All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 981 - Chapter 990

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第981話

「それで?」隆徳は冷ややかに言い放つ。「それがどうした。そんなもの、お前がやって当然のことじゃないのか」音凛はしばらく父を見つめていたが、不意に大声で笑い出した。「ははははっ……!ええ、その通りよ。確かに、それは私がやるべきことだった。でも、やるべきことをやってきたなら、それに見合うものを手にして当然でしょう?」「お前は秦家の娘だ。不自由のない暮らしをさせてもらっている。それ以上、何が欲しい?」その瞬間、音凛はテーブルの上のコップをつかみ、床に力いっぱい叩きつけた。ガシャン――!割れたガラスが病室に飛び散る。「不自由のない暮らしですって?そんなもので足りると思ってるの?私が欲しいのは株式よ。権力よ。そして秦家そのもの。でも、お父さんはどうだった?」彼女の目は血走っていた。「お父さんの目には、あの二人の息子しか映っていない!私がどれだけ会社のために尽くそうが、どれだけ成果を上げようが、お父さんは一度だって私を正しく評価しなかった!お兄さんならまだ納得できる。彼には確かに実力がある。でも逸斗は?あんな役立たずの――しかも愛人の子にまで、いいものを残そうとしてた。家業まで一部継がせようとしてたじゃない!どうしてよ!?教えてよ!私のどこが逸斗に劣ってるっていうの!?」 そして、その声は歯の隙間から絞り出すように低く響いた。「結局……私が女で、あの二人が男だから。そういうことなんでしょう?」隆徳は愕然として娘を見つめた。まさか彼女が、これほどまで強い不満を胸に抱えていたとは思ってもいなかった。――だが、音凛の言葉は図星だった。自分は最初から、家業は息子に継がせるつもりだった。娘については、秦家に利益をもたらす最良の相手に嫁がせれば、それで十分だと考えていた。「……そんな野心を抱いていたとはな」隆徳は怒りを露わにした。「今まで気づきもしなかった!」「それの何が悪いの?野心を持つことが罪なの?」音凛は嘲笑した。「私には、その野心に見合うだけの能力がある。それなのに、お父さんはそのくだらない男尊女卑の考え方のせいで、一度だって私の能力を正しく見ようとしなかった!でも私は、そんなの絶対認めない」隆徳のまぶたがぴくりと震えた。「……お前、何をするつもりだ?」音凛は声を落とし、静かに囁
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第982話

「安心して。お父さんの二人の息子には、私がかつて味わった苦しみを、何千倍、何万倍にもして味わわせてやるわ」そう言い残すと、音凛は一切ためらうことなく踵を返した。「音凛、待て!音凛……!」隆徳が声を張り裂けんばかりに叫んでも、音凛が足を止めることはなかった。「誰か!誰か来い!早く彼女を止めろ!」しかし、誰一人として姿を現さず、返事をする者もいない。病室の扉を開ける直前、音凛はようやく振り返り、軽蔑の眼差しを隆徳に向けると、そのまま去っていった。その瞬間、隆徳の背筋を冷たいものが駆け抜けた。――もう誰も来ない。自分を病院に運んできた者たちは、おそらく音凛がすでに手を回して排除してしまったのだろう。ほかの部下たちも、ここで何が起きているのか知る由もない。まさか、本当にこの隙に音凛が実権を奪おうとしているのか?秦グループは、このまま音凛の手に渡ってしまうのか?では、烈生と逸斗はどうなる――!考えれば考えるほど焦りは募り、胸は締めつけられ、ついには目の前が真っ暗になった。そのまま隆徳は意識を失った。……奈穂は再び優斗に電話をかけ、夏鈴の様子を尋ねた。今回は夏鈴本人ともゆっくり話すことができた。受け答えはいたって普通で、精神的にも特に不安定な様子はない。「水戸さん、この前は本当に心配をかけてしまってごめんなさい」夏鈴は申し訳なさそうに言った。「でも今は、本当にもう大丈夫です。もっと強くならなきゃって思えるようになりました。この世界には私のことを気にかけて、大切に思ってくれる人がこんなにもいる。みんなのおかげで、温かさと前に進む力をもらえました」「あなたが元気になってくれたなら、それだけで私たちも安心できるわ」奈穂は微笑んだ。「夏鈴は本当に素敵な女の子よ。だからきっと、これから先は幸せになれる」「はい、ありがとうございます!これから優斗と一緒に全国を旅行して回るつもりなんです。京市に戻ったら、水戸さんと正修兄さんをご飯にお誘いしますね」「もちろん。帰ってくるのを楽しみに待ってるわ」夏鈴との通話を終えた奈穂は電話を切り、仕事を片づけようとした。そのとき、スマートフォンが二度続けて鳴り、メッセージの着信を知らせる。内容を確認した彼女は、思わず目を見開いた。ちょうどそのタイミングで、
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第983話

「今の秦グループで、秦逸斗を追い出せる人間なんて、秦音凛以外にいないだろう」「ってことは……秦家もついに本格的な内紛が始まったってこと?」……逸斗は秦グループのビルから追い出されたものの、何が起きたのかまるで理解できずにいた。出社して間もなくデスクで仕事をしていると、突然数人の警備員が押し入り、有無を言わさず彼をつかんで外に引きずり出したのだ。「お前たち、頭がおかしくなったのか!?俺は秦家の御曹司だ!会長の息子だぞ!」そう叫んでも、誰一人として耳を貸さない。それどころか、普段から付き従っている部下たちも、いつの間にか姿を消していた。引きずられていく途中、何人かの役員ともすれ違った。逸斗は必死に助けを求めたが、彼らは見て見ぬふりをして、そのまま顔を背けて通り過ぎていった。ようやく地面に放り出された逸斗は立ち上がり、入口を塞ぐように立ち並ぶ警備員たちが、警戒の目を向けていた。「お前たち、本当に正気か!?俺が誰だか分かってるのか!」「誰だろうが関係ありません。今日はこのビルには入れません」警備員は鼻で笑うように言い放った。逸斗は愕然とした。その中には見覚えのある警備員もいた。以前は会うたびに「逸斗様」と頭を下げていた男だ。だが今は視線を逸らし、逸斗の顔すら見ようとしない。衝撃のあと、逸斗はようやく悟った。――音凛だ。兄はまだ拘束されたまま、父も病床に伏している。こんな真似ができるのは音凛しかいない。しかし、秦グループ全体が彼女の命令に従っているとは……あの女は、いったいいつの間にこれほどの影響力を手に入れたというのか。父に責任を追及されるのが怖くないのか?そう思った矢先、携帯電話が鳴った。逸斗は苛立ったまま電話に出る。「何だ?」「逸斗様、大変です!秦会長が脳卒中を起こされました!医師によると、いつ意識を取り戻せるか分からないそうです!」「何だって!?」逸斗の瞳が大きく見開かれた。電話を切るなり、彼は再びビルに突進した。「音凛!お前の仕業か!」だが、数人の警備員が壁のように立ちはだかり、一歩たりとも中に入らせない。会社員たちもその光景を見ると、面倒事に巻き込まれるのを恐れ、遠巻きに避けて通っていった。逸斗は奥歯を強く噛み締めた。この場で音凛と正面か
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第984話

「水戸さん、俺はもう行くよ」奈穂はさほど驚かなかった。事情を詮索することもなく、ただ静かに言った。「それじゃあ、道中お気をつけて」「道中お気をつけて、か」逸斗は自嘲気味に笑った。「それはたぶん難しいと思う。音凛はまた俺を始末しようとしてる。俺にはあいつに対抗できる力なんてない。だから惨めに逃げるしかないんだ。あいつの目の届かない場所まで」「手腕だけで言えば、確かに音凛はあなたよりずっと上よ」奈穂は率直に答えた。逸斗は言葉を詰まらせ、しばらく沈黙したあと、苦笑混じりに言う。「こんな時くらい、少しは慰めてくれてもいいじゃない」「今さら私が慰めたところで、意味があるの?」「あるよ。いつ京市に戻れるか分からないし……俺たちがまた会えるかどうかも分からない」逸斗はそう言って、小さくため息をついた。「このところ、いろいろ考えてたんだ。今まで生きてきて、自分は何のために生きてるのか、一度も本当の意味で見つけられなかった気がして。兄貴の保釈や親父のことは、信頼できる人に頼んである。音凛はその人の存在を知らない」「お兄さんの人脈?」奈穂が尋ねると、逸斗は驚いたように目を見開いた。「どうして分かったんだ?」その人物を紹介したのは、まさに烈生だった。奈穂は内心で苦笑した。そんなことは考えなくても分かる。逸斗にそこまで先を読んで手を打つだけの器量があったなら、音凛にここまで追い詰められることもなかっただろう。「……まあ、そうだよね」逸斗は苦く笑った。「俺にそんな手際のいいことができるはずがないって思ってたんだろうね。その通りだ。兄貴が手配した人間だった。でも、兄貴さえ戻ってくれば、俺はもう家のことを心配しなくていい。そうなったら、俺はいろんな場所に行ってみたい。行ってみたかった場所を巡って、いろんな景色を見て……困っている人を助けて、今まで犯してきた過ちを少しでも償いたいんだ」「そう思えるようになったのなら、いいことだと思うわ」奈穂は微笑んだ。「本当にそうできるといいわね」「必ずそうするよ」逸斗も微笑んだ。まるで奈穂に電話を切られるのを恐れるように、彼はすぐ続けた。「水戸さん……もう一つだけ、聞いてもいい?」「どうぞ」「もし、あの頃……」逸斗は一瞬ためらったものの、意を決して口を開く。「もし最初
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第985話

逸斗から電話がかかってきたときには、正修はすでに奈穂の隣にいた。だから二人のやり取りは、最初から最後まで全部聞こえていた。正修は小さく鼻を鳴らす。「逃げる身になってまで、君に電話してくるとはな。あいつはまだ死に足りないらしい」奈穂はくすりと笑っただけで、何も言い返さなかった。逸斗に同情しているわけではない。けれど、もし彼がさっき口にしたとおり、これからは困っている人を助け、自分の犯してきた過ちを償いながら生きていくのなら、それはそれで悪いことではないと思った。正修はそんな彼女の笑顔を見た途端、胸の奥から嫉妬が込み上げてきた。不意に腕を伸ばして彼女を抱き寄せ、自分の膝の上に座らせる。そのまま彼女の唇を軽く噛んだ。「いたっ……」奈穂は思わず息を呑む。「正修!あなた、犬なの?」もちろん正修は加減していた。本気で噛んだわけではない。それでも少し痛かった。「ほかの男のことは考えるな」正修は彼女を見つめる。その漆黒の瞳には、隠しようのない独占欲が宿っていた。「私がいつほかの男のことなんて考えたの?」奈穂は呆れたように笑う。「また勝手にやきもち焼いてる」そう言って人差し指で正修の頬を軽くつついた。「私の心にも目にも誰がいるのか、一番分かっているのはあなたでしょう?」「分からない」正修はあまりにも平然と答える。「言葉にして聞かせてくれ」「分からない、ですって?」奈穂は意味ありげに微笑んだ。「今の、もう一回言ってみる?」正修が口を開くより早く、彼女はわざと顔を背け、悲しそうにため息をつく。「はぁ……せっかく真心を尽くしてきたのに、全部無駄だったみたい。あなたに踏みにじられちゃったわ」「……」正修は言葉を失った。少しからかうつもりだっただけなのに、逆に奈穂に一本取られてしまった。「変なことを言うな」彼は彼女の顎を軽くつまみ、自分のほうに向かせる。二人の視線が重なった。「先に変なことを言い出したのはあなたでしょう?それなのに今度は私のせいにするなんて。ひどいね」奈穂はなおも小言を並べ続ける。正修はそのよく動く小さな唇を見つめ、目を細めた。――やはり口を塞いでしまうのが一番早い。そう思った次の瞬間、彼は再び彼女に口づけた。奈穂は息もつけないほど長くキスをされ、ようやく解放される頃
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第986話

書斎の前まで来ると、正修は手を上げて扉をノックした。扉を開けたのは佳容子だった。彼女の顔色は優れなかったが、二人の姿を見ると、わずかに表情を和らげた。「お母さん」「佳容子さん」「帰ってきたのね。さあ、入りなさい」佳容子はそう言って脇に寄り、二人を中に通した。部屋に入ると、博と政野の親子が床に跪いており、その様子を岳男がソファに腰掛けたまま冷ややかな眼差しで見据えていた。「おじい様」岳男は軽く頷いた。「帰ってきたか」博と政野は顔を上げなくても、入ってきたのが奈穂と正修だとすぐに分かった。二人の胸には強い屈辱が込み上げた。だが今の彼らには逆らう術はない。岳男の前では、ただ黙って跪き続けるしかなかった。「自分の過ちを理解したか?」岳男は冷たい声で問いかけた。その視線は博へと向けられている。博は奥歯を噛み締め、しばらくしてからようやく顔を上げた。そして媚びるような笑みを浮かべる。「父さん、もう十分反省しています。今回は本当に魔が差しただけなんです。どうかお許しください」今回も博は裏で手を回し、正修が抱えるいくつもの取引や、重要なプロジェクトを妨害しようとしていた。しかし計画を実行に移して間もなく、岳男に見抜かれ、博と政野はそろって本家に呼び戻されたのだった。だが、岳男ほどの人物が、博の反省が本心かどうかを見抜けないはずがない。しばらく博をじっと見つめたあと、岳男は静かに口を開いた。「博、お前も正景の二の舞になりたいのか?」その一言を聞いた瞬間、佳容子の背筋がぴんと強張った。その変化に気づいた奈穂は佳容子に目を向け、瞳に隠しきれない痛ましさを滲ませる。「父さん!」博は顔色を変えた。「どうしてそんなことを……!俺はそんな――」「わしは既に、お前に一度チャンスを与えていたんだ」その言葉に、博はさらに愕然とした。岳男を見つめたあと、勢いよく正修に顔を向けた。口を半開きにしたその姿は、どこか滑稽ですらあった。――この口ぶりからすると……以前、自分が裏でやってきたことは、最初からすべて知られていたということか。自分では完璧に隠し通していたつもりだった。だが実際には、そのすべてが岳男と正修の手のひらの上だった。「父さん……」「正修はお前の甥だ。それなのに、お前は何度も陰
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第987話

博は必死に許しを請い続けた。だが、岳男の表情には微塵の揺らぎも見えない。その様子に、博の胸は恐怖で締めつけられた。「わしは言ったはずだ。既にお前に一度チャンスを与えていたんだと」岳男は冷然と言い放つ。「博、お前はこれから別の場所に移ってもらう。もうここに戻ってくる必要はない」「なっ……!」博は全身を激しく震わせた。「父さん!そんなことはダメです!俺を追い出すなんて!俺は父さんの息子ですよ!」「お前がわしの息子でなければ、今頃は『別の場所』に行く機会すら与えられなかった」岳男の表情に、情けをかける様子は一切なかった。しかし奈穂は、ソファの肘掛けに置かれた岳男の手が強く拳を握り締めていることに気づいた。――きっと、おじい様も辛いはずだ。そう思わずにはいられなかった。「父さん!」「すべてはお前自身が招いた結果だ。博、わしはお前にも公平に競い合う機会を与えた。だが、お前は実力不足を認めようとせず、家族を相手に陰湿な手段ばかり使ってきた。執着に囚われ、とうの昔に道を踏み外している。これ以上お前をここに置けば、九条家にはさらなる災いしかもたらさない」そう言うと、岳男はゆっくりと目を閉じた。その顔には、隠しきれない疲労が滲んでいる。「安心しろ。一生、衣食住に困ることはないようにしてやる」言い終わるや否や、外から二人のボディガードが入ってきた。博が泣き叫びながら懇願しても意に介さず、そのまま無理やり彼を連れ出していく。政野は顔色を真っ青にし、とっさに手を伸ばして父を掴もうとした。だが、その手は空を切るだけだった。「父さん……」政野は父が引きずられていく後ろ姿を見送り、さらに苦悩と悲しみに満ちた岳男の表情に目を向ける。胸が張り裂けそうなほど苦しかった。政野は勢いよく岳男に額を床につけた。「おじい様、悪いのは僕です!ずっと叶うはずのない望みに囚われていました。父は僕を助けようとして、あんなことをしたんです。どうか罰するなら僕を罰してください!」「もういい。父親をかばう必要はない。これまであいつが何をし、何のためにしてきたのか、わしはすべて分かっている」岳男はそう言って立ち上がった。政野の前まで歩み寄り、自らその体を抱き起こした。政野の顔を見つめ、岳男は小さくため息をつく。「だが、お前はあ
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第988話

政野は背を向けて部屋を出ようとした。そのとき、ふと奈穂に視線を向ける。何かを言おうと唇を動かしたものの、結局その言葉は口にすることなく、正修に向き直った。「兄さん……ごめん」正修は彼の肩を軽く叩いた。「もう終わったことだ。あまり気にするな。これからは、自分の人生をしっかり歩め」政野は静かに頷いた。もう一度だけ奈穂を見つめた。その胸にどんな思いを抱いていたのかは誰にも分からない。だが最後には、すべてを吹っ切ったように穏やかに微笑むと、そのまま部屋を後にした。岳男は再びソファに腰を下ろし、眉間に深い影を落とした。「おじい様」正修と奈穂はそばに歩み寄る。「ご気分は大丈夫ですか?」岳男は額を軽く揉みながら答えた。「心配はいらん」そして二人を見上げ、静かに口を開く。「明日には山の寺に戻るつもりだ。これから先、家も会社も、お前たち二人に任せる」その言葉に、奈穂の瞳がわずかに揺れた。自分と正修はまだ婚約しただけで、正式な夫婦ではない。それにもかかわらず、岳男は今日、自分をこの場に呼び、家族の内情を何一つ隠そうとはしなかった。そして今は、九条家の未来まで自分に託そうとしている。――おじい様は、本当に自分を家族として受け入れてくれたのだ。そう実感すると、胸がじんわりと温かくなった。「おじい様……ご安心ください」奈穂は正修と視線を交わし、力強く答えた。岳男は二人を見つめ、満足そうに微笑んだ。「そうだ……もう一つ。お前の兄……正景のほうは、その後どうなっている?」正修の表情がわずかに曇る。「まだ何の情報も入っていません」「いったいこの数年、あいつは何をしていたのやら……」岳男は眉をひそめ、隠しきれない不安を滲ませた。「これ以上、何事も起きなければいいが……」……清流は兄を連れ、京市を離れた。出発する前、彼は多額の費用を払って優秀な弁護士を雇い、両親の弁護を依頼した。しかし、二人の拉致罪はすでに動かぬ事実となっていた。それに君江は佐知子と龍一を徹底的に裁かせると決めている。どれほど腕利きの弁護士を雇ったところで、結果が大きく変わることはないだろう。兄弟が京市を去ったことを知ると、進は怒り狂い、罵声を浴びせた。だが今の進は、君江との争いに追われており、兄弟にまで構っている余裕は
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第989話

京市郊外の人目につかないプライベートヘリポートは、溶けることのない闇に包まれていた。識別マークのないプライベートジェットが、ほとんど音も立てず、滑るように着陸した。ゆっくりとドアが開き、昇降リフトが降ろされた。一人の男が車椅子に乗せられたまま、昇降リフトで地上へ降ろされた。ゆったりとした黒いトレンチコートを羽織り、キャップを深くかぶったその姿は、顔の大半が影に隠れていた。帽子のつばの下から見えるのは、病的なまでに青白く、痩せ細った顎の線だけ。その男は、北斗だった。かつて京市で絶大な権勢を誇った伊集院グループの社長。しかし今の彼は見る影もなくやつれ果て、力の入らない右脚が車椅子のフットレストにだらりと垂れ下がり、全身から生気のない荒廃だけが漂っていた。すでに数台の黒いSUVが待機している。無表情な黒服の男が歩み寄り、軽く一礼した。「伊集院さん、ボスがお待ちです」北斗は何も答えない。車椅子の肘掛けを握る指先は、力が入りすぎて青白く変色していた。ボディガードたちは彼ごと車椅子を持ち上げ、後部の広い高級ワゴン車に乗せる。ドアが閉まった瞬間、落ちくぼんだ眼窩の奥で、その瞳に狂気じみた凶暴な光が宿った。まるで溺れる者が最後の一本の藁にすがるような、すべてを賭けた執念だった。……車は闇の中を疾走し、やがて郊外に建つ私邸の前で停まる。リビングでは、正景がグラスをゆっくりと揺らしていた。車椅子の北斗が運び込まれると、正景は意味ありげに口元を歪める。「伊集院社長。そんな姿で故郷に戻ってきた気分はどうだ?」北斗は勢いよく顔を上げた。首筋に浮かぶ血管が呼吸に合わせて激しく脈打つ。その声は、紙やすりで擦ったようにしゃがれていた。「九条正景……そこまでして俺を呼び戻したんだ。くだらない前置きは要らない。君のために働いてやる。その代わり、九条正修を……地獄に叩き落としてくれ」「九条正修」という名を口にした瞬間、北斗の体は無意識に小さく痙攣した。骨の髄まで染み込んだ憎悪が、生理的な震えとなって現れていた。「祖父はあいつのために、叔父一家まで切り捨てた」正景はグラスをテーブルに置き、冷え切った目で言う。「安心しろ。身分も資金も、人手もすべて用意してやる。私が見たいのはただ一つ。正修が雲の上から
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第990話

「あそこは……俺の居場所だったのに……奈穂、君はどうして、あいつにそんな笑顔を向けられるんだ……?」北斗は助手席のアームレストを激しく握り締めた。爪が革に食い込み、今にも裂け目ができそうなほど力がこもっている。そのとき、不意に後部座席から、疲れと哀しみに満ちたため息が聞こえた。「もう気は済んだ?」北斗の体がぴくりと強張る。バックミラー越しに、冷え切った視線をニナに向けた。彼女の顔には疲労の色が濃く浮かび、かつて誇りに満ちていた瞳には、故郷への恋しさと今の境遇への倦みだけが宿っていた。「君にはセーフハウスで待っていろと言ったはずだ」彼の声は氷のように冷たい。「セーフハウス?あなたをここまで連れてきたのは、助けると約束したから。でも……私はもう帰りたいの」ニナは窓の外の見慣れない街並みを眺めながら、小さく呟く。目尻には一筋の涙が滲んでいた。「権力なんて欲しくない。あなたを利用して何かを奪おうとも思わない。今のあなたを見てみて。あなたの執着は、このままじゃ私たち二人とも破滅させるだけよ」「黙れ!」北斗は怒鳴り声を上げた。必死に体をひねり、ニナの手首を乱暴に掴む。その顔は鬼気迫るほど歪んでいた。「俺をあの地獄から引きずり出したことを忘れたのか!今さら帰りたいだと?俺が許さない限り、君はどこにも行けない!」ニナは抵抗しなかった。ただ、哀れむような眼差しで彼を見つめるだけだった。「……後悔してる。あなたを助けたことも、一緒にここに戻ってきたことも。水戸奈穂はもう新しい人生を歩き始めている。でもあなたは、腐りきった夢の中から一歩も出られずにいる」その言葉は北斗の逆鱗に触れた。彼は乱暴に彼女の手を振り払う。勢い余って、自分の体がドアに激しくぶつかり、鈍い衝撃音が車内に響いた。「出せ!」北斗は隣の運転手に向かって怒鳴る。灰色のセダンは静かに走り出し、車いっぱいに淀んだ空気を乗せたまま、夜の闇に溶け込んでいった。……一方その頃。邸宅では、奈穂が玄関で靴を履き替えていた。ふと、その手が止まる。何かを感じ取ったように、無意識に窓の外に視線を向けた。「どうした?」後ろから正修がそっと抱き寄せる。「何でもないわ」奈穂は小さく首を振った。「ほんの一瞬だけ……誰かに見られているような気がした
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