All Chapters of 夜風に醒める心: Chapter 1 - Chapter 10

27 Chapters

第1話

豪奢な洋館の中、壁に反射する冷たい光が、山城彩花(やましろ あやか)の姿をまだらな影の中に沈めていた。彼女は「嫁ぐ」と書かれた紙切れを強く握りしめ、指先の関節が白く浮き上がっている。母の美佐子(みさこ)がそっと彼女の肩に手を置いた。「彩花、こっちを引いたなら結婚の準備を始めなさい。一週間後には――」言葉を遮るように、彩花は涙で赤くなった目を上げた。「私はもう翔真と婚約してるのよ!どうしてくじ引きの結果一つで、佐伯家に嫁がなきゃならないの?」母が答えるより先に、父の正一(しょういち)が険しい顔で前に出た。「山城家と佐伯家の政略結婚は避けられん!お前の妹が見つかったばかりなんだ。あの子を遠くへ嫁がせるわけにはいかないだろう?それに佐伯の御曹司は気分屋だ。あの子のように世間知らずでは、到底太刀打ちできん。お前が代わりに行くしかないんだ。忘れたのか?二十年前、お前が妹を見失ったせいで、どれだけ大騒ぎになったと思っている。償う気持ちがあるなら、これがその機会だ!」ひとつひとつの言葉が、重い鞭のように彩花の胸を打った。娘であることに変わりはないのに、妹を庇うためなら、彼女を犠牲にするのは構わないというのか。あの日、まだ六歳の自分に妹を守れるはずもなかった。もし父が商談にかまけて、二人を遊園地に置き去りにしなければ、あんなことは起きなかったはずなのに――けれど矛先はいつも彩花へと向けられ、彼女は罪悪感に縛られて生きてきた。美佐子は追い打ちをかけるように告げる。「彩花……翔真くんがあなたに冷たくなったこと、気づいているでしょう?それでも縋りつくつもりなの?」鼻の奥が熱くなり、言葉が詰まる。妹の美月(みづき)が家に戻ってからというもの、両親は彼女ばかりを気にかけた。彩花も必死に償おうと、部屋いっぱいになるほどの宝石や服を惜しみなく贈り続けた。だが美月は「見せつけるためだ」と敵意をむき出しにし、被害者ぶった芝居まで打っては両親の同情をさらっていった。やがて両親の心は完全に妹の側に傾き、彩花は次第に孤立されていった。唯一の救いは、幼なじみの藤原翔真(ふじわら しょうま)だけだった。彼だけはずっと自分を信じ、味方でいてくれる――そう思っていた。けれど、いつからか翔真の口から頻繁に妹のことが出るように
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第2話

父の了承を得た彩花は、振り返ることもなく屋敷を飛び出した。外はしとしとと雨が降り続き、頬を伝う涙はすぐに雨粒と混ざって跡形もなく消えていった。帰宅して濡れた服を着替えている時、翔真が玄関から入ってきた。鼻歌を歌い、ご機嫌な様子。だが、視線の先に彩花の姿を見つけた瞬間、その笑みは凍りついた。翔真はとっさに一歩退き、左手を背中に隠す。ぎこちない笑みが唇に張り付いた。「……もう帰ってたのか?おじさんたちに呼ばれてたんじゃ?」彩花は返事をせず、彼の左手に目を据えたまま歩み寄った。そして隠された手を掴み取る。無理やり引き出した指先には、見慣れぬ指輪が光っていた。その輝きに視界が滲む。「ふっ……ペアリングまでつけて。次は籍でも入れるつもり?」翔真は気まずげに鼻先をこすった。その仕草を、彩花は誰よりも知っていた。幼い頃から二十六年、彼の些細な動きまで全部読み取れてしまう。「……もう、籍を入れたのね?」胸の奥から深い溜息がもれた。覚悟はしていたはずなのに――自分の婚約者が、妹と密かに夫婦になっていた現実は、刃のように心をえぐった。それ以上言葉を交わす気力もなく、彩花は浴室へと向かおうとした。雨に打たれたままでは、すぐに風邪をひいてしまう。だが背後から手首を掴まれる。「待ってくれ、彩花!誤解しないでくれ。これも全部お前のためなんだ。お前はずっと美月ちゃんに負い目を感じてるだろ?だから代わりに俺が補ってやろうと思っただけだ。美月ちゃんはすぐに佐伯のところへ嫁ぐ。あんな男と結婚したら不幸になるのは目に見えてる。だからその前に少しでも楽にしてやりたかったんだ。彼女との結婚は形だけのものだ、時期が来たらすぐに離婚する。リングだって体裁のために過ぎない。俺が本当に愛してるのはお前なんだ、彩花……俺たちの間に、これっぽっちの信頼もないのか?」必死に言い募る翔真を見つめながら、彩花はふとわからなくなった。いつから彼は妹を「美月ちゃん」と、親しげに呼ぶようになったのだろう。いつから彼の心は変わってしまったのだろう。彩花は小さく首を振り、冷えた声で告げた。「雨に濡れたの。先にお風呂に入らないと」かつては彼女の気持ちを敏感に読み取り、寄り添ってくれた恋人。けれど今目の前にいるのは、ただ美月しか見え
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第3話

翔真がスマホを覗き込み、画面に浮かんだ文字を見た瞬間、口元にかすかな笑みが浮かんだ。彩花もメッセージを確認する。送り主は美月だった。【お姉ちゃん、さっきから翔真くんはお姉ちゃんと一緒だったよね?そろそろ返して?】その一文を見ただけで、美月の得意げな表情が目に浮かぶようだった。彩花は無言で画面を消す。顔を上げれば、翔真と目が合った。彼は申し訳なさげな笑みを浮かべる。「彩花、悪いな。緊急の会議が入っちゃって、もう出なきゃいけないんだ。終わったらすぐ帰るから、なぁ?」優しく聞こえる言葉に、拒絶を許さぬ響きがあった。彩花は皮肉めいた笑みを浮かべ、じっと彼を見つめて問いかける。「……行かなきゃダメなの?」わずかにためらった後、翔真は強くうなずいた。「ああ」「そう、いってらっしゃい」あまりにあっさりとした返事に、翔真はかえって言葉を失い、結局何も言わぬまま部屋を出ていった。再び一人きりになった部屋で、彩花の脳裏に浮かんだのは、翔真が口にしたピンクダイヤのネックレスだった。ずっと前から心に留めていた品。今のうちに、自分で買ってきてこよう――そう思い立ち、彩花は支度をして家を出た。ところが百貨店に足を踏み入れた瞬間、視界に飛び込んできたのはあまりにも見慣れた二人の背中。翔真と、その隣に並ぶ美月。そして美月の手には、まさに彩花が長く憧れていたピンクダイヤのネックレスが握られていた。彩花は迷わず歩み寄り、店員に声をかけた。「すみませんが、そのネックレス、確かシリーズ最後の一点よね?半年前に予約したのは私だけど」店員は三人を交互に見やり、戸惑いを隠せない。――わずか半年の間に、この男性の隣にいる女性が入れ替わったことに気づいたのだろう。彩花が現れたことに翔真は言葉を詰まらせた。「俺は……取引先への贈り物を探しに来てて、偶然、美月ちゃんと会ったんだ。それで……」しかし彩花は彼の言葉を無視し、視線を外さぬまま店員に告げる。「ネックレスのお会計をお願い」店員は困ったように首を傾げた。「ですが……ご予約は藤原様のお名前で承っておりまして……」その時、美月が涙をにじませながらネックレスをそっとトレイに戻した。「これはもともとお姉ちゃんのものだもんね。私なんかが手を出しちゃいけなか
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第4話

翔真の眉間に皺が寄る。その視線の先で、美月の瞳には涙がにじんでいた。「お姉ちゃん、怒らないで。ネックレスは返すから……私、お姉ちゃんと争うつもりなんてないの」そう言って、美月はネックレスを外そうと手を伸ばす。だが指先が触れる前に、翔真の手がその動きを止めた。「これは俺が贈ったものだ。外す必要はない」冷たい声が彩花に向けられる。「美月ちゃんは二十年も人の顔色を伺いながら生きてきたんだ。そんな子にまできつい態度を取るなんて……お前だって彼女が何より家族を大事にしてることくらい知ってるだろ?なのに――」「もういい?」彩花が低く遮る。「まだ続けるなら勝手にして。二人がイチャついているところを見る暇がないから」立ち去ろうとする彼女の腕を、翔真が慌てて掴んだ。「彩花、誤解するな!俺と美月ちゃんはお前が考えてるような関係じゃない!みんなの前でそんなこと言ったら……まるで美月ちゃんが姉の恋人を奪ったみたいに聞こえるだろ?そんな噂に、美月ちゃんが耐えられるわけない!」必死な翔真の顔を見て、彩花はかすかに笑った。「ふん……奪ってないとでも?」「もちろんだ!」握られた腕に力がこもり、彩花は息を呑むほどの痛みを感じた。だが翔真はまったく気づいていない。「二度とそんなことを言うな。これが最後の警告だ」そう言い捨てて手を離すと、翔真はすぐに美月の隣に戻り、優しく宥めながら次々と高価なジュエリーを選び始めた。美月が目を留めたものは、すべて迷わず購入してあげた。美月が笑顔を見せると、翔真の顔にも同じ柔らかさが浮かんだ。その瞳には、隠しきれない愛情が滲んでいる。そんな光景に、彩花は自嘲の笑みを浮かべて背を向ける。――そのとき、突如として館内に警報が鳴り響き、天井が大きく崩れ始める。三人が出口に向かおうとした瞬間、頭上の天井が今にも落ちそうに軋んだ。次の刹那、美月が翔真を突き飛ばし、彩花の腕を掴んで引き寄せる。振り返った翔真の目に飛び込んできたのは――がれきに脚を挟まれ、血を流す美月の姿だった。「美月ちゃん!なんて無茶を!俺が守ってあげるべきだったのに、なぜ突き飛ばした……!」美月は苦しげに、それでも微笑みを浮かべる。「考える余裕がなかったの。ただ……あなたに怪我してほしくなかっただけ」翔真の顔には
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第5話

彩花は一人で病院へ向かった。処置室で傷を見た看護師は、思わず声を上げそうになる。「こんなにひどい怪我……ご家族は?お一人で来たんですか?」彩花は小さく頷くだけだった。子どもの頃から人一倍痛みに弱かったのに、今は涙すら流れない。――もう泣き尽くしてしまったから。処置を終えて廊下を歩いていると、病室の中から聞き覚えのある声が耳に届いた。ふと視線を向けると、美月がベッドに腰掛けており、その周りを美佐子や正一、そして翔真が囲んでいる。美佐子はリンゴの皮を丁寧にむき、ふだんは感情を見せない正一の目にも涙がにじんでいた。翔真は美月の手を固く握り、寄り添うように心配している。まさに家族の温もりに包まれた光景――けれどその輪の中にいるはずの彩花だけが、なぜかよそ者のように感じられた。立ち去ろうとした矢先、回診の看護師が声をかける。「失礼ですが、どなたですか?お見舞いの方?」その言葉に、病室の視線が一斉に扉口へと注がれた。彩花の姿を認めた瞬間、翔真は咄嗟に美月の手を放す。美月の眉がわずかに寄り、ほんの一瞬、不快そうな色が浮かんだが、すぐに消え去ったのだった。彼女は彩花の傷だらけの姿を見て、目を光らせると声を張った。「お姉ちゃん、どうして入って来ないの?大丈夫、あなたを責めたりしないから」予想外の言葉に、室内の全員が凍りつく。彩花自身も。翔真が眉をひそめる。「美月ちゃん、それはどういう意味だ?」美月は怯えたふりをしながら、彩花をちらりと見て慌てて手を振った。「べ、別に何でもないよ……」正一の低い声が響く。「父さんがついてる、心配するな」美月は唇を噛みしめて、わざとらしく言葉を続けた。「今日ね、百貨店で好きなネックレスを見つけて、翔真くんが買ってくれたの。でもお姉ちゃんは少し不機嫌で……その直後に天井が崩れたの。私は翔真を突き飛ばして逃げられたはずのに、お姉ちゃんに引き戻されちゃって……」その先は言わずとも、十分すぎるほど意味が伝わった。正一は机を叩きつけ、コップの水が跳ね散る。「彩花!妹がそんなに目障りか?うちの娘はお前ひとりじゃないんだぞ!」翔真も勢いよく立ち上がり、彩花の腕を乱暴に引き寄せた。「彩花、美月ちゃんに謝れ!」無理に引かれた拍子に傷口が開き、彩花は唇を噛んで
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第6話

彩花が家に戻ると、間もなく翔真からメッセージが届いた。【今夜は用事があるから、外に泊まる】彩花は即座にトーク画面ごと削除した。目障りな文字列を、これ以上目にしたくなかったのだ。指を折って数えてみれば、結婚式まで、もう時間があまり残されていない。洋服をスーツケースに詰め、引き出しを片づけていると、一通の黄ばんだ手紙が出てきた。二十歳の翔真が、彼女に書いたラブレターだった。彩花はそれを火鉢に放り込み、燃え広がる炎にすべてを呑み込ませた。荷造りを終えた彩花は、親友の白崎ゆり(しらさき ゆり)にメッセージを送った。――もうすぐこの街を離れる。次に会えるのはいつになるかわからないから、せめて記念に写真を撮ろうと思った。翌日、彩花とゆりが写真スタジオを訪れると、思いがけず美月と翔真、そして両親の四人が撮影をしているのを目にした。ライトを浴び、笑顔を浮かべてカメラマンの指示に従う彼らは、いかにも仲睦まじい家族そのものだった。じっと見つめていた彩花に、スタッフが声をかける。「いらっしゃいませ。ご希望はご家族写真でしょうか?」彩花はふっと笑った。――なるほど。あれは「家族写真」なのか。家族の一員であるはずの自分がいないのに。けれど、もうどうでもよかった。嫁ぐ日が来れば佐伯家が迎えに来る。一千億とともに、この息苦しい街を永遠に離れるのだ。「いいえ。友達との写真をお願いします」その声に反応して、美月が振り返った。「お姉ちゃん!奇遇ね。私と口をきいてくれないのはまだしも、父さんと母さんにくらい挨拶してよ……やっぱり、まだ怒ってるの?」目尻を赤くした美月を見て、美佐子が慌てて口を添える。「彩花、美月とは二十年も離れていたのよ?私たちが埋め合わせたいと思うのは当然でしょ。どうして彼女に敵意を向けるの?」正一も厳しい声で続けた。「もういい、美佐子……彩花は年を取るほど、かえって分別を失っていくな」翔真まで首を振り、失望を隠そうともしない。「彩花、お前は十分に恵まれてきただろう?もういい加減にしろ。今日は本当なら、お前たち家族四人で写真を撮る予定だった。だがお前が怪我をしているから無理だと思って、代わりに俺が来てあげたんだ」次々に浴びせられる言葉に、彩花は思わず笑いがこみ上げた。自分は一言も口を開い
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第7話

彩花は断ろうとした。けれど、ふと何かを思いついたようにスマホを取り出し、一通のメッセージを送る。直後、正一の携帯が鳴った。【彼女をがっかりさせたくないなら、今すぐ一千億を私の口座に振り込んで】もともと嫁ぐときに彩花に渡されるはずの金だったが、彼女にはもう待つ余裕がなかった。今のうちにもらっておかないと、すべてが変わってしまう気がした。正一がスマホを取ろうとしないので、彩花はにこやかに声をかけた。「父さん、スマホ鳴ってるよ。見なくていいの?」そう言われ、スマホ画面を確認した正一だが、その顔色が一瞬だけ変わった。だが次の瞬間、彼は迷うことなく短く返信を打った。【わかった】正一が一度口にしたことは必ず守る男だ。その確信を得た彩花は、美月に視線を向け、ふっと微笑んだ。「もちろん行くわ」こうして一件落着したものの、彩花にもう撮影の気分は残っていなかった。彼女はゆりを連れて写真スタジオを出て、すべての不快を背後に置き去りにした。家に帰ったあと、彩花は眠りに落ち、翔真との思い出を夢に見た。成人式でのピアノ、舞踏会のワルツ。けれど最後にはすべて風に散り、虚無へと溶けていった。耳にかすかな物音が届き、夢の続きかと思ったが、目を開けると翔真がそこにいた。彼は持ち帰ったミネストローネをテーブルに置くところだった。慎重な仕草に、一瞬だけ時間が止まる。二人の視線が合った途端、翔真の手が震え、熱いスープが彼の指にこぼれた。慌てて拭き取りながら、彼は笑顔を作った。「起きたか。ご飯にしよう。どうせ今日は何も食べてないと思って、西の通りまで行って、お前の好きなミネストローネを買ってきたんだ」「……うん」腹の虫が応えた彩花は、素直に受け取って口にした。半分ほど食べ終えたところで、翔真が切り出した。「今日写真スタジオで……おじさんと何かあったのか?空気が険悪に見えたけど」「別に」彩花の返事は短く、冷たい。これ以上の言葉は一切与えない。翔真はため息をつき、彼女の口の端についたスープを拭おうとしたが、彩花は顔をそらした。宙に浮いた手は数秒迷った末、静かに下ろされた。「彩花……まだ怒ってるんだろ?でも何度も言ったはずだ、俺はただお前の代わりに美月ちゃんに埋め合わせをしたいだけ。彼女はもうすぐ佐伯家に嫁ぐ
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第8話

キャンプ場に到着したとき、正一と美佐子はまだ姿を見せていなかった。彩花は翔真と美月と一緒にいるのが息苦しく、ひとり林の奥へ足を向けた。その背中を見送りながら、美月は翔真に愛らしい笑みを向ける。「翔真くんはここで準備してて。お姉ちゃんひとりだと寂しいかもしれないから、一緒に行ってくるね」翔真は頷く。「ああ、いってらっしゃい。やっぱり美月ちゃんは気が利くな」それから三十分ほど経った頃。ようやく正一と美佐子が現れた。二人はあたりを見渡す。「美月は?どこに行ったの?」「彩花と一緒に林のほうへ散歩に行ったんだ。そろそろ戻ると思う」美佐子は感慨深げにうなずく。「美月は本当に優しい子ね。彩花にあんなに冷たくされても、いつも姉を思って寄り添おうとするんだから」そう話していると、林の奥から彩花がひとりで戻ってきた。後ろに誰もいないのを見て、美佐子は慌てて駆け寄る。「どうしてあなただけ?美月は?」彩花は怪訝な顔をした。「美月?最初から見てないけど」翔真がすぐに立ち上がり、険しい表情で歩み寄る。「さっき美月ちゃんは『お姉ちゃんと一緒に行く』って言ったんだぞ。本当に会ってないのか?」その詰問口調が癇に障り、彩花は冷ややかに返す。「会ってないって言ってるでしょ」だが、その言葉に美佐子の感情が一気に爆発した。肩を掴まれ、泣きながら責め立てられる。「彩花!あなた、何がしたいの!?二十年前に一度妹を見失ったのに、どうしてまた美月をなくすの!妹が目障りだから、わざとなの?」彩花の堪忍袋も切れた。「何度も言ってるでしょ!本当に見てないの!もう大人なんだから、迷子になったって私と関係ないでしょ?」その瞬間、頬に鋭い痛みが走った。――二十六年、生まれて初めて母に叩かれたのだ。美佐子は震える手を見つめ、口を開く。「彩花……違うのよ、今のは……つい……」翔真が間に入る。「落ち着いてください。まず美月ちゃんを探さないと」そう言いながらも、彼が彩花の肩を軽く叩いただけで、慰める素振りは一切なかった。だが彩花もこの展開に慣れてしまい、何の期待も抱いていなかった。自分の潔白を示すためにも、彼女は一緒に林へ入った――美月を見つけて、すべてをはっきりさせるために。だが林は深く、すぐに翔真たち三人とは
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第9話

足音と呼び声が近づいてくるのを耳にした瞬間、美月の目が鋭く光った。彼女はそばに転がっていた石をつかむと、ためらいもなく自分の頬に振り下ろす。「父さん、母さん、翔真くん!こっちよ!」駆けつけた美佐子と正一、そして翔真の目に飛び込んできたのは、血に染まった顔で地面に崩れ落ちる美月と、無表情のまま立ち尽くす彩花の姿だった。翔真は堪えきれず、怒りに燃える目で彩花の手首をつかむ。「彩花!一体何をしてるんだ?前に釘を刺したはずだろ!どうしてそこまで美月を傷つけるんだ!」美佐子は慌ててしゃがみ込み、泣きながら美月の顔の血を拭った。「美月、どうしたの?何があったか、話してちょうだい」美月は震える声で母にすがりつく。「母さん……もう疲れたの。お姉ちゃんと仲良くしたいだけなのに、どうしていつもこんな仕打ちを受けるの?さっき、やっと森から抜け出したと思ったら、お姉ちゃんに会って……石で顔を切りつけられたの。『これで翔真くんを誘惑できなくなる』って……こんな騒ぎになるくらいなら、私なんて死んだほうがよかったのに……」その言葉に美佐子の心は引き裂かれ、ただ自分の無力を責めるしかなかった。そうこうしてるうちに陽が落ちかけ、空気が冷え始める。正一と美佐子は美月を連れて先にキャンプ場を後にし、彩花と翔真だけが残された。翔真は無言のまま彩花を車に乗せ、エンジンをかける。二人の間には一言も交わされない。走り出して二十分ほど、彩花は異変に気づいた。「……ここ、家の方向じゃない。どこへ行くつもり?」翔真は答えず、路肩に車を停めると彩花を強引に外へ引きずり出した。「少しは人に捨てられる気持ちを味わえ。そうでもしないと、お前は変わらない。これもお前のためだ」言い捨てると、翔真は車を走らせ去ってしまう。残された彩花の鼻をついたのは、排気ガスの匂いだけだった。辺りに人影はなく、街まではまだ遠い。彩花が何キロも歩いても、車の一台すら通り過ぎていかない。初秋の夜風は冷たく、薄手のワンピースでは耐えられず震えが止まらない。森から聞こえる獣の鳴き声が恐怖を煽り、彩花は思わず歩調を速めた。だがそのとき、彼女は足を滑らせ、石に乗って足首をひねってしまう。顔をしかめつつ立ち上がろうとしたとき、遠くで光る緑の瞳がこちらに近づいてきた。――
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第10話

幸い、結婚の日取りには間に合った。もしあと一日でも目覚めるのが遅かったら、どうなっていたかわからなかった。彩花が黙ったままでいると、翔真は言葉を継いだ。「昨日、ウェディングドレスを見に行ってきた。今月末に結婚しよう。お前は誰よりも美しい花嫁になるんだ」彩花は戸惑う気持ちで彼を見つめた。あの日の出来事をなかったことのように、平然と語る翔真の神経が理解できないのだ。「お前は俺を恨んでるんだろう。でも誤解しないでくれ。俺は本当にお前を置いて行ったわけじゃない。ずっと後ろからついていたんだ。ただ電話に出て目を離した隙に、お前が狼に襲われて……危うく間に合わなくなるところだった。助けられて、本当に良かったよ」そう言う彼の目尻がうっすら濡れていた。「それと、美月ちゃんのことはもう放っておいてあげて。今日、佐伯家の迎えが来る。二人で一緒に見送ろう?彼女が嫁いでしまえば、俺たちの生活も落ち着くはずだ。必ずお前に償うから。結婚という大事な節目に、お前がいなかったら彼女にだって悔いが残るだろう?」だが彩花は一拍の迷いもなく首を振った。「行かない」「彩花、どうしてそんなに美月ちゃんを敵視するんだ?彼女はずっとお前を姉として慕ってきたのに……お前が行かないなら、俺だけでも行く。あとで後悔しても知らないぞ」彩花は小さく笑った。後悔などあるものか。翔真も、山城家もとうに諦めている。これから先、彼らのことで心を乱すことなど決してない。傷つけられてきたのは美月ではなく、いつだって自分の方なのだから。彩花の決意を悟った翔真は、仕方なくひとりで階下へ降りていった。だがそこで彼を待っていたのは、思いもよらぬ光景だった。邸内には結婚を祝う雰囲気など一切漂っていなかった。正一はいつも通り新聞を広げてお茶をすすり、美佐子は庭の花を手入れしている。まるで何事もない朝の風景。たまたま通りかかった執事を呼び止め、翔真は慌てて問いただした。「今日は美月ちゃんの結婚式じゃないのか?どうしてこんなに静かなんだ?」執事は目を瞬かせた。「ご結婚?美月お嬢様ならまだ部屋でお休みですが……どなたとご結婚なさると?」息が詰まるような感覚に襲われ、翔真は急ぎ正一と美佐子の前へ。「おじさん、おばさん、今日は美月ちゃんの結婚式だろ?準備はまだなの
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