All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 1021 - Chapter 1030

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第1021話

「まずはご飯を食べろ。胃の痛みが治まらなければ、南郊に行くだけの体力も持たない」――南郊。その言葉を聞いて、奈穂はようやく口を開いた。温かな卵雑炊が喉を通り、冷え切っていた胃をゆっくりと包み込んでいく。正修が何かを隠していることは分かっていた。だからこそ、自分もまた何も言わなかった。あの光も届かない地下室で過ごした数時間。胃の痛みがぶり返すたびに、あるいは薬の作用で幻覚が襲ってくるたびに、奈穂は右手に握り込んだアルミ片を強く握り締めた。鋭い痛みだけが、自分を現実に繋ぎ止めてくれたからだ。そうして意識を保ち続けたからこそ、奈穂は烈生が暗証番号を入力するリズムを記憶し、一郎の手の震え方まで見逃さず、さらには烈生が運んでくる料理の一皿一皿が、自分の苦手な食材を寸分違わず避けていることにまで気づくことができた。奈穂が魚介類に含まれる特定のアミノ酸にアレルギー反応を示すことも、幼い頃の心の傷が原因で刻みネギを決して口にしないことも。水戸家でそのことを知っていたのは、両親だけだった。それなのに、烈生は知っていた。いや――あの日記を読んだ正景が知っていたのだ。奈穂は雑炊を飲み終えると、ゆっくりと顔を上げて正修を見つめた。その瞳に宿る鋭く苛烈な光を見た彼は、わずかに眉をひそめた。「正修。秦烈生は、自分の『コレクション』として私を閉じ込めていたんじゃない」彼女は静かに口を開く。その声は小さい。だが、死地をくぐり抜けた者だけが持つ確信に満ちていた。その時、病室のドアが静かにノックされた。君江が中に入ってくる。体に美しく沿う黒いトレンチコートをまとい、その眉間にはいつものように隙のない鋭さが宿っていた。奈穂にとって唯一無二の親友である君江は、この一件のために須藤家の情報網を総動員していた。「分かったわ」君江は正修をちらりと見やる。彼が止める様子がないことを確認すると、そのままファイルをベッドの上に放り出した。「橘由香が京市郊外で姿を消す前、最後に補給を受けた場所は『衆誠化学工業』だった。面白いことに、その工場は三年前に法人登記を抹消しているのに、実際の支配権は海外信託を経由していて、最終的な資金の流れはランシア国に辿り着く。しかも、その資金源は――九条家の長男が当時海外で動かしてい
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第1022話

私立病院の外では、雨はもはや降っているのではなかった。地面へ叩きつけられていた。フロントガラスを無数の水筋が走る。まるで、一度ずたずたに引き裂かれ、無理やり貼り合わせられた人の顔のようだった。君江はマセラティのドアを閉める。地下駐車場の湿った空気が肌にまとわりついたが、エンジンが低く唸りを上げると、その感触はすぐに吹き飛んだ。彼女はすぐには車を出さなかった。トレンチコートのポケットから、針のように細いメンソール煙草を一本取り出す。火をつける気はなかった。親指と人差し指で何度も転がしているうちに、巻紙の縁が次第に毛羽立っていった。先の病室では、奈穂があの短刀を握り締めていた。その瞬間、君江は奈穂の瞳の奥に、あるものを見た。絶望でもない。怒りでもない。それは、残酷なほどに澄み切った覚悟だった。崖際まで追い詰められた狩人が、最後の瞬間に逆手で刃を抜く――そんな本能にも似た光。九条家は衛星監視も、赤外線探知も、武装チームも動員している。街を覆い尽くすほどの布陣だ。だが、君江はそうしたものを信じてはいなかった。この街の裏側では、須藤家が三十年かけて育ててきた「耳」の方が、どんな最新技術よりも役に立つ。市場の片隅や古本屋、地下駐車場に身を潜める情報屋たち。そうした者たちこそが、この街の裏側を知り尽くした、本当の「生きた地図」だった。彼女は登録名のない番号に電話をかける。雨音よりも低く声を落とした。「例の顔、何か分かった?」受話器の向こうでは、麻雀牌をかき混ぜる音が響いている。煙草の煙を吸い込みすぎたような掠れ声が返ってきた。「須藤さん。橘由香は京市郊外で姿を消す前、確かに尻尾を残してました。整形したばかりの人間は感染を一番嫌う。でもあの半月、毎日のように朝日町の北辰コールド便の物流センターに通ってたんですよ」「要点だけ」君江が遮る。「薬も日用品も買ってません。毎日決まった時間に受け取っていたのは――最高級のM9リブロース、有機白トリュフ、無塩バター……それと、ランシア国の一部のプライベートクリニックでしか扱っていない神経栄養剤です」その人は一拍置く。「そうそう。配送指示には特記事項がありました――刻みネギは絶対禁止」君江はアクセルを一気に踏み込んだ
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第1023話

それは、愛ではない。死体の山に薔薇を植え、その花だけは血に染まらないと信じ込むようなものだった。烈生は奈穂の幼少期の傷を、一つ残らず利用した。その記憶を正確になぞりながら、「安心」と「優しさ」を少しずつ与え続けた。警戒心を少しずつ削り取り、行き届いた献身の中で、彼女自身に「自分は救われた」と思い込ませるために。だが、その実態は違う。運ばれてくる食事は、一皿残らず実験だった。彼女の体がどこまで耐えられるのか。心の防壁がどこで崩れるのか。そしていつの日か、烈生が用意した檻に、自ら進んで足を踏み入れるようになるのか。そのすべてを確かめるための実験だった。君江は車に戻ると、ようやく一本の煙草に火をつけた。暗闇の中で火種が明滅し、固く噛み締めた顎の輪郭を赤く照らし出す。彼女は端末を操作し、「衆誠化学工業」の法人登記資料を呼び出した。法人名は――染谷央介。だが、君江の知る限り、央介の戸籍は三年前、「死亡」を理由に抹消されている。――彼は清乃の極秘顧問弁護士。そして、奈穂が命懸けで追おうとしている男。ばらばらだった情報が、一瞬で血に濡れた鎖のようにつながった。烈生は黒幕ではない。表舞台に押し出された、哀れな操り人形にすぎなかった。本当の棋士は闇の奥に潜み、烈生の手を借りて奈穂を実験材料にしていた。極限まで愛されることと、完全に閉じ込められること――その狭間で奈穂を揺さぶり続け、母・清乃と同じように、絶望の果てに自らを壊すのかを観察していたのだ。「……外道が」君江は煙草を揉み消し、勢いよく車のドアを開けた。「この物流センターを封鎖しなさい」雨の中で待機する部下たちに命じる。「防犯カメラのハードディスクは全部回収。橘由香が荷物を受け取った全ルートを、1センチ単位で洗い出して」「須藤さん、ここは私たちの縄張りじゃないんです。強引に動けば向こうを刺激します」「刺激する?」君江は冷たく笑った。「伝えなさい。今夜ここを仕切るのは、この須藤君江よ。邪魔するなら――残りの人生、家族そろって腐った刻みネギ入りの残飯でも食べて暮らせばいい」マセラティが雨の帳に飛び出す。タイヤが黒い水を高々と巻き上げた。……午前四時。私立病院の廊下。君江は、テラスから戻ってきた正修と
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第1024話

二郎の手にある探知機のモニターが、狂ったように明滅していた。まるで鼓動を止めかけた心臓が、最後の力を振り絞って脈打っているかのように。絶えず更新される緯度経度の数値が、奈穂の目には次第に重なり合い、やがて一基の冷たい墓標にと姿を変える。――清乃がかつて飛行機事故で命を落とした場所。「……今、何と言った?」低く押し殺した、喉の奥から無理やり絞り出すような正修の声は、嵐が訪れる直前の、息を呑むような静寂を思わせる。二郎は額に汗を浮かべ、震える声で答えた。「社長……座標に間違いはありません。地下室にあった信号源は、復元した瞬間に遠隔コマンドが起動しました。あれはもう発信機じゃありません……標識です。水戸清乃様があの年に事故に遭われた、あの海域を指し示すための」奈穂は病床に腰掛けたまま、正修のように怒りを爆発させることも、取り乱すこともなかった。ただ静かに視線を落とし、左手で包帯に幾重にも巻かれた右手をそっと押さえる。厚いガーゼ越しに、親指と人差し指の間――骨が見えるほど深く裂けた傷口に、ぐっと力を込めた。痛みは、はっきりと伝わってきた。その一押しで、まだ塞がりきっていなかった傷が再び裂ける。温かな血がゆっくりと滲み出し、脈打つような焼けつく激痛が全身を貫いた。だが、その痛みのおかげで、ぼやけかけていた彼女の瞳は一瞬で鋭さを取り戻す。研ぎ澄まされたばかりの刃のように。「……彼は、私をあの瞬間に引き戻そうとしている」かすれた声だった。それでも、その落ち着き払った響きは、聞く者の背筋を凍らせるほどだった。激痛は電流のように脳を貫き、逆に思考を研ぎ澄ませていく。この病室は、もはやただの病室ではない。奈穂自身が築き上げた、論理を組み立てるための思考空間だった。地下室で烈生が「優しさ」という名で包み隠していた無数の欠片が、現像前のネガのように、一枚ずつ彼女の意識の中で整然と並び始める。記憶が遡る。それは、地下室でのある日の「昼食」だった。部屋の光は偽物だった。高出力のフルスペクトル照明が作り出した、永遠に沈まない夕暮れ。烈生は磁器椀を手にし、銀のスプーンを縁に規則正しく軽く当てながら、澄んだ音を響かせていた。雑炊を一さじすくい、丁寧に息を吹きかけて冷まし、彼女の口元に運ぶ。奈穂は鮮
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第1025話

そうして初めて、奈穂は「眠っているふり」をしながら、この世界の裏側を見つめることができたのだ。半ば閉じたまぶたの隙間から、奈穂は烈生が入口脇の操作パネルに暗証番号を入力する姿を見ていた。細く長い指先が軽快なリズムでキーを叩く。4、7、1、1。その動きはあまりにも速く、まるで執念そのものだった。そして彼女は、一郎の怯えも見逃さなかった。五十代半ばのその男は、薬液を調製するたびに手が震え、注射器をまともに握れないほどだった。三分おきに、無意識のように密室の左上隅に視線を送る。そこには目立たない小さな黒い穴が一つあった。レンズだ。海底のように深く、すべてを見つめ続ける防犯カメラ。彼が恐れていたのは、そのレンズではない。レンズの向こう側に潜む「影」だった。地下室に閉じ込められていたあの日々、奈穂は親指と人差し指の間が血まみれになる痛みに耐えながら、頭の中で地図を描き続けていた。換気ダクトから一時間ごとに流れ込む、わずかな匂いさえ記憶している。ほのかな硫黄酸の混じった刺激臭。化学薬品工場特有の臭気だった。つまり、烈生が誇っていた「あらゆる外界から隔絶された清浄な空間」は、完全な密閉空間ではなかった。どこかで外気が入り込んでいる。あの終わることのない夕焼けも、外部から引き込まれた秘密の送電線によって支えられていたのだ。「奈穂……」正修の声が、彼女を現実に引き戻した。彼は彼女が傷口を押し続けていることに気づき、瞳が大きく揺れる。とっさに左手をつかんだ。最初は強く。しかし指先が彼女の肌に触れた瞬間、その力はそっと緩められた。「もう押すな」かすれた声だった。抑えきれない自責の念が滲んでいる。「医者も言っていただろう。このままじゃ、その手は本当に使い物にならなくなる」「使えなくなっても構わない。……あいつらに作り変えられるくらいなら、このほうがずっとまし」奈穂は顔を上げた。その瞳に涙はない。燃え盛る炎のような、研ぎ澄まされた覚醒だけが宿っていた。……奈穂は二郎の持つ探知機に視線を向け、画面に表示された座標を指先で静かになぞる。「九条正景は、私たちを南郊で殺したいだけじゃない。あそこで父も母も、それに私たち二人――『継承者』だったという痕跡まで、すべて焼
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第1026話

赤いレーザーポインターの光点が、奈穂の包帯で幾重にも巻かれた右手の親指と人差し指の間で、小さく二度揺れた。まるで生き物の体に浮かぶ赤い斑点のように。鼓動と同じリズムを刻みながら。正修の体は、思考よりも先に動いていた。彼は勢いよく身をかがめると、奈穂の脚の傷など顧みることもなく彼女を抱き上げ、強く胸に抱き寄せた。そのまま床を転がり、病室の隅へと身を滑り込ませた。そこは鉄筋コンクリート製の耐力壁に囲まれた、射線の通らない唯一の死角だった。――ドンッ!鈍い衝撃音。砕け散ったのは窓ガラスだった。飛び込んできたのは銃弾ではなく、重量級の鋼鉄製ボール弾だった。それはなお白い霧を吐き続けていたベッド脇の加湿器を貫き、樹脂製の外装を粉々に吹き飛ばした。飛び散った水が床一面に流れ広がり、ちょうど二郎が落とした信号探知機へとかかる。次の瞬間、耳障りな短絡音が病室に響き渡った。「横村!窓を閉めろ!電源を落とせ!」正修の怒号は喉の奥で押し殺されながらも、地中を走る雷鳴のような迫力を帯びていた。彼は片手で奈穂の後頭部を強く抱え込み、荒い呼吸に合わせて胸が激しく上下する。奈穂は彼の腕の中で身を縮めたまま、網膜にはなお赤いレーザーの残像が焼き付いていた。鼻先をかすめるのは、煙草と雨に濡れた土、そして病院の消毒液が入り混じった冷たい匂い。抱き締められた体越しに、彼の肋骨の感触が伝わってきた。極限まで張り詰めた筋肉は、かすかに震えている。その時、病室の外で、足音が太鼓を打ち鳴らすように響き渡った。君江がドアを蹴り破る勢いで飛び込んでくる。銀色のアタッシュケースを片手に提げたまま、室内の惨状には目もくれず、腰の後ろから携帯型のシグナルジャマーを引き抜いた。――ブゥン。低い駆動音が響く。壁際で揺れていた赤い光点が、一瞬で消えた。「ドローンよ」君江は窓際に歩み寄り、防弾シャッターを迷いなく引き下ろす。金属同士が擦れ合う音が、静まり返った病室に鋭く響いた。「南郊の猟犬はもう噛みつきに来てる。九条社長、部下を今すぐ撤収させなさい。これ以上残れば救助じゃない、犬死にになるだけよ」正修はようやく腕を緩め、床に手をついて立ち上がる。それから壊れ物でも扱うように奈穂を病床に戻した。彼女の左手に触れた
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第1027話

ドアが閉まる。――ブゥン。ベッドサイドテーブルの上に置かれたスマートフォンの画面が、不意に点灯した。新着メッセージが一件。ロックはかかっていない。奈穂はほとんど反射的に左手を伸ばし、画面をスワイプした。差出人は海外の非通知番号。受信時刻は二十分前。【彼女は夕陽を見ている。あなたは海底を見ている。正修、彼女は今、あなたを想っていると思うか?それとも、あの地下室の黄昏を想っていると思うか?】奈穂はそのメッセージをじっと見つめた。指先が無意識に画面をなぞり、保護フィルムの上に白い筋を残す。その瞬間、右手の親指と人差し指の間が大きく脈打った。傷口が再び裂けるような激痛。鼓動のたびに神経が引きつれる。そして彼女は、ようやく理解した。正修が廊下に出ていた六分間。あれは作戦の指示を出していた時間ではない。罪悪感を飲み込もうとしていた時間だったのだ。正景は、それを狙っている。公海での救助活動で味わわせた絶望。地下室で周到に演出した、偽りの「優しさ」。そのすべてを利用し、正修という支配者の鎧を一枚ずつ剥ぎ取り、彼の最も脆い部分をむき出しにしようとしている。奈穂は静かに画面を消し、ゆっくりとベッドに横たわった。暗闇の中で、その瞳だけが鋭く光る。――罪悪感など、最も贅沢で役に立たない感情だ。もし正修がその感情に囚われ、午後三時の作戦で一秒でも判断を誤れば――自分たちは本当に死ぬ。だから、奈穂はそのことを口にしない。正修には、その罪悪感を燃料として戦ってもらわなければならない。そして自分は――もっと穢れた、もっと闇に染まった刃を手にして、あの「影」の心臓を抉り取らなければならない。彼女は寝返りを打ち、掛け布団の下から君江が去り際に忍ばせていった予備の携帯電話を取り出した。登録されている番号は一つだけ――京市拘置所にいる北斗の番号だ。電話がつながる。受話器の向こうから聞こえるのは、低く唸るような電磁ノイズだった。「奈穂……君なら、必ず電話をかけてくると思ってた」鉄格子越しに届く北斗の声は、錆びついた蝶番のようにしゃがれている。低く笑うと同時に、鎖を引きずる音が耳に届いた。「九条正景って狂人に、とうとう追い詰められたか?」「その負け犬みたいな口ぶり
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第1028話

正修の指が、奈穂の肩に深く食い込む。まるで彼女を、自分の骨の中に縫い込もうとするかのように。赤いレーザーは消えた。だが、誰かに見つめられている感覚だけは消えない。それは換気口から漂う腐肉の臭いに溶け込み、背骨にまとわりつき、ゆっくりと首筋に這い上がってきていた。午後二時四十分。南郊の化学工場は、沈みゆく夕陽によって輪郭を引き伸ばされ、引き裂かれるような影をひび割れた地面に落としていた。まるで膿んで裂けた古傷のようだった。十年前の化学物質漏洩事故以来、この場所は立入禁止区域となっている。錆びついた配管が荒れ地の上に無秩序に横たわり、巨大な獣の干からびた骨格を思わせる。夕陽が巨大な反応槽を赤く照らし、錆は黒ずんだ赤に染まる。半月もこびりついた血痂のように。ここは廃墟ではない。鋼鉄で築かれた、一つの巨大な墓だった。車輪が白く塩を吹いた乾いた土を踏み締める。ざり、ざり、と響く音は荒野の彼方まで広がり、不吉な囁きのように耳に残った。奈穂は車のドアを押し開ける。右足が地面に着いた瞬間、太腿の筋肉が激しく痙攣した。鋭い激痛が一気に脳天まで突き抜ける。彼女は半歩よろめき、とっさに右手でドアに体を預けた。親指と人差し指の間の傷が再び裂ける。巻き替えたばかりの白い包帯は、瞬く間に鮮血で染まった。痛みは鮮烈だった。無数の細い針が神経を這い上がるように突き刺さり、彼女の意識を強制的に覚醒させる。冷たく、鋼のように研ぎ澄まされた覚醒を。「ここで待っていて」彼女は振り返り、運転席を見た。正修の顔半分は影の中に沈んでいる。いつもは冷静なその瞳には、今にも制御を失いそうな焦燥が渦巻いていた。彼は信号妨害装置を強く握り締めている。手の甲には青筋が浮き上がり、指先は血の気を失うほど白かった。「位置情報は三重だ、奈穂」彼は声を極限まで潜めた。「腕時計が一つ。ネックレスが一つ。足首にも一つ。電子信号が遮断されても、ネックレスに内蔵した機械式振動装置が三十秒ごとに物理パルスを発信する。……君が動いている限り、必ず見つけ出す」奈穂は静かにうなずく。精密機器には触れず、左手に握った折り畳みナイフだけを、さらに強く握り締めた。正修を同行させなかった。それが「影」の条件
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第1029話

ボイスチェンジャー越しの声も、銃声もない。あるのは、耳が痛くなるほどの静寂だけ。奈穂が一歩踏み出した、その瞬間――カチリ。闇の奥から、古びた機械に電源が入る小さな音が響いた。続いて、ジジッという電流音が四方八方から押し寄せる。人の声ではない。流れ始めたのは、一曲の音楽だった。蓄音機特有のざらつきを帯びた旋律。ゆるやかで、物憂げで、古きランシア国の哀愁をまとったメロディー。奈穂の顔から、一瞬で血の気が引く。――この曲は、母が何よりも愛していた曲だった。幼い頃。書斎に夕陽が斜めに差し込み、母はロッキングチェアに腰掛けながら、静かにこの歌を口ずさんでいた。それは自分の悪夢のような幼少期にあって、ただ一つだけ残された光だった。バチッ――工場中央に放置されていた大型モニターが、突然まばゆい白光を放った。奈穂は反射的に手をかざす。その動きで親指と人差し指の間の傷が引きつり、激痛が膝を揺らした。やがて目が光に慣れる。画面が鮮明になる。そこに映っていたのは、一人の男だった。グレーのスーツをまとい、金縁眼鏡をかけた、穏やかな面立ちの男。その手には一本の万年筆が握られている。――健司。十五年前の健司。幼い奈穂の頭を優しく撫で、「奈穂、いい子でいるんだよ」と微笑んでいた父だった。映像の中の健司は落ち着きを失っていた。何度も窓の外を見やり、額には汗が滲んでいる。「清乃」穏やかな声だった。だが、その響きは今の奈穂の胃を激しく掻き回した。「君が切り札を残していることは知っている。だが、もう九条家は抑えきれない。九条家の長男のあの子……九条正景が、見てはいけないものを見てしまった」健司は万年筆をデスクに置く。両手をデスクにつき、その眼差しは一変して鋭く冷え切った。「飛行機が事故を起こさなければ――水戸家と九条家の帳尻は、永遠に合わない。清乃、恨まないでくれ。俺は奈穂を生かさなければならない。水戸家を京市で生き残らせなければならないんだ」彼は目を閉じ、カメラの外にいる誰かに低く囁いた。「始めてくれ。信託の暗号化データを九条正景のシステムに送り込め。彼を追放者にしろ。罪を背負う人間に」奈穂は画面を見つめたまま動けなかった。胸を巨大な万力で締め
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第1030話

熱風が押し寄せてきた、その瞬間。奈穂の世界から、音という音が一斉に奪われた。鼓膜の奥では、ただ甲高い耳鳴りだけが鳴り響いている。まるで赤く焼けた無数の針が、容赦なく突き刺さり、かき回しているかのようだった。暴力的な爆風が真正面から彼女を吹き飛ばす。体は宙に浮き、そのまま廃棄された反応槽の鋳鉄製の外壁に激突した。鈍い衝撃音が響く。痛い。あまりにも痛く、痛覚そのものが失われそうになるほどだった。骨の内側から体を無理やり砕かれていくような感覚。悲鳴を上げる自分の脊椎の音さえ聞こえてくる気がした。彼女は冷たい金属壁を滑り落ち、反応槽の陰に崩れ込む。口を大きく開け、必死に息を吸い込もうとする。だが肺に流れ込んでくるのは、焦げたプラスチックの臭いと、鼻を刺す粉塵だけだった。激しくむせ返り、涙が一気に溢れ出す。――やはり。正景は最初から、自分を生かして帰すつもりなどなかった。命を奪うだけでは足りない。死ぬその瞬間まで、父に対して抱いてきた最後の信頼さえ、自分の目の前で徹底的に引き裂こうとしている。意識がゆっくりと霞んでいく。瞼は千斤もの鉄を乗せられたように重い。そのまま闇に沈みかけた、その刹那――右手の親指と人差し指の間に、骨を削るような激痛が突き抜けた。それはあの時鎮静剤に抵抗するため、自ら肉に埋め込んだアルミ片だった。先ほどの衝撃で、鋭く尖った破片がさらに深く食い込み、あと少しで骨に届くほどになっていた。その拷問にも等しい痛みが、氷片を浮かべた冷水を頭から浴びせられたように、脳にまとわりついていた眠気を一瞬で吹き飛ばす。「っ……!」奈穂は鋭く息を呑み、震える手でポケットから予備の携帯電話を取り出した。頭上ではプレキャストコンクリート板が不気味な軋みを上げている。いつ崩落してもおかしくない。それでも反応槽の陰にできた三角形の空間だけが、彼女を守る唯一の避難場所だった。携帯電話の弱々しい光が、冷え切った彼女の瞳を照らし出す。この命懸けの盤面で、唯一確かな現実は――骨まで貫く、この痛みだけだった。……「奈穂!奈穂!返事をしろ!」正修だった。暴力にも似た焦燥と、絶望が入り混じった叫び。その声は崩壊した工場跡に何度も反響する。近づいてくる足
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