All Chapters of 離脱ヒロインと、狂ったアイツ: Chapter 1 - Chapter 10

25 Chapters

第1話

「宿主様、全てのポイントを消費して、この世界から離脱しますか?ここに指印を押してください。確認後、半月以内に強制送還が実行されます」白石初芽(しらいし はつめ)はためらうことなく、指印を押した。テレビでは、橘玲司(たちばな れいじ)がマイクを握り、カメラに向かって彼女に愛を告げていた。「初芽、愛してる。ずっと一緒にいよう」画面の中の彼は、心から愛しているような真剣な眼差しをしていた。あまりに美しい場面に、記者たちはシャッターを切りながら口々に羨ましがった。「なんて素敵なんだ。こんな大勢の前で公開プロポーズするなんて」「分かってないな。あれは彼女を安心させたいからだよ。俺たちは見守ってりゃいい」「聞いた話だとさ、橘さんがまだ路上で寝てた駆け出しの頃に手を差し伸べたのが初芽さんだったんだって。それからずっと支えてきて、橘さんが成功したあと、毎年欠かさず特別な贈り物をしてきたらしい。十八歳には一点物のプラチナリング、十九歳には世界でひとつだけのトルマリンのネックレス、二十歳には最高級エメラルドのブレスレット!しかも、以前初芽さんが窃盗の濡れ衣を着せられたときも、橘さんは業界追放を覚悟で彼女の潔白を証明したんだ」――これが真実の愛でなくて、何だというのだ。初芽はもう見たくなかった。テレビを消し、心に残ったのは冷ややかな笑いだけ。否定はしない。玲司は確かに彼女を愛していた。命を懸けるほどに。それでも、彼は別の女を愛していた。三年も別の女を囲っていた事実は消えない。彼女が約束を破られ、窮地にひとりで立たされたとき、玲司は別の女を連れて酒の席に通い、仕事を取っていた。――男というものは皆そうなのだろうか。口では「愛してる」と言いながら、心も体も別の女に向かう。彼女がシステムと繋がり、案内されるままに路地裏で玲司を見つけ出した、あの日。最初は苦戦を覚悟していた。けれど、玲司の彼女への好感は思いのほか一気に高まった。冬の暖かいミルクティー、体調に合わせた気遣い、酔った夜には胃に優しいスープ。食事もすべて彼女の好みに合わせた。初芽は思った。これが「家」というものなのだと。攻略が成功した後、システムは何度も離脱を促したが、初芽は首を振った。「玲司は私にプロポーズしようとしている。ここで逃げるなんて、私にはでき
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第2話

車に乗り込んでから、初芽はようやく紗耶香からのメッセージを開いた。【まさか本気で、玲司さんがあなたのために指輪を選んでるなんて思ってないわよね?】【私が一言言えば、彼はすぐ飛んでくるのよ】続いて送られてきたのは、二人のチャットのスクリーンショットだった。【ご主人様、こんな子猫ちゃんがいたら何時に帰ってくる?】写真の中の女は、セクシーなキャットコスチュームに身を包み、猫耳カチューシャをつけ、ベッドの上に跪いて誘惑的な視線をカメラに向けていた。【待ってろ、すぐ行く。この小悪魔、今日は覚悟してろ】その下には住所が記されていた。初芽は運転手にその住所を告げ、確かめに行くことにした。去る覚悟はできていたはずなのに。玲司が自分を置き去りにし、別の女の元へ行ったと知ると、心がざわついた。あと数日で、すべてが終わる。時間が経てば、この感情もきっと消えていく。車を降りると、そこにはすでに紗耶香が待っていた。露わになった肌には無数の赤い痕が残っていた。かつて初芽は、この世界に来てから安心できずにいた。システムに突然呼び戻されるかもしれない。もしその時、子どもを身ごもっていたらどうするのか。そんな不安に苛まれていた。そのたびに玲司は耳元で囁いた。「初芽、俺を愛してないのか?愛してるなら、どうして子どもを産んでくれないんだ?」初芽は歯を食いしばり、何も答えず、ただ黙ってすべてを受け入れるしかなかった。やがて二人の関係は次第に減っていき、玲司は何度も言った。「初芽、お前は保守的すぎる。何を怖がってるんだ?教えてくれよ、絶対に傷つけないから……」けれど現実は、傷つけられることばかりだった。初芽が黙り込むと、紗耶香はそれを恐れていると勘違いし、わざと玄関の奥を見せつけてきた。床一面に散らばった避妊具。目に刺さるような光景だった。紗耶香は挑発的に笑った。「どうしたの?呆気にとられた?あなた知らないでしょ。彼、私のところに来た瞬間に飛びついてきたのよ。まるで女に飢えてたみたいに。あなたと一緒の時は、どんな惨めな生活だったのかしらね。それとも、あなたには興味がないだけ?」初芽の胸は、鋭い針で何度も突き刺されるように痛んだ。部屋の奥からシャワーの音が響いた。紗耶香は一切隠そうともせず、さらに嘲るように言っ
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第3話

玲司の顔には穏やかな笑みが浮かんでいたが、その視線は初芽の方に向けられていた。初芽は表情ひとつ変えずに、そっと視線を逸らす。その場の空気が微妙に緊張したのを感じた誰かが、慌てて話題を変える。「ああ、遅刻だな!さあ、罰として三杯一気だ!」紗耶香は初芽に挑発的な視線を送りながら、ワイングラスをくるりと回し、玲司のグラスと軽く当てて一気に飲み干した。けれど、その細い脚は、そっと玲司のスーツ越しの長い脚に絡めるように擦り寄せていた。この一幕を目の当たりにして、初芽の胃はきゅっと痛み、思わず吐き気を覚えた。二人の視線が交わる。紗耶香の目はどこか意味ありげで、玲司はただ鋭く彼女を睨みつけた。その視線には、密かなメッセージが込められていた。紗耶香はしぶしぶ足を引っ込める。玲司は再び初芽に目を向け、紗耶香からさりげなく距離を取りつつ、優しく彼女の髪を撫でた。「初芽、みんな友達なんだ。そんなに怒らないでくれよ」「ええ、わかってる。『友達』でしょ」初芽はその二文字に力を込めて言うが、玲司には届かない。「ちょっとトイレ行ってくる。なんだか目がしみるから」玲司は「わかった。待ってるよ」とだけ答えた。初芽がドアを押し開けたとき、その顔には皮肉めいた笑みが浮かんでいた。以前なら、彼女が「具合が悪い」と一言でも口にすれば、玲司は誰よりも心配してくれたのに、今では男の返事はただの「待ってるよ」という、冷たいひと言だけだった。本気の愛がそこにあれば、こんなに冷たくなることなんてないはずなのに。数分ほど、廊下で深呼吸をしてから、そっと個室に戻ろうとしたその時、中から冗談めいた声が聞こえてきた。「玲司、そろそろ紗耶香のこと、公表しないのか?」「そうだよ。紗耶香ちゃんみたいにいい子、玲司とお似合いだよ。大事にしなきゃ」開けかけのドアの隙間から、初芽は玲司の顔を見た。玲司の笑顔がぴたりと止まり、真剣な表情に変わる。「冗談はよせよ。俺は初芽を心から愛してる。紗耶香には、必要なものは全部与える。でも、妻にはできない」「やっぱり遊び上手だな、玲司は」「いやいや、そんなふうに言うなよ。玲司みたいな立場なら、女のひとりやふたり遊んだって当たり前だろ?家の奥さんさえ安泰なら、外でどれだけ女を抱えてようが問題なしってやつさ」男たちはそれぞ
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第4話

「玲司さん、気持ちいい?」紗耶香の甘ったるい声が車内に響く。「ん……小悪魔め。お前のせいで、死にそうだ……」玲司も息を荒げながら応える。その光景に、初芽は心をえぐられるような衝撃を受け、思わず後ずさりした。胃の中がぐちゃぐちゃにかき乱されるみたいで、涙がにじむ。彼女は道端の植え込みにしゃがみ込むと、込み上げてくる吐き気をどうすることもできずに吐いた。胃の奥からこみあげてくる酸っぱさと、心の中を焼き尽くすような苦しさ。その両方が一気に襲いかかり、初芽の目からは勝手に涙がこぼれ落ちた。その音に気づいたのか、車の中の二人が動揺する気配がした。玲司は、まだ唇を離さない紗耶香を慌てて押しのけて、急いでシャツのボタンを留め、ズボンのファスナーを上げた。「ほら、早く片付けて」「やだよ、もっと……」紗耶香はまだ余韻を楽しんでいる。玲司は車の窓を下げ、ルームミラー越しに外を見た。そこで初芽の姿を見つけて、一瞬で顔色が変わる。「ふざけないで、初芽が帰ってきた」玲司の声は、妙に焦っていた。ドアを開けて外に出ると、紗耶香には「早く服を着て」と小声で指示をした。「初芽、大丈夫?帰るなら電話一本くれればよかったのに。運転手に家の前まで送らせたのに」初芽は吐ききったはずなのに、玲司が近づいてくるのを見た瞬間、また胃の奥が気持ち悪くなった。けれど、もう何も出てこなくて、ただ何度もえずくだけだった。「どうしてこんなになるまで我慢してるんだ。やっぱり病院に連れていくよ。無理するな」玲司はそっと初芽の目元の涙を指で拭いながら、優しい顔でそう言った。初芽はゆっくり立ち上がり、作り笑いでごまかす。「大丈夫。ただ、ちょっと胃の調子が悪いだけだから」初芽の表情があまりにもよそよそしくて、玲司は一瞬ギクリとした。さっきの車の中を見られたんじゃないかと焦ったように、顔を青ざめさせて言い訳を始める。「初芽、誤解しないで。さっきは紗耶香のリップが落ちちゃって、それを拾ってあげてただけなんだ。本当に、俺たちの関係なんて兄妹みたいなもんだし、いつもみんなでふざけ合ってるだけで……」「そうなの?」初芽は後部座席の広いスペースに目をやった。紗耶香は乱れた髪を整えながら、わざと車のライトに照らされる位置で首筋のキスマークを見せている。小さくて薄い
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第5話

システムが痛みを遮断してくれているはずなのに、どうして心だけは、こんなにも痛いんだろう。初芽はそんなことをぼんやり考えていた。窓の外は真っ赤に染まり、火事に気づいた近所の人たちが悲鳴を上げて消防に通報している。けれど、もう何もかも自分には関係ない。初芽は、ようやく自由になったんだ。魂だけになった初芽は、空中から家の前を見下ろしていた。集まってきたのは、近所の人、警察、消防隊。でも、そこに玲司の姿だけはなかった。警察は燃え盛る火を前に立ち尽くし、消防士が一人だけ中から出てきて、警官と目を合わせて首を横に振る。警察は玲司に電話をかけた。「橘さん、奥様の初芽さんが火事で亡くなりました」「は?うちの妻は元気にしてますけど?亡くなるわけがないでしょ」「事実です。信じられないならテレビでニュースをご覧ください」「は?そっちの消防も警察も、初芽とグルで俺を騙してるんでしょ?いくらもらったんだ?倍出すから、もうくだらない電話はやめろ」その後ろから、紗耶香の甘えた声が聞こえてくる。「玲司さん、まさか初芽さん自作自演じゃない?わざわざたくさんエキストラ雇って、結構お金かかったんじゃない?」「初芽に伝えておいて。俺は仕事が忙しいから、子どもの遊びにつきあってるヒマはない」もう、取り繕うことすら面倒くさいのか――初芽は内心で冷たく笑った。これで、もうあの偽物の優しさも二度と見なくて済む。魂だけになっても、まだ消えない自分がいることにふと気づき、初芽はシステムを呼び出した。「システム、私はもう消えたんじゃないの?」「現在、新しい世界の空きがありません。あと二日、この世界で待機してください。もし二日後も移動先がなければ、新しい身分をこの世界で用意して、余生を終えてから次の世界へ案内します」「……分かった」初芽はもう一度、自分がいた家を見つめる。すっかり焼け落ちたその場所に、玲司は最後まで現れなかった。消防が見つけてきたのは、ただ一つの指輪だった。それは、玲司がまだプロポーズする前に初芽に贈った、「絶対に燃えない」と自慢していた指輪。炎に包まれても、その輝きだけは失われなかった。それが唯一の遺品となり、警察は玲司に連絡して指輪を引き渡すために現場を去っていく。初芽は、もう一度その指輪に触れよう
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第6話

警察は最後に残った指輪を玲司に手渡した。玲司はそれをしばらくじっと見つめ、訳が分からない様子で口を開いた。「……これ、なんですか?」もう、忘れてしまったんだ。初芽は空中で苦笑した。あの指輪をくれたとき、「俺たちの愛はこの指輪みたいに、どんなことがあっても壊れない」そう約束してくれたのは、玲司の方だったのに。やっぱり、約束なんて覚えているのは聞いた側だけ。言った側は、とっくに忘れてしまうものなんだ。警察は静かに説明した。「初芽さんの遺体は、火事で跡形もなくなりました。残されたのは、この指輪だけです」玲司は心にぽっかり穴があいたような顔になり、そのまま崩れるように地面に膝をついた。「そんなはずない……彼女がいなくなるなんて、絶対にありえない……」錯乱したように警察の足元にすがりつき、指先が白くなるほど強くズボンの裾をつかんで、叫ぶ。「お巡りさん、これは初芽の悪ふざけですよね?そうですよね?教えてください!初芽が死ぬわけない、だってまだ結婚式もしてない、まだ……」空中からその様子を見ていた初芽は、演技が上手すぎて褒めるべきなのか、それとも、今さら涙を流すなんて情けないって笑えばいいのか、複雑な気持ちで玲司を見ていた。さっきまで責めていたのに、今は泣き崩れて。記者たちも、困惑していた。そのとき、紗耶香が玲司のそばに駆け寄ろうとしたが、マネージャーの高梨(たかなし)に止められる。「今出ていったら、ファンがどう思うか分かってるの?」そうだ、まだ目立った代表作もないんだから、今はファンが命綱なんだ。紗耶香はためらって、一歩を引っ込める。その光景も、初芽にはなんだか皮肉に見えた。以前、玲司が盗作疑惑で世間から叩かれたとき、初芽はちょうど大事な受験期だった。あの時期に少しでも悪い噂が広がれば、初芽の心も揺らいで、きっと大学院なんて合格できなかったはず。それでも、初芽は迷わず玲司をかばうことを選んだ。彼女はマイクを握りしめ、客席から罵声が飛ぶ中でも、一つ一つ言葉を選びながら堂々と玲司を擁護した。「この件について、私は玲司を信じています。皆さんにも冷静に見ていただきたいです。もし本当に著作権の問題があるなら、すべて私が責任を取ります」本当に愛していれば、損得なんて関係ない。その人自身が、どんな
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第7話

若い記者は、玲司の剣幕に驚いてすぐ逃げていった。そのあと、玲司はうつむきながらつぶやいた。「そうだ……全部あの騒動のせいだ。全部記者のせいなんだ……」初芽は、何も感じなかった。ただ、さっきの記者はちょっと空気が読めなかったなと思うくらいだった。けれど、この事件はすぐさまネットのトレンド入り。ネットのコメント欄では、ファンたちがそれぞれ好き勝手に意見をぶつけ合っていた。【何よ、うちの紗耶香と玲司のことって。勝手に関係作らないでほしい。みんな知ってるよ、紗耶香は玲司のインスピレーションのミューズなんだから。新作は紗耶香主演の脚本になるって話だし!】【は?紗耶香のファン、何言ってんの?どう見ても玲司がクズ男で紗耶香と浮気してたってだけでしょ】【そうそう。じゃなきゃ、さっきの記者は何を聞いたんだよ?】【時代錯誤なこと言うなよ。今どき愛されない側が悪いなんて古すぎ。今の時代は選ばれなかった方がサブでしょ?】初芽は「世の中、どうしてこんなに頭の悪い人間ばかりなんだろう」ってちょっと呆れるくらいだった。これが「ファンは推しに似る」ってやつなのか。それから、紗耶香と玲司の昔のやりとりが次々と掘り起こされた。初芽と玲司よりも、二人のSNSでの絡みのほうが圧倒的に多くて、まるで本物のカップルみたいに見えた。コメント欄を見た紗耶香は、顔を真っ青にして怒りに震えていた。「何やってんの、あれは絶対に初芽さんが買ったアンチだよ!私の管理グループと大手ファンはどこいったの!?なんでまだ声明を出さないの!?事務所は何やってんの!」マネージャーの高梨も眉間にしわを寄せてスマホを見ていた。このままだと仕事に影響が出るからと、既に二人の監督がオファーを引っ込めたという話も入ってきた。みんなが見ている前で、玲司は警察署の前にひざまずいたまま、夜になってもそのままだった。警察官が何度も「そんなことしても意味ないですよ。亡くなった人は帰ってきません。どうか気持ちを切り替えてください」と声をかけても、玲司は動かなかった。やっとのことで、玲司は立ち上がった。まるで魂が抜けたみたいな顔で、たった一日で十歳は老け込んだように見えた。「……もう、俺には帰る家がない」つぶやきながら、昔初芽と一緒に住んでいた家へと向かった。初芽も、久しぶりにその家
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第8話

【え、誰も玲司が現場でごめんって言ってたの気づいてないの?本当に何かやらかしたんじゃないの?】【上の人の推理、めちゃ分かる!だいたい小説ってこのパターン多いよね。男主人公がヒロインに酷いことして、女の子が絶望して離れて、男が後悔して必死に探すけど、女の子はもういないみたいな。でもさ、初芽さんの場合は本当に火事で亡くなってるんだよ?まさか転生とか異能設定とか、急に出てこないよね?】玲司は、なぜか「初芽は死んだふりをして自分から逃げた」という妙な直感を信じていた。でも、もしそうだとしても、彼女は一体どこへ行ったのか?玲司は無意識に、さっきのコメントに返信してしまう。【初芽が行きそうな場所、何か知ってる?】それだけでSNSが再びパンク。紗耶香の新ドラマ用に買ったトレンドワードも、あっという間に玲司の話題に塗りつぶされてしまった。紗耶香は顔をしかめ、何も言わずその場を離れていった。空の上からそれを見ていた初芽は、心の中でため息をついた。玲司、人はいつまでも、過去の自分に同情なんてできないものだよ。バーの中は薄暗かった。玲司はソファに沈み込み、どこか影のある表情でタバコを一本取り出した。高級そうなライターを手にしたけど、指が震えていて、三回目でようやく火がついた。火がつくと、煙が玲司の吐息とともにゆっくり立ちのぼる。タバコの火は小さく揺れたり消えそうになったり、頼りない光を放っていた。初芽が自分から姿を現すなんて、ありえない。あんなに絶望させてしまったんだ。たとえ本当に生きていたとしても、自分なんかに見つかりたくないはずだ。それでも――初芽が本当に自分の世界から消えてしまったと考えるだけで、息ができなくなりそうだった。手元から落ちた火種が、玲司のシャツに黒い穴を開ける。熱さがじわじわと広がり、肌にやけどを作っていく。けれど玲司は、まったく止めようとしなかった。身体の痛みだけが、心の痛みを少しだけ和らげてくれる気がした。たったこれだけの火傷でも耐えがたい痛みなのに、火の中で死んでいった初芽は、どんな苦しみを味わったんだろう。虚空で見ていた初芽は、玲司が火のついたタバコを自分の手首に押し当て、その皮膚が焼けて血がにじむのをただ黙って見つめていた。玲司の額には冷や汗が浮かび、痛みに耐えて青筋
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第9話

玲司のぼんやりした視線が紗耶香の顔をとらえ、しばらくじっと見つめていたかと思うと、突然彼女を押し倒し、紗耶香はその重たい身体で動けなくしてしまった。「初芽、ごめん。俺が悪かった。紗耶香なんて本気じゃなかったんだ。だから、俺を見捨てないでくれ」虚空にいた初芽は、二人のやり取りに気分が悪くなっていたけど、玲司の酒にまみれたこの言葉を聞いた瞬間、動きを止めた。玲司は、今の紗耶香を自分と勘違いしているの?初芽は心の中で皮肉っぽく笑った。玲司って、本当にどうしようもない男だ。自分が死んでからも、まだこうして気分を悪くさせてくるなんて。紗耶香は一瞬ぼう然としたが、すぐに胸の奥に燃えるような怒りが込み上げてきて、思いきり玲司を突き飛ばした。「私は紗耶香よ!」その勢いで玲司も正気に戻り、がばっと体を起こすと、鬼のような目で紗耶香を見つめた。瞳孔が細くなり、黒い眼差しはまるで闇にとり憑かれたようだ。次の瞬間、玲司の両手が紗耶香の首をがっちりと掴む。紗耶香は全身が震えている。本気で殺されるかもしれないと感じた。「言え!初芽に俺たちが寝てるとこ見せるように仕組んだのは、お前なんだろ!?初芽を俺から無理やり引き離したのもおまえか!?」「ち、違う!私はそんなことしてない!」紗耶香は必死に抵抗した。そもそも普段から玲司に何か聞かれても絶対に認めたりしないのに、こんな修羅場で正直に吐くわけがない。ここで下手に「そうだ」とでも言ったら、次の瞬間には本気で殺されかねない。「嘘つくな!」玲司は鬼のような形相で紗耶香を睨みつける。その時、頭の中にはさっきアシスタントから渡された証拠のメッセージがよぎった。紗耶香が初芽に送りつけた、あの挑発的なメッセージ。【まさか本気で、玲司さんがあなたのために指輪を選んでるなんて思ってないわよね?】【私が一言言えば、彼はすぐ飛んでくるのよ】……次々と届いていた、紗耶香から初芽への挑発メッセージ。自分ですらこんなに苦しいのに、あのとき初芽が感じた絶望は、どれほどだっただろう――紗耶香は、首にかかる力がどんどん強くなっていくのを感じ、恐怖で目を見開いた。視界がどんどんぼやけていく。「玲司さん、頭おかしくなったの!?」本能的な危機感で、咄嗟に声を絞り出す。「ここで私を殺したら、
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第10話

条件は、とても魅力的だったので、初芽はすぐに受け入れた。「分かりました、宿主様。新しい身分を用意しますので、この世界を楽しんでください」今回はシステムも、やけに頼りになる。初芽は、そう思いながら意識を手放し、システムに身を委ねた。次に目を開けたとき、そこは小さなバスルームだった。新しい人生での名前は、綾瀬美琴(あやせ みこと)。彼女はちょうどネットの誹謗中傷が原因で自殺したばかりの若手女優だった。美琴は紗耶香の最大のライバル。ずっと紗耶香に仕事を奪われたり、枕営業をでっち上げられてネットで叩かれ、最終的にうつ病になって命を絶ってしまったのだ。美琴には、死の直前に三つの強い執着があった。ひとつは、自分にかけられた濡れ衣を晴らし、デマを流した人間にきっちり報いを受けさせること。もうひとつは、芸能界でトップの座に登りつめること。そして最後は、大切な両親と兄を幸せにすること。初芽はこの三つの願いを見て、即座に「全部やる」と決めた。もう他人を攻略する人生なんて絶対にいや。玲司で懲りた初芽の心は、もう本当に限界だった。初芽はネットのトレンドワードを見つめる。その顔は、もともと冷たい美貌にさらに鋭さが加わっていた。【#美琴、死んだふりして売名狙い?有名になりたくて必死すぎ】【#紗耶香の仕事を奪えず、今度は枕営業で話題づくり?そんなクズ、芸能界から消えればいいのに】……傷口をきれいに包帯で巻き直すと、初芽は寝室へ戻り、ライブ配信を始めた。配信ルームは誹謗中傷のコメントで埋め尽くされていた。視聴者数が五百万人を超えたタイミングで、初芽は口を開いた。「まず、自殺未遂は嘘っていう話から」彼女はゆっくりと包帯をほどき、手首の深い傷跡を画面に見せる。「私は本当に死のうとしました。誹謗中傷が続く中で、心を病み始めて、最初は食欲がなくなった。そのあと幻聴が聞こえて、毎晩眠れない日が続きました。何度も事務所に助けを求めました。でも何もしてもらえなかったどころか、マネージャーには『スポンサー接待しろ』とまで言われました。耐えきれなくて、自殺を選びました。もう二度と、この世界に私みたいな人間は現れてほしくないです」ライブの視聴者は、リアルな傷跡に絶句し、中には泣き出す人もいた。コメント欄も一気に同情の声
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