All Chapters of 失われた二つの旋律: Chapter 51 - Chapter 60

68 Chapters

近隣への聞き込み ①

 日が変わり、リサは再び石場佐和子の自宅近くに車を停めた。 昨日、佐和子の露骨な警戒心を目の当たりにしたため、近隣への聞き込みを即座に行うのは危険だと判断し、あえて一日置いたのだ。石場の耳に入れば、美咲のように自分も危険に晒されかねない。 リサはコートの襟を立て、冷たい空気を遮るように周囲を慎重に見回した。視線は佐和子の家の方角ではなく、その隣家のインターホンへと向けられている。 今日の目的は佐和子本人ではない。 彼女が口にした「ごく普通の家庭」という言葉が、虚構である証拠を掴むこと──それがリサの狙いだった。 リサの脳裏には、佐和子が必死に隠そうとした「決定的な何か」の像が鮮明に浮かんでいた。 それは石場の異常な行動の根源にある、幼少期の家庭環境── 特に佐和子への聞き込みの中で不自然に欠落していた「罰則」に関する情報だった。 リサは石場の家の周辺を歩き回り、石場について何か知っている人がいないか尋ね回った。 近所の人々は口を揃えて、石場が時折、奇妙な行動を取っていたことや、夜中に頻繁に出歩いていたことを語ってくれた。 さらに話を聞くうちに、石場だけではなく、一家の評判は決して良いものではないことも分かった。どうやら周囲からは距離を置かれているらしい。 リサは足を止めず、次の家へと歩みを進めた。「石場さんには妹さんが一人いますよ。今は一緒に住んでいませんが」「妹ですか……」 石場家には息子だけではなく、娘もいたのか。そのような話は佐和子の口からは一度も出なかったが……。部屋の中にも、それを示す痕跡は見当たらなかった。「ええ、この町を出て、今は遠く離れた場所で暮らしているようです」 近所の住人はそう答えた。 そして別の人物が、さらに重要な事実を付け加えた。「石場さんにはお兄さんもいましたよ。幼い頃に亡くなりましたけどね。それが少しおかしな亡くなり方でね……。当時は随分と騒ぎになったものです」 リサの頭の中で、佐和子の言葉と、集めた断片的な情報が絡み合い始める。 兄の「不可解な死」」、妹の「遠い場所への逃避」、そして佐和子の「弁明とも受け取れる態度」── そして最後に訪れた、長くこの地域に住む老婦人の口から、リサはついに核心を突きつけられることになる。
last updateLast Updated : 2025-11-25
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近隣への聞き込み ②

「失礼いたします。私、ジャーナリストの沢村理沙と申します。石場さんの息子さんについてお話を伺いたくて……」 リサは少しだけ声のトーンを下げ、相手に不安を与えぬよう、細心の注意を払った。「探偵さん? ……ああ、また、あの石場さんのことですか」 インターホンの向こうから、少し間を置いてくぐもった女性の声が返ってきた。 その声には、迷惑そうな響きと、わずかな恐れが混じっていた。 リサは直感した──この反応こそ、佐和子の家が「ごく普通の家庭」ではなかったことを示す、何よりの証拠だと。 扉が開き、中から出てきたのは、エプロン姿の高齢の女性だった。彼女はリサを警戒しつつも、どこか話し始めたいといった衝動に駆られているように見えた。「……あそこのご家庭はね、昔からちょっと変わっていて。石場さんが小さいうちは特にね」 リサはすかさず、佐和子への聞き込みで得られなかった核心へと切り込んだ。「ご主人は、どのような方でしたか?」 女性は一瞬、怯んだように目を見開いたが、すぐに口元を歪めた。「あの、父親の方ね。あの人が一番酷かったわよ。息子さんがちょっとでも粗相をすると、怒鳴りつけるだけじゃなくてね、物を投げつけたり、家にあった土倉に閉じ込めるんですよ。夏でも冬でも関係なく。それも半日とかじゃなくて、一晩中とか」 リサの背筋に、冷たいものが走った。 土倉── 佐和子が決して語らなかった、石場の行動の根源となるもの……「土倉に……閉じ込めていた?」 リサは落ち着いた声を装い、さらに詳細を求めた。「それは、頻繁にですか?」「頻繁、とまでは言わないけど、小さい頃は年に何度かはあったんじゃないかしら。特に、あのお兄ちゃんが亡くなった後はね。あれ以来、息子さんはおかしな行動ばかり取るようになったし、父親の罰も厳しくなって……。お母さんは、見て見ぬふりをするしかなかったのよ」 リサはノートに走らせるペンを強く握りしめた。やはり佐和子は嘘をついていた。「ごく普通の家庭」では断じてない。これは愛情の欠落と、虐待の記憶…… 石場が幼い頃から脈絡のない行動を取り続けた理由──そして佐和子の心の感情が削り取られていった理由── すべての線が、土倉という一点で結びついた。「土倉のことなら昔から住んでいる人なら、誰でも知っていますよ。途中からは静かになりましたけど、最
last updateLast Updated : 2025-11-25
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虐待の記憶

 石場は、ふらついた足取りで自宅の敷地へ戻ってきた。石場の住む家は洋風の立派な建物だ。かつては家族全員がここで暮らしていた。仲睦まじい家庭だったとは決して言えないが……。今、その広々とした建物は、私一人の居場所となっている。 石場は玄関へは向かわず、足を裏庭へと運んだ。 優雅な家とは全く不釣り合いな古い土倉が、裏庭の隅にひっそりと佇んでいる。 まだ朝だというのに、その一角は夜のように冷え切っている。陽の当たらないその場所に、石場はゆっくりと足を踏み入れた。 木製の扉は長い年月に晒され、蝶番には赤錆が浮き、周囲の湿った土の匂いが閉じ込められている。 石場は扉の前で立ち止まり、荒くなった呼吸を必死に抑えようとした。胸の奥でざわめく不穏な影── 理由の分からない恐怖と混乱は、この扉の向こうにある絶対的な静寂を渇望していた。 身体の内側から支配しようとする得体の知れぬものを、ここで完全に封じ込めなければならない。 それこそが、今の石場に残された唯一の目的だった。 石場は錆びた取っ手に手をかけた。冷たい金属の感触が指先を刺すように伝わる。一瞬だけ扉を開けるのを躊躇したが、内側から突き上げる衝動に抗うことはできない。 重い扉をゆっくりと押し開いていく。──ギシッ……。 鈍く、長く、悲鳴にも似た音が闇に響き渡った。 土倉の中は、まさに闇そのものだった。太陽の光はわずかに地面に届くのみ。湿気と土、そして幼少期の極度の恐怖の匂いが充満していた。 ここで私は恐怖に打ち勝つことで、自分を取り戻すことができるはずだ。 石場は一歩、闇の中へ踏み入れた。扉が後ろで閉ざされる。 その瞬間、すべての音が遠ざかり、外の世界は完全に遮断された。 意識が現在の「自分」という曖昧な存在を失い、過去の──あの極限の孤独へと引き戻されていく。──ある嵐の夜、私は土倉に閉じ込められていた。外は激しい雨が降りしきり、風が唸りをあげていた。暗闇の中では何も見ることができない。幼かった私には恐怖でしかなかった。雨音が屋根を叩く音は次第に強まり、耳を圧迫する。まるで、その音が私を包み込み、逃げ場を奪うかのようだった。震えながら、何度も親に助けを求めて叫んだ。だが返事などあるはずもない。暗闇と雨音が私を押し潰し、心の底から恐怖と絶望を刻みつけた。 あの夜を思い出すたびに、
last updateLast Updated : 2025-11-26
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複数の影 ①

 リサは車を走らせながら、何度もルームミラーに視線を投げた。 近隣への聞き込みで得た情報──土倉への監禁、兄の不可解な死、妹の逃避── それらは佐和子の「ごく普通の家庭」という言葉を完全に打ち砕いた。 石場の異常な行動の根源は、病気や生まれつきの性質ではなく、幼少期の虐待にある──そう断じて良い。 その確信はリサの胸に熱い昂ぶりをもたらし、思わず口をついて出た。「……やっと、核心に触れることができた」 だが、その興奮とは裏腹に、プロとしての勘が静かに警告を鳴らしていた。 佐和子の家を離れてしばらく経つというのに、誰かに見られているような、奇妙な違和感が消えないのだ。 リサは路地へ向けてハンドルを切った。ミラーに映る後続車を確認したが、怪しい影は見当たらない。「気のせいよ……ね。考えすぎだわ」 リサは、そう自分に言い聞かせた。 会社では常に孤立し、周囲から奇異の目で見られていた、あの石場が、これほど迅速に、しかも組織的に動けるとは到底思えない。 事務所に戻ったリサは、コートを脱ぐ間も惜しみ、すぐにノートを開いた。「土倉への監禁は、石場の行動を理解するための鍵だ。だが、佐和子が隠していた妹の存在と、兄の死が、まだ闇の中に残っている」 特に妹の存在が重要だ。彼女は家族の闇から逃げ延びた唯一の生存者であり、石場家の過去のすべてを知る人間でもある。「次に追うべきは、石場の妹、そして父……あの虐待の実行犯の行方だ」 リサはスマートフォンを手に取り、古い友人のツテを頼り、石場家の戸籍情報や、妹の転居先を調べる準備を始めた。 その時──自宅の窓の外側を、誰かが一瞬、横切った。 リサは咄嗟に立ち上がり、窓に駆け寄る。外は静かな秋の街並みが広がっている。人通りはまばらで、特に怪しい人物の姿はない。それでも、リサの心臓は激しく鼓動を打ち続けていた。「……これは、もう気のせいなんかじゃない」 誰かが私を見張っている──リサはそう確信した。「石場に協力者が? まさか……」 私が苦労して手に入れた石場家の秘密と同じように、私の行動までもが誰かに筒抜けになっている──その可能性は否定できない。 母の佐和子だろうか、それとも第三者だろうか…… リサは逡巡した。 私が外部に向けて発信したブログが原因かもしれない── この件に関心を持ち、独自に調
last updateLast Updated : 2025-11-27
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怒りの表出 ①

 リサは次の行動を決意した。──妹の居場所を突き止め、この戦いのための武器を手に入れる。それが、今の私に残された唯一の対抗手段だ。 リサはすぐに美咲に電話をかけた。 石場の上司・宅間、そして母・佐和子から得た情報を美咲に伝えなければならない。美咲は石場に追いかけられて以来、心が折られ、調査から離れている。 それでも、何が起きているのかを知りたい──その思いは、美咲の中にまだ残っているはずだ。 それに今、私の行動が誰かに追われている可能性がある。この情報を自分一人で抱え込むのは非常に危険だ。 コール音が三回鳴り、美咲の声が電話越しに聞こえた。その声には以前の張り詰めた糸のような覇気はない。「……リサ?」「美咲、今、大丈夫? 少し話したいことがあるの」 短い沈黙が流れる。美咲が拒もうとしているのが分かった。「ごめんなさい。私、もう、その件に関しては関わりたくないの。石場さんに追いかけられてから、もう無理で……。あの人のことで誰かと話すのも嫌なのよ」 美咲の声が震えている。 部屋から出ない生活を送っているのかもしれない。「分かっているわ。でも、これだけ聞いて。これは、美咲が知っている石場の話じゃないの」 リサは椅子の背にもたれかかり、努めて冷静な声を保った。「あれから、石場の上司と母親、そして近隣住民の聞き込みをしてきてね。母親の佐和子さんが『ごく普通の家庭だった』と嘘をついた理由──それが分かったの。石場の異常な行動、そのすべての根源を掴んできた」「……根源?」「石場が子供の頃、父親から壮絶な虐待を受けていたことが分かったの。粗相をするたびに、自宅の裏にある土倉に、一晩中閉じ込められていたって……。嵐の夜も、凍える冬も関係なく」 電話の向こうで、美咲が息を飲んだ。「土倉に……?」「そう。地元の人なら誰もが知っていた事実よ。特に、幼い頃に兄が亡くなってからは、罰がさらにエスカレートしたらしくてね。石場は親の愛を受ける代わりに、暗闇と恐怖に支配されて育ったの」 リサは言葉を慎重に選びながら続けた。「あの人が美咲を追いかけたのは、もちろん許されることじゃない。でも、あの人の内側には幼い頃の恐怖と、誰にも助けを求められなかった孤独が、今もずっと閉じ込められている。あの人が問題行動を繰り返すのは、そのトラウマから逃れるための、病的な防
last updateLast Updated : 2025-11-27
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怒りの表出 ②

「病的な防衛本能ね……。ねえ、リサ。それを私に話して、どうしたいの? 『だから許すべきだ』とでも言いたいの?」 美咲の声のトーンが、急速に冷たくなった。それまでの恐怖や動揺とは違う、怒りを孕んだ声…… 美咲の言葉がリサの胸を深く突き刺す。 被害者にとって加害者の事情など関係ない。むしろ、それは侮辱にあたる。たとえ許すことができたとしても、それは時間が経ち、心に余裕が生まれてからのこと。それまでは到底受け入れることはできない。 リサは自分の論理的な分析が、美咲の感情を無視していたことに気づき、言葉を失った。「美咲、私は、ただ……」「もういいわ。リサが真実を知りたいなら、勝手にすればいい。でも、私は石場を憐れんだりはしない。彼の病気がどうであれ、私を追い詰めた事実は変わらないんだから」 そう言い残し、美咲は一方的に通話を切った。 スマートフォンから聞こえるのは、無機質な切断音だけ── リサはしばらくスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。 美咲の怒りは当然だ。 しかし、リサはすぐに気を取り直した。 怒りでも何でもいい──美咲は、これで石場の闇の核心を知ったのだ。それに──その怒りの表出は、美咲が完全に沈黙に沈んでいるわけではなく、鬱がある程度改善しているか、少なくとも深刻な状態ではないことを物語っていた。 それは、次の行動へ進むための確かな一歩でもある。「取りあえず情報を伝える、という目的は達成された」 美咲に石場の妹と父親が、この事件の真実を知る鍵を握っていることを伝えることができただけでも良かった。 これで少しは希望が持てるのではないだろうか。 美咲が安全な場所にいることも私にとっては救いでもある。今は彼女に、何よりも安全でいてほしい。 リサは再びノートに向き直り、妹と父親の調査に必要な情報を書き始めた。 美咲の怒りが、無言のまま背中を押しているように感じられる。「さて……次は妹と父親だ」 リサはノートに、まだ判明していない妹と父親の氏名の欄を空白のまま残し、そこに断片的な情報を大きく書き出した。 追われる身となった今、調査はさらに迅速に、そして秘密裏に進めなければならない。 リサにはもう、立ち止まっている時間はなかった。一刻も早く美咲を安心させてあげたい。
last updateLast Updated : 2025-11-27
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逃亡者たちの痕跡 ①

 美咲との電話を終えた後、リサは立ち止まることなく、すぐに自宅の電話とパソコンに向かった。 リサはまず、石場家の戸籍情報と転居履歴を辿ることから始めた。 友人のツテを使い、非公式ルートで得たデータは、石場家の崩壊を明確に物語っていた。 結果は予想通りだった。 妹の転居は複雑で、新しい戸籍を作り、旧姓も変えている可能性が高い。彼女が家族の闇から完全に断ち切るという、切実で強い意志を持って逃げたことが伺えた。その行方を追うには、さらに時間と手間がかかる。 リサは父親の情報に焦点を移した。佐和子との別居先として近隣のアパートが判明しているが、「離婚」の公的な記録はない。「別居、ではなく、逃亡と言っても良さそうね」 リサは、父親が土倉での虐待という自らの罪の意識と、石場の異常な存在に耐えきれず、経済的な豊かさを象徴する本宅を息子に押し付け、妻と共に逃げ出したのだと推測した。 あの周囲を睥睨するような威厳を持つ邸宅と、今住んでいるという寂れたアパートとの落差は、彼らの過去と現在の精神的な敗北を物語っていた。 リサは佐和子との面会を思い出し、疑念を深めた。彼女の極端な警戒心と、露骨な嘘。佐和子が息子の虐待の過去を隠そうとしたのは間違いない。「あの両親は、石場が生み出した問題そのものから目を逸らそうとしている」 リサは、そう確信し、エミリアの事件に焦点を当てた。 もし石場がエミリアの失踪に何らかの形で関与していたとしたら──その事実を両親が知ったとき、彼らはどう動くだろうか。 過去の虐待が原因であると世間に知られる前に、息子を守るため、あるいは自分たちの過去の罪を隠すために、必死に証拠を隠滅しようとするのではないか。「父親と母親は、石場が生み出した『トラブル』の処理を、今も間接的に行っている可能性がある。彼らは被害者ではなく、共犯者だ」 リサの疑念はさらに深まった。 父親は虐待の実行犯、母親はそれに見て見ぬふりをした共犯者。 そして今、彼らは息子が過去のトラウマから、エミリアの失踪事件に関わっているかもしれないという事実を、自らの原罪が露呈するのを恐れて必死に隠蔽しようと図っている。 彼らの逃亡は息子への愛情ではなく、過去の罪の清算を拒否する自己保身であり、事件の隠蔽に間接的に加担する行為に他ならない。
last updateLast Updated : 2025-11-27
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冷酷な意志の宣告 ①

 リサは上着を羽織り、車のキーを掴んだ。 妹の足取りを追うには時間がかかる。まずは石場のトラウマの真の鍵を握る、父親の動向を確かめるべきだ。 もちろん、エミリアの失踪が単なる事故や、全く別の人間による犯行である可能性は捨てきれない。だが、私の経験が告げている。『最も大きな嘘をついている場所』に、必ず答えがあると── アレックスは悲しみに暮れ、音楽業界のライバルたちもアリバイがあった。唯一、石場の家族だけが、過去を改ざんし、現在進行形で何かを隠蔽し、逃亡している。この歪な家族の形を解明しない限り、エミリアの事件の核心に触れることはできない。 それにエミリアの件がなくても、この家族の闇はニュースになる── リサが辿り着いたのは、先日訪れたばかりの、佐和子が暮らす古びた木造アパートだった。佐和子への聞き込みでは会えなかったが、父親もまた、あの古びたアパートに息を潜めているはずだ。 夕暮れの中に沈むその建物は、改めて見ると、時の流れに取り残されたような哀愁と、人を拒絶するような閉鎖的な空気を纏っていた。生活の温かみがまるで感じられない。 リサは車を少し離れた場所に停め、アパートを見上げた。両親ともに豪邸での贅沢な暮らしを捨ててまで、息子の支配から逃れようとしている。その逃避こそが、彼らが事件の間接的な共犯者であることの証明のようにリサには思えた。 リサはインターホンを押すことはしなかった。今はまだ、彼らにこれ以上の警戒心を抱かせてはならない。 あくまで記録として、そして彼らの「逃亡」の証拠として、アパートの外観と、カーテンの閉ざされた窓の写真を数枚撮影した後、リサは静かにハンドルを切った。 自宅に戻り、リサがデスクに腰を下ろした瞬間、違和感が全身を駆け巡った。 それは、窓の外で感じたような漠然としたものではない。もっと個人的で、具体的な、冷たいサインだった。 リサのデスクの上に、普段は電源を落とし、閉じているはずのノートパソコンが、ごくわずかに開かれていた。蝶番の部分が、数ミリ浮いている。 リサは心臓が凍り付くのを感じた。 自宅の鍵は二重でかけていた。侵入された形跡もない…… それなのに、彼女の最も重要な記録──すべての調査を保存しているノートパソコンが、誰かの手に触れられた可能性を示している。 このノートパソコンは、リサがすべての調査の記録
last updateLast Updated : 2025-11-28
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冷酷な意志の宣告 ②

 リサは画面に表示された「分析済み。次へ」という文字を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。 背筋を這い上がる悪寒が止まらない。 この部屋のどこかに、まだ何かが潜んでいるような錯覚に陥り、リサは無意識に周囲を見回した。 もちろん、誰もいない。静まり返った部屋には、パソコンの冷却ファンが回る微かな音だけが響いている。「……ふざけないで」 リサは震える指先で電源ボタンを押し、強制的にパソコンをシャットダウンした。画面が暗転し、黒い鏡となったディスプレイに、蒼白な自分の顔が映り込む。 恐怖で逃げ出したいという本能が警鐘を鳴らしている。今すぐ、この件から手を引くべきだと理性が叫んでいる。 だが、それ以上に強い感情が、リサの足を床に縫い留めていた。 それは”怒り”だ。 かつて依頼人を守れなかった無力な自分への怒り、そして今、姿の見えない場所から自分や美咲を嘲笑い、支配しようとする石場。あるいは、その背後にいる「何か」に対する激しい憤り……「私がここで逃げたら、美咲はどうなる? エミリアは?」 リサは自分自身に問いかけた。 ここで退けば、石場家の闇は永遠に葬り去られる。両親は隠蔽を続け、何も解決しないまま時が過ぎるだろう。 そして、もし彼が本当にエミリアを手にかけ、今また私や美咲を狙っているのだとしたら…… ここで食い止めなければ、新たな犠牲者が生まれるだけだ。美咲を一生、恐怖の中に置き去りにすることなどできない。 それだけは、絶対にさせない。 リサは顔を上げ、強く息を吐き出した。 敵が「次へ」と宣言したのなら、こちらも次の一手を打つまでだ。 リサは鞄に必要な荷物を詰め込むと、追われる者の焦燥と、追う者の執念を同時に抱え、部屋を飛び出した。 向かう先は、石場の妹が住む街── 妹の行方を掴むのは容易ではなかった。 以前、友人のツテを使って調べた戸籍情報は、複雑に入り組んでいた。妹は石場家から離脱した後、何度も転居を繰り返している。まるで、何かから逃げ続けるかのように。 さらに彼女は結婚によって姓を変えている可能性が高く、現在の氏名は「石場」ではない。 リサは手元にあるわずかな手がかり──数年前の転居記録と、風の噂で聞いた「北の地方都市にいるらしい」という不確かな情報──だけを頼りに、調査を進めるしかなかった。 数日後、リサは
last updateLast Updated : 2025-11-28
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断ち切られた絆を追って ①

 そこは、新興住宅地の一角だった。 同じような色合いの建売住宅が整然と並び、庭先には子供用の自転車や遊具が置かれている。 石場が住む古びた洋館や、両親が隠れ住む寂れたアパートとは対照的な、あまりにも「普通」で、平和な風景。 その「普通さ」こそが、妹が何よりも渇望し、必死に守ろうとしてきたものなのだろう。 リサは一軒の家の前で車を止め、表札を確認した。『高木』 調べによれば、これが妹の現在の姓だ。 リサは深呼吸をして、インターホンを押した。 しばらくして、扉の向こうから女性の警戒したような声が聞こえた。「はい、どなたですか?」「突然申し訳ありません。フリージャーナリストの沢村理沙と申します。少しお話を伺いたいことがありまして……」「ジャーナリスト……。申し訳ありませんが、そういうお話は結構です」 冷ややかな拒絶。すぐに通話を切られそうになり、リサは慌てて言葉を継いだ。「石場家のことについてです! お兄さんの……石場和弘さんのことで、お伝えしたいことがあります」 その瞬間、インターホンの向こうの空気が凍りついたのが分かった。 長い沈黙── やがて、ガチャリと鍵が開く音がして、ドアがわずかに開いた。隙間から顔を覗かせたのは、三十代半ばほどの女性だった。 目元は石場に似ているが、その瞳には石場のような濁った光はなく、代わりに怯えと、強い敵意が宿っていた。 彼女はリサを睨みつけるようにして言った。「……あの家の名前を、ここで出さないでください」 声を押し殺しているが、全身が震えているのが分かる。「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ですが、どうしてもあなたにお話を聞く必要があったのです。今、石場さんの周りで不可解な出来事が起きています。女性が行方不明になり、私の友人にも危険が及んでいます」 リサは誠意を込めて訴えた。「あなただけが頼りなんです。あの家で過去に何があったのか、お兄さんがなぜあのような行動を取るのか……それを知っているのは、あなたしかいません」 妹──高木由美子は、リサの言葉を聞いても、ドアチェーンを外そうとはしなかった。「私には関係ありません」 由美子が冷たく言い放つ。「私はもう、あの人たちとは縁を切っています。戸籍も抜いて、名前も変えて、全くの赤の他人になったんです。兄が何をしようと、両親がどうなろうと、
last updateLast Updated : 2025-11-29
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