All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 1041 - Chapter 1050

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第1041話

「九条家の本邸……」奈穂はその言葉を繰り返した。一つ一つの音節が、まるで氷の底から拾い上げられたもののように冷え切っていた。彼女はゆっくりと顔を向け、正修を見つめる。その瞳に恐怖はなかった。ただ、底の見えない冷たい淵だけが広がっていた。「つまり、これはあなたたち九条家が私に用意した『サプライズ』なの?」正修の顎のラインは固く張り詰めていた。彼が口を開こうとした瞬間、急に響き渡った慌ただしく重い足音に遮られる。「ドンッ」何かがぶつかる音が、人気のない廊下に反響した。健司が駆け込んできた。よほど急いできたのだろう。身につけているスーツは乱れ、ネクタイも首元でだらしなく緩んでいる。普段の水戸家当主としての威厳や品格は、跡形もなく消えていた。病床に横たわる、包帯で巻かれすぎて元の姿すら分からないほどになった奈穂と、固定具で吊られた右手を目にした瞬間、健司の足から力が抜けた。彼はほとんどよろめきながら、ベッドのそばに駆け寄った。「奈穂!奈穂……!」健司の声は激しく震えていた。だが、その嗚咽は奈穂の耳には、まるで下手な芝居の一幕のようにしか聞こえなかった。震える手で奈穂の頬に触れようとする。しかし、その手は宙で冷たい手に掴まれた。正修だった。その力は強かった。健司には、自分の手首の骨がかすかに軋む音さえ聞こえた。「おじさん、奈穂は休む必要があります」正修の声には何の感情もなかった。だが、その声には全身を凍りつかせるような圧が込められていた。奈穂は、ひどくゆっくりと目を開けた。目の前で涙を流す男を見る。額に浮かぶ冷や汗を見る。「父親の愛情」とでも書かれているような表情を見る。もし以前の自分なら、きっと心を動かされていただろう。だが、化学工場で生死の境をさまよったあの夜を経験し、瓦礫の下へ埋もれていく央介をこの目で見届け、そして右手の感覚を完全に失った今――自分の心は、もはや凍てついた石のように冷え切っていた。「泣き終わった?」奈穂はそう尋ねた。その声は、まるで砕けた石で削られたかのように掠れていた。健司の泣き声が止まる。彼は気まずそうにその場で固まった。奈穂の温度のない瞳を見つめた瞬間、胸の奥に潜んでいた「後ろめたさ」という毒虫が、理性を
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第1042話

奈穂は小さく息を漏らした。胸の上下動は、明らかに激しかった。一つ言葉を発するたびに、全身の力を使い果たしているかのようだった。「九条正景という人間は確かに優秀よ。でも、お父さんに気づかれずに水戸家の本邸にある禁域に入り込み、背景を撮影するほどの力はない。唯一考えられる答えは……その素材を、お父さん自身が彼に渡したということ」奈穂の瞳に、ついに狂おしいほどの憎しみが浮かんだ。「水戸家当主の座を守るために。あの時の秘密を世間に知られないようにするために……お父さんは九条正景と手を組んで、あんな気持ち悪い動画を使って、実の娘を追い詰めた。そうでしょ?」病室は静まり返っていた。聞こえるのは、心電図モニターが規則的に刻む電子音だけだった。健司は、あの写真を凝視していた。背中を伝う冷や汗が、一瞬で高価なシャツを濡らす。それまで伸びていた背筋は、支えを失ったかのように崩れた。そして次の瞬間――「ドンッ」重い肉体が床にぶつかる鈍い音とともに、彼は奈穂の病床の前に膝をついた。大理石の床は、冷たく凍えるようだった。膝が叩きつけられ、耳障りな音が響く。それでも健司は、痛みなど感じていないかのようだった。「奈穂……父さんが悪かった……父さんが……死んで詫びるべきだった……」彼は顔を覆った。そして、十五年遅れてようやくこぼれ落ちた、壊れたような泣き声を上げた。正修はそばに座ったまま、その光景を見ていた。床にひざまずく健司を見つめ、さらに奈穂の、もう使い物にならなくなった右手へと視線を移す。胸の奥にある暴虐的な怒りが今にも弾け飛びそうだった。こんな嘘だらけの水戸家のために、こんな「真実」と呼ばれるもののために、奈穂が背負わされた代償は、大きすぎた。「それじゃあ……あの時の『墜落事故』は、一体何だったの?」奈穂の声は小さかった。しかし、その一言一言は、鉛のように重かった。健司は顔を覆っていた手を激しく震わせた。そして顔を上げる。その濁った瞳には、絶望と、長い間縛られていたものから解放されたような安堵が浮かんでいた。「……あれは確かに、演技だった。君のお母さんの考えだった。俺はただ……彼女に協力して、あの芝居を演じただけだ」十五年間の想い。十五年間の悪夢。「母
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第1043話

「おじさんが彼女に背負わせた苦しみは……もう十分すぎる」病室のドアが「バタン」と大きな音を立てて閉じられた。健司はよろめきながら廊下の長椅子に倒れ込んだ。頬に残った涙の跡はまだ乾いていない。その姿は、道端でよく見かける物乞いのように、すっかり老け込んで見えた。病室の中では、医療スタッフが次々と入っていく。正修は奈穂の左手を強く握りしめていた。苦痛に震え続ける彼女を見つめる。やがて、彼女の呼吸が少しずつ落ち着き、薬の作用によって激しい痙攣もようやく治まっていった。正修は顔を上げ、棚の上に置かれた金庫に視線を向けた。「……この中には、一体どれだけの秘密が隠されているんだ?」奈穂は眠りの中でも眉を寄せていた。まるで、二度と目覚められない悪夢の中に再び落ちてしまったかのようだった。その頃、病院の廊下の突き当たり。黒いレインコートを着た人影が、病室の前に立つボディガードたちを静かに見つめていた。彼はスマートフォンの監視画面を閉じる。そして、口元に残酷な笑みを浮かべた。……病院最上階。冷たい白い照明が照らす空間の中で、正修は床から天井まである窓際の暗がりに座っていた。彼の傍らには、分厚い法律書類の束が置かれている。一枚一枚のページには、目を疑うほど鮮明な赤い公印が押されていた。彼はもう三日三晩、一睡もしていなかった。奈穂の右手が二度と元には戻らないと知って、すべての理性は、純粋な暴虐へと変わっていた。正修は、直接乗り込んで秦家を叩き潰すという方法を選ばなかった。それでは、あまりにも秦家にとって楽すぎる。彼が望むのは、秦家が世間の目の前で、自分たちが築き上げた罪の帝国によって、生きたまま押し潰されることだった。奈穂が負傷したという情報は、二十四時間も経たないうちに、各大手メディアのトップニュースへと「正確に」流された。廃墟の縁で撮影された、血と焼け焦げた痕に覆われた手だけが写る一枚の写真が、京市中の世論を一気に爆発させる導火線となった。世間の怒りは、化学工場の爆発よりも激しかった。すべての非難の矛先は、秦家に向けられた。「社長、秦グループの株価はすでにストップ安です」二郎はデスクから三歩離れた場所に立ち、冷たい声で報告した。「現在、六割を超える債権者が期限前
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第1044話

音凛は、凄まじく悲痛な叫び声を上げた。その声はまるで、錆びついた鉄片でコンクリートの床を引っ掻いているようだった。彼女は狂ったように新聞紙を引き裂いた。そして、その紙片を口の中に押し込み、必死に噛み砕いた。まるでそうすれば、残酷な現実までも一緒に飲み込めるとでも思っているかのように。彼女がずっと誇りにしてきた後ろ盾は崩れ落ちた。唯一の肉親である兄は、もう何もできない存在になった。かつて彼女が足元に踏みにじり、侮辱してきた者たちは、今や高い地位に座り、冷たい目で彼女を見下ろしている。音凛は大声で笑いながら、狭い独房の中を何度も何度も歩き回った。彼女の爪は壁を引っ掻き、耳障りな音を響かせた。指先から血が滲み、全身の力を使い果たし、その場に倒れ伏すまで。この冷え切った午後、かつて誰もが恐れた秦家の令嬢は、誰にも顧みられることのない鉄格子の向こうで、完全に狂ってしまった。……病室のアロマディフューザーから、細かな水蒸気が噴き出していた。奈穂が目を開けると、陽の光がブラインドの隙間から差し込み、掛け布団の上に降り注いでいた。頭が重く、足元がふらつくような感覚がある。喉の奥には、熱く焼けた粗塩を詰め込まれたような痛みが残っていた。「目が覚めた?」ベッドの傍らから、低く聞き覚えのある声が響いた。奈穂は力を振り絞って顔を向けた。そこにいたのは、君江だった。「君江……」奈穂が声を出す。その声はあまりにも掠れていて、自分自身でさえ聞き慣れないほどだった。君江はベッド脇のテーブルから温かい水の入ったコップを取り、奈穂の唇に運んだ。「無理に話さないで。今回は本当に生死の境をさまよって戻ってきたんだから。奈穂ちゃん、相当運が強いわ」奈穂は数口水を飲んだ。まとわりついていた眩暈が、ようやく少しだけ和らいだ。彼女は無意識に右手を持ち上げようとした。しかし、その手は今もなお、冷たい固定具に固定されたままだった。厚い包帯。そこには何の感覚もない。奈穂の瞳が一瞬だけ暗く沈む。だが次の瞬間、それは極限まで研ぎ澄まされた冷静さへと変わった。「言って。私の手は……結局どうなったの?」君江はしばらく黙り込んだ。そして手にしていたファイルを置き、複雑そうな表情で口を開いた。「国内でも最高峰の神経外
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第1045話

「九条正景は、あの熱帯雨林に逃げ込めば何事もなく済むと思っているの?本当にそう思ってるなら、彼は私をあまりにも見くびっているわ」奈穂は力を振り絞って上半身を起こした。そして、ベッド脇のテーブルに置かれた黒い金庫に視線を向ける。ずっと誰にも触れられていなかったため、金庫の表面には乾いた暗赤色の血痕がまだ残っていた。「金庫は私の手の中にある」奈穂は左手を伸ばし、指先で冷たい金属の外側をゆっくりとなぞった。「九条正景がこの人生で最も欲しがっている『命綱』は、この中にある。これは、彼が新たな身分を手に入れ、九条家の権力を取り戻すための唯一の切り札。この金庫を開けられない限り、彼は永遠に闇に潜み続けるしかない鼠よ」奈穂は顔を上げ、君江を見つめた。その瞳の奥には、すべてを焼き尽くすような炎が揺らめいていた。「君江。正修に伝えて。私のために、これ以上企業戦争を仕掛ける必要はない。私が自分でランシア国に行く。あの土地で、九条正景のプライドを一寸ずつ泥の中に踏みにじってやる」君江は奈穂を見つめた。その瞬間、君江には、奈穂の姿が清乃と重なって見えた。冷静で狂気を孕み、そして、一切の容赦がない。「今の奈穂ちゃんの体では、無理ができないわ」君江は眉をひそめ、説得する。「私の右手はもうこんな状態よ。これ以上悪くなったところで、何が変わるっていうの?」奈穂の口元に、ひどく残酷な笑みが浮かんだ。「彼が私を壊した。なら私は、彼の人生を壊す」その時、病室の扉が再び開いた。正修が全身から冷たい殺気を漂わせながら入ってきた。彼は入口で立ち止まり、奈穂の姿をじっと見つめる。最後の言葉を聞いていたのだ。君江は空気を読んで部屋を出ると、静かに扉を閉めた。室内には死のような静寂が満ちた。正修は大股でベッドまで歩み寄る。そして身を屈め、大きな手のひらを、わずかに震わせながら奈穂の左手に重ねた。「決めたのか?」奈穂は頷いた。「たとえ、そこがとんでもなく危険な場所だとしても?」「そこは彼が私のために選んだ墓場よ」奈穂は彼を見つめる。「そして、私が彼のために選んだ墓場でもある」正修は何も言わなかった。ただ突然力を込め、奈穂の体を強く抱きしめた。彼は彼女の首元に顔を埋め、呼吸を荒くする。「分かった」低く
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第1046話

病室の窓の外では、夕暮れの名残がついに地平線の彼方へと沈んでいった。奈穂は視線を引き戻した。金庫の取っ手を左手で強く握り締め続けていたせいで、指の関節は今にも透けてしまいそうなほど白くなっている。彼女は固定具に載せられた右手に目を落とした。幾重にも巻かれた包帯は重々しく、まるで命を失ったかのようだった。その白い層の奥では、血が流れている感覚さえまったくない。その虚無感は、胸を引き裂かれるような激痛よりも、彼女の意識をはるかに鮮明にしていた。「奈穂、先に薬を飲もう」正修はぬるま湯の入ったコップを手に歩み寄った。充血した目はまだ赤みを残したままで、その低い声には今にも噴き出しそうな凶暴な怒りを必死に押し殺している気配が滲んでいた。奈穂は何も言わずに受け取った。左手でコップを持つ動きはゆっくりとしていて、まるで機械のようだった。やはり利き手ではないぶん思うように力が入らず、指先がコップの縁に触れた瞬間、小さく震える。水滴がシーツに数滴落ち、たちまち濃い染みとなって広がった。薬を飲み下すと、独特の苦味が舌の奥いっぱいに広がる。それは神経修復薬特有の、生臭さを含んだ苦味だった。正修はベッドの縁に腰を下ろし、彼女からそっとコップを受け取る。その仕草はあまりにも慎重で、わずかな風さえ目の前の彼女を壊してしまうのではないかと恐れているかのようだった。「これは不可逆性の神経損傷です。現在の国内の臨床技術では、たとえ最も保守的な縫合術を施しても、水戸さんの右手は……今後は見た目を保つことしかできません」国内屈指の神経外科医が一時間前に告げたその言葉は、まるで死刑宣告だった。そのときの正修の表情は、夜よりなお暗かった。「方法があるとすれば、ランシア国だけです」医師は眼鏡を押し上げ、一冊の暗号化された海外医学ジャーナルを正修の前に差し出した。「三年前、ランシア国にある民間バイオ研究所が、『高圧電流による損傷後の神経再生』に関する臨床報告を発表しました。あそこは現在、世界でもっとも先進的でありながら、同時にもっとも高い効果を誇る神経修復技術を保有しています。もし水戸さんの右手に三割でも握力を取り戻せる可能性がある場所があるとすれば……そこしかありません」正修の呼吸が、一瞬で重くなった。……「横
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第1047話

正修は静かに息を吐いた。「許可はもらった。祖父は『九条家の借りは、九条家の者の手で取り返せ』と言っていた」そのとき、病室のドアが静かに開いた。健司が入口に立っていた。ほんの数日で十歳は老け込んだかのようだった。きっちりと撫でつけられていたオールバックは乱れ、近寄ろうとはせず、少し離れた場所から、懇願するような目で奈穂を見つめている。「奈穂……その金庫のことなんだけど……」健司の声は、年老いてかすれていた。奈穂は反射的に左手を金庫の重い外殻に押し当てた。力を込めた指先が、かすかに震える。「お父さん。知りたいのは、私がこれを開けたかどうか?それとも……この中に、お父さんを完全に破滅させる名簿が本当に入っているのか?」奈穂の瞳には恨みはなかった。あるのは、すべてを見通した者だけが持つ、冷え切った無関心だった。その冷たさは、刃のない柔らかなナイフのように健司の胸をえぐり、彼は立っているのもやっとだった。「あれは……お母さんが君に残した、最後の護りだった」健司は力なくうつむく。砕け散ったような声が、途切れ途切れに漏れた。「もし水戸家が君を守れなくなった時……あるいは俺が、自分の初心を守れなくなった時は、その箱を持って九条岳男を訪ねろ、と。あの人は俺を陥れようとしたんじゃない。ただ……君に生き延びる道を残しておきたかったんだ」「生き延びる道?」奈穂は低く笑った。その笑い声は、静まり返った病室にひどく耳障りに響く。「その『生き延びる道』のために、私は十五年間も悪夢を背負い、片手を失いかけ、南郊の廃墟で死にかけた。お父さんの言う『守る』というものは、その代償があまりにも大きすぎた」正修は冷たい視線を健司に向ける。彼から放たれる圧迫感に、病室の空気は凍りついたようだった。「おじさん、お引き取りください。ランシア国に関することに、水戸家が関わる必要はありません」健司は何か言おうと口を開いた。しかし、正修の殺意に満ちた眼差しとぶつかった瞬間、結局一言も発することができず、よろめきながら病室を後にした。奈穂は目を閉じた。胃の奥がまた鈍く痛み始める。極度の緊張が引き起こすこの痙攣は、いつしか彼女の体の一部になってしまっていた。「君江のほうは、何か動きがあった?」彼女は静かに尋ねた。「須藤君
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第1048話

奈穂は大量出血の影響で深い眠りに落ちていた。だが、まどろみの中、不意にごくかすかな物音を耳にした。まるで金属製の留め具が床を擦るような、小さな音だった。本来なら聞き逃してしまうほど微かな音。しかし、極限まで研ぎ澄まされた彼女の神経には、それは雷鳴にも似た響きを放った。彼女はすぐには目を開けなかった。呼吸はなおも規則正しく、眠っているように装い続ける。それは地下室で叩き込まれた本能だった。危険が迫った時こそ、無力な獲物を演じる。左手が布団の下を音もなく滑り、枕の下に隠されていた折り畳み式の短刀へと触れる。正修が彼女のために残していったものだった。病室に漂う梅の香りが、いつもより濃く感じられた。──違う。これは自分の知る香りではない。その甘い香りには、血の匂いが絡みつくように混じっていた。「カチッ」金庫の取っ手が動かされる音だった。奈穂は勢いよく目を見開いた。同時に左手の短刀が一瞬で展開し、月明かりの下で冷たい軌跡を描きながら、ベッド脇の黒い人影へと突き出された。しかし、その影の反応もまた速かった。瞬時に腕を返し、奈穂の左手首を掴む。その握力は凄まじく、まるで万力のように彼女の手首を容赦なく締め上げた。「奈穂、俺はお前を助けに来た」低く静かなその声には、聞き覚えのある、吐き気を催すような粘ついた響きがあった。奈穂は相手の顔を見た。正修でもない。二郎でもない。そこに立っていたのは、本来なら牢獄にいるはずの男。両手首の腱を切断され、二度とまともに手を使えないはずの男――烈生だった。その男は今、彼女のベッド脇に立ち、包帯で巻かれているはずの両手で器用に彼女の手首を押さえつけていた。動きには痛みによるわずかな硬さこそあったが、決して手の使えない人間ではない。烈生の瞳には、悪魔に憑かれたような狂気が燃えていた。彼は奈穂を見下ろし、不気味な笑みを浮かべる。「九条正修が切ったのが、本当に俺の手首の腱だと思っていたのか?違う。あいつが断ち切ったのは、『秦家の後継者』という俺の枷にすぎない。奈穂、あの日記の最後の三ページは、最初から九条正景の手元にはなかった」男はそう言って、懐から黄ばんだ三枚の紙を取り出した。そこには、乾ききった血痕が生々し
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第1049話

視界がゆっくりと滲み始めた。先ほどまで鮮明だった病室は、奈穂の目には歪んだ墨色がかった緑の塊へと変わっていく。完全に意識を失う直前、彼女は最後にあの金庫に視線を向けた。赤い自爆警告ランプが明滅している。まるで人を嘲笑う片目のように。そして、烈生の端正な顔は闇の中でゆっくりと引き伸ばされ、やがて彼女の見たこともない、ぞっとするほど冷たい笑みへと変わっていった。「この勝負はな……水戸家も九条家も、誰一人勝てない」その言葉を最後に、奈穂の意識は完全な闇へと沈んだ。その瞬間、病室のドアは正修が振るった破壊斧によって、真っ二つに叩き割られた。砕け散った木片の匂いと焦げ臭さの中に、ごく微量に残る鎮静剤の臭気だけが、異様なほど際立っていた。正修はドアを蹴破る勢いのまま病室に飛び込む。勢いが強すぎたため、軍靴が濡れた大理石の床を激しく滑り、耳障りな音を立てながら黒い擦り傷を二本刻んだ。手にした破壊斧の刃先には、まだ火花が散っている。彼の視線が空になった病床を捉えた瞬間、瞳は今にも血が滴り落ちそうなほど赤く染まった。奈穂がいない。残されていたのは、黒い耐衝撃型の金庫だけだった。それは、かつて奈穂が頭を預けていた場所に、静かに置かれていた。表面の赤いランプは、もはや点滅の間隔が重なって見えるほど高速で明滅している。鋭い「ピッ、ピッ」という電子音は、錆びついた刃物のように、正修に残された最後の理性を何度も切り刻んでいた。「社長!下がってください!」二郎が二人の爆発物処理班を連れて飛び込んできた。赤ランプの点滅速度を確認した途端、その声は悲鳴のように裏返る。「どけ」正修の声は、地獄の底で岩を擦り合わせたような、もはや人間のものとは思えないほど掠れた響きを帯びていた。彼は一歩も退かない。むしろ病床に向かって歩み寄る。拳を強く握り締めたあまり、廊下で壁を殴った際に裂けた傷口が再び開き、鮮血が指の隙間を伝って滴り落ちた。彼は金庫だけを見つめていた。正修の脳裏に、奈穂が最後に向けたあのまなざしがよみがえった。どこまでも冷静で、揺るぎない覚悟を宿し、まるで命を懸けた別れを告げるかのような眼差しだった。「……残り三秒!」爆発物処理班の絶叫が背後から飛ぶ。その刹那、正修は金庫のダイヤルの隙
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第1050話

奈穂は両手を後ろ手に縛られたまま、首筋に注入された薬の作用によって、意識が激流に巻き込まれた枯れ葉のように揺れ動いていた。浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ。どれだけ手を伸ばしても、確かな感覚をつかむことができない。冷たい水が足首まで達していた。右脚の損傷がひどいため、その骨の髄まで凍りつくような寒気が、体に異常な痙攣を引き起こしていた。「奈穂、動くな」頭上から烈生の声が降ってくる。そこには病的なほどの優しさが含まれていた。彼は今、溜まった水の中で半ばしゃがみ込んでいる。両手は依然として震えていたが、それでもかろうじて物を掴む力を維持していた。襟元は引き裂かれ、露出した肌には青筋が浮かび上がっている。大量のアドレナリンを注射した後遺症だった。彼女を連れ去るために、烈生は命を削るような方法で、一時的に両手の機能を取り戻したのだ。奈穂は重い瞼を無理やり開ける。薄暗い照明の下で歪んで見える、彼の横顔を視線でなぞった。右手には、いまだ何の感覚も戻っていない。それは肩からぶら下がった枯れ枝のようで、烈生が動くたび、力なく揺れていた。「……母は……どこ」彼女が声を絞り出す。その声は、揉みくちゃにされた紙のように掠れていた。一つ一つの言葉に、血の味が滲んでいるようだった。烈生の動きが止まる。彼は懐から、まだ体温の残る日記の切れ端を取り出し、奈穂の頬に押し当てた。「知りたいか?」彼は低く笑う。その瞳には、悪魔に取り憑かれたような狂気が宿っていた。「水戸清乃は本当に頭のいい女だった。水戸健司を騙し、九条岳男まで騙した。そして……死ぬことさえ、あまりにも完璧に演じてみせた。今、彼女はランシア国にある『影の研究所』にいる。そこは九条正景が彼女のために作った墓場であり、同時に、あいつにとって唯一の逃げ場所だ」奈穂は、紙片が肌をかすめる感触を感じた。薬に意識を奪われながらも、彼女の頭は最後の理性を必死に保っていた。「嘘ね」彼女は目を閉じ、喉の奥からほとんど嘲るような冷笑を漏らす。「秦烈生……あなたも結局、九条正景の手の中にある捨て駒にすぎない。彼があなたに私を連れ去らせたのは、正修をランシア国に誘き寄せるため……十五年前から掘り続けていた穴へ突き落とすためよ」烈生の動きが一
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