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All Chapters of 鍾愛王子のあいしらい: Chapter 11 - Chapter 20

40 Chapters

#10

部外者を拒むようなこの城も、上空だけは繋がっている。紫弦は目を眇めた。それは王族でも何でもなく、純粋に自由を切望するひとりの青年の横顔だった。彼は王位や潤沢な暮らしより発見を求めているんだ。千華は気付かれないよう、小さなため息をついた。紫弦は長く生きてる自分にとっては子どもとそう変わらない。色々消化できない部分はあるけど、今は憐憫の情を買ってしまっているようだ。やり切れない思いのまま思案していたが、視線に気付いた紫弦が恥ずかしそうに手を振った。「いや、今のは忘れてくれ。柄にもなく女々しいことを言った」「あははっ、良いじゃありませんか。過去を振り返ることは何もおかしくない」銅製の手摺を掴み、もう片方の手で風に揺れる前髪を押さえる。「息苦しい環境から抜け出したいと思うのは当たり前です。それすら思わなくなった時が、一番恐ろしい」「……そうか?」「ええ。そういえば、家出したこともちゃんと陛下に怒られるみたいですね」「ちゃんとって何だ。当然だろう……恐らく謝罪の文を何枚も書くことになる」 「それだけで済むなら良かったじゃないですか」階段を下りながら、修行に明け暮れた日々を思い出していた。師や兄弟弟子には良くしてもらっていたけど、日々憔悴していく身体が恐ろしかった。誰にも相談できなかったのは、間違いなく己の見栄と弱さによるものだ。逃げ出す道を選んだのは、考えることを放棄したかったから。天界そのものと縁を切りたかったのだ。そして、自分を知る者が誰ひとりいない世界に行きたかった。卑怯な臆病者がすることだ。でもだからこそ、紫弦の気持ちが少し分かる。「はは。けどお前もやっぱり根は真面目なんだな!」紫弦は納得した様子で千華の背中を叩いた。それは本当に軽い力だったのだが、「うわっ!?」ちょうど足を宙に浮かせたところで、バランスを崩した千華は前方へ倒れてしまった。「危ない!」紫弦が彼の腕を掴み、間一髪で抱き締める。幸い地面まで数段の距離だったので、共に頭は打たずに済んだ。紫弦に庇われたことで、千華もほとんど無傷である。しかし、千華は自分でも驚くほど取り乱していた。「大丈夫ですか!? なん……っで階段下りてる時に押すんですか! 危ないでしょ!」怒っているのか心配しているのか分からない剣幕に、紫弦は数秒固まった。しかしすぐに起き上がり、笑って手を
last updateLast Updated : 2025-10-02
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#11

「それにしても、すっかり緊張がとけたみたいだな」紫弦はわざと肩をぶつけてきた。ここが階段だったら今度こそ怒鳴り倒しているが、平地なのでぐっと堪える。「……昨夜、布団の中では生娘みたいだった」やっぱり無理だった。「今言うことじゃないでしょ!」「いったあ!」反射的に紫弦の足を踵で踏んでしまった。いかんいかん、こんなところ誰かに見られたら処刑される。処刑という単語が頭から離れないので、千華は顔を隠しながらそそくさと移動した。「事実なんだからそんな怒ることないだろう」紫弦は悪びれもせず後をついてくる。こういうところは本当にがさつだ。無粋で野蛮だ。大体あれ、間違いなく強姦だろ!「紫弦様、いつもあんなことを無辜の青年に強要されてるんですか?」日が高いうちから発情するとは思わないが、なるべく距離を置こう。袖で口元を覆い、軽蔑の眼差しを向ける。「人聞きの悪い、強要なんてしたことないぞ。基本相手から誘ってくるからそれに応じているだけだ。昨日のあれだって、お前の熱を鎮めただけだろう。……確かに、最後までやったことについては猛省している」それだ。自分と彼は完全に肌を重ねている。男女なら身篭ってもおかしくないほど。……と、思い出したらまた顔が火照ってしまった。「それとは別にな、千華。お前は俺を好きじゃないかもしれないが、俺はお前が好きだ」「だから抱いたと。無理やり?」「まぁ待て。好きな相手と抱き合うことは悪じゃない。むしろこの王朝は遥か昔から、国王の情交に関して寛容だった。身体を交えることは互いの生気を交換することで、健康と長寿に繋がると言い伝えられたからだ」頭が痛くなった。露骨にため息をつくと、彼は「でも」と付け足した。「実際は性交のし過ぎで、歴代の王は性病を患い短命だった。だから俺はちゃんと加減するぞ。先祖の二の舞にはならない」「そうですか、どうぞ。けど好きでもない相手に手を出すなんて不誠実です。本当は俺のことなんて好きじゃないでしょ」「馬鹿言え。俺は初めて会った時からお前のことが……」「紫弦様」紫弦の言葉を遮り、ひとりの青年が現れた。歳は紫弦よりもずっと上に見える。思わず見入ってしまう正装で、立ち振る舞いも美しかった。「董梅。どうした?」「今日は午後から隣国の使者が来訪します。貴方も出席するのだから支度なさってください」「あぁ、
last updateLast Updated : 2025-10-03
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#12

「もしや貴方、士族か名のある家の方ではありませんか? 身に付けている物や服もこの辺りでは見たことがありませんし……仕草もどこか変わっている」青年の言葉を受け、千華は口元に手を当てた。そうなのか。自分では全く気付かなかったが、どうやら彼の目には浮いて見えるらしい。紫弦に指摘されなかったのは、彼もまた皇子として育てられ、一般国民を知らなかったせいかもしれない。しかしこのままでは八方塞がりだ。一旦諦めてもっと他の国へ移動すべきか考えていた時。「おや、アンタ美人だねー。どこから来たんだい」屈強そうな男の役人が現れ、千華の対面する席に座った。対応していた若い青年が困ったように彼を制する。「ちょっと、眞さん……。この人は仕事の相談に来てるので」「お、仕事探してるの? がっぽり稼げるところがあるよ。ただそこは、ウチを通して紹介することはできないけどね」男は髭をなぞり、千華を見つめて口角を上げた。さすがにこの手の切り口は警戒する。千華も毅然とした態度で答えた。「法律に背くようなことはできませんよ」って、この国の法律なんて一つも知らないけど。「あっはは、さすがにそんな場所じゃないよ。罪になるような仕事を紹介したら俺まで罰せられちまうからなぁ。……実は俺の姪が新しく飲み屋を開いてね。働き手を募集してるから、試しに働いてみないか?」飲み屋。訝しげに視線を送っていると、隣の青年も強い口調で彼に尋ねた。「眞さん、それはいかがわしい店じゃありませんよね?」「いーや、客に食事を運ぶだけさ。でも俺も心配してるのは、兄ちゃん美人だからな。人気にはなるだろうが、物好きな客がつくかもしれない」なるほど。大体の内容は察したので、また熟考する。男はもう一押しだと思ったのか、笑顔で手を翳した。「住み込みだから部屋も貸すし、飯もつくぞ。接客中の服も貸りられる。悪くない条件じゃないか?」部屋付きと聞いて、反射的に頷いた。「是非お願いします」「ええっ!?」好条件を聞いて即決した千華に、若い青年は驚いた。「ちょっとちょっと、そんな簡単に決めて良いんですか?」「何だお前、さっきから。俺の姪が信用できないのか?」「いえ、姪御さんというか貴方が……」と言いかけて、青年は激しく咳払いした。千華も話が上手すぎると思ったが、高給で合法なら乗らない手はない。初めから長居する気はな
last updateLast Updated : 2025-10-04
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#13

母は元気だろうか。最後に会ったのは師の神門に修行入りする前日。手紙のやり取りは許されたが、人界へ逃げ出した今では叶わない。父もだ。とっくに自分のことは耳に入り、師から話がいっていることだろう。申し訳ないと同時に、戦慄した。千華は父が怒ったところを見たことがない。母が、あの人は怒ると私よりずっと怖いですよ、と言っていたことを思い出した。その時は本気にしていなかったが……成長した今ならその言葉の意味が分かる。しかしあのまま修行を続けていたら本気で心が壊れていたと思うし、本当に苦渋の選択だった。「千華さーん、お客様!」「あ、はい!」天界の追想は、活気のある声や足音で掻き消された。慌てて店の出入口に向かい、お客を席へ案内する。天界に生きる自分は今やいない。いるのは、飲み屋で必死に接客する自分だけだ。朱桜が経営する飲み屋、“桜雲”で従業員として雇ってもらった千華はさっそく業務内容を教わった。人界に来て数日で働くとは思わなかったが、これも貴重な経験である。自分のような怪しい者を受け入れてくれた朱桜には感謝しかない。その恩に報いる為にも、必死に仕事を覚えようと努めた。「え~老酒と海老の揚げ餅と、鶏と野菜の蒸し物と……」最初は注文ひとつ取るのも一苦労だったが、覚えてしまえば一度にたくさん聞き取ることができた。修行時代の学びのおかげで、その場限りの記憶力には自信がある。開店したら立ち止まることなく常に動き回った。けど忙しいということはそれだけ盛況ということ。店が軌道に乗るのは早く、朱桜の疲れも時折窺えたが、活き活きとしていた。彼女が笑っている時は千華も素直に嬉しかった。人が足りない時は厨房に入り、調理を手伝うことが増えた。配膳の大変さとはまるで違ったが、賄い等で皆の反応を見るのは中々楽しかった。食材の組み合わせを変えたりして、自分流に味付けを変えてみる。美味しいと言う従業員もいれば前の方がいい、と言う従業員もおり、これはこれでやり甲斐を感じた。自分が作った料理を誰かに食べてもらえるのは嬉しい。日々忙殺されてそれどころじゃなかったけれど、ふと紫弦のことを思い出した。今なら彼にたくさんの料理を振舞ってやれたのに……でも彼がこういう家庭料理を食べている姿を想像すると何だか可笑しくて、ひとり笑った。城で頂いた宮廷料理は見たことないご馳走ばかりで、ここで作る料理
last updateLast Updated : 2025-10-05
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#14

董梅は語調を強め、紫弦を諌めた。ここまで無遠慮にものを言えるのは紫弦の血族以外に董梅だけだ。幼い紫弦を文武共に指導していた彼は王宮でも身分を越えた力を持っている。「何があったのか存じませんが、大方見た目が好みということもあって連れて帰ったのでしょう。同性を好んでいることも隠さなくてはいけないのに、あまりにも軽率です。今一度ご自分の行いを省みてください」「王の道から外れたことをしてるのは謝る。でも顔で決めたわけじゃないし、私利私欲の為に人を陥れるような奴じゃない」「何の根拠があるんです」「勘だ。あいつは……」誰かが守らないといけない。そう思って連れ帰った……けど。疲労が篭もった嘆息を吐き出す。今では遠過ぎる距離が視界を眩ませている。彼が居なくなった今、真実を確かめる術もない。董梅は倫理的だが一辺倒なところがあり、自分が正しいと思った時は決して折れない。これ以上の説得は意味を成さない。だが確かに彼の言う通り、千華について知らないことが多過ぎる。千華……。何にせよ、辛い思いをさせたまま別れてしまったことが一番悔しい。董梅はなにか知ってそうだが、行先を問い質したところで何も答えないだろう。部屋に戻ると告げ、その場から立ち去った。夕日はいつしか完全に沈み、空には暗澹とした雲がかかっていた。未だ掌に彼の温もりが残っているようだ。どれだけ冷たい夜風に当たっても、この熱は冷めそうになかった。千華が消えても王宮の中は当然何ひとつ変わらない。しかし城下町の一角にある小さな飲み屋は、千華が現れたことでがらっと空気を変えた。情趣あふれた街と、何気ない世間話を交わす平和な日々。昼はのんびり過ごし、夜は本腰を入れて働く。遅寝遅起の生活に身を投じた千華は天界のことも忘れ、朱桜の店で必死に働いた。ある夜、給金が入った封筒を翳し、千華は歓喜の声を上げた。「うわー、ありがとうございます! 使うの勿体ないなぁ」「あら、何に使うか決めてるの?」記念すべき千華の初給料日、朱桜は興味深そうに黒茶を淹れた。営業時間が終わった店内で、千華は朱桜と一緒に休憩をとっていた。「急ぐ物入りは着る物ぐらいですかね。食事は賄いで事足りるし、散髪も自分でできるし。いざという時の為に貯金します」「千華は万能ねー。何も知らないかと思いきや、皆が驚くようなことも知ってる。それでやらせてみた
last updateLast Updated : 2025-10-06
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#15

うつ伏せで倒れ込み、熱い吐息をもらした。仕事の疲れによるものなどではなく、内側から沸き起こる性欲によるものだ。その証拠に勃起していた。理由は分からないが、兎に角熱を発散せずにはいられなかった。腰紐を解き、下半身を露わにする。奥に手を差し込み、硬度を持った性器を引っ張り出した。そこは苦しそうに張り詰めている。「うっ、あ、あぁ……っ」弱い力で扱きあげる。醜くて浅ましい。こんなことは以前の自分なら絶対にやらなかったし、そもそもこんな状態になることもなかった。だけど今は身体が意思から乖離してしまっている。声を出すほど気持ちがいい。胸を弄ると電流が迸る。底なし沼に足をとられたように、黒い快楽に溺れていく。片手で陰茎を扱き、もう片手は乳首を摘んだり、引っ掻いたりした。この手が紫弦のものだったら、という汚い妄想を何度も巡らせた。紫弦の手技は絶妙で、抵抗する隙なんてなかった。尖った乳首を押したり捏ね回したりして、休まず千華の眠った快感を引きずり出してきた。覚えているんだ。頭以上に、身体が。下腹部と内腿を這う掌。そして……少しずつ後ろに回される、中指の腹。「うあっ!?」張り裂けるような痛みを感じ、一瞬で現実に引き戻された。我に返って上体を起こす。俺は今何をしようと……。尻の割れ目よりさらに奥、隠れた入口。そこへ指を這わして、あろうことか潜り込ませようとした。自分が自分で信じられない。戦慄し肩を震わせたが、前は萎えていなかった。仕方ないので慰めを続ける。早く終わらせて身体を綺麗にしよう。心までは綺麗にならないけど、せめて表面だけでも洗い流したい。擦る動きを速くする。速く、速く。達することだけを考え瞼を伏せた。すると白い世界の中で人影が揺らめいた。どんどん輪郭がはっきりして、その姿を鮮明にしていく。色、形、服、顔。夢の世界に溺れる。彼だ。笑ってこちらに手を差し伸べている。『千華』身体の奥底まで響く。自分を呼ぶ、低い声音。「あ……っ!」その瞬間、千華は仰け反った。射精する瞬間が衝撃過ぎて、うっかり性器から手を離してしまう。精液は宙に飛び散ってしまった。ほとんどは太ももの上と腹にかかったが、数滴だけ布団の上に落ちてしまった。最悪だ。どうしよう……と思いながら、波のように訪れる余韻に酔いしれる。射精する瞬間だけは、全てがどうでもよくなる。嫌
last updateLast Updated : 2025-10-07
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#16

師叔は怒らせると恐ろしい方だが、普段は寡黙で冷静、感情を表に出さない。一門の中では結界を張ることが得意だった千華は毎日神門の確認に行くことが仕事だった。そこも常時門番はいるが、稀に来訪者もいる為用心をしている。来訪者は味方だけとは限らない。低俗な妖魔は神山の道場まで登ってこられないが、衝突している流派の門弟が因縁をつけてくる可能性もある。一応礼儀として門前には迎えるが、そこでどう判断を下すか、中にいる師に指示を仰がなければならない。ついこの間までしていたことなのに、もう何年も前のことのように感じる。ややもすれば一日経つ度に端から忘れてしまうかもしれない。千華は息をつき、閉じていた瞼を開ける。その直後、固い何かが後頭部に直撃した。「いった!」ぶつかったもの自体は軽かったのかもしれないが、固い角のような部分が当たった。千華は涙目で頭を押さえる。後ろから飛んできたことに間違いはない為、すぐさま振り返った。「ご、ごめんなさい……」視線の先にはひとりの男の子が立っていた。まだ十にも満たないかもしれない。おずおずと後ろへ下がり、視線を千華の足元に落とした。これか。草原の上に四角い木箱が落ちている。千華の掌におさまるほどの小ささだ。まぁ本当に悪意があったら、物が飛んできても反応できただろう。そう、多分。男の子は少し怯えた様子だったが、箱を手渡すと笑顔を見せた。「ありがとう!」「良いけど何してたんだ? こんな固いもの飛ばしたら危ないだろう」「蹴って遊んでたの。鞠子が買えないから……」小さな声で、木箱をそっと包み込む。どうやら彼は蹴鞠をしていたようだ。本来柔らかい羽がついた玉を蹴る遊びで、道端で遊んでいる子どもをよく見かける。男の子は裸足で、穴の空いた着物を着ていた。裸足でこんなものを蹴ったら痛いだろうに。千華はため息をつき、屈んでから彼の頭を撫でた。「それでもこんなもん蹴るんじゃない。脚力ってのはお前が思ってるよりずぅっと強いんだぞ。俺だったから良かっただけで、じいちゃんやばあちゃんの頭に当たったら死んでたかもしれない」滔々と説明すると、男の子は青ざめた。そして再びごめんなさい、と目に涙を浮かべる。千華は笑いながら木箱を突っついた。「そう、怖いだろう。分かったら、俺と今から鞠子を買いに行こう」軽く手を叩き、笑って立ち上がる。男の子は目を見開
last updateLast Updated : 2025-10-08
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#17

今夜も店は賑わっている。「はーっ、酒は憂いの玉帚だね」店内は毎晩お祭り騒ぎだ。「お仕事お疲れ様です。はい、これ新作の海草を使ったスープ。薬味もたくさん使ってるから疲れがとれますよ」「おぉ! 皆、千華の新作だってよ!」昨日試しに作った料理を、店内にいる者達に振舞った。今回は特に自信作で、朱桜のお墨付きでもある。飲み過ぎた胃に優しい薬膳スープだ。「すっかり千華がこの店の看板娘よね。私としては店が儲かるから大いに有り難いけど」「この店の女神は朱桜さんですよ」ため息混じりに言うと、今度は別のお客が声を掛けてきた。「千華ちゃん、そんなところ突っ立ってないでこっち来てお酌して!」「いや、もういっそ真ん中で舞ってくれ!」「舞えませんて……」酩酊し、陽気な客からの無茶ぶりはいつも困る。朱桜の盾になれているなら構わないが、遠慮しても力ずくで引っ張り出されるし。でも。「ううん、このスープ美味しいよ! また作って!」誰かの笑顔を見ると、疲れや不安なんて吹き飛んでしまう。この笑顔より元気になれる薬は、恐らく自分には存在しないだろう。「えぇ。また来てくれたら作りますよ」「やったー!」店内に歓声が上がる。汗が止まらないのは熱気が籠ってるせいか、……自分が高揚しているせいなのか、分からない。ただ誰かを喜ばせたい気持ちを持っている。自分は、彼ら人間に中身も近付けているのかもしれない。もし許されるなら───忙しなく土地を移るのではなく、こうしてひとつどころに留まり、気ままに暮らしたい。人を知りたい。そんな仄かな望みを抱いて息をついた。「おい、すぐそこに国王軍がきてるぞ!」突如、緊迫した声が店内に飛び込んだ。客達がざわつく。何事かと振り返ると、出入口に二人の軍人が立っていた。「聞け。先刻、妖魔が街中に現れたという情報が入った。その為許しが出るまで外出を禁止する」妖魔。考えるよりも先に作業着を脱いで、軍人達の横を抜けた。「あっ! お前、どこへ行く!」「千華さんっ?」店の客達も心配そうに軒先へ出てきたが、軍の二人が慌てて塞いだ為追ってくることはなかった。むしろ好都合だと思い、飲み屋が並ぶ路地を進んで街の中心部を目指す。今のところ邪悪な気は感じない。考えられるのは二つだ。妖気も発せないほどの小物か、妖気を上手く隠せる大物か。後者なら先手を打つ必要が
last updateLast Updated : 2025-10-09
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#18

腕を掴む彼の手は上から押さえつけていて、動かさずとも込められた力を感じ取った。振り払うことは容易ではなさそうだ。千華は肩を竦め、紫弦が指さす街の入口へ進む。「こっちですか?」「そう、そっちだ」まだしっかり腕を掴まれている。ひとまずそのままにして、なるべく道の中央へ逸れた。建物の影から抜け出し、雲が移動するのをじっと待つ。「しかし、千華……は、妖魔が怖くないのか?」「えぇ……」月光が辺りを照らし、薄茶色の地面が見えた。それと同時に、千華の腕を掴む手が醜く歪む。「……腹は立ってますけどね!」道に伸びる影のひとつが禍々しい形で広がる。それを視認したと同時に、振り返って札を張り付けた。辺り一体を照らすほどの眩い閃光が弾ける。千華の後ろにいたのは紫弦ではなく、醜い容姿をした人型の妖魔だった。額に破魔の札を張られたことで苦しみ、辺りを破壊しながら絶叫する。その際、口から大量の血と布切れ、白骨を吐き出した。こいつ、既に何人も喰いやがったな。「消えろ!」札に込めた神気を解放する。縦に横に広がっていた影は消滅し、道には真っ黒な焦げあとだけが残った。街は静まり返る。札は効力を失い、ただの紙切れとなって風に吹かれた。上級ではないが、厄介な能力を持った妖魔だった。驚くことに、この妖魔は千華の記憶を読み取った。名前を呼ばれた時にはさすがに動揺した。もしかしたら身体に触れることが条件か……。今までも触れた人の知り合いに変化し、油断したところを襲っていたのだろう。だが早い段階で正体を見抜けて良かった。紫弦なら、「ただの人間」と言った自分の言葉に疑問を持って何かしら突っ込むはずだ。だから後は油断させて、妖魔が本性を現す瞬間を叩こうと思った。その頃合は月の光で判断できる。月光は悪しきものの姿を照らす力があり、例え人の形をしていても、本当の姿の影を映し出すのだ。「助けられず……すみませんでした」妖魔は無事に倒せたが、救えなかった人が何人もいる。道端の血痕に一礼し、その場を後にした。念の為、街中に張った札はそのまま留めておいた。「ただいま」「あっ! 千華、戻ってきた!」店へ入ると一目散に朱桜が駆けつけてきた。そして千華に抱きつこうとしたのだが、寸でのところで留まる。「きゃあっ! ちょっと千華、大丈夫?」「え?」何のことかと首を傾げると、朱桜の後ろに居
last updateLast Updated : 2025-10-10
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#19

俯き、笑ってしまうほどがっくり肩を落としている。……本当に変な人だ。一応非は認めるんだから。……。長いため息を吐き、千華は腕を組む。「俺に対して謝ってばかり。ですね」一歩前に出て彼の顔を覗き込んだ。もう先程までの怒りは消えていた。悪戯っぽく微笑むと、彼も困ったように笑った。「もう二度と会えないかと思った。会えて嬉しかったんだけど、恐れの方が強かったんだ。早く捕まえないと、またお前が消えてしまう気がして」「……」彼は自分が思っている以上に弱い人なのかもしれない。行動力のある姿ばかり見ていたから気付かなかったけど、実際はちょっと我儘で、寂しがりで、見栄っ張りなところがあった。子どもとさほど変わらない好奇心もそうだ。思いついたら一直線なところも。「紫弦様は……」「待った。それももうやめよう。俺はお前より偉いわけじゃないからな……紫弦でいい」畏まった喋り方もやめてくれと、紫弦は笑って歩いた。何となくその後を追う。「じゃあ、紫弦」「……うん。それがいいな」街の大通りを抜け、中心に流れる川へ辿り着く。細い水路が張り巡り、静かな世界に涼しい音が響いていた。「こんな時間に街へ出たのは、お前に会った日以来だ。正確にはあの日が初めてだから、今日で二回目か。夜の街は気持ちがいい」紫弦は水路の前へ移動し、足がぬれないぎりぎりの位置に腰掛ける。千華もその隣に座った。「董梅からお前が出て行ったと聞いて、かなり混乱した。盗賊や暴漢に襲われたらと思うと気が気じゃなくてな。お前は、その……誰もが見蕩れるほど美しいし」言い淀んではいるが、紫弦の直球な言葉に吹き出してしまう。「さすが皇子。煽てるのがお上手で」「嘘じゃない。俺は嘘はつかないと決めてる」「はいはい。じゃあ自惚れておく。……それと、会いに来てくれてありがとう」ようやく言えた、御礼の言葉。心は一気に霧が晴れたようだったが、不思議と喉のあたりが熱かった。「遅かれ早かれ、俺は出て行くつもりだった。黙って行ったのは本当に申し訳ないけど、もし言っていたら」「止めたよ」「でしょ?」小石を手に取り、水路に投げた。ぽちゃん、と小気味いい音が鳴る。「余所者の俺があそこにいるのはおかしいよ。紫弦は立派な王になれると思う。それで素敵な女の人を好きになって、可愛い子どもができたら一番良い」「……そうだな。そ
last updateLast Updated : 2025-10-11
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