All Chapters of 失われた二つの旋律: Chapter 21 - Chapter 30

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目撃者 ①

 美咲は元同僚から、あの男について話を聞くため、カフェに向かった。 カフェの一角で美咲を待っていたのは松田だ。彼は石場と同じ部署で働いていたことがある。彼なら何か知っているのではないかと思い、連絡を取った。 松田は美咲を見るなり、穏やかな笑みを浮かべた。「久しぶりだね、美咲さん。元気そうで何より」「お久しぶりです、松田さん。あれっ、もう一人の方は?」「少し遅れるってさ。で、今日はどうしたの、突然、石場のことを訊きたいとか言ってさ。石場って、あの石場でしょ。どうして、あんな奴のことを知りたいわけ?」 あの男は石場というのか。「実は、その人がエミリアの失踪に関与しているのではないかと疑っていて……。知らべてみると、かなり怪しいんですよね」 美咲が、これまでの経緯を簡潔に説明すると、松田は深く頷いた。「疑いたくなる気持ちは良く分かるよ。あいつは確かに変だったからね。営業先にも散々、迷惑をかけてたし……。突然、その場から居なくなって、全く別の場所で見つかるとかさ。普通、有り得る? 有り得ないでしょ? しかも、そんな状況でも、あいつは平然としていたからね。持ち場を離れて遊んでいてもバレないと思ったんだろうけどさ。舐めてるよね。あいつは基本的に自分のことしか考えていない。他人の功績を自分のものにすることもよくあったし、嘘ばかりつくし。だから成長しないんだよ。新人でも知っている仕事内容なのに、あいつは知らなかった。実際にやってもできなかったからね。とにかく卑怯。どうにもならないよ」 松田の石場への怒りがひしひしと伝わってくる。「そんな人が同じ部署に居たら迷惑ですね。退職者が相次ぐのも仕方がないと思う」 石場が原因で何人もの人が退職したと聞いている。「仕事ができないのは別に構わないんだよ。みんなが退職したのはそれが理由じゃない。あいつはすぐに感情的になって、他人を攻撃するところがあった。他人に対して高圧的に振る舞って偉そうにしていたからね。特に女性に対しては本当に酷い態度を取ってた。上司が居る時と居ない時とでは態度が全然違っていた」 立場の弱い人に対して高圧的に振る舞うか……。自分に自信のない証拠だと思う。本当に実力があるのなら堂々としていられる。「それは確かに一緒に働くのは難しいですね」「あいつは自分の過ちを認めることは決してなかった。常に無反省で
last updateLast Updated : 2025-10-01
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目撃者 ②

「ごめん、ちょっと遅れちゃった」と、彼女は申し訳なさそうに言いながら席に着き、「こんにちは。佐藤彩香です」と私に軽く会釈をした。 彼女は私が退職した後に入社した人だ。「こんにちは、彩香さん。私は美咲と言います。渡辺美咲です。今日は来てくださってありがとうございます」 そう言って、私は微笑んだ。 初めて会うのに、どこか懐かしいような気がする。彼女の雰囲気が、そう思わせるのかもしれない。「今日、佐藤さんを呼んだのは訳があるんだ。美咲さんがね、石場について訊きたいって言うから、僕も色々と話してたところだったんだけど、石場についてなら、佐藤さんの方が詳しいでしょ? だから来てもらったんだ」 松田はそう言ってから、美咲の方へ視線を向けた。「佐藤さんがね、石場が山にいたところを実際に見たんだって」 松田が真剣な表情で言った。「えっ、それって、いつ頃の話ですか」 美咲は驚いて問い返した。 彩香は少し戸惑いながらも話を始めた。「確か、最後にエミリアが目撃された日の夜だったと思います。今、付き合っている人と夜景を見るために、展望台に行った帰り道、ベンチで寝ている石場を見たんです」「本当ですか?」 こんなに早く、目撃者を見つけることができるなんて……。だけど驚きもするが、あの石場なら、こんなものだろうとも思う。あの男が計画的に行動を取ることができるはずがない。 しかし、複雑な心境だ。犯人が分かったかもしれないという期待の反面、エミリアが被害に遭ったかもしれないといった不安な心が押し寄せてくる。「暗くて良く見えなかったけど、あれは絶対、石場です。お酒を飲んでいたのではないかと思います。近くに缶ビールが転がっていたので」 どうして石場がそんなところに……。「そこで寝ていただけですか? 近くにエミリアはいました?」「エミリアって、あのヴァイオリン弾きの人ですよね。その人なら、いませんでしたよ。石場が一人で寝ていただけです」 美咲の頭の中で糸が少しずつ繋がっていく。エミリアが失踪した日の夜に、その場にいたなんて、もう石場が犯人と決まったようなものだ。「何らかの犯行に及んだ後なのかもしれないですね」 彩香が呟くように言った。 考えたくはない。だけど、もうそれしか……。エミリアを襲った後、満足して眠ったのかもしれない。「うん。あいつならやりかねない
last updateLast Updated : 2025-10-05
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目撃者 ③

「石場さんって大人しくしている時もあったけど、そういう時でも油断ができない人だったんですよ。人の行動を逐一チェックしていて、何かあったらすぐに上司に報告しに行く人だったから。『あいつがこんなことを言ってましたよ』とか言って……。本当に嫌な奴でした」 彩香さんの表情を見る限り、心の底から石場を嫌っていることが伝わってくる。「そういう陰湿的なところもあったね。あいつは仕事ができないくせに、上司がいる前では、ここぞとばかりに偉そうな態度で説教し始めたりするんだ。あれを見た人は説教されている人が本当にミスを犯した無能だと思うんじゃないかな。上司なんて職員の仕事ぶりを見ているようで見ていないから、石場のことを優秀だと思っていたかもしれないよ」 と松田が言った。「何人かの人が石場の問題行動を上司に話したみたいなんだけど、石場を擁護してばかりで話にならなかったって。それでバカバカしくなって退職していった人たちが何人もいる。私も何度、辞めようと思ったか……」 彩香の指先がカップの縁をなぞるように動き、口元には笑みともため息ともつかない歪みが浮かんでいる。 その沈黙が、何よりも彼女の記憶の苦さを物語っていた。「鬱になって会社に来れなくなった人も含めたら、辞めた人はかなりの数になるだろうね。取引先も嫌がって仕事もかなり減ったし」 松田が彩香の言葉に付け加えた。 石場のような人間が好き勝手にできるのは、その環境を作っている人たちがいるからだ。彩香さんや松田さんのように石場に反発する人たちばかりだったら、被害は最小限で済んだはずなのに……。 その後も、二人は石場の言動や職場の空気について、具体的な出来事を交えながら話してくれた。美咲は耳を傾けながら、自分が感じていた違和感の正体が次第に明らかになっていくのを感じた。 言葉にできなかったものが、少しずつ形になっていく。 やがて会話が一段落したところで、美咲は静かに口を開いた。「松田さん、彩香さん。今日は本当にありがとうございました。お二人から大切なお話を聞かせていただいて、いろいろと考えることができました」「美咲さん、気をつけて下さい。石場は何をするのか分からないので」 彩香は不安そうに美咲の顔を見つめた。「石場は感情的になりやすいし、予測不能な行動を取るからね。あいつを追うのは慎重にした方が良いと思うよ」
last updateLast Updated : 2025-10-12
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見落とされた名前

「ふざけやがって!」 震える手を膝の上で押さえつけながら、石場は画面を睨みつけた。 白百合は私について“エミリアの失踪に関与している”と仄めかす記事を書き、まるで私が犯人であるかのような扱いをしている。その無責任な主張に激しい憤りがこみ上げてくる。 石場は拳を握り締め、そのまま拳を机に叩きつけようとした。しかし、すぐに思い直し、その寸前で手を止めた。 感情的になっても何も得はしない。それよりも白百合が何者で、何故あのようなことを書いたのかを知る方が先決だ。 石場はパソコンに向かい、白百合に関する情報を検索し始めた。ありとあらゆる可能性を考慮してキーワードを叩き込んでいく。 白百合と名乗る人物のSNSやブログには、数えきれないほどの写真と記事が並んでいた。その中には、彼女の私生活を垣間見せるような投稿も含まれている。 石場はひとつひとつの投稿を注意深く見ていくうちに、ふと、ある一文に目を奪われた。 そこには白百合が友人と一緒に写っている写真があり、コメント欄には「美咲、いつもありがとう!」と書かれてあった。 その投稿は友人からのものだ。「美咲……。これが白百合の本名か……」 石場は画面を見つめながら呟いた。 人気のあるブログらしく、白百合の投稿には多くのコメントが寄せられている。彼女はそれらに返信していたが、すべてに応じているわけではない。「素敵ですね」「行ってみたいです」といった一般的な反応には、絵文字だけで返すこともあれば、まったく反応がないこともある。しかし、その一方で、あるコメントには丁寧な言葉で返してあった。 その選別に明確な基準は見えない。気まぐれな性格なのか、少なくとも几帳面とは言い難い。──自分の名前が書かれているとも知らずに……馬鹿な奴だ。 石場は美咲の写真を眺め続けた。 この顔、どこかで見たことがある。 思い出そうと記憶を辿っていくが、中々、思い出すことができない。 最近、見たわけではなさそうだ。見たとしても何年も前の話だろう。 一体、どこで……。 石場は椅子に身を乗り出し、画面に顔を近づけた。指先が無意識にマウスを握りしめる。 喉元まで来ているのに、言葉が出てこない。 私の行動範囲は限られている。カフェに行くか、町を歩くか──せいぜいそれくらいなものだ。 エミリアがいた頃は、音楽を聴きに出かけるこ
last updateLast Updated : 2025-10-18
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観察する男 ①

──まるでストーカーだな。 石場は自分の行動に笑みを浮かべた。 しかし、これは自分の無実を証明するためには仕方のないことだ。私は悪いことは何もしていない。 美咲によってかけられた疑惑を晴らすためには、こうして彼女の行動を見極めるしかないのだ。 石場は細心の注意を払いながら、美咲が何か決定的な証拠を残さないか、連日、観察を続けた。 特に大きな進展もないまま、淡々と日々が流れていく。 そんな日々が続く中、ある日、石場は美咲が友人らしき人物とカフェで会話をしているのを目撃した。美咲がいつも利用している店だ。 気付かれないように近づいてカフェの隅に座ると、石場は二人の会話に、そっと耳を傾けた。 どこの店のケーキが美味しいとか、安かったとか、誰々が何をした。何を言った。など、どうでも良い中身のない会話が続く。 石場は思わずため息をつき、椅子にもたれかかった。 くだらない雑談を垂れ流すだけの時間に一体、何の意味があるのか。よくもまあ飽きずに話していられるものだ。 まるで苦行のようだと感じていると、ついに美咲が石場について話し始めた。 美咲の声のトーンがわずかに低くなる。「ねえ、石場のことなんだけどさ」──やっと始まったか。これが聞きたかったんだ。 耳が自然と会話に向かい、視線は伏せたまま、意識だけが鋭く研ぎ澄まされる。 石場は身構えるように全身を強張らせた。無意識に背筋が伸び、膝の上で握り締めた手に力がこもる。 実は期待より不安の方が遥かに大きい。 今まで散々、あらぬ噂を立てられたこともあって、自分の話題に触れられる度に自然と身構えるようになった。良い話であった試しはない。まして今回は悪意のある内容であることが確定している。 その予感が石場の内面を揺らし、鼓動を高鳴らせた。「美咲、石場がどうしたの? 何か問題でも?」 友人が心配そうに美咲の顔をうかがった。 美咲が戸惑った表情を浮かべている。 短い沈黙が流れた後、やがて、美咲は本音を漏らすように小声で答えた。「実は……。同僚に石場のことを聞いたら、何か不気味な感じがしてきて……。あまり深入りしない方が良いんじゃないかと」──どういうことだ。同僚だと? どうして、こいつの同僚が私のことを知っているんだ。 思いがけない美咲の発言に思考が一瞬止まる。 同僚──その一語が石場の中に眠
last updateLast Updated : 2025-10-20
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観察する男 ②

かつての同僚が情報を漏らしていた事実に気づいた石場は、美咲に対して最大限の警戒心を強めた。「分かるわ。そんな気持ちになるのも無理はないと思う。もし何か気になることがあったら、いつでも連絡して」「ありがとう、リサ」美咲は深くうなずき、微笑んで返した。──リサというのか。こいつのことも覚えておこう。何の理由があってエミリアのことを追っているのか知らないが、私を陥れようとする人間であることは確かだ。石場は美咲の友人が誰なのか気になり、顔を確認しようとした。しかし、ここからでは視界が遮られており、見ることはできない。石場は椅子をそっと引き、用事があるふりをして静かに立ち上がり、ゆっくりと場所を移動した。カフェの隅は静かで、コーヒーの香りがほのかに漂っている。遠くでカップとソーサーがぶつかる小さな音や、低く抑えられた会話が耳に届く。石場は周囲を気にするふりをしつつ、背もたれに身体を預けながら慎重にリサの席へ視線を送った。リサの顔が見えた瞬間、石場の胸の奥がざわつく。「こいつも、どこかで見た覚えが……」視線が合わないよう注意を払い、細部までしっかりと記憶に焼き付ける。リサの顔立ちや仕草を見ているうちに、石場の脳裏には過去の記憶が断片的に浮かび上がってきた。はっきりとは思い出せないものの、石場はその記憶を懸命に手繰り寄せようとした。──あの時の彼女か……。その時の情景が思い起こされる。エミリアの残した痕跡を求めて山に行った時、美咲の隣にいた奴だ。美咲は私の姿を見てすぐに木の陰に身を潜めたが、こいつは特に気にとめる様子もなく、隠れずに堂々としていた。あの冷静さは一体、何だったのか。 リサの目には、私の存在は特別な意味を持っていないようだった。ただ、その場にいただけの傍観者──彼女の視線からは、不信感や警戒心は微塵も感じられなかった。しかし、あの落ち着きが妙に気にかかる。リサには何か裏があるのではないか。本当にただの友人なのか──。何もなければ美咲に協力なんてするはずがない。「……やはり、油断することはできないな」過去に裏切られた経験が原因で、相手の何気ない態度すらも疑いの目で見てしまう。そのことは十分に理解しているし、本当は相手を信じたいという気持ちもどこかにある。しかし、心の奥底では、また傷つくことへの恐れが常に優ってしまうのだ。
last updateLast Updated : 2025-11-01
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追跡 ①

 ある夜、石場は静けさに包まれた住宅街の片隅で、美咲が自宅を出る姿を見つけた。 不規則な街灯の明かりが歩道に淡く広がり、周囲はどことなく不穏な空気を漂わせている。 石場は陰に隠れながら、物音を立てないように慎重に美咲の後をついていった。 街灯に照らされ、夜道に浮かび上がる美咲の長い影を見失わないよう目で追い、その姿を目印に一定の距離を保ちながら歩みを進める。 美咲が何を知ろうとしているのか、私を狙う目的は何なのか——その答えがどうしても知りたい。 石場は、その一心で足音を殺し、美咲の動きに全神経を集中させた。 遠ざかる足音と共に、影もまたひっそりと揺れ動く。その長い影が角を曲がるたび、石場は息を潜めて壁際に身を寄せ、慎重に距離を詰めた。 そして次の角を曲がったその瞬間——美咲がふいに足を止めた。 街灯の下、美咲はそっとポケットに手を伸ばし、携帯電話を取り出す。美咲はしばらく画面を見つめ、深く息をつくと、そっと電話を耳に当てた。 静かな夜の空気に美咲の声が低く響き渡る。 石場は塀の陰に身を潜め、夜風の冷たさを感じながら、その会話に注意深く耳を傾けた。 遠くで犬の鳴き声が小さく響き、街灯の光がぼんやりと地面を照らしている。──どうやら電話の相手はリサではないようだな。 あの日、リサと話した時のような砕けた言葉遣いや親しげな調子ではなく、どこかよそよそしく、形式ばった話し方をしている。「……準備……」「気をつけて……」「……知られないように」 聞こえてくるのは断片的な言葉だけ── 肝心の内容がどうしても聞き取れない。 風に流されるように言葉は曖昧で、はっきりとした意味を成さなかった。 塀越しに息を潜めていた石場は、身を乗り出して、美咲の声の僅かな変化、そして吐息の混じる緊張感を必死で感じ取ろうとした。しかし、距離と雑音がそれを阻む。──一体、何を話している? 誰と? 何を企んでいるんだ? ほんの数メートル先に答えがあるはずなのに、まるで厚いガラス越しに見ているように手が届かない。 心臓の鼓動が耳に響くほど高鳴る。 石場は唇を噛み締め、拳を固く握り締めた。目を細めたまま、塀の向こうをじっと見据え、耳をそばだてて物音を逃すまいと身を低くする。──断片的に聞こえる言葉から、美咲が何らかの行動を起こす準備を進めていることは明らかだ。
last updateLast Updated : 2025-11-02
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追跡 ②

 動きたい——だが動くことができない。 石場の足は地面に縫い付けられたかのように重く、その場に釘付けになった。 冷たい夜風が頬を撫でるたびに思考が研ぎ澄まされ、石場の緊張感を一層強くする。 石場は拳を握りしめた。──一歩踏み出すべきか、それともこの場に留まるべきか。 美咲が何を狙っているのかは分からない。しかし、このまま美咲の思惑通りに事が運んでしまえば、私の立場は一体どうなる? 選択を誤れば、すべてが手の平からこぼれ落ちてしまいかねない。 焦りが胸を締めつける。 石場は息を殺しながら、美咲の背中を目で追った。 足先には力が入り、すぐにでも動けるように無意識のうちに重心を前に預けている。 ほんの数秒間──石場にとっては永遠にも思えるほどの時間が流れた。 石場は深く息を吸い込むと、意を決して、後を追うことに決めた。足を一歩、踏み出す。 美咲の歩幅、速度、視線の動き——すべてに注意を払い、一定の距離を保ちながら後をつける。 ──見つかったら、見つかった時だ。その時に考えたら良い。 石場は美咲を見失わないよう慎重に後を追いながら、次にどう動くべきか思案した。 街灯の影に身を潜め、車の通過音に紛れて一歩ずつ進む。──このまま尾行を続けるべきか。それとも先回りして待ち伏せるべきか。 石場の脳裏に幾つかの選択肢が浮かんでは消えていく。 美咲は電話を終えてからというもの、首を何度も左右に振っては、周囲の様子を探るように目を走らせている。歩く速度は速く、随分と落ち着かない動きだ。 その頬はこわばり、唇は硬く閉ざされたまま。何かを振り払おうとするかのように、美咲の全身が緊張に包まれている。 石場はポケットの中でスマートフォンを握りしめた。 必要とあらば、証拠を残す準備もできている。 この追跡が、すべての鍵を握っている——そう確信しながら、石場は一歩、また一歩と美咲の後に追った。 今、この状況の主導権は完全に、あの女にある。 私の存在は完全に美咲の掌の上だ。抗う術もなく、意のままに動かされている。美咲の一挙一動が、私を追い詰めようとしているように思えてならない。 そう感じるのは、かつて似たような状況で誰かに操られ、思い通りに動かされた苦い記憶があるからだ。逃げようとしても逃げきれず、相手の行動の一つ一つが自分の未来を左右する、あの無力感─
last updateLast Updated : 2025-11-03
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追跡 ③

「このままでは見失ってしまう……」 石場は焦りながらも、美咲に気づかれないように注意深く尾行を続けた。しかし美咲は不審な気配を感じ取ったのか、通りの角を曲がると一気に走り出した。 美咲が暗闇の中を駆け抜けていく。「これは何かありそうだな」 石場は美咲の後を必死に追った。 街灯の明かりが途切れるたびに、美咲の姿が一瞬消え、その度に見失ってしまったのではないかと心臓が激しく脈を打つ。 石場は息を切らしながらも、懸命に後を追った。「くそ、どうして、こんな目に遭わなければならないんだ……」 石場は内心で毒づいた。 前方を走る美咲を睨みつける。「絶対に捕まえてやる。根拠もなく人を犯人扱いしやがって。私は余計な詮索をされるのが嫌いなんだ」 石場は美咲の動きが徐々に鈍くなっているのを感じ取った。彼女の呼吸が荒くなり、足取りが重くなっているのが見て取れる。そろそろ限界に近い。 石場は距離を詰めながら、周囲の景色が変化していくのをぼんやりと眺めた。 街灯の数が減り、建物の影が濃くなる。人気のない裏通りに差しかかったことに気づいた時、視線の先で美咲が急に立ち止まった。 背後には古い倉庫── その場に漂う空気が一瞬、張り詰めたように感じられる。 美咲は何かを確かめるように周囲を見渡したかと思うと、壊れかけたドアを勢いよく押し開け、中に滑り込むように入っていった。 石場はその動きを見逃さず、急いで倉庫まで駆け寄り、ドアを押し開けて中へ入った。 倉庫の中は暗く、埃っぽい空気が充満していた。石場は足音を立てないように慎重に進みながら、美咲の気配を探った。息遣いがかすかに聞こえる。「まだこの中にいるようだな」 石場が呟く。 美咲は走っている最中、一度も振り返らなかった。確認せずとも追いかけてくる人間が誰なのか、見当がついていたからだろう。それだけ私のことを調べているということだ。 足音がかすかに聞こえる。 暗闇の中で隠れる場所を必死で探しているのか、それとも隙をついて襲い掛かってこようとでもしているのか── いづれにしても、こちらにとってプラスになることではない。 冷たい汗が石場の背中を伝い落ちていく。「出てきてくれ。お願いだ。聞きたいことがある」 石場は低い声で呼びかけた。しかし、その声は倉庫の中で不気味に反響し、緊張感を高めただけだった。
last updateLast Updated : 2025-11-04
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追跡 ④

 その時、石場の足が何かに引っかかり、バランスを大きく崩した。身体が地面に激しく打ち付けられる。 その瞬間を美咲は見逃さなかった。 美咲は棚の陰から素早く身を起こすと、石場の呻き声を背に、全力で出口へと駆け出した。 壊れかけたドアを再び押し開け、夜の冷たい空気の中へと滑り出す。 外に出た美咲は、一度だけ振り返った。 倒れた石場がまだ体勢を整えられずにいるのを確認すると、美咲は息を整える間もなく、暗がりの路地へと走り出した。「くそ……」 あいつは私が態勢を整える前にできるだけ遠くへ逃げるつもりだ。 痛みで視界が霞む中、石場は悔しさを噛み締めながら、必死で立ち上がろうとした。 しかし痛みが石場の動きを鈍らせる。──この状態では追いかけても無駄だ。美咲はすでに遠くへ走り去っている。もう今さら追いつくことはできない。 石場は壁に手をかけて、よろめきながら立ち上がった。 その瞬間── 石場の脳裏に激しい閃光が走り、ある映像が流れた。エミリアの姿が映し出される。 暗がりの中、街灯の淡い光に照らされたエミリア。暗い街角にエミリアのシルエットがはっきりと浮かび上がっている。 エミリアの長い髪が風に揺れ、かすかな影を地面に落としていた。 怯えた表情でこちらを見つめるエミリア──「どうして、エミリアがここに……」 石場が呟き、呆然と立ち尽くす。 石場はどうして良いのか分からず、視線を宙に彷徨わせていると、突如として映像が遮断され、次の瞬間、エミリアの姿が散逸してしまった。 街灯の光も、風に揺れる髪も、怯えた瞳も——すべてが音もなく消え去り、石場の視界にはただの暗い倉庫の壁が残された。「今のは一体、何だったんだ……」 混乱した頭をなんとか冷静にしようと、石場は深く息を吐きながら、額に手を当てて苦しげに目を閉じた。その手のひらの感触だけが現実であることを確かめるように、ゆっくりと壁にもたれかかる。 周囲を見回してエミリアを探すが、どこにも見当たらない。「そうか……美咲の奴は逃げたんだったな」 しばらくその場に佇んだ後、石場は重い足取りで倉庫の出口へ向かった。 扉を押し開け、夜の冷たい空気を感じる。 石場は深く息を吐いた。 先ほどのエミリアの視線が現実のもののように胸に残っている。「どうして、あのような幻を……」 倉庫の外は静寂に包
last updateLast Updated : 2025-11-05
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