All Chapters of 失われた二つの旋律: Chapter 81 - Chapter 90

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矛盾する二つの顔 ④

「それが違うかもしれないのよ、リサ」 美咲は視線を逸らしながら、ゆっくりと言葉を置いた。「美咲?」「あの日、倉庫で追いかけられた時の恐怖は、今でも消えていないわ。あの時の彼は、言葉も通じない獣みたいだった。……だから、彼が危険だということは身に染みて分かってる」 美咲は自身の腕を抱きしめるようにさすった。蘇る恐怖を必死に抑え込んでいるようだ。「でもね、リサ。これを見て」 美咲はバッグから、大切そうに包まれたスケッチブックと一枚の楽譜を取り出して、テーブルに広げた。「これは……?」「エミリアの日記と、彼女が書いた楽譜よ。アレックスの家で見つけたの」 リサは手書きの譜面に目を落とした。 タイトルには『Kへの手紙』とある。「『K』……和弘のこと?」 リサが眉をひそめて呟いた。「たぶんね。エミリアの日記には、こう書いてあったわ。『彼の目には、私と同じ色が宿っている。世界から弾き出された、迷子のような色』って」 そう言って、美咲は苦しげに顔を歪めた。 過去にピアノを弾いていたから分かる。複雑で、どこか物悲しい旋律…… その下の余白に、エミリアの筆跡でメッセージが記されていた。『あなたが聴いてくれたから、私はひとりじゃなかった。ありがとう。私の、たった一人の共鳴者(リスナー)』「リサ、わたし分からないの。私が倉庫で見た怪物のような彼と、エミリアが見ていた孤独な迷子のような彼。……どっちが本当の彼なのか。それとも、私の目が恐怖で曇っていただけなの?」 美咲の声は震えていた。楽譜が示す理解者としての石場を信じたい気持ちと、自身の体験した恐怖が矛盾し、彼女の中で答えが出せずにいる。 リサはスケッチブックのページを開いた。 そこに綴られていたのは、ストーカー被害の恐怖などではなかった。 そこにはカフェの片隅で一人佇む男のスケッチがあった。背中を丸め、周囲の雑踏から切り離された孤独な男。石場だろう。 しかし、その絵から受ける印象は、不気味さではなく、胸が締め付けられるような切実な寂しさだった。エミリアの温かい眼差しが、鉛筆の線一つ一つに宿っている。「エミリアは彼を恐れていなかった。むしろ、自分と同じ、音のない世界を持つ彼に救いを感じていたのよ」 美咲はリサを見つめた。「リサ、あなたが妹から聞いた、兄の遺影の前で笑っていた。という話……。
last updateLast Updated : 2025-12-14
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矛盾する二つの顔 ⑤

 リサは一度言葉を切り、美咲が持参したスケッチブックと楽譜に再び視線を落とした。『Kへの手紙』──エミリアが石場に託した、魂の共鳴の証。 私がアパートで感じた底知れぬ闇と、目の前にある純粋な魂の交流の記録── この二つの石場像は、あまりにも矛盾している。感情が欠落した人間に、音楽の深い悲しみを理解できるはずがない。 リサは唇を噛み、視線を記事と楽譜の間で行き来させた。「どちらが本当の石場なんだろうね……」  その言葉は、美咲の胸にも突き刺さる。「怪物なのか、迷子なのか……。私たちが見ているのは、同じ人間なのに、まるで二つの顔が重なっているみたい」 美咲は震える声で応じた。 二人は互いに視線を交わした。 その瞳には、答えの見えない迷路に迷い込んだ者同士の困惑が映っている。 もし石場が怪物であるなら、この楽譜に込められたエミリアの想いは一体どうなるのか。彼女は虚像を見ていたことになる……。たとえ、それが虚像であろうと、一時的な安らぎであろうと構わなかったのかもしれないが…… もし石場が「迷子」であったなら、そして、もし彼が本当にエミリアを殺していないのだとしたら、彼女はどこへ消えたのか?「美咲、あなたの直感と、この楽譜が正しければ……石場和弘は怪物じゃない。ただの傷ついた『迷子』よ。だとしたら、彼を怪物に仕立て上げ、罪を被せようとしている『本当の怪物』が別にいるはず」 楽譜に刻まれた旋律は、彼女自身の孤独の叫び──「つまり……本当の怪物は、まだ暗闇の中にいるってことね」 美咲はリサを見据え、そっと呟いた。 二人の間に、再び重たい沈黙が落ちる。 雨音が窓を叩き続ける中、父親の影がじわりと場面全体を覆い始めていた。「行ってみない?」 リサが意を決したように言った。「彼が兄を見殺しにしたのか、それとも悲しみの中で立ち尽くしていただけなのか。その原点を見れば、エミリアに対して何をしたのかも分かるはずよ」「原点……」「兄が亡くなった川よ。……今なら、雨が降っている」 リサは伝票を掴み、立ち上がった。 相反する証拠を手にした二人が向かうのは、すべての因縁が渦巻く過去の現場── 外の雨音は、さらに激しさを増していた。それは石場の意識を覚醒させる呼び鈴のように、街全体に響き渡っていた。
last updateLast Updated : 2025-12-15
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川辺の追憶 ①

 リサの車は、市街地を抜けて郊外の河川敷へと向かった。 ワイパーが追いつかないほどの豪雨。視界は白く煙り、世界が水の中に沈んでいくようだ。ハンドルを押し込む掌に汗が滲み、革の感触がじっとりと伝わってくる。 救えなかった依頼人の記憶が、雨音とともに胸を締め付ける。──私はまた、同じ過ちを繰り返そうとしているのではないか? あの時と同じ間違いは、もう二度としたくはない。 表面的な不審者という情報だけで石場を犯人と決めつけ、その背後に潜むかもしれない真の支配構造を見落とすわけにはいかないのだ。 リサの視線は前方の雨に釘付けになっていた。ワイパーが必死に水を払っても、彼女の目は焦点を結ばず、どこか遠い過去を見ているようだった。 雨の向こうに映っているのは現実ではなく、過去の影…… ハンドルを握る手は固くこわばり、指先が白くなっている。呼吸は浅く速く、胸の奥で何かを押し殺すように震えていた。「リサ? 大丈夫?」 助手席の美咲が、心配そうに声をかける。 リサは短く息を吐き、頷いた。「……ごめん、昔のことを思い出していたの」 急がないと手遅れになる気がする── 車は水飛沫を上げながら、河川敷の駐車場に滑り込んだ。 二人は車を降り、傘を差して堤防の上に立った。 眼下には、茶色く濁った水がうねりを上げて流れている。数十年前、ここで幼い兄弟の運命が分かれた場所だ。 周囲を見渡すと、護岸のコンクリートは長年の風雨に晒されて黒ずみ、所々に走る亀裂からは夏草が枯れたままへばりついていた。 あれから二十数年もの時が流れているというのに、大規模な改修工事が行われた形跡はどこにもない。 錆びついた手すり、ひび割れた舗装、そして荒れ狂う川面── 目の前に広がる光景は、あの日、幼い兄弟が直面したであろう残酷なまでの荒涼さを、そのまま現代に留めているようだった。「ここね」 リサが大声で言った。激しい雨音に負けないように声を張り上げる。「記事によれば、和弘が立っていたのはこの場所よ」 美咲は柵を握りしめ、濁流を見つめた。 轟音が鳴り響いている。 川の水の音と、雨の音── これだけの音に包まれたら、人の声など届かない。 世界から切り離されたような孤独感だ。 時が止まったようなこの場所で、かつての少年もまた、轟音の中に立ち尽くしていたのだろうか。
last updateLast Updated : 2025-12-16
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川辺の追憶 ②

「……分かる気がする」 美咲が呟いた。「この音の中にいると、自分が誰なのか分からなくなる。……彼も、この音の中で自分を消していたのね」 その時、リサがハッと顔を上げ、数メートル先の茂みに目を凝らした。 踏み荒らされた草。そして泥の上に残された無数の足跡──誰かがいた形跡がある。 足跡は川の方へ向かい、立ち尽くした後、ふらつくような足取りで、道路の方へと戻っている。 狭い範囲を何度も往復し、同じ場所を執拗に踏み荒らした跡だ。まるで檻の中の獣が徘徊していたかのように、地面は不自然に乱れていた。「誰か……来ていたみたいね」 リサが足跡を目で追うと、ガードレールの近くに、泥にまみれた何かが落ちているのに気づいた。 リサは駆け寄り、それを拾い上げた。 小さな金属製のボタンだ。アンティーク調の、少し変わったデザインをしている。「これって……」 リサの脳裏に、ある記憶がよぎる。 カフェで美咲に見せてもらった写真──エミリアと話していた石場が着ていた古びたコート。 不鮮明な記憶だが、確かこんな風合いのボタンが付いていたような気がする。 だが、確証はない。どこにでもある既製品かもしれない。「何か見つけたの?」 美咲が不安そうに覗き込む。「美咲、これを見て。見憶えない?」 リサは泥を払い、そのボタンを美咲に差し出した。 美咲はそれを覗き込み、息を呑んだ。「まさか、石場が着ていたコートのボタンじゃ……」 二人の視線が交錯する。「ここに来たのかな」 美咲が震える声で呟く。 リサは足元の泥を指差した。 この場所に石場が来たのだとしたら、一体、何の為に…… 何かを探していたのだろうか。 そうではないとしたら、とても正常な精神状態とは思えない、激しい葛藤と混乱の痕跡──「ここに誰かがいたのは間違いない。……そして、ひどく取り乱していた」 美咲の顔色が蒼白になる。 この異常な徘徊癖── カフェの店員や同僚たちが語っていた、石場の奇行と重なる。いや、それ以上だ。 泥に残された足跡の乱れは、彼がここで何か恐ろしい記憶と格闘し、発狂寸前だったことを物語っているようだった。
last updateLast Updated : 2025-12-17
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静寂への招待状 ①

 その時──緊張を裂くように、リサのポケットの中でスマートフォンが震えた。 唐突な振動に、リサはビクリと肩を震わせる。 画面には「非通知」の文字。 嫌な予感が胸を締め付ける。 このタイミングでの非通知──まるで誰かがこちらの行動を監視し、見計らってかけてきたかのようだ。 リサは美咲と視線を交わし、震える指で通話ボタンを押す。「……はい」『……母さんを、虐めたね』 低く湿った声。感情の欠片もなく、削ぎ落とされた響きが雨音と混じり合う。受話口から冷たい水が流れ込んでくるような錯覚に、リサは息を呑んだ。 聞き覚えのない声──一体、誰なのか。ただ、その言葉の異様さが胸を締め付ける。「まさか……」 リサの頬から一気に血の気が引いた。「石場……さん?」 喉の奥から絞り出した声はかすれている。恐怖に押し出された声だ。 リサは弾かれたように視線を巡らせた。──どこかで見ている? 雨に煙る河川敷、風にざわめく濡れた茂み。その暗がりの奥底から、粘着質な視線がじっとこちらを射抜いている──そんなおぞましい気配に肌が粟立つ。『母さんは震えていたよ。可哀想に……。せっかく僕が守ってあげていたのに』 石場は私が佐和子に接触したことを知っている。佐和子が報告したのか、それとも、ずっと監視でもしていたか。『父さんも母さんも、弱すぎるんだ。外の音に惑わされて、すぐに怯える。……だから、もっと静かな場所に連れて行ってあげなきゃいけない』 リサの心臓を氷の刃が撫でるような感覚が走る。「連れて行く……? どこへ?」『君たちには関係ないよ。……でも、一つだけ教えてあげる』 声のトーンが、ふっと柔らかくなった。 それは慈悲のようであり、死刑宣告のようでもあった。『……もう、誰も怯えなくていいように。僕が音を消してあげるんだ』 そこで通話が切れた。 ツーツーという電子音が、雨音にかき消される。 リサはスマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。 音を消してあげる──  その言葉の冷たい響きがリサの思考を凍りつかせる。力の加減を知らない子供が、壊れた玩具を無理やり直そうとするかのような、無垢で無垢な善意── 彼の声には、そんな危うさがまとわりついていた。
last updateLast Updated : 2025-12-18
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静寂への招待状 ②

 一体、石場は何をしようとしているのか。 両親を「静かな場所」へ連れて行くと言ったが、それは単なる物理的な移動を意味するのか、それとも何か他に意味があるのだろうか…… 彼にとっての救済が、もし生物としての機能を止めることだとしたら……? まさか……両親を消そうと? リサは首を激しく振った。 いや、決めつけてはいけない。美咲が信じるように、彼はただ純粋に、両親を恐怖から守ってあげたいだけかもしれない。 だが、その純粋さが歪んだ形で暴走すれば、取り返しのつかない結果を招くこともある。 そして何より、相手はあの父親だ。 幼い頃から石場を支配し続けてきた冷徹な男──彼が息子の純粋な善意など理解するはずがない。 もし息子が静かな場所を求めて動き出したなら、父親は、その意味を曲解するのではないか。そして。こう決めつけるはずだ。行き先は、かつて自分が息子を閉じ込め、支配していたあの土倉しかないと…… 許可なく自分を連れ出し、あろうことか自身の罪の証でもある場所へ戻ろうとする行為── それは父親にとって許しがたい支配への反逆であり、自らの立場を脅かす制御不能な暴走としか映らないだろう。そう判断した時、あの父親は自己保身のために何をしでかすか分からない。「止めなきゃ……」 最悪の未来図が一瞬で頭を駆け抜け、リサの背筋が強張った。 石場の歪んだ善意と、父親の冷酷な自己保身が衝突する。きっと、その衝突は、ただの言葉や視線の応酬では終わらない。 互いの存在そのものが相手を否定し、押し潰そうとする力を帯びている。 リサの脳裏に浮かぶのは、二人が対峙する光景だった。「美咲、車へ! 急いで!」 リサが叫ぶ。「どうしたの!?」「石場が動いたの。両親を『静かな場所』へ連れて行くって……。何か取り返しのつかないことをしようとしているのかもしれない」 石場が怪物なのか迷子なのか、正直よく分からない。だけど嫌な予感がする。「静かな場所……?」 美咲が呟く。「土倉よ。エミリアの日記に書いてあった『音のない世界』に共通するもの──彼にとっての聖域は、あの土倉しかない」「土倉? でも、あそこは彼が虐待を受けていた場所じゃないの?」 美咲が信じられないといった顔で食い下がった。雨に濡れるのも構わず、彼女はリサの腕を掴む。彼女の常識では、そこは忌むべき記憶の吹き溜
last updateLast Updated : 2025-12-20
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雨音と冷たい旋律 ①

 激しい雨音が分厚い土壁を叩き続けている。 石場和弘は重い鉄扉を背にして、薄暗い闇の中に佇んでいた。 ここは、かつて彼にとって、ただの牢獄だった。 幼い頃、父に閉じ込められ、恐怖と孤独に震え続けた場所── だが年月を経た今、同じ空間はまるで別の顔を見せている。外の喧騒が一切届かない、世界で唯一の静寂が保証された聖域となっていた。 懐中電灯の頼りない光が、土間の冷たい床を照らす。 その光の先に彼女はいた。 エミリアだ。 彼女は古びた木箱に背を預けるようにして、愛用のヴァイオリンを胸に抱えたまま床に座り込んでいる。 まるで演奏の合間にひと息ついているかのように、その姿はあまりにも自然だった。 ただ一つ、決定的に違うことを除いては…… 彼女は動かない。 胸のどこにも、呼吸の気配がないのだ。「エミリア、寒くはないかい?」 石場はそっと近づき、彼女の前で膝をついた。 返事はない。 それは当然のことだった。 彼女はもう、言葉というノイズを抱えなくて良い場所へ、辿り着いてしまったのだから…… 石場は震える指先で、そっと彼女の頬に触れた。 冷たい。 陶器のように硬く、冷え切っている。 だが、その冷たさこそが石場には心地よかった。 生身の人間特有の熱っぽさや、感情の揺らぎ、脈打つ生々しさが、そこからはきれいに消え去っている。「なんて美しい姿なんだ……」 石場は恍惚とした笑みを浮かべて呟いた。 彼女は、いつも何かに耐えるように微笑んでいた。 だが、石場には聴こえていた。カフェで優雅に演奏している時も、アレックスと親しげに話している時でさえ、彼女の魂の奥底からは「助けて」という悲鳴のような旋律が漏れ出していたことに。 その高周波のノイズが、石場の鼓膜を容赦なく貫いていた。 けれど、今はどうだろう。 苦悶の色は消え、完全な無表情の中に永遠の安らぎが張り付いている。──僕が救ってあげたんだ。 石場の胸に、じんわりと温かい充足感が広がっていく。「警察も、本当に節穴だね」 石場はふと、あの日の出来事を思い出し、冷ややかな笑みを漏らした。「彼らは一度だけ家に来たけど、玄関先でいくつか定型的な質問をしただけで、すぐに帰っていったよ。裏庭にある、この土倉の存在にすら気づきもしなかった」 石場は閉ざされた鉄扉の方へ視線をやった。「彼
last updateLast Updated : 2025-12-30
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雨音と冷たい旋律 ②

「……ああ、そうだ」 この感じ、あの時に似ている。 兄が亡くなった時、エミリアと最後に会った時も、こんな音がしていた。 外で降っている雨音よりも、もっと激しく、もっと重く、脳髄を直接叩くような轟音── この音が聞こえ始めると、僕は安心する。 感情という面倒なノイズがかき消され、世界がシンプルで透明なものに変わっていく気がするからだ。「これだ。この音だ」 失われたと思っていた、僕だけの旋律── 記憶が雨音と共にフラッシュバックする。 暗くて、寒い…… 父さんに叱られ、放り込まれた土倉の中。 泣き叫んでも、誰も開けてくれない。恐怖で発狂しそうだった幼い僕を救ってくれたのは、屋根を叩く激しい雨音だった。 その音が大きくなればなるほど、父さんの怒鳴り声も、僕の泣き声も、全てがかき消された。 僕は雨音に抱かれて、初めて無になれたのだ。──その雨音が、次の記憶を呼び覚ます。 健太が足を滑らせ、濁流が渦巻く川に飲み込まれていった日のことだ。 普通なら周囲に助けを求めるはずだった。「助けて」と。 あの時も聞こえていた。 ザアアアア……という、すべてを押し流す雨の音が。 その音が僕の心を徐々に麻痺させ、気づけば僕は観測者になった。 水面に浮き沈みする弟の手を、どこか美しいとさえ思いながら、ただ一人見つめた。──そして、その雨音は、さらに別の記憶へと僕を連れていく。 あの日、エミリアは泣いていた。「世界がうるさすぎる」と。「もう音のない場所へ行きたい」と。 彼女は僕に助けを求めた。だから僕は、彼女をこの聖域へ招き入れたのだ。 もう二度と彼女が苦しまないように。 そして、彼女が切望した「音のない世界」へ送り出してあげるために── 僕は震える彼女の首へ、そっと手を伸ばした。 抵抗などはなかった。むしろ彼女は、安堵したかのように微笑みさえ浮かべていたと思う。 ゆっくりと、丁寧に── その細い喉が奏でる悲しい呼吸音を、僕は慈しむように止めてあげたのだ。 エミリアの指先から力が抜け、ヴァイオリンのような華奢な身体が動かなくなった時── 僕の頭の中では、あの大雨の音が鳴り響いていた。 彼女の苦痛も、僕の罪悪感も、すべてを洗い流す浄化の雨。 彼女は僕の旋律の中で永遠の静寂を手に入れたのだ。  石場は恍惚とした余韻に浸りながら、腕
last updateLast Updated : 2025-12-31
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雨音と冷たい旋律 ③

 二人の間に完全な静寂が訪れる── しかし、その陶酔を嘲笑うかのように、低い振動が切り裂いた。 現実世界からの、無遠慮な干渉── スマートフォンだ。 石場は不快げに眉を寄せた。 表示を見るまでもない。どうせ、あの嗅ぎ回っている女たちだ。リサと美咲に決まっている。 土足で踏み込み、騒ぎ立て、僕たちの聖域を汚そうとするとは…… 彼女たちは、この静寂の価値を理解していない。「邪魔はさせない」 石場は喉の奥で短く声を鳴らすと、画面に向けてゆっくりと冷たい視線を落とした。 だが、液晶に浮かんでいた文字は予想していた名前ではなかった。 母からの着信── ああ、そうか。 あの女たちが、母たちの暮らすアパートにまで嗅ぎ回りに行ったのだった。 母は昔から臆病で、世間体を何よりも気にする人だ。突然の訪問者に動転し、「あの人たちは誰なのか」「あんた何かしたんじゃないか」と、ヒステリックに問い詰めるために電話を寄越したに違いない。 だが、それは今の彼にとって不必要なノイズでしかなかった。「母はまだ、うるさい生の世界に縛られているのか」 石場は哀れむように画面を見つめ、通話ボタンを押すことなく、電源を切った。 ブツリ、と画面が暗転する。 これでいい。 だがその時、石場はこの静寂の中に、まだ微かな不協和音が残っていることに気づいた。 エミリアは救われた。僕も救われた。 けれど──まだ、救われていない人たちがいる。 それは父さんと、母さんだ。 彼らは今も外の世界のノイズに怯え、世間体を気にして縮こまり、未だに騒音まみれの世界で生きている。 かつて僕をこの土倉に閉じ込めた父の、あの怯えたような怒鳴り声。それを見て見ぬふりをして、耳を塞いでいた母の背中── きっと彼らも、音に苦しめられている迷子なのだ。 石場はエミリアの手を、そっと彼女の膝の上に戻した。「少し待っていてくれ、エミリア」 そう言って、彼は立ち上がった。 その瞳には淡くも暗い陶酔が滲んでいる。歪みきった善意が彼を突き動かす。「父さんと母さんも、連れてきてあげるよ。この静かな場所へ」 石場は土倉の出口へと向かった。 重い鉄扉を開けると、激しい雨風が彼を打ち据えた。だが、彼はもう何も感じない。 彼の耳には、これから訪れる永遠の静寂だけが、甘美な約束として鳴り響いていた。
last updateLast Updated : 2026-01-02
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雨の奔流 ①

 ワイパーが悲鳴を上げながら、フロントガラスに叩きつけられる雨粒を必死に拭い去っていく。だが、その努力を嘲笑うかのように、次なる水塊が視界を白く染め上げる。 リサはハンドルを握る手に力を込めた。 車外は轟音に支配されている。 屋根を叩く雨音、タイヤが水を切り裂く音、そして遠くで唸りを上げる風の音── それらのノイズが、リサの思考をかき乱そうとする。 だが、リサの耳の奥には、先ほどの電話の声が冷たい楔のように打ち込まれたまま消えずにいた。『もう誰も怯えなくていいように。僕が音を消してあげるんだ』 あの平坦で、感情の欠落した声── 妹の由美子が語った怪物の姿と、電話口の石場の声が、リサの中で重なり合っていた。 彼はもう、常人の理屈では動いていないのかもしれない。彼独自の歪んだ論理の中で、彼なりの正義を実行しようとしているような気がしてならない。 助手席の美咲が、膝の上の楽譜をぎゅっと抱え込んだ。 エミリアが遺した『Kへの手紙』──「本当に、そんなことになるの?」 震えを帯びた声だが、恐怖よりも戸惑いが勝っている。石場が両親を傷つけるなど、美咲はまだどこかで信じられずにいるのだ。「だからこそ急がなきゃいけないのよ。……彼が完全に向こう側へ行ってしまう前に」 リサは視線を前方から外さずに答えた。 その横顔には、焦りとは別の影が差している。 過去に“きっと大丈夫”と楽観して、取り返しのつかない後悔を味わった、その記憶が、今も胸の奥で鈍く疼いているのだ。甘い考えは捨て去るべきだ。 雨に滲むフロントガラスを睨みつけるように見据え、リサは唇をきつく結んだ。 アクセルを踏み込むと、車体がわずかに震え、エンジンが低く唸りを上げた。「リサ……もし、彼が本当にご両親を殺そうとしているのなら……それは憎しみからだと思う?」 美咲が、ためらいがちに口を開く。 リサは一瞬、答えに詰まった。 静かな場所に連れていく──その言葉の意味を、どこまで額面通りに受け取っていいのか分からない。 由美子の証言によれば、石場は幼少期、父親から凄惨な虐待を受けていた。復讐の動機は十分にある。憎んでいて当然だ。 だが、電話口の彼の声には、憎悪の熱がまるで感じられなかったのも事実だ。「分からない……。でも、彼は言っていたわ。『静かな場所で、守ってあげる』と」「守る
last updateLast Updated : 2025-12-21
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