを信じて生きてきたような人だ。 美咲は、そんな彼を見ていられなかったのだろう。助けたいというよりは、アレックスの孤独に寄り添いたかったのかもしれない。 リサはソファにもたれて、ゆっくりと天井を仰いだ。 美咲は優しすぎる。だからこそ、危険に足を踏み入れてしまったのだ。 リサは電話の向こうで涙を流している美咲の姿を思い浮かべながら、胸の奥が締め付けられるような思いに駆られた。 エミリアの失踪に関しては、今まではどちらかと言うと、私より美咲の方が積極的だった。美咲はエミリアをよく知っていたし、何か手がかりを見つけたいという思いも強かった。 しかし、石場に追跡されたという事実を聞いた瞬間、リサの中で何かが変わった。美咲が危険に晒されたことで、リサ自身もこの件に深く踏み込む覚悟を決めたのだ。 リサの心に過去の記憶が蘇る── かつて調査を担当した依頼者の一人が、深刻な被害を受けていた。それなのに、私は口の上手い人間たちや周囲の空気に惑わされ、彼女の言葉を信じてあげることができなかった。 何度も助けを求めるサインを送っていたのにも関わらず……。私はその声に最後まで真摯に耳を傾けることができなかった。 周囲の人たちは加害者のことを恐れ、証言を変え、知っていることを話しもしない。中には知っていることを話した人もいたが、多くは傍観者に徹し、沈黙を選んだのだ。 後になって、その事実を知ったとき、私は彼女を裏切ったという痛みと、自分の思慮の浅さを深く悔いた。 あの時の後悔は、今も心の奥底に沈んだま
last updateLast Updated : 2025-11-07
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沈黙の夜 ③

 美咲の怯え方は明らかに尋常ではなかった。いつもは人の話を穏やかに受け止め、どんな場面でも冷静さを失わない彼女が、声を震わせて「もう無理」と言ったのだ。 それは美咲が何かを感じ取ったからだろう。 思い返しても、確かに石場の挙動は不自然だった。 美咲と一緒に山へ向かった時、石場は誰も通らない場所を一人で歩き、周囲の視線を避けるように木の陰に隠れた。 それだけなら、ただの変わり者かもしれない。 しかし、石場はそれだけではなかった。 カフェ「アルペジオ」で聞き取り調査をした時の、あの店のスタッフがぽつりと漏らした言葉──「店の周りを一人でぶつぶつ言いながら歩いていた」 その男も石場だったのだ。 石場は、美咲が「変な噂しか聞かなかった」と言っていた、かつての同僚でもある。社内で直接的に被害を受けた者はいなかったのかもしれない。だけど、周囲の人たちが距離を置いていたことは確かだ。 石場の存在は、場の空気を歪ませるような、どこか不穏なものを纏っている。 リサは、石場のこれまでの不可解な行動と美咲が見せる怯えを頭の中で重ね、想像を巡らせた。──本当にただの偶然なのだろうか。 今のところ、エミリアの失踪と結びつくものはない。あるとすれば、エミリアが最後に目撃された場所に何故か石場がいたことくらいだ。 しかし疑うには、それだけで十分なのかもしれない。 石場の周囲に漂う小さな違和感── リサはソファーに腰かけて考え込んだ。 石場の一連の挙動や美咲の不安げな様子が、リサの脳裏で何度も繰り返されていく。 リサの指先はメモ帳を無意識に撫でながら、視線はぼんやりと窓の外へ向けられている。外はすっかり夜の帳が下り、街灯の淡い光が頬をほのかに照らし出していた。その横顔には焦燥の色がわずかに浮かんでいる。 しかし、その目は揺るぎなく、石場に関する小さな違和感や美咲の怯えを一つずつ手繰り寄せ、真実を見極めようとしていた。“ただの偶然ではないかもしれない” その思いが、リサの心の奥底でゆっくりと膨らんでいく。 これまでの私は、どちらかと言えば直感に頼って動くことが多かった。だけど、それだけではダメなのだ。一方の言い分だけを鵜呑みにすれば、真実を見誤る危険がある。証拠を十分に精査しないまま行動に移してしまえば、誰かの人生を壊してしまいかねない。 私はそれを、
last updateLast Updated : 2025-11-08
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古びた空間に漂う偽り ①

 リサは石場の過去を探るため、彼の元職場へと足を運んだ。冷たい風が頬を刺すたびに、コートの襟をきつく立てながら一歩一歩静かに進んでいく。 リサは事前にアポイントを取り、石場の元上司である宅間との面会を取り付けていた。 指定された住所を頼りに歩いていくと、目的地は駅から少し離れた裏通りに面したビルだった。一見して、築年数の古さがうかがえる。外壁にはひびが走り、塗装もところどころ剥がれている。 近づくにつれ、湿った空気に混じって苔のような匂いが鼻をかすめ、リサは無意識に眉をひそめた。 ガラス扉に映った顔が強張っている。宅間が待つのは、このビルの三階にある一室だ。「大丈夫よ、きっと……」と、リサは心の内で自分を励ました。肩に力が入りすぎていることに気づき、そっと息を吐く。 エレベーターの前で立ち止まり、階数表示の曇ったパネルを見上げていると、背後から足音が近づいてきた。 スーツ姿の女性が無言で隣に並び、リサを一瞥する。どこかの会社の社員だろうか。名札のようなものが胸元で揺れている。 その小柄な女性はリサの存在を気にも留めずに歩き去り、無造作にエレベータのボタンを押した。 随分と乱暴な人だな……。 リサはその様子を見ながら、心の中でつぶやいた。 リサは少し距離を置いて、女性の背中を眺めた。無言のまま立つその姿には、周囲を拒絶するような硬さがある。 その女性は扉が開くと同時に乗り込み、間髪入れず「閉」のボタンに手を伸ばした。 こちらの様子を確認もしない。「すみません、乗ります」 リサは身を乗り出すようにして、思わず声を上げた。急いでリサがエレベーターに駆け込む。 中の空気は密閉された湿気と、壁に染みついた古いカビの匂いが混じっている。照明のちらつきが天井から長く影を引き、リサは思わず肩をすくめた。 沈黙が流れる中、階数表示に目をやる。「3」の数字が点灯し、扉が開くと、小柄な女性は何も言わずに先に降り、そのまま歩き去っていった。 ここの人たちは、みんなあんな感じなのだろうか。 美咲から聞いていたオフィス”のイメージとは、あまりにもかけ離れている。もっと整った環境だと思っていた。しかし今、リサの目の前には、時代から取り残されたような空間が広がっている。 この古びた雑居ビルの一室が、かつての職場だというのか── リサは思わず足を止めた。
last updateLast Updated : 2025-11-09
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古びた空間に漂う偽り ②

 リサは気を取り直すと、廊下を突き進み、宅間と名乗る男がいる部屋の前でドアをノックした。 音が廊下に吸い込まれていく。 リサはドアの前に立ったまま、辺りを見渡した。壁には、今にも剥がれ落ちそうな古びた避難経路図が貼られている。 この空間だけ時間が止まっているみたいだ──そんな感覚が、ふとリサの胸の奥に広がった。 空気は重く、廊下の静けさが耳にまとわりつく。 しばらく待っていると、中から「お入りください」と声が聞こえた。 その声に促されたリサが、そっとドアを開ける。 部屋の中には一人、背筋をやや丸めた姿勢のまま、こちらに視線を向けている男がいる。六十歳くらいだろうか。 この人が石場のかつての上司──宅間だろう。書類の山に囲まれるようにして机に向かっている。「宅間様でしょうか。お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます。先日、ご面談のお願いをさせていただいた、沢村理沙と申します。今日は石場さんのことについてお話を伺いたくてまいりました」 リサは緊張しながらも、しっかりとした口調で言った。「どうぞ、こちらへ」 リサは会釈をして、前へ歩み出た。 壁際には古びた書棚が並び、棚の隙間にはうっすらと埃が積もっている。座面の布がわずかにほつれ、長く使われていないことを物語っていた。 この部屋に人が訪れることは、そう多くないのだろう。来客が頻繁にあるとは思えない。 リサは宅間の前まで進むと、再び頭を下げた。促されるまま椅子に腰を下ろす。「君が沢村理沙さんか。石場について何か聞きたいことがあると言ったね。どうして、石場のことを?」 どこか探るような気配…… 声の調子は穏やかだが、宅間は明らかに訝しんでいる。 リサは一拍置いてから、言葉を選ぶように口を開いた。「石場さんと関わった人の話を、直接伺いたいと思ったんです。ネットでは様々なことが書かれていますが、断片的な情報ですし、生きた情報ではないので……。彼の周囲で何が起きていたのか、実際に見ていた方の話を聞きたいのです」 少し間を置いて、リサは続けた。「実は……エミリアさんの失踪について調べています。彼女が姿を消した時期と石場さんの動きが妙に重なっていて……。偶然とは思えない部分があったものですから」 宅間は目を細め、そして、そのままリサから視線を外した。 机の上の書類に目を落とす
last updateLast Updated : 2025-11-10
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古びた空間に漂う偽り ③

「そうですか……ただ、社内で石場さんについて、少し気になる話を耳にしました。業務上のトラブルがあったとか、周囲との摩擦があったとか……。石場さんは問題のある社員だったと伺っています。宅間様のご認識とは異なるようですが、何か思い当たることはありませんか? お答えできる範囲で構いません」 リサは言葉を投げかけた後も、表情を崩さずに宅間の様子を見守った。──この一言で、何かが動くかもしれない。 静寂の中、宅間の反応を待っていると、宅間の顔に変化が現れた。  口元がわずかに引き締まる。驚きというより、警戒に近い反応だ。「問題のある社員? 一体どこで、そんな話を……」「知人を通して、少し話を伺いました。名前までは出せませんが……」 美咲と特定される発言は控えなければならない。まだ宅間がどのような人間か分からないのだ。情報源が特定された場合、思わぬ方向に事態が転ぶ可能性だってある。特に悪質な人間の場合、何を仕掛けてくるか分からない。 宅間が椅子の背にもたれた。測るように、こちらを見ている。腕は組まれていないが視線は鋭く、表情は崩れない。  その動きは自然なように見えるが、どこか距離を取る意図が感じられる。情報を与えるよりも、受け取る側に回ろうとする意志が見え隠れする。「気のせいではないのですか。確かに石場は時々、トラブルに見舞われてはいました。だが、どれも些細なものばかりだ。それに彼だけに問題があったわけではありません」 宅間はこちらを見据えたまま答えた。 感情を表に出すことなく、言葉を選びながら応じる様子は、慎重というより、情報の出し方に対する計算のようにも見える。──おそらく、この男は今までもこのように生きてきたのだろう。本音で語らず、誤魔化し、偽りながら、必要な場面だけを切り抜けてきた。 誰かに深く踏み込まれることを避け、表面だけを整えて、波風を立てずにやり過ごす。それが癖になり、やがて、その生き方になったのだ。 言葉の選び方も、沈黙の使い方も、すべてが計算されている。感情がないのではなく、意図的に隠しているのだ。 この男だけ石場に対する評価が異なる── 言葉の端々に、石場を一方的に責めることへの抵抗が垣間見えるが、これは一体、どういうことだろうか。あまり石場に関して触れて欲しくはないようだ。 リサは語り口を注意深く観察しながら、宅間の
last updateLast Updated : 2025-11-11
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古びた空間に漂う偽り ④

「そんな話まで耳に入っているのか。君は随分と調べているんだな」 声の調子は抑えられている。だが、その裏には、面倒ごとに巻き込まれることへの辟易とした気持ちと、核心に近づかれることへの苛立ちが見え隠れしていた。「石場は周囲とよく衝突していた。業務上のミスも多かったし、報告義務を怠ることもあった。だが、それ以上に何かを抱えている印象があった。誰にも言えないような何かをね」 宅間は言葉を切ると、ひと呼吸置いてからリサを見つめた。「……と、君は、こういった話を聞きたいわけだ」 リサは言葉を返さず、宅間の言葉を黙って受け止めた。 発言しなかったのは、宅間が自ら語り始めたことに意味があると感じたからだ。 きっと宅間は、挑発に似た言葉を投げかけたら、何らかの反応を示すと思っていたのだろう。 肯定も否定もしないリサの静けさが、宅間の言葉を宙に浮かせた。 沈黙がじわじわと、その重みを増していく── 宅間は痺れを切らしたのか、視線を落とし、重たげな息を一つ吐いた。そして、しばらく考えに耽った後、ゆっくりと口を開いた。「まあ、いい。お望みなら答えてあげよう」 その顔には、どこか諦めたような影が差している。「……正直なところ、石場にはもう関わりたくはないんだ。あの男のせいで、私はこんな所に飛ばされる羽目になったんだからね」──飛ばされた? どうりで美咲が話していたオフィスのイメージとは、掛け離れていたわけだ。 石場と宅間との間に一体、何があったのか── 宅間は椅子の肘掛けに指をかけて力を込めた。椅子の軋む音が室内に響き渡る。 宅間は少し間を置き、呼吸を整えてから話を続けた。「おっしゃる通り、彼は時々、営業先で姿を消すことがあった。誰にも告げずに突然にね。それが何度も続くものだから、そのうち社内でも彼の行動が問題視されるようになったんだ」 やっと宅間が重い口を開いた。 長い沈黙の末に得た返答には、その声色や表情の端々に宅間自身が抱える葛藤や苦悩が、ありありと浮かび上がっていた。 恐らく、この件に関しては本音で語っている。 そのような感覚を覚えながら、リサは次に投げかける言葉を慎重に考えた。ここで気分を損ねてしまえば、話はそれきりになってしまう。 リサは少しだけ身を乗り出し、穏やかな口調で宅間に問いかけた。「宅間様、石場さんが持ち場を離れた理由
last updateLast Updated : 2025-11-12
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古びた空間に漂う偽り ⑤

 リサが思考を巡らせていると、宅間がふと口を開いた。 声の調子は変わらぬままだが、どこか過去をなぞるような響き──「妙なことに、彼は叱責されても平然としていた。謝罪はするが、どこか上の空でね。社内の評価なんて、どうでも良いとでも言いたげな態度なんだが、そのくせ主義主張だけは譲らない。言っている事とやっていることが、まるで噛み合っていなかった」 おそらく石場は他人からの評価に無頓着な人間ではない。石場は美咲を追いかけてでも自分の主張を貫こうとした形跡がある。むしろ他人からの評価を異常に気にするのではないか。 宅間の発言は石場の異常性を示している。しかし、リサの関心は別のところに向かった。 宅間の語り口、言葉の選び方、態度──それらが石場ほどではないにせよ、不可解に思えてならないからだ。「彼は普段は大人しく、目立たないように振る舞っている。ところが何かふとしたきっかけで、急に語気を荒げて手が付けられなくなることがあった」 リサはペンを止めた。穏やかでいた人物が突然、激昂する──そのギャップに、どこか演技めいたものを感じる。 その感情の起伏が本物なのか、それとも計算されたものなのか。リサには判断がつかない。「だが、その激しさも、その場くらいなもので、状況が変われば、まるで何事もなかったかのように、元の静かな状態に戻る。その切り替えの速さは、周囲の人間を戸惑わせるほどだったよ。本当に、おかしな奴だった」 宅間が話し終えた後、リサは視線を手元の手帳に落とした。 宅間の話は過去に聞いた石場の話と合致している。 一人でブツブツと何かを呟きながら歩いたり、突発的にキレたり──石場の奇異な行動は確かに目立つ。 もし宅間の語った話が本当なら、石場と周囲の人々のコミュニケーションは成立しないはずだ。さぞかし周囲の人たちは迷惑だったことだろう。 しかし、やはり腑に落ちない。 これほどまでに異質な存在が、どうして長く職場に留まっていられたのか。 きっと宅間が語る内容には真実が含まれているのだろう。だが同時に、彼自身の解釈や感情が巧みに織り込まれ、話が造り変えられている可能性も有り得る。──すべてを鵜呑みにするのは危うい。 そう考えると、同僚たちの証言すらも、どこか怪しく思えてくる。 何かが起きたとき、人は往々にして「〜だから、〜だ」と単純な因果で片づけよ
last updateLast Updated : 2025-11-13
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古びた空間に漂う偽り ⑥

 一瞬、宅間の表情が固まった。だがすぐに、何でもないことのように肩をすくめてみせた。「会議の場で、ちょっとした指導をしただけだよ。石場がね、女性職員たちに少し厳しく接した。まあ教育の一環だ。だが、今の時代は心の弱い人間ばかりでね……そのうちの一人が泣いて吐きはしたが、あれは単なる体調不良にすぎない。事実ではない誤解が広まったんだ」 リサは無言でペンを走らせながら、宅間の言葉を反芻した。 “ちょっとした指導”“誤解”“単なる体調不良”──語られる内容と、語られ方の温度差が妙に気になる。 実際にはもっと深刻なことが起きていたのではないか。 宅間の語り口の無神経さと、出来事を軽視する態度が、逆に現場の痛ましさを際立たせているように思えてならない。 もし自分がその場にいたら──あるいは、同じような圧力を掛けられていたら……。想像した瞬間、リサの胸の奥にざわりとした不快な波が立った。 リサは宅間に悟られないよう、表情には出さなかったが、瞳の奥には明らかな戸惑いと、抑えきれぬ怒りの色が湛えられていた。 被害を受けた職員たちの気持ちを思うと、その苦しみがどれほど深いものだったか、想像に難くない。 リサは感情を押し殺し、冷静を装って記録を取り続けた。 石場が職員に圧力をかけ、涙を流させ、嘔吐まで引き起こした。それを体調不良、心が弱いと片付け、“教育”と呼ぶとは、宅間の心は歪んでいると言わざるを得ない。 リサは顔を上げ、宅間の横顔を見つめた。 宅間はその場にいなかったのだろうか。宅間の語る内容には、どこか他人事のような距離がある。 「石場さんが職員に強く当たったとき……宅間様は、その場にいらっしゃったのですか?」 宅間は少しだけ眉を動かしたが、すぐに表情を整えた。 リサは続ける。「もし現場にいたのなら、なぜ止めなかったのでしょうか?」 リサは冷静を装いながら、声を落として問いかけた。その声は穏やかだったが、言葉の芯には冷ややかな問いが込められていた。 一瞬、視線を宙に彷徨わせた後、宅間は作り物めいた落ち着き払った表情でリサを見据えた。 反応を探るような視線──その奥には挑発の色が混じっている。「……いましたよ。もちろん、現場にはね」 宅間は背筋を伸ばし、椅子の背にもたれかかって距離を取った。口元には、皮肉とも取れる薄い笑みが浮かんでいる。責めら
last updateLast Updated : 2025-11-14
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古びた空間に漂う偽り ⑦

「石場さんに、あのような対応を任せたのは、宅間様ご自身ですか? それとも、石場さんが独断で行ったことなのでしょうか」 リサはペンを置き、ゆっくりと宅間の顔を見た。 リサの問いに、宅間の表情がわずかに揺らぐ。緊張の色が一瞬だけ浮かんだが、すぐに元の表情へと戻った。「任せたのは私だ。だけどね、彼なりに真剣に指導していたんだよ。やり方は間違っていない。実際に何も起きてはいないのだからね」 またか──リサは内心、呆れ返った。“任せた”という一点は認めながらも、その結果についてはどこか他人事のように語っている。 この宅間という人物は、いつもこれだ。 何かが起きたとしても、それは自分の責任ではないという態度を取る。すべては周囲の誤解か、過剰反応にすぎないとでも言いたげな口ぶりなのだ。 リサは視線を落とし、記録を続けながら思った── この人は、何も見ていないのではない。見て、知った上で何もなかったことにしているのだ。 確かに、石場は嫌々やったわけではないのかもしれない。性格的に他人を押さえがちなところがある。恐らくは積極的にやったのだろう。それは決して褒められたものではないが。 しかし、それ以上に不可解なのは、宅間の態度だ。 この宅間の態度は一体、何なのか── 身の回りで起きた問題は全て他人が原因、何も起きてはいない──そう信じ込んでいるのか、それとも信じているふりをしているのか。 周囲の反応は誤解か悪意によるものだとでも言いたげな、その無自覚な傲慢さが、何よりも不快に感じる。 宅間の言葉には石場への擁護と、責任から逃れようとする姿勢が窺える。 本当は大変なことが起きたことを認識しているのだろう。「石場さんの行動に対して、咎めることはなかったのですか?」 宅間は深く息を吐き、わざとらしく肩をすくめた。口元には薄く笑みが浮かんでいる。 それは答える前から、リサの問いを“的外れ”と決めつけているような、侮るような笑み──「そりゃ、ミスをすれば咎めることもありますよ。ええ、ちゃんと“教育的指導”ってやつをね」 語尾にかすかな皮肉が混じる。“教育的”という言葉を、わざと強調するように口にした、その素振り──小馬鹿にした言い方だ。 宅間はもう、こちらと良好な関係を保とうとする気などないのだろう。言葉の端々から、均衡を崩そうとしているのが透けて見
last updateLast Updated : 2025-11-15
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