All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 1011 - Chapter 1020

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第1011話

「この屋敷の名義人は染谷央介という男だ」烈生は何かがおかしくてたまらないというように、口元をわずかに吊り上げた。「秦家が抱えている、表に出せない資産の一つさ。たとえ九条正修が京市にある拠点をすべて封鎖したとしても、まさか俺がこんな場所に、お前のためだけの宮殿を築いているなんて思いもしないだろう」――染谷央介。奈穂はその名前を心の奥に刻み込んだ。「げほっ……ごほ、ごほっ!」激しい咳が会話を遮る。胃をえぐるような痛みに耐えきれず、奈穂は体を丸めた。これは演技ではない。冷たい海水にさらされたことで、もともとの胃の病が限界まで悪化していた。烈生の表情が初めて変わる。あからさまな動揺。長年かけて作り上げてきた「完璧な紳士」の仮面から、初めて焦りが覗いた。「医者だ!三原(みはら)先生を呼べ!」彼は扉の方に向かって声を張り上げた。奈穂はベッドの縁にもたれ、爪が食い込むほど強く掌を握り締める。――良かった。人の出入りがあるなら、この場所は完全な密室ではない。烈生がタオルを取りに離れた、その一瞬。奈穂は素早く部屋全体へ視線を走らせた。窓はない。換気口からはかなり強い風が流れ込んでいる。おそらくここは地下深く。金色の鎖はベッドの下で床に埋め込まれた固定金具につながっていた。ほどなくして烈生が戻り、温めたタオルを彼女の額にそっと当てた。「心配しなくていい。三原先生はすぐ来る。奈穂。ちゃんと薬を飲んでくれるなら、お前の望みは何でも叶えてあげる」「……陽の光が見たい」奈穂は目を閉じたまま、弱々しく呟く。だがその言葉は、相手を誘導するために計算されたものだった。「夕日でもいい。一目だけでも見たいの」烈生の体がぴくりと固まる。しかし次の瞬間には、穏やかな笑みを浮かべ、彼女の肩を優しく叩いた。「体調が戻ったら、その時に考えよう」……その頃、港の埠頭。正修は、すでに瓦礫と化した桟橋の前に立っていた。海風が黒いコートを激しく揺らす。普段なら決して揺らぐことのない自制心も、冷静さも、この瞬間には完全に崩れ去っていた。「社長……潜水班はもう三度捜索しましたが、潮の流れが速すぎます。水戸さんが転落した地点は……」二郎の声は震えていた。上司の顔を見ることすらできない。正修
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第1012話

正修はハンドルを握る手に力を込めていた。あまりにも強く握り締めているせいで、指の関節は血の気を失い、痛々しいほど白くなっている。アクセルは床まで踏み込まれ、フロントガラスに叩きつけられた雨粒は次々と砕け散る。SUVは放たれた矢のように秦グループに向かって突き進んだ。濡れた路面をタイヤが切り裂き、耳をつんざくようなスキール音を響かせる。だが、秦グループの本社ビルまであと二ブロックというところで、助手席に置かれた暗号化衛星電話が激しく鳴り響いた。「社長!」二郎の切迫した声が飛び込んでくる。「伊集院北斗がもう耐え切れず、全部吐きました!公海で船を襲撃した件は秦音凛が一から仕組んだものだそうです。それから――彼女は秦烈生の海外資産に関する暗号キーのリストを持っています!水戸さんの監禁場所も、その中に記されている可能性があります!」正修は躊躇なくハンドルを切った。車体は雨の夜道で鋭い弧を描き、そのまま反転して西方向に向けて疾走する。「京市拘置所に向かえ」その声は、氷を削って作られたように冷たい。「秦烈生がかくれんぼをしたいなら……まずは妹の口から地図を吐かせる」……その頃、地下の密室。空気は冷え切り、モスグリーンに染まった部屋の空気が、淀むようにまとわりついていた。三原一郎(みはら いちろう)が入室すると、かすかな消毒液の匂いが流れ込む。五十代半ばほどの男だった。長年手術台に向かい続けたせいで背中は少し丸まり、その眼差しには、裏社会の金に長く関わってきた闇医者特有の慎重さが滲んでいる。奈穂はモスグリーンのベルベット張りのベッドに横たわっていた。顔色は青白く、シーツと見分けがつかないほどだ。胃の痙攣は鋭い激痛から鈍く長引く痛みへと変わっていたが、そのぶん苦しみは体の奥深くまで染み込んでいる。息を吸うたびに、胸の奥が焼けつくように痛んだ。「秦社長」一郎は目を伏せたまま医療バッグを開く。ベッドの女性をまともに見ることすら避けている。「水戸さんは海に転落したショックと、持病の胃疾患が重なり、急性の胃痙攣を起こしています。鎮静と鎮痛剤を投与した後、点滴を開始する必要があります」「慎重にやれ」烈生は無表情のまま言った。その静かな声には、ぞっとするような威圧感が宿っている。「注射痕以外、一切傷を残す
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第1013話

その時、取調室の扉が勢いよく開かれた。正修が姿を現す。スーツ姿ではない。漆黒のシャツは袖を肘までまくり上げ、前腕には、岩礁で切ったままの暗赤色の傷跡がいくつも残っていた。全身から漂うのは、公海からそのまま駆けつけた男だけがまとえる、生々しい血と潮風の気配。その殺気だけで、狭い取調室の空気は一瞬にして凍りついた。「九条社長」音凛は紅い唇をわずかに吊り上げる。だが、その瞳には何の光も宿っていない。「私はもうここに入れられているのに、わざわざ昔話でもしに来たの?」「奈穂はどこだ」正修は無駄な前置きを一切せず、テーブルに両手をついた。形を持つかのような濃密な殺意に、音凛は思わず身を引く。「世界中が、水戸さんの海への転落で大騒ぎになっているのに、人を捜しにも行かないで、私のところに来て八つ当たり?」正修は冷たく笑う。胸ポケットから黒いICレコーダーを取り出し、テーブルに叩きつけた。――パシン。「ここに入ったからといって、俺は君に手出しできないとでも思っていたのか?」その眼差しは氷のように鋭い。「伊集院北斗は隣で全部吐いた。減刑が欲しくてな。公海で暗号通信を傍受したこと。賀島若菜に命じて川岸市で殺し屋を雇わせたこと。全部だ。秦音凛。これらのことだけでも、君は一生ここから出られない」ICレコーダーから、北斗の半狂乱の供述が流れ始めた。それは九条家の情報網がいち早く回収・解析した音声データだった。その一言一句が、音凛の急所を容赦なくえぐっていく。音凛の表情が固まった。恐怖は確かにあった。だが、その瞬間に彼女の頭をよぎったのは、さらに冷酷な計算だった。――烈生は、奈穂一人のために秦家すら捨てようとしている。そんな兄など、もう切り捨てるしかない。もし自分が奈穂の居場所という決定的な情報を差し出せば、正修との間に、新たな取引が成立するかもしれない。「九条社長が私の急所を握っているなら、私からも一つ贈り物をしてあげる」音凛はゆっくりと椅子にもたれた。消えかけていた野心が、再び瞳に灯る。「西郊に『梅試薬工場』という場所があるの。秦家が昔使っていた工場だけど、今では兄だけの地下宮殿になっている。兄がいる場所に、奈穂もいる」音凛は監禁場所の住所を明かしただけでなく、烈生を後継者争い
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第1014話

西郊、梅試薬工場。この工場は、かつて化学物質の漏洩事故が発生したことで封鎖され、以来立ち入り禁止となっていた。半径数キロにわたって草は膝の高さまで生い茂り、空気には何年経っても消えない、鼻を刺すような酸臭が漂っている。午前三時。荒野を覆う濃霧を、眩いハイビームが剣のように切り裂いた。数台の黒いSUVが砕石だらけのぬかるみを激しくドリフトし、タイヤが地面を削る甲高い悲鳴が、死んだような静寂を引き裂く。車が完全に止まるより早く、正修はドアを押し開けた。ブーツがぬかるみを力強く踏みしめ、黒いロングコートが冷たい風を受けて激しくはためく。「社長、周囲に赤外線センサーを確認しました。秦烈生の部下は、この中にいます」二郎はサーモグラフィーを手に、声を潜めながらも切迫した口調で報告した。正修は何も答えない。片手を腰に回し、タクティカルナイフを静かに抜き放つ。その瞳は氷のように冷え切っていた。その瞬間、名門一族を率いる当主としての理知的な面影は完全に消え失せ、代わりに骨の髄から滲み出るような、獣じみた凶気だけが全身を包んでいた。「三分で片づけろ。中のゴミどもを一匹残らず始末するんだ」低く抑えた声でありながら、その響きは死刑宣告にも等しい残酷さを帯びている。「俺は奴に会う。立ちはだかる者は――全員殺せ」……地下の密室にいた奈穂にも、その異変は伝わっていた。ごく微かな地鳴り。地盤を伝って届く振動に、鈍い爆破音がかすかに混じっている。烈生もまた、それを聞いていた。先ほどまで彼は、奈穂の冷え切った手の甲を愛おしげに撫でていた。その手が、その瞬間ぴたりと止まる。彼は勢いよく顔を上げ、核シェルター並みの鋼鉄製の扉を凝視した。「思ったより早かったな……」烈生は低く呟く。その端正で穏やかな顔に、初めて醜く歪んだ笑みが浮かんだ。そして、ゆっくりと奈穂に視線を向ける。奈穂は汗で濡れた髪を頬に貼りつかせながら、どうにか上半身を起こしていた。そのせいで、瞳だけが異様なほど輝いて見える。まるで灰の中でもなお燃え尽きまいとする、一筋の火種のようだった。「秦烈生……あなたの負けよ」一語一語、噛み締めるように告げる。声は掠れていたが、その言葉は釘のように相手の胸に突き刺さった。「この世に、人の痕跡を
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第1015話

「奈穂!」烈生は怒号を上げると、反対の手で彼女の頬を思い切り張り飛ばした。奈穂の顔が大きく横に弾かれ、口元にはたちまちどす黒い血が滲む。その反動で体は勢いよくベッドの支柱に叩きつけられ、ようやく収まりかけていた胃の激痛が再び襲いかかった。それでも、彼女は笑っていた。奈穂はきつく歯を食いしばり、天地がひっくり返るような激しい眩暈に耐えていた。そのあまりにも凄絶な覚悟に、烈生はこれまで感じたことのない恐怖を覚える。「……あなたみたいな人間に、母を口にする資格なんてない」ドォン――!重厚な鋼鉄製の扉が耳をつんざく轟音を上げ、地下室全体が激しく震えた。指向性爆薬による爆破だった。正修が視界に飛び込んできたとき、奈穂は烈生に喉を締め上げられたまま、ベッドのヘッドボードに押さえつけられていた。烈生の手の甲からは鮮血が滴り落ちている。怒りと絶望に顔は醜く歪み、もはや元の面影すら判別できない。「秦烈生――彼女を放せ!」正修の声は、まるで地獄の底で砕けた岩を擦り合わせたように掠れ、その一言一言に骨まで凍らせるような冷気が宿っていた。正修は入口に立っていた。黒いシャツは汗と、誰のものとも知れない血でぐっしょりと濡れている。しかし、烈生の手に銃は向けられない。奈穂が烈生の腕の中にいる以上、流れ弾がほんのわずかでも逸れれば、その代償は正修には到底受け入れられないものだった。「九条社長……一歩遅かったですね」烈生は冷笑する。右手は激痛で小刻みに震えていたが、それでも奈穂の喉を締め上げる手だけは決して緩めない。締め付けが強まるにつれ、奈穂の顔色はみるみる青ざめていった。「見てください。彼女は今、俺の腕の中にいるんですよ」何かに取り憑かれたような錯乱の中、烈生は奈穂のこめかみにそっと口づける。その甘く慈しむような口調は、吐き気を催すほど歪んでいた。「奈穂、教えてあげて。お前が愛している場所は、ここなんだって」奈穂は肺の中の空気が少しずつ奪われていくのを感じていた。それでも、彼女は正修だけを見つめる。商談の場では冷酷なまでの決断力を見せ、九条家ではすべてを掌の上で動かしてきたあの男。そんな正修の瞳は今、真っ赤に充血し、その奥には自分が一度も見たことのない絶望と懇願が滲んでいた。奈穂は、わずか
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第1016話

正修は、自分がどうやって奈穂をあの地下室から連れ出したのか、まったく覚えていなかった。記憶は、救急車の耳をつんざくサイレンと、奈穂の手のひらに残る粘ついた温もりのところで途切れている。病院に向かう間じゅう、彼は彼女の手を固く握り締め、医療スタッフに何度促されても決して離そうとはしなかった。腕の中で命がこぼれ落ちていくのを見守るしかない恐怖は、鈍い刃のように彼の理性を少しずつ削り取り、粉々に砕いていった。手術室の扉が目の前で重々しく閉ざされ、【手術中】の赤いランプが灯った瞬間、ようやく彼は背骨を抜き取られたかのように力を失い、長椅子に崩れ落ちた。ここは京市私立病院の最上階。廊下は完全に封鎖され、冷たい白色灯が天井から容赦なく降り注ぎ、床一面を生気のない白一色に染め上げていた。正修は救急手術室の前のベンチに腰を下ろし、両手を組んでいる。その指の隙間には、洗い落としきれなかった黒ずんだ血がこびりついていた。それは奈穂の血であり、烈生の血でもある。乾ききった皮膚の上で、今では暗赤色のかさぶたとなって固まっていた。二郎は新しいロングコートを手に歩み寄った。その足取りはひどく静かだった。今にも暴れ出しかねない猛獣を刺激しまいとしているようだった。「社長。水戸さんの傷の縫合は終わりました」二郎は低い声で報告した。その声には張り詰めた緊張が滲んでいる。「太ももの刺し傷は深かったものの、動脈には達していません。ただ、胃の痙攣がかなりひどく、長時間の低酸素状態と高熱も重なっています。医師によれば……少なくとも二十四時間は経過観察が必要とのことです」正修はコートを受け取ろうともしなかった。ゆっくりと顔を上げる。普段は冷え切った深い眼差しを湛えるその目は、今は細かな血管が浮かび、底知れない殺気が渦巻いていた。「秦烈生は?」「下の特別病室です。手首の腱を切られたので、しばらくは両手とも使い物になりません。警察も病室の前で待機していて、目を覚まし次第、この事件も含めて送検する予定です」二郎は一瞬ためらってから付け加えた。「それと、秦音凛がさきほど見舞いと称して人をよこそうとしましたが、うちの者が地下駐車場で追い返しました」「追い返しただけだと?」正修は冷笑した。掠れた声には、凍てつくような冷気が宿っている。「秦音凛
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第1017話

正修は、奈穂がまだ憎まれ口を叩けるのを聞いて、喉元までせり上がっていた心臓がようやく元の位置に戻った気がした。大きな手を伸ばして彼女の頬に触れようとする。だが、その手は途中でぴたりと止まる。全身にまとわりつく殺気が、ようやく繕い直されたばかりの、割れ物のような彼女を傷つけてしまう気がしたのだ。「奈穂、君は本当にどうかしてる」歯を食いしばって吐き出す声は氷のように冷たい。しかし、その瞳は今にも血を流しそうなほど赤く染まっていた。「秦烈生を刺せばよかっただろう!なんで自分の足を刺した!?あの刃先があと2センチずれていたら、君はあそこで死んでいたんだぞ!」奈穂はかろうじて口元を緩めた。その眼差しには、冷酷なまでに研ぎ澄まされた理性が宿っている。「自分を痛みで正気に戻さなきゃ……あの一瞬を掴めなかったもの」彼女は小さく息をつき、胃の奥から込み上げる鈍い痛みに耐えながら続けた。「秦烈生みたいな人間は、根っこの部分が独占欲の塊なの。私が自分を傷つけたのを見て初めて、一瞬だけ罪悪感と動揺が生まれる……これは心理戦よ。力ずくで押し切ることしか知らないあなたには分からないでしょうけど」「分からない、だと?」正修は怒りのあまり笑ってしまった。そのまま勢いよく身を屈め、額を彼女の額に押し当てる。「奈穂、よく聞け。これから先、また自分を犠牲にして相手に痛手を与えるような真似をしたら――鎖で君を屋敷に繋いで、一歩も外に出させない」「……できないくせに」彼の体がかすかに震えているのを感じながら、奈穂の胸の奥にある一番柔らかな場所が、静かにほどけていく。怪我をしていない左手を持ち上げ、そっと彼の襟元をつかんだ。「一つ、お願いがあるの。秦烈生が口にしていた『染谷央介』について調べて。あの人、自分の『影』の名前だって言ってた」正修の動きが止まる。その瞳は一瞬で、底の見えない古井戸のような深さを帯びた。「染谷央介のことは俺が調べる」彼はゆっくり身を起こすと、彼女の掛け布団を丁寧に整えた。その口調に、有無を言わせぬ強さが宿る。「だが今の君にとって唯一の仕事は、眠ることだけだ。秦家のことなら心配はいらない。あいつらには――本当の逃げ場のない絶望というものを、思い知らせてやる」……その頃。京市郊外にある、とある私設競馬場
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第1018話

病室には、心電図モニターの電子音だけが規則正しく響いていた。ピッ――ピッ――その一音一音が、張り詰めた神経を容赦なく叩き続ける。奈穂はベッドの背にもたれて座っていた。右手の親指と人差し指の間は白い包帯で何重にも巻かれている。それでも、下から滲み出る血の跡までは隠しきれなかった。太ももの傷も、麻酔が切れるにつれ痛みを主張し始める。細く鋭い痛みが、波のように何度も体を貫いた。――痛い。その痛みはあまりにも現実だった。昨夜、地下施設で起きたすべてが夢ではなかったことを、否応なく思い知らせるほどに。彼女は視線を落とし、枕元に置かれた、握り締められて皺だらけになった印刷された資料を見つめた。その視線は、ある四文字の名前に釘付けになる。――九条正景。「十五年前……」煙に焼かれたような掠れた声が漏れる。「母が亡くなった年に、染谷央介は飛行機事故で死んだ。そして、この信託は――」そこで言葉を切ると、指先で紙を突き刺さんばかりの勢いで示した。「三年前に、九条正景の手に渡っている」彼女は顔を上げ、真正面から正修を見据える。「正修。この時間の流れ……出来すぎていて、寒気がしない?」正修は肘掛け椅子に腰掛けていた。黒いシャツの袖は無造作に肘まで捲り上げられ、普段の隙のない気品は跡形もなく消えている。残っているのは、骨の髄まで染みついたような冷え切った気配だけだった。指先にはライターが挟まれている。カチッ。カチッ。何度も火を点けては消す。揺らめく炎が、その瞳の奥に濃い影を落としていた。「三年前――」彼はようやく口を開く。その声は氷室から引きずり出してきたように冷たい。「それは、俺が九条グループを完全に掌握し、古株どもを全員追い出した年だ」奈穂は鼻で笑った。だが、その直後、胃の奥が鋭く痙攣し、小さく体を丸める。「母を餌に使うなんて……本当によく計算してる」目を閉じ、一度深く息をつく。再び開いた瞳は、刃のような鋭さを宿していた。「秦烈生みたいな狂人も、あいつにとっては一つの砥石でしかなかったのよ」正修は立ち上がり、窓辺に歩いていく。「秦家はもう瓦解した」背を向けたまま、あまりにも淡々と告げる。その静けさが、かえって残酷だった。「秦音凛は保身のために、拘置所で秦烈
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第1019話

奈穂の呼吸がぴたりと止まった。「九条正景……あなた、一体何が目的なの?」「ふふ……水戸さん、そんなに怒らないでください。お母さんがあの世で知ったら、きっと悲しむでしょうね。最も愛した娘が、自分の最期の真実と向き合う勇気すらないなんて」受話器の向こうから聞こえる声には、獲物を弄ぶ猫のような残忍さが滲んでいた。「日記帳は私の手元にあります。午後三時。南郊の廃化学工場へ来てください。覚えておいてください。私が会いたいのは水戸さん、あなた一人だけです。もし九条社長の髪の毛一本でも、私の半径1キロ以内に入ったら――その三ページは、南郊の廃墟で灰になって消えるでしょう」「ふざけるな!」正修が怒声を叩きつける。充血した瞳には、今にも噴き出しそうな殺気が宿っていた。「私がライターで燃やすのが早いか、それとも九条社長の部下が見つけるのが早いか……試してみますか?」――プツッ。通話は切れた。無機質な発信音だけが、静まり返った病室に耳障りに響く。正修はスマートフォンを床に叩きつけた。画面は粉々に砕け散る。彼はゆっくりと奈穂を振り向いた。その目には、これまで見せたことのない凶暴さと恐怖が入り混じっていた。「行くな」肺の奥から絞り出すように、一語一語を噛み締める。「私は行く」奈穂は静かに彼を見返した。「奈穂!あれは罠だ!秦烈生をあそこまで利用した男だぞ!工場に爆薬を仕掛けて、君が飛び込むのを待っていても何もおかしくない!」正修は一歩踏み込み、両手で彼女の肩を強く掴む。骨が砕けそうなほどの力だった。奈穂は痛みに耐えながら、赤く潤んだ目で彼を見つめ返す。それでも一歩も退かなかった。「正修……あなたには分からない。母が私の目の前で亡くなったとき――最後まで、その日記を握り締めていたの」彼女はそっと左手を持ち上げると、震える正修の手の甲に重ねた。「もし行かなければ、私は一生、あの地下室から抜け出せない。昨夜のあの場所に、心だけ置き去りにしたまま、生き続けることになる」正修は黙って彼女を見つめた。彼女の瞳の奥にあるのは、すべてを焼き尽くしてでも前に進もうとする覚悟だった。彼は誰よりも知っている。奈穂の体には、清乃と同じ血が流れている。穏やかさも優しさも表向きにすぎない。本当の奈穂は、玉砕を選
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第1020話

正修は、ゆっくりと手を離した。指先はまだわずかに震えている。最後にもう一度だけ、奈穂が左手で握り締めるナイフに視線を落とした。冷え切った柄は、掌に残るわずかな温もりさえ奪ってしまいそうだった。病室は静まり返っている。加湿器が細かな霧を吐き出す音だけが、かすかに耳に届いた。奈穂は振り返らない。ただ窓の外を見つめていた。雨は京市の街並みを灰色に溶かしたが、彼女の瞳には、追い詰められた獣のように消えることのない紅い炎が燃えている。正修は踵を返し、病室を出た。ドアが閉まる。――カチリ。その小さな音が、部屋に満ちた死のような静寂を閉じ込めた。廊下は青白い照明に照らされていた。人感センサーの照明が、彼の歩みに合わせて次々と点灯していく。エレベーターホールには二郎が立っていた。声をかけようと口を開く。だが正修から立ち上る殺気に気圧され、その言葉は喉の奥へ消えた。正修はそのままテラスに向かい、窓を押し開ける。湿った夜風が雨粒を連れて吹き込み、襟元に染みついていた血と消毒薬の匂いを洗い流していく。煙草を一本取り出す。火は点けない。親指で何度も煙草を押し潰していく。皺だらけになった紙の裂け目から、刻み煙草がぽろぽろと零れ落ちた。――ブブッ。胸ポケットのスマートフォンが二度、小さく震えた。弱い振動なのに、胸の奥まで重く響く。画面の冷たい光が彼の顔を照らす。また、追跡不能な海外の非通知番号だった。届いていたメッセージは、わずか一言。【彼女は夕陽を見ている。あなたは海底を見ている】正修の呼吸が止まる。指先が画面を押し潰さんばかりに力を込めた。――夕陽。海底。その言葉は鈍い刃となり、決して触れようとしなかった古傷を深く抉った。脳裏によみがえる。公海での、あの夜。真っ黒な海水が肺に流れ込み、鼓膜が裂けるような痛みを訴える。指の隙間から零れ落ちたのは、泡の列だけ。それが――奈穂が海の底に沈んでいった最後の痕跡だった。あれは人生で最も無力だった瞬間。何よりも消し去りたい悪夢だった。そして同じ頃、あの地下室では。奈穂は烈生に高出力の投光器で作り出された「夕陽」を見せつけられていた。誰かが、それを見ていた。「正景は、あの地下室
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