All Chapters of 夜風に醒める心: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

翔真は一瞬言葉を失ったが、すぐに小さく鼻で笑った。「佐伯さん、何を言ってるんですか?佐伯家と藤原家が競合なのは昔からのことです。だが、それは親世代の因縁であって、女を巻き込む話じゃない。彩花は俺の婚約者です。一線を越えないでいただきたい」恭介は気怠そうに視線を上げ、口元に冷たい笑みを浮かべた。「藤原家くらいの実力では、俺に指図できると思うか?」「なに……!」翔真は拳を握りしめたが、次の瞬間には力を抜いて深く息を吐いた。「……今日は美月ちゃんの大事な日です。あなたと口論する気はありません」そう言いながらも、翔真は彩花を振り返る。だが彼の不安は解消されるどころか、むしろ募る一方だった。彩花の瞳は静かで、翔真を見つめても愛情は宿っていなかった。翔真は焦りを隠すように笑みを作る。「彩花、美月ちゃんを見送りに来たんだな、やっぱりお前は優しい。この荷物も……美月ちゃんのために用意した結婚祝いなんだろ?俺が持っていくよ」そう言ってスーツケースに手を伸ばしたが、恭介の手が先に押さえ、びくとも動かない。翔真は声を荒げた。「何のつもりだ?花嫁を迎えにきたのではなく、喧嘩を売りにきたのか!」そのとき、彩花の冷ややかな声が響いた。「手を離して」翔真は勝ち誇ったように笑った。「聞いたか?彩花が手を離せと言ってる。あなたが彩花を利用して藤原家を潰そうとしても、肝心の彩花が同意しなきゃ話にならないだろ」しかし恭介は薄く笑みを浮かべるだけだった。まさか、藤原家の跡継ぎがこんなにも救いようのない馬鹿だとは、思ってもみなかった。「翔真、手を離してって言ってるの」彩花の声が再び響いた。翔真の笑顔が凍っていく。「え?」「佐伯家に嫁ぐのは私よ、だからもう手を離して、遅れたら大変だから」翔真の表情が固まる。信じられないものを見るように彩花を凝視し、それから正一と美佐子へ視線を向けた。「おじさん、おばさん……これは一体……?」重い沈黙のあと、正一が深いため息を漏らす。「本来、佐伯家に嫁ぐのは美月のはずだった。だが先日、彩花が私にこう言ったんだ。自分が嫁ぎたいと。しかも嫁入り道具に一千億を用意しろ、さもなければ美月とお前が不義を働いたと触れ回ると脅してきた……だから――」言葉が最後まで続く前に、翔真
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第12話

翔真は美月の手を引き、一度も振り返らずに屋敷の奥へと入っていった。美佐子が慌てて前に出て、彩花に声をかける。「彩花……お父さんを責めないでやって。あの人も取り乱して、つい言葉が過ぎただけで――」言葉の続きを、彩花の冷たい仕草が断ち切った。「私はもう子どもじゃないわ。そんな稚拙な嘘でごまかせると思わないで」それだけ言い残し、彩花は恭介と並んで屋敷を後にした。去り際、恭介が意味深な視線を二階のバルコニーに向けた。そこに立っていたのは翔真だった。美月を部屋まで送ったあと、翔真は気づけばバルコニーに出ていた。彩花が恭介に嫁いだのはただの意地だと信じていた。時間が経てば気持ちも落ち着き、きっと自分のもとに戻ってくる。その時に美月を嫁がせれば、すべては元通りになるはずだ。むしろ今回の件で、彩花は「自分を失う恐怖」を知り、かえって離れられなくなるだろう――そんな打算すら抱いていた。翔真は口元に薄い笑みを浮かべ、スマホを取り出す。十五日後は、彩花との交際七周年の記念日。画面を見つめながら、彼は小さく呟いた。「彩花……お前は、いつまで耐えられるだろうな」だが、彩花と恭介の背中が完全に視界から消えた瞬間、その顔からは笑みが抜け落ち、翳りが広がった。階下へ戻ろうとしたところで、美月が行く手を塞ぐ。「翔真くん、どこに行くの?」「友人が帰国してね、一緒に食事をすることになってるんだ」美月は不安げに唇を噛みしめ、潤んだ瞳で彼を見上げた。「……私も連れて行ってくれない?お姉ちゃんがいなくなって、一人じゃ寂しいの」翔真は一瞬ためらったが、結局は頷いた。レストランの個室に入ると、すでに友人たちが揃っていた。翔真を見るなり、みんな立ち上がって声をかける。「翔真、遅れるなんて珍しいじゃないか」その背後にいる美月に気づき、みんな納得したように頷く。「なるほど、今日は美女を連れてきたからか。噂の六年も付き合った彼女だろ?やっと顔を見せてくれたな」「幼なじみでずっと一緒だったんだろ?羨ましいもんだ」翔真が否定の言葉を探すより先に、美月がグラスを手に取り、にこやかに口を開いた。「みなさん、今日は本当にすみません。私のせいで翔真くんが遅れてしまって……お詫びの印として、一杯いただくわ」そう言って一気に飲み干す。
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第13話

一晩中酒に溺れ、翔真が目を覚ましたのは翌日の午後だった。まだ頭がぼんやりしているところで、また別の友人から電話が入る。その日だけでなく、気づけば二週間近く、彼は仲間たちと飲み屋を渡り歩いていた。今回集まったのは、ずっと国内にいた古い友人たちだ。彼らも、彩花が佐伯家に嫁いだことは知っていた。盃が飛び交う中、翔真はただ黙々と酒をあおる。そんな彼を見て、隣の友人が心配そうに声を掛けた。「翔真、彩花を放っておいて本当にいいのか?もし彼女が本気で佐伯を好きになったらどうするんだ?」翔真は笑みすら浮かべ、酒を一気に飲み干した。「ありえない。俺たちは何年も一緒にいたんだぞ。そう簡単に他の男を好きになるはずがない。それに、今回はあえて距離を置いたんだ。じゃないと、あのわがままな性格はいつだって直らないさ」友人は口を開いたが、結局何も言わず、ただ深いため息をもらした。宴が終わり、翔真は千鳥足で自宅へ戻った。さきほど友人が言った言葉が、頭の中で何度も反響する。ふとスマホを開くと、明日が彩花との交際七周年の記念日だと気づいた。だが、彼女からのメッセージは一通も届いていない。翔真はスマホを何度も再起動し、チャット画面を何度も更新した。しかし、画面は空っぽのままだった。胸の奥に、嫌な予感がじわじわと広がる。「まさか……彩花、佐伯家で閉じ込められてるんじゃ……?あの男は気まぐれで、何をしでかすかわからない。彩花は気が強いし……もし、あいつと衝突したら……」そこから先を考えるのが怖くて、翔真は思考を遮った。居ても立ってもいられず、彼は彩花にメッセージを送った。だが、いつまで経っても既読がつかなかった。慌てて電話をかけても、無機質な音声が流れるだけだった。「おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります──」その瞬間、酔いが一気に醒めた。彩花は、彼をブロックしたのかもしれない。部屋の隅には、七周年を祝うための飾りが置かれている。その光景を目にした途端、胸の奥に初めて恐怖が芽生えた。──彩花はもう戻らないのかもしれない。何なら、本当に恭介のことを好きになったかもしれない。しばらくぼうっとすると、翔真は酒棚に手を伸ばし、ありったけのボトルを引きずり出す。アルコールが喉を通り過ぎ、
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第14話

美月が部屋に足を踏み入れた瞬間、息を呑んだ。床一面に酒瓶が散らばり、ざっと数えると数十瓶くらいはあった。「翔真くん……これ、どうしたの?なんでこんなに飲んだの?」彼女の問いかけに、翔真はぼんやりと視線を向ける。だが目の前の愛らしい顔が焦点を結ばず、代わりに彩花の姿ばかりが脳裏をよぎった。そして記憶は、彩花が佐伯家へ嫁いでいった日の冷ややかな光景で止まる。あの日の寂しい空気が、今も胸の奥を締めつけていた。よくよく考えてみれば、正一の言葉にもおかしな点がある。翔真は正一の性格をよく知っていた。誰にも屈しない、頑固一徹の男だ。そんな彼が彩花と恭介の結婚を許したのは、半ば彼自身の意思に違いなかった。だが当時の自分は頭に血がのぼっていて、正一の話を疑う余裕すらなく、すべてをそのまま信じ込んでしまった。それに――たとえ家族と彩花の間に確執があったとしても、娘をあんなにも寂しい形で送り出すだろうか。疑念が膨らみ、翔真の胸に一つの考えが浮かんだ。……正一も美佐子も、もしかして彩花を本当に愛していないのではないか。ふと、あの日彩花が口にした言葉がよみがえる。「両親が美月を甘やかすのも、彼女が佐伯家に嫁ぐからだと思ってるの?」彼女がそう質問する意図を深く考えなかったが、今思い返せば不自然な点はいくつもあった。翔真が沈黙に沈んでいると、美月が手をひらひらさせて彼の目の前に差し出した。「翔真くん?何を考えてるの?大丈夫?」翔真は深く息を吐き出し、短く答える。「……大丈夫だ」だが、美月の直感は働いていた。彼が何かを隠している、と。思い当たることと言えば一つしかない──彩花が自分の代わりに佐伯家へ嫁いだことだ。しばし考えたのち、美月は声を落として言った。「翔真くん……またお姉ちゃんのこと考えてるんでしょ?私にはわかるよ。あんな形で嫁いでいったなんて……翔真くんだって、本当は辛いよね。だって、二人はあんなに仲が良かったんだもの。もし私がお姉ちゃんだったら、絶対にあなたを置いて行ったりなんてしなかった。家族はみんなお姉ちゃんを大事にしてきたのに……あの人、自分のことばかりで、佐伯家に行って贅沢することしか頭にないなんて。本当にひどい人だよね」その言葉に、翔真の眉間がぴくりと動く。美月に向ける視線に、かすかな苛立
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第15話

昔なら、翔真は美月の言葉を聞いて、彼女を思いやりがあって、器の大きい子だと感じていたに違いない。だが今は――翔真がふと視線を上げると、美月の耳に揺れる青いダイヤのピアスが目に入った。それは、世界に一対しか存在しないオークションの逸品。彼ははっきり覚えている。以前彩花はどうしても欲しがって、正一に何度もねだったはずだ。なのに今、それが美月の耳にぶら下がっている。思わず問いかけていた。「そのピアス……好きなのか?お前、青は嫌いだったはずだろう?」美月の表情が一瞬こわばり、視線が揺れる。「……父さんがくれたの。あまり好きじゃないけど、断れないから……」「本当に?」彼女は苦笑を浮かべ、とにかく頷いた。翔真は小さく息を吐くだけで、言葉を継がなかった。その態度がかえって美月を不安にさせる。胸の奥を、じわじわと黒い影が覆っていく。――もうすぐ、この人を失ってしまうかもしれない。そう直感した美月は、さらに一押ししようと口を開いた。「翔真くん、そんなことよりお姉ちゃんの話をしよう?明日、佐伯家に行ってお姉ちゃんを連れ戻してあげるよ。でも……あの人が戻ってきてくれるのかな。佐伯家ほどのお金も地位も、うちにはないもの」その言葉に、翔真の眉間に深いしわが寄った。彼は薄々気づいていた。美月が遠回しに「彩花は虚栄心に駆られている」と印象づけようとしていることを。だが彼の胸の奥には、確信があった。彩花はそんな人間ではないと。「やめろ、さっきも言ったはずだ。彩花はそんな人じゃないって」冷たい声音に、美月の焦りが滲む。「じゃあ聞くけど、彼女がどうして父さんに一千億もせしめたの?佐伯家に嫁いだのだって、あなたと喧嘩した勢いか、贅沢がしたかったか……私たちに断言できるわけがないでしょ?翔真くんは優しすぎるの。世の中、あなたみたいな純粋な人ばかりじゃないのよ」「せしめる」という言葉は、翔真には耳障りだった。「父親が娘に嫁入り道具を持たせる、それのどこが『せしめる』というんだ?もしお前が佐伯家に嫁いで、おじさんからお金を渡されたら、それもせしめることになるのか?」美月の顔色が赤くなったり青ざめたりを繰り返す。しばらくして、彼女はようやくしぼり出すように言った。「そ、そういう意味じゃないの…
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第16話

美月は目尻ににじんだ涙を指先で拭い、しゃくり上げながらか細い声でつぶやいた。「翔真くん……今夜、ここに泊めてくれない?外はもう真っ暗で……ひとりが怖いの」しかし翔真は、即座に首を横に振った。「美月ちゃん、今日はかなり酒を飲んだ。こんな状態じゃお前の面倒まで見きれない。それに――男女が同じ部屋で一晩過ごすなんて、お前の評判に関わるだろう」「でも……」「だめだ」冷ややかな声音が、美月の言葉をぴしゃりと遮る。あまりにきっぱり拒まれて、美月はそれ以上なにも言えなかった。未練を滲ませるように振り返り、名残惜しげな視線を残して部屋を出ていった。――その頃。山城家の別荘は夜更けにもかかわらず明かりがこうこうと灯っていた。正一は居間を落ち着きなく行ったり来たりし、焦る様子を隠そうともしない。「あなた、お願いだから少し休んで。私まで目が回ってきたわ」こめかみを押さえながら、美佐子が疲れた声を漏らす。正一は深いため息をついた。「休んでいられるか!このまま出資先が見つからなければ、資金繰りは完全に詰むんだぞ。佐伯家に送ったメッセージも音沙汰なしだ……」苛立ちを紛らわすように葉巻きたばこに火をつけ、紫煙に顔を隠したそのとき、美月が帰宅した。鼻を覆い、眉をひそめる。「父さん、何度も言ったでしょ?家でタバコ吸わないでって。私、煙の匂い大嫌いなの」いつもの正一なら慌てて火を消したはずだ。だが今夜は表情を険しくし、「部屋に戻れ」と突き放した。父のそんな態度は、美月が戻ってきて以来初めてだった。彼女はその場に立ち尽くし、目尻にまた涙をにじませる。「あなた、娘に八つ当たりしてどうするの?」美佐子が慌てて美月の手を取った。「ほら、美月、部屋で休みなさい」無表情のまま、美月は自室へ向かった。――どうしてこんなことになったの?今まで、翔真も父も、自分を一番に考えてくれていたのに。彩花が佐伯家に嫁いでから、すべてが変わってしまった。翌朝、まだ空が白み始めた頃、山城夫妻は翔真の家の玄関を叩いた。彩花の一件もあり、翔真の胸中にはしこりが残っていたが、それでも礼儀を守って応じた。「おじさん、おばさん……こんなに朝早くから、どうしたんだ?」正一は重々しく息を吐き、口を開いた。「ここ数日、自分たちの
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第17話

それは三年前のことだ。当時、彩花に好意を抱いている成金の御曹司がいて、彼女と一度食事をするために、法外な額を惜しみなく使っていた。そのとき翔真は、強烈な危機感に駆られ、こっそり彩花のスマホに位置情報アプリを仕込んだのだった。三年が経ち、アプリの存在をすっかり忘れていたが、彩花との思い出を見返しているうち、偶然それが目に入り――試しに開いてみると、今もなお動作していたのだ。リアルタイムで示された彩花の居場所。胸が高鳴り、これは神様が与えた最後の機会だと翔真は思った。本来なら、誰にも告げず自分ひとりで会いに行くつもりだった。だが、その矢先に正一と美佐子が訪ねてきた。二人まで連れて行けば、彩花の怒りを買うのは目に見えている。けれど、やつれ果てた顔を前にしては突き放すことなどできなかった。「……彩花の居場所は知っている。最短の便で一緒に行こう。彼女を連れて帰るんだ」すかさず美佐子が口を挟む。「……でも、彩花を連れ戻したら、美月はどうなるの?」その言葉を、正一の鋭い視線が遮った。「彩花も私たちの娘だ。連れ戻すのに理由はいらん」その様子に、翔真の胸にはどうしようもない苛立ちが広がる。だが、一度口にしてしまった以上、もう後には引けない。むしろ両親を同行させれば、彩花の情に訴えることができる。そうすればきっと、親の顔に免じて戻ってきてくれるはずだ。そして一度連れ帰ってしまえば、二度と佐伯家には戻させない――翌日、飛行機が着陸すると同時に、翔真はアプリの位置情報を頼りに彩花を見つけた。すぐに声をかけるのではなく、彼は遠くから彩花を眺めた。彼女は川辺の公園でスケッチブックを広げ、午後の光を浴びながら筆を走らせていた。陽射しに照らされた髪が金色に輝き、その眩しさに息を呑む。わずか一週間会わなかっただけなのに、彩花はさらに目を奪う存在に思えた。ふとスマホに映る自分の顔を見やる。目の下の窪み、覆い隠せない疲弊。二人のあいだに横たわるものは、もはや簡単には埋められない溝だった。翔真が動くより先に、正一が駆け寄っていた。突然現れた父親を見て、彩花の眉がぴくりと動く。「……どうしてここがわかったの?」その視線が正一の背後へ移り、母と翔真の姿を捉えると、瞳の奥がさらに冷たくなる。「……揃いも揃って、ど
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第18話

美佐子は彩花の手をぎゅっと握りしめ、必死に訴えかけた。「何を言うの、彩花。あなたは私たちの最初の子よ。父さんも母さんも、あなたを愛してきたに決まってるじゃない!」彩花は静かに母の顔を見つめ、ふと美月のあの日の言葉を思い出す。胸の奥で信じてきた「優しい母」という姿が、音を立てて崩れていく気がした。「……違う。あなたたちが愛してるのは私じゃなくて、権力と地位よ」そして視線を母に移し、声を低くした。「いや、父さんが愛してるのは権力と地位で……母さんが愛してるのは、別の誰か。母さん、今まで本音を隠し続けてきて、本当にお疲れ様」唐突な言葉に美佐子の頬から血の気がすっと引いていった。正一はただ会社のことしか頭になく、娘の言葉の裏を読み取ろうともしない。「彩花!こんな時に何を言ってるんだ?うちの会社がピンチなんだぞ!実家が破産するのを見て見ぬふりをするのか!小さい頃、お前のせいで妹が迷子になった。そのあと何年も、私と母さんの愛情を独り占めにしただろう?妹が戻ってきたら今度は敵視ばかりして……それも全部大目に見てきた。私が甘やかしたせいだとな。だが今は本当に山城家が大変なんだ。頼む、父さんを見捨てないでくれ!」その必死の訴えに彩花がふっと笑うと、正一が目を見張った。「……なにがおかしい!」直後、彼は手を振り払うように声を荒らげる。「とにかく恭介くんを呼び出せ!言わなくてもお前にはわかると思うが、山城家があってこそ今のお前がいるんだ。もし山城家が潰れたら、恭介くんが今まで通りにお前を大事にすると思うのか?」そのとき、少し離れた場所から落ち着いた低い声が響いた。「するさ」振り向いた一同の視線の先に、恭介が立っていた。彼は静かに彩花の肩を抱き寄せ、温かな眼差しを向ける。「遅くなってすまない。ひとりで抱えさせてしまったね」彩花の唇に安堵の笑みが浮かんだ。「大丈夫よ。私は平気」その笑顔が、翔真の胸を鋭くえぐった。――彩花が本当に恭介に恋をした。もう仮初の夫婦でも、取引の結果でもない。本物の想いがそこにある。たった一週間で、どうしてこんなことになったか、翔真は理解できず、言葉を失った。彼の迷いを見透かすように、恭介が言葉を続ける。「俺が愛してるのはいつだって彩花だ。山城家がど
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第19話

正一の目が一瞬で暗く濁った。彩花の言葉を信じたくはなかったが、美佐子の頬を伝う涙を見た瞬間、すべてを悟った。「……その男は、誰だ」声を押し殺すように問う正一。美佐子はただ嗚咽を漏らすばかりで、なにも答えない。焦れた正一が声を張り上げる。「その男は誰だ?……日野隆、あいつなんだろう?」美佐子は何も答えなかったが、自分の推測が的中したと正一がわかった。三十年の歳月で昔の出来事などとうに薄れたはずなのに、あの名だけは心に焼き付いていた。かつて、美佐子は貧しい青年、日野隆(ひの たかし)を愛していた。だが家族に結婚を猛反対され、そこへ現れたのが彼女に密かに想いを寄せていた正一だった。正一は結婚を申し込み、そのまま美佐子は山城家に嫁ぎ、二人は夫婦としての年月を重ねた。美佐子はもう隆のことを忘れたと正一が思っていた。だが、まさか結婚してわずか三年後に、美佐子は隆との子を産んでいたとは。そして正一は、その子を我が娘だと信じ、愛情を注いできた。正一は悔恨の色を浮かべながら彩花を振り返る。だが、彩花は冷たく視線を逸らした。そのとき、不意に背後から美月の声が響いた。「やっぱり……お姉ちゃんに会いに来たのね?どうして私だけ家に置いていったの?」涙で潤んだ瞳、赤くなった鼻先。美月は駆け寄りながら、次々と言葉を吐き出す。「お姉ちゃんが嫌だって言ったからでしょ?……もういい。お姉ちゃんの考えを優先して私を置いていったんなら、もう私がどこへ行こうと構わないよね?」吐き捨てるように言うと、美月はくるりと背を向け、遠ざかっていった。だが、その場にいた誰もが、先ほど明かされた真実に心を揺さぶられ、彼女を引き止める余裕すらなかった。誰からも声がかからないと気づいた美月の胸に、苛立ちが一層募っていく。「……やっぱり、誰も私のことなんて愛してなかった。二十年も家にいなかったから、お姉ちゃんのほうが可愛いんでしょ?だったら……私なんて戻らなきゃよかった!」暴走する感情は、やがて彩花へと突き刺さる。「それにお姉ちゃん!私の代わりに佐伯家に嫁いで、父さんから一千億を受け取ったんでしょ?だったら約束どおりにしてよ!今さら悲劇のヒロインみたいな顔して、連れ帰ってもらおうなんて甘えは通じないんだから!」言い終えるや、翔真
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第20話

正一の手はかすかに震えていた。いつもは厳格な顔に、今は動揺の色が浮かんでいる。彼はこれまで、美月に少しも不自由をさせまいと心を砕き、失った二十年を埋め合わせるように愛情を注いできた。なのに――娘の口から飛び出した言葉は、胸をえぐるように突き刺さる。正一は深く息を吸い込み、低い声で問いかけた。「……この二十年、お前はどこで暮らしていたんだ」美月が戻ってきたとき、彼は過去を無理に思い出させたくなくて、これまで一度も詳しく尋ねたことはなかった。だが今、その沈黙がかえって不安を呼び起こす。もしかすると――すべてを知っていたのは美月で、自分だけが愚かにも騙されてきたのではないか。問い詰められた美月は、わずかに後ずさりし、視線を逸らした。「……昔のことなんて覚えてないの。子どもの頃の記憶だし」長年、商売の世界で修羅場をくぐってきた正一の目は誤魔化せない。彼は苦笑し、視線を美月と美佐子の間で往復させた。「……そうか。二人とも……大したものだな」その言葉に美月ははっとして、ようやく母の腫れぼったい目元に気づいた。すぐに悟る――父は、もうすべてを知ってしまったのだ。「父さん!」美月は慌てて正一の腕にすがりつく。「あれは母さんたちの因縁で、私には関係ないの!本当に、私はずっと父さんを実の父だと思ってきたんだから――」「もういい」正一は手を上げて制した。「……少し、一人にしてくれ」一瞬の沈黙。だが、美月はまた彩花を睨みつけ、激しく詰め寄る。「またお姉ちゃんなんでしょ?どうしていつも私を目の敵にするの?ここまで追い詰めなきゃ気が済まないわけ?」彩花は冷ややかに笑い、小さなレコーダーを取り出した。本来なら、録音を流すつもりはなかったが、今気が変わった。再生ボタンが押され、美月の声が響き渡る。「さすがお姉ちゃん、気づいたんだ。でも気づいたところで、何になるの?二十年前、あなたは私を見失った。二十年後はわざと林に置き去りにした。……ねえ、父さんたちはどっちを信じると思う?お姉ちゃん、それとも私?そういえば――お姉ちゃん、もうすぐ佐伯家に嫁ぐんだってね。結婚祝い代わりに、ずっと隠してた秘密を教えてあげるよ。どうせいなくなるんだし、すっきり『さようなら』したほうがいいでしょ?実はね、私がこのタイミングで戻って
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