LOGIN天界で暮らす美しい道士、千華は過酷な修行に嫌気がさしていた。 自由きままに生きようと下界へ向かった折、奔放で不思議な青年、紫弦に出逢う。 正体がバレないようさっさと退散したい千華だったが、なんと突然彼から求婚されて───?
View More天界の代表……の、付き添い。見習い。またの名をおまけ。居ても居なくてもいいという、とても絶妙な立ち位置に俺はいた。
「新たな国王陛下、また聖上に御健康と御多幸を。この時世に平和と幸福、繁栄を祈念致します」
今から十数年前。父に連れられ、若き道士、千華は人界に下っていた。
時の王の戴冠式に出席し、祝辞を述べる。千華の父は天界でその役目を担う重要な存在だった。人界へ来たことが初めてで右往左往する千華は、普段とは別人の父の姿に二重で戸惑った。
もしかすると、大きな責任と誇りを背負った背中に怯んでいたのかもしれない。いつか自分がこの大役を引き継ぐ可能性があると思うと、立ちくらみがしそうだった。自分としては今隣に佇んでいるだけで精一杯だ。
両脇に並ぶ赤い柱や美しい装飾は天界の神殿と似ていて親近感があるものの、やはり地上の空気はひりひりして、喋ってもいないのに喉が渇く。くわえて幕のような何かが肌に張り付いていた。新鮮で美しいが、長居する場所じゃないな、と密かに首を横に振った。
凛々しい顔立ちの国王は中央に置かれた王座に腰掛け、嬉しげに笑みを浮かべた。
「上界の者が訪れるのも、祝辞を受けるのも、私にとって初めてのことだ。地上のもてなしが気に入るか分からないが存分に楽しんでいってほしい」
「ありがとうございます」
もう一度だけ寿いだ後、父は後ろへ下がって揖礼した。
時間の経過と共に人がどんどん増えていく。周りの礼式を注視してる間に城中の者が集まり、大広間で盛大な宴が始まった。
「すごい」
これほど多くの人が王を祝っている。少し背伸びしながら群衆を眺め、千華は何度も頷いた。
「道士様、宜しければ……」
「あ。ありがとうございます」
給仕をしていた女性が近くに来て、酒が入った金杯をくれた。
修行中の身だが、今日だけは酒を飲むことが許されている。
「…………」
でも独りで飲んでも楽しくないなあ。
父は物珍しい上に運気目当ての人間達に取り合いにされ、とても近付ける雰囲気じゃない。
暇だ。初めて会う“ 人間”と打ち解けられるほど社交的じゃないし、終わるまで何をしよう。
自分が抜けても問題なさそうな雰囲気だったので、お祭り騒ぎの鹿台から離れ、城下町を探索することにした。
生まれて初めて来た場所なのにどこか懐かしい雰囲気が漂う。牛車で作物を運ぶ人や、道端でものを売る人。自分が暮らしている世界とは些か離れているが、誰もが必死に生きている。気付けば故郷のような親しみを抱いていた。
花と土と風と雲。誇り臭くて泥臭いのに、体を包み込む温かさがある。
気持ちいい……。
満足のいくまで見物して城へ戻った。上機嫌で歩いていたものの、腰より小さな何かが突如ぶつかってきた。
「いったい!」
後ろにころんと倒れ、大きな声を上げたのは人間の男の子。背丈が小さいから視野が狭いのだろう。
「ああ、ごめんな。ほら」
手を差し伸べると、子どもは躊躇うことなく自分の手を掴んで立ち上がった。と同時にあることに気付く。彼は街で見かけた子ども達とはまるで違い、絢爛な着物を着ている。
「怪我はないか?」
「うん。……お兄さん誰? どこの人?」
「おっと~。相手に尋ねる時は自分から先に名乗るのが礼儀だぞ」
「うん。でもお父さんに、自分から先に名乗っちゃいけないって言われてるから」
「なっ!」
何だと。この子どもの親はなんって高慢なんだ。
ま、まぁそういうこともあるよな。時には……。
納得しながら袖で顔を隠し、動揺してることが悟られないように告げた。
「じゃあ、お互い名乗らない。どうだ、名案だろう?」
「うんっ!」
実際、不必要に名乗るのは控えたかった。にしても酷い方法で解決しちゃったな。千華が反省していることなど知らず、少年は元気よく隣に並んだ。
「ん? 君ここに用があるの?」
「用っていうか、僕の家だもん。お兄ちゃんこそ何の用?」
彼は不思議そうに首を傾げる。
家、と言ってもひとりで自由に動き回っているということは、きっと国王の臣下の子どもだろう。皇子なら常に護衛を連れているし、そもそもひとりで城外に行くことは許されないはず。
構われると落ち着かないけど、貴重な刺激をもらった。できれば彼の純然とした心は、いつまでも続いてほしい。
ふと思いついて、袖の中中からある物を取り出した。
「いや、用は済んだ。俺はもう帰るから、名前を教えない代わりにこれをあげよう」
以前縁結びの滝へ修行……もとい遊びに行った時、龍からもらった碧の玉石を渡した。価値があるかどうか分からないが、人界には絶対存在しない鉱物だ。それなりに高値で売れるだろう。
「わぁ、綺麗! 本当にもらっていいの?」
「あぁ」
「ありがとう!」
少年は期待以上に大喜びし、可愛くはしゃいだ。しばしの間その様子を眺めて癒されていると、彼はなにか閃いたように手招きしてきた。彼の目線に合わせて下に屈む。てっきりなにか耳打ちしてくると思ったのだが、聞こえたのは頬にちゅっ、と当たる音だった。
小さな顔が離れていく。
「な……っ!」
「お兄さんもこれと同じぐらい綺麗だから、いつか僕のお姫様になって!」
頬でも唇でも、今思えばこれが初めての口付けだった。
子どもって怖い。子ども相手に真っ赤になってる自分はもっと怖い。
ていうかお兄さんって言ってるのに何でお姫様になるんだよ。色々意味分からなくてくらくらする。
「もっ、もうここに来る予定はないよ」
「えぇー!」
「えぇーじゃない。だから、その……達者でな」
足早に、逃げるようにしてその場を離れた。動悸みたいな速さで脈が打っている。
あああ、何だこれ……。
それからどこで父と合流したのか、どうやって天界に戻ったのか記憶がない。何も覚えていない。思い出せるのは最後の出逢いだけ。
俺の記念すべき初めての人界訪問は、名前も知らない小さな男の子に全て持っていかれてしまったのだ。
上界と下界。
世界はたったひとりの神によって、太古に切り離された。上界は神道と呼ばれる者達が統治し、下界では人間という生命が幾つもの国を創建した。彼らは互いに干渉することなく、長きに渡り平和な時代と文明を築いた。
千華は天上の中でも清浄とされる花山に生まれた。見た目こそ人間の若者と同じだが、齢百五になる。
神山に宮殿を持つ両親の元で花の世話をして育ち、成長後は神に心血を注ぐ道士となった。道士入りをするといずれは神山の頂で神官として仕える為、神術、道術の修行に日々明け暮れる。
飛翔する青鳥の鳴き声で目を覚まし、畑で育てた野菜や木の実を採り、神官の一人でもある師叔の部屋を塵ひとつ残さず掃除する。正午までは雑用が専らで、午後はひたすら神泉の前で元気(がんき)を養う。自由時間が持てるのは夜更けになってからだ。幸い人間と異なり睡眠を必要としないものの、残された時間の中でできることは限られている。
一日の行程は事細かに管理されていて、雑用も多いため常に倦怠感と闘っている。それも何とか飲み下してやってきたのだが、瞑想をしていたある日のこと、とてつもない危機感を覚えた。
まずい。このままでは……。
「死ぬ」
両手を合わせながら呟いた。周りに誰もいなかったから良かったものの、本来この時間は独語も禁じられている。
しかしそれどころではなかった。足早に御堂を抜け、道士服を脱ぎ捨て、神気に満ちた泉に飛び込んだ。
間一髪。もう少しで疲労のあまり卒倒するところだった。
これが千華の最近にして最大の悩みだ。実は彼は、同じ山で修行している道士達の中で最も体力がない。
千華自身修行を始めた時から薄々勘づいてはいたが、長年蓄積していた負荷が一気に溢れてきたようだった。
神力が尽きた。このままでは生命を維持する力まで搾り取られ、干からびて死んでしまう。
修行中に神力が枯渇して亡くなった者など聞いたことないが、下手をしたら自分がその第一人者になるかもしれない。そしたら自分の名が瞬く間に天界中に広がるだろう。
死後に辱めを受けるなんて絶対嫌だ……。
元はと言えばこの絶望的な体力を嘆いた父親が、息子の千華を修行に送り出した。一人前の神官になることを期待しているのだろう。その思いに報いたい気持ちはあるが、やはりできることとできないことがある。というか、体力がつくまえに命が尽きる。
何とか逃げ出したい。しかし一度神官に弟子入りした者が神山を出ることは許されない。ここから抜け出すには師叔より位の高い神官の許しを得るか、破門されるか。大方その二つしかない。
「千華、また何か暗いこと考えてるな。眉間に皺寄ってるぞー」
不調を隠す日々にほとほと疲れてきている。
ひとり項垂れていると同じ門弟の道士、夕禅(ゆうぜん)が心配そうに話しかけてきた。彼もこの同派の中では若い方で、一番気が合う存在だ。それでも身体のことを打ち明けることはできない。これが師に伝われば、最悪もっと厳しい修行を命じられるからだ。
「ううん……皺はいつも寄ってるよ」
「嘘つけ。お前っていつもヘラヘラしてるから、笑顔以外だとすぐに分かるんだよ」
「そうか……?」
「そう! 何だ、それとも恋してるのか?」
千華は首を横に振る。恋なんて、自分とは最も縁のないものだ。
夕禅もそれを分かっているのか、それ以上は追求してこなかった。代わりに最近の、いわゆる世間話を延々と話し始めた。もうすぐ東の神山で祭りがあるだの、下界で妖魔に襲われる人が増えただの、どれも関連性はなく連続しない。
申し訳ないと思ったが、相槌を打つので精一杯だ。重だるい身体のことばかり気を取られている。
桃の木の下に寝そべる自分を見下ろすと、夕禅は袖の中から酒を取り出した。
「わっ、お前それどこから持ってきたんだ! 酒は駄目だろ!」
「何言ってんだよ、問題児のくせに。これさぁ、この前の宴会に手伝いに行かされた時くすねたんだ。師叔だって本当は呑んだらいけない身なのにずるいだろ? 俺達もたまには呑もう! 最高の花酒だぜ」
杯を二つ取り出し、美しく透き通った酒を注ぐ。
まったくどうしようもない。師叔にばれたら破門……いや、殺される。
でもこんな素晴らしい酒を飲まないなんて、それはそれで天罰が下るんじゃないか?
我ながら呆れるほど欲望に弱い。促されるまま夕禅から杯を受け取り、一気に飲み干した。
「確かに美味い!」
「だろ? もう一杯いけよ」
一気に込み上げる熱を感じ、千華は酒をあおいだ。破門だけでは済まされない、禁断の宴はしばらく続いた。終わる頃には夕禅は泥酔し、寝息を立てて横になってしまっていた。
「夕禅。おーい、夕禅。大丈夫?」
何度呼びかけても起きる気配がなく、幸せそうな寝顔を浮かべている。それほど酒に強くないのかもしれない。
酒器にはまだだいぶ残っている。彼が起きるまでここで休んでいようと思ったが……。
そーだ! 良いこと思いついたぞ!
閃き、自身の良案に膝を打った。まだ眠る夕禅を残し、酒器を持ってそっと離れる。すまん夕禅。
「……お前は元気にやれよ」
嬉しいことも悲しいことも共に分かち合った大切な兄弟弟子。彼が立派な神官になることを心の底から祈ってる。俺はごめん、無理。絶対無理。この修行地獄から足を洗い、今後は自由気ままに暮らす。
本堂へ戻り、気配を殺して師叔の部屋を訪れた。桃の木からつくった特別な焼香が馥郁たる香りを届ける。
体力も神力も下手したら地上の人間と変わらない落ちこぼれ。そんな自分を引き取り大切に育ててくれた恩師を愛敬している。
だが修行をやめたいなんて言ってみろ。すんなり破門させてくれる方じゃないから、きっと何百回も鞭で打たれて表の大木に百年は吊るされる。
千華は今日、師が留守であることを知っていた。留守中に師の部屋に入るなど御法度で、現在着実に罪に罪を重ねているわけだが、この山を出る為にとにかく必死だった。ここで犬死する前に、もう一度下界を自由に歩いてみたい。
箪笥を開け、中のものを物色する。そして目的のものを手に入れ、袖の中に入れた。
「最低だ」
生き残る為とはいえ、こんな形で師を裏切るなんて……。
断腸の思いで向かったのは霊鳥が集められている鶏舎。師の箪笥からくすねた……入口の鍵を取り出し、中へ入って一番扱いやすい小さな霊鳥に跨った。
「いや違う、ちょっと人界に行くだけだよ。師叔にお使いを頼まれたんだ……そんな目で見るなって」
訊かれてもいないのに霊鳥に言い訳した。案の定、霊鳥は不思議そうに首を傾げている。
あとは必要な私物をいくつか袖に仕舞った。誰にも見つからないようこそっと庭を抜け、手綱を握って下山する。侵入者を拒む為の結界を解いた時、今まで真面目に修行していて良かった、と心底思った。むしろこの為に道術を学んできたのでは……いや…………違う。
人界へ下りるための最後の吊る橋には門番がいる。それが文字通り最後の関門である。
そういえば人界にも関所とかいう似たようなものがあった。けど上も下も一緒で、“通行料”を払えば通過できる。
霊鳥が風を巻き起こし、橋の上に着地する。千華も一度下りて、門番の道士に近付いた。
「千華様!」
彼はこちらに気付くと驚き、それから心配そうに駆け寄ってきた。
「一体どうされたんですか、こんなところまで下りてくるなんて。上でなにかあったんですか?」
「いや。父上に頼まれて、国王にお酒を持って行こうと思っ」
て。じゃない。駄目だ。父に頼まれたと話せば、その連絡が先にくるはずだ、と返される。門番と最も繋がりの強い父を使えば自分の首を絞める。
「思っ……?」
「思っ……たんだけど、それは良いから民に振舞ってやりなさい、って師叔から頼まれたんたんだった」
「すごく噛みましたね」
「いや本当に素晴らしい酒なんだよ。誰にも言わないからさ、ちょっと味見してごらん」
杯を取り出し、酒を注いだ。道士は初め困惑し、それはいけません!と拒否し続けたが、千華の凄まじいしつこさに負けてとうとうひと口だけ……と酒を呑んだ。
道士は飲まず食わずで生きられる。しかし酒は数年に一回、祝いの席で飲むことが許されていた。生き物でなければ肴になるものも口にする。全ての道士にとって、酒はまたとない魅力的なご馳走なのだ。
「はー……。いや、驚きました。本当に素晴らしいお酒ですね」
「だろう? これを皆に振舞ってあげようと思ったんだった」
「過去形ですか?」
「いや未来形にしてみせる。だから門の結界を解いてくれ」
自分は何ともなかったけど、思いの外この酒は強いのかもしれない。門番はひと口で頬が紅潮していた。そしてあっさり、神官が張った陣を崩した。嗚呼……。
心が引き裂かれそうだ。これで何個目の罪なのか、もう分からない。なんせ数えてない……。
「それじゃあ行ってくる。君も元気で」
「元気で?」
「元気で……挨拶してくれてありがとう」
いかん。これは誤魔化せないやつだと思い、振り向きざまに昏迷の術をかけた。
朦朧として崩れ落ちた彼を支え、木陰に寝かせる。恐らく数時間は寝てくれるだろう。
とは言え、この間に本当の侵入者が来たら困る。周りに目隠しの幻術をかけてから霊鳥に跨り門をくぐった。直後凄まじい烈風が駆け抜け、視界を奪う。天上で生まれ天上で育った自分が、再び世界を越えた瞬間だった。
天上にいた時から見上げていた山脈は瞬く間に消え去り、青い景色に放り出された。
「うわ……っ!」
十数年ぶりの空。でも以前父と来た時は一面鼠色だったと思う。
ずっと遠くに恐ろしく光ってる物体がある。恐らくあれが太陽だ。
天界は朝も夜もなく、一定して白い雲に覆われている。だから目に飛び込んできた光景全てが衝撃だ。
刹那の感動。
……が降下する最中、あまりの風圧に霊鳥がバランスを崩してしまった。もう少しで無事地上に下りるところだったのに、豪快に投げ出される。
「うはっ!」
木の上に落下したと思ったらまた大きく投げ出されて目が回った。次いで固い壁に激突し、擦り落ちるようにして地面に叩き付けられる。
「…………」
痛いなんてもんじゃない。即死してもおかしくない衝撃だった。
むしろ何故まだ生きてるのか。周りに飛び散っている大量の血飛沫を見て疑問に思った。
不老不死はちょっとのことじゃ死なない。だが今の痛みの度合いとしては、死んだ方が幸せな気もする。
よろけながら何とか立ち上がり、空を見上げた。霊鳥はどこかへ飛び去ってしまったが、焦りと不安は一瞬で彼方に追いやられてしまった。
「きれい……」
さっきまで自分がいたはずの天空が、鮮やかな青一色に染まっている。しばらくその美しさに見蕩れ、立ち尽くした。
やっぱり来て良かった……!
周りは人間のことを醜いとか、地上は汚いとか言ってるけど、見たこともないのにそんなこと言っちゃいけないって。
青い空に鮮やかな緑の山々。どこを切り取っても絵になりそうな、見事な絶景。
見れば自分が落下したのは大きな街の一角だった。人がいなかったことが幸いだ。もし誰かの上に落下していたら、到着早々人を殺めていたことになる。
「あああ! 最高ー!」
両手を広げて快哉を叫び、その場で駆け出した。
気持ちが晴れやかだ。満身創痍で死にそうだけど、下山する為に犯した罪の数々を思えば当然の報い。むしろ軽過ぎる。
父と母には申し訳ないけど、これからは地上で慎ましく、人として生きるぞ!
走りながら片手を強く握り締める。その瞬間、横から飛び出してきた人の首に強烈な一撃を入れてしまった。
「あっ!」
しかも最悪なことに、その後ろに長い階段があった。悲鳴をあげた人物は後方に倒れ、派手に転がり落ちてしまった。
慌てて駆け寄り、階段の下を見下ろす。地面に大の字になっているのはひとりの青年。……思わず放心して見ていると、彼の頭の周りからじわじわと血が広がり、あっという間に地面を赤く染めた。
なんてこった。……人を殺した!
「紫弦様、おはようございます。今日は街に視察に行かれるのですか?」「あぁ。父上が元気なうちに、できることをやっておこうと思って」街は活気を取り戻しつつある。身体の弱い者、貧しい者に幼い子ども。誰もが安心して生活ができるように、紫弦は新しい施設や職業を模索していた。異国で経済を学んだ弟が帰ってきてくれたこともあり、二人で国をよりよくする為に奮闘している。発展というより改善に近い。ただ今まで目を向けられなかった部分に着目している。強い者が快適に暮らせる国ではなく、弱い者が楽しく暮らせる国づくりを。自分達に与えられた時間は有限だから、この命が続く限り続けたい。迷った時や辛い時は首飾りに触れて心を落ち着ける。いつか帰ってくる彼の為に……。「紫弦様、護衛をつけてください!」「ああ、すまんつい……。でも武器を持った奴らをぞろぞろ連れていく方が目立つからな」短剣だけ腰に添えて、紫弦は城の門を抜けた。未だに皇子の自覚が足りないと董梅達から怒られるが、城の中でふんぞり返るだけの王なら街へ出て、畑仕事のひとつでも手伝った方がマシだと思う。耕した野菜や果物が誰かの糧になり、新たな命へ繋いでいく。今まで何百、何千年と続いてきたことなのだ。祖先が泥だらけになって頑張ってくれたから、今の自分達がある。「これ面白い!」商店が建ち並ぶ大通りでは、子ども達が玩具を持って走り回っていた。その姿を遠目で見て、思わず相好がくずれる。自分も幼い時はこっそり玩具を買って、あんな風に遊び回ったものだ。子どもは純粋で、何よりも弱い存在。誰かが守って、伸び伸び育つ環境を用意してやらないといけない。学校へ行けない子どもがいなくなったらいいのに、と彼も言っていた。今は少しでも変えられるように、子ども達を支援する為の法律も考えている。彼らは、命は国の宝だ。……昔のお前もそう思ったんだろ。空を仰いで、世界を照らす太陽を見つめる。どこにいても決して見失うことのない光。どれだけ心が冷えきっても、変わらない温もりを与えてくれる。今日も世界は平和だ。腰に手を当て、城の前の高台から街を見下ろした。見た目は何も変わらないけど、中身は着実に変化を遂げている。街と山の稜線を宙でなぞり、目を眇める。国を立て直すことができたら、いつかあの向こうへ行こう。そう奮い立ったとき、「うわっ! 駄目駄目、
指に力が込められる。苦しいほどの抱擁だ。でも、肩に掛かる髪や花の香り。これは間違いなく千華だ。千華がいる。ずっと待ち続けた彼が、……今、この腕の中に。「俺も……会いたかった。ずっと、待ってたんだ」彼の背中を抱き留め、三年ぶりの温もりを噛み締める。夢じゃない。今なら幸せで死ねる気がした。神様に感謝して、笑顔であの世へ逝けただろう。でも死ぬには惜しい。むしろ今生き返ったような感覚だったからだ。全身に電流が走り、つま先まで温かい血が巡った気がした。命の息吹だ。こうして触れている間も、自分と彼の心音が聞こえるようで……生きてるのだと実感する。身体を離し、何とか彼と一緒に立ち上がった。「ごめんな。大丈夫?」「平気。一応お前がいない間も鍛えてたから」土埃を落とし、心配そうな千華に微笑んだ。「それにしても、本当に突然だったな。何かこう、先に文書とか送ってくるのかと思った」「あはは、できたら良かったんだけど。とりあえず天界の修行が終わったから、今度は人界で修行するように、って送り出されたんだよ」千華も手の汚れを払い落とし、袖から金色の筆を取り出した。「父上の仕事を引き継ぐ為の前段階って言うか……要は、天界だけでなく、人界の事情や常識も学んでくるように言われたんだ。二つの世界の連絡役になれたら、今度は自分の意思でいつでも行き来できる。だから頑張るよ」「そうか……!」「何だ。泣いてんの?」「な、泣いてないっ」視線を外して言い返す。千華は疑わしげにじっと見ていたが、「そっか」と言って息をついた。「ところで、お願いなんだけど……人界で修行する間は、紫弦のところで世話になってもいいかな? お金は持ってないんだよね……」恥ずかしそうに笑う千華に、紫弦は吹き出す。「当たり前だろ! っていうか、そのまま嫁入りさせるつもりだから」「嫁? ……え、嫁!?」「そ。次に帰って来た時には絶対婚姻を結ぶつもりだった。父上と母上もお前に会いたがってたから、喜んですぐに準備するぞ! さぁ城に戻ろう!」「ちょちょちょ、紫弦! いくらなんでも早すぎ……!」慌てふためく千華を引っ張って、紫弦は城門へと急ぐ。自分でも驚くほど足が軽かった。早く、とにかく早く。身体よりも心が先に走り出している。これ以上は待てない。だって、自分達はもう充分待ったのだから。これからは同
人と人を結ぶ縁は聞いたことがあるが、地上の者と天上のものを結ぶ縁は聞いたことがない。もしかしたら縁などではなく、もっと強い力を持った何かが働いたのでは、と思った。「千華の師父は本当にお優しい人だから、彼が無事だと知って安心されている。私も彼も千華がいつ修行から逃げ出すのか坐視していたから、大して驚いてはいないんだ。でも、まさか下界へ行くとは思わなかったけど」甲高い鳴き声と疾風と共に、二羽の霊鳥が現れた。「私は天界と人界の両方を見守る連絡役を担っている。いずれは千華にこの役目を与えるつもりで、十四年前彼をここに連れてきた。……天界へ帰る時、千華が面白い子どもがいたと言っていたことを覚えてるよ」「子ども……」「話していてとても疲れたけど、とても楽しかったと言っていた」紫弦の横を風が吹き、周りの木の葉が舞い散る。紅天は立ち尽くす彼にこっと微笑んで、未だ揉めている二人に向かって手を鳴らした。「そこまでだ、お前達。これ以上騒ぐつもりなら吊るすぞ」「もっ……申し訳ございませんでした!」二人の声が重なる。一度にたくさんの嵐が来たような感覚から中々抜け出せず、紫弦は何度も目を擦った。「紫弦、大丈夫か?」それでも彼の目を見ると、心から安心する。「……もちろん!」その後は二人で一羽の霊鳥に乗り、再び鹿台へ戻った。千華は紅天と天界へ戻る運びとなった。悲しいけど、それは仕方ない。彼が元気でいられるなら、それだけで充分だった。さらになにか願えばバチが当たる。紅天は国王と皇后に事情を説明した。彼らも一安心したようで、千華と別れの挨拶を交わした。このまま時間が止まってほしいなんて、まだ未練がましく思っている。けどそんなこと、千華には既に見抜かれていそうだから黙っていた。紅天が霊鳥に跨る。ところが、千華の兄弟弟子の夕禅は当然のように紫弦の隣に立っていた。どうしたのか不思議に思っていると、紅天が思い出したようにこちらを向いた。「そうそう、さっき陛下とお話していたんだ。この先妖魔が現れても、千華はもうこの国を守ることはできない。だから夕禅を派遣することにした」「え?」紫弦と千華は呆気にとられて夕禅を見返す。すると彼は凄いだろうと言わんばかりに腕を組んだ。「彼の師から頼まれたんだ。夕禅も出来の悪い弟子だから、責任のある仕事を任せて成長させてほしいと」「師叔
池の周りにある茂みから出てきたのは、千華と同じく道士服を着た青年だ。彼は千華と紫弦の間に割り込むようにして現れた。そして地面を指さし、青ざめながら叫ぶ。「ななな、何だあれ!?」「ん? ……蛙か?」青年に抱きつかれた紫弦は横にずれて、彼が指差す先を確認した。そこにはとても小さな蛙が、元気よく跳ねている。「そんな驚くもんじゃないだろ。ていうか、お前は誰だ」力ずくで青年を引き剥がし、紫弦は距離をとった。暗がりでよく分からなかったが、ようやく顔が見える。千華は彼に近付いて目を凝らした。「……夕禅!? どうしてここに?」何だか聞き覚えのある声だと思ったら、そこにいたのは天界の道場で一緒だった兄弟弟子、夕禅だった。「よっ、久しぶりだな千華。あれが本物の蛙なのか。へー、おそろし……」「千華、知り合いか?」紫弦は千華の隣へ移動し、夕禅を警戒する。しかし彼を宥め、すぐに説明した。「俺と一緒に修行していたんだ。なあ夕禅、お前何で人界に来ることができたんだ?」「ふふふ、驚いただろ。紅天様に連れられてきたんだ。まあ人界へ行くように言ったのは公雅翔様なんだけど」「公雅翔?」紫弦は眉を寄せる。「俺達の師だ」千華は力なく呟く。恐らく彼は師に命じられてやってきたのだろう。 天界に戻ったら一番に彼の元へ行って、罪を償わなければならない。密かに奥歯を噛み締めた。「千華、紅天様に縛られてたな。俺も影で見てたぞ」「見てたのか……」「愉快痛快って感じだった。何よりお前、俺が酒で酔い潰れてる間に道場から逃げやがっただろ! ふざけんなよ!」夕禅はとても露骨に憤激している。しかしやはり、これが当然の反応だ。紫弦も困ったように眺めている。「あの後俺は公雅翔様に呼ばれて、何っ……時間も説教されたんだ。お前の行先を尋問されてさぁ! 俺も騙されたのに、何も知らないのに、だぞ! 剥かれたりしばかれたり、本当に酷い目に合った! わかるか?」剥かれるの意味が分からなかったが、彼も自分が苦しめたひとりだ。千華は深く頭を下げた。「謝っても許されることじゃないけど……本当にすまない、夕禅」「ああ、絶対許さん。これから帰って師叔から罰を受けるんだな。命があると思うなよ」「い、命って……」紫弦は駆け出し、夕禅の腕を掴む。「罰って、一体何なんだ?」「うん? この国の皇子様だっけ。
紅天は振り返り、近くの柱に背を預けた。霊鳥も一旦地に下りて羽をたたむ。「さっきの……息子の紫弦は城の中で育てたせいか、国外へ学びに行かせた弟よりずっと世間知らずに思う。だが人を見る目は鍛え上げたつもりだ。あいつが大きな信用を寄せる千華殿は、誠実な青年だと信じております」「……ありがとうございます。陛下にそのように言っていただいて、私も嬉しく思います。あの馬鹿は怠惰で、怖がりで、嫌なことからすぐ逃げようとする奴でした。王子の言う通り、そんな彼奴を一人前にしたくて、私が修行に送り出したんです」腕を組み、夜空を見上げる。空にはまだ星が瞬いていた。皇后も彼と同じ空に視線を向ける。こんな夜更けに鹿台へ来たのは初めてだった為、驚いた。ここは星がよく見える。今度息子達にも教えてあげようと密かに思った。「神道の鍛練が目的でしたが、千華に上級の術は使えないと思っていました。……いや、本音を言うともっと早くに逃げ出すと思っていた」「え? それは、どういう……」国王が目を見開いて尋ねると、紅天は立ち上がって笑った。「時に陛下。この国でお困りのことがありましたよね?」満月は太陽より大きく見える。そう思うようになったのは一体いつからか……千華は思い出せずにいた。どちらにしても美しい、この世界では不変の存在。月と太陽があるから、昼も夜も好きになった。大好きな世界を、人を照らしてくれる。息を切らして石畳の上を走り、ひたすら空を見上げていた。いっそこのまま誰もいないところまで行ってしまいたい。だが願いは風に攫われ、大切な想いは時が経つごとに色褪せていく。きっとこの温もりも奪われてしまう。そう思ったら、上を見ずにはいられなかった。俯いたら頭がおかしくなってしまう。「千華。……千華! もういいだろ、苦しい……っ」後ろに手を引かれ、千華は足を止めた。無意識のうちに、紅天達がいる鹿台からずいぶん走ってきてしまったようだ。手を引っ張っていた紫弦が近くの壁に手をついて息を切らしている。「ご、ごめんごめん」「ふぅ……一体どこまで行くのかと思ったよ。情けないけど、俺はお前ほど体力ないからな」額を伝う汗を腕でぬぐい、紫弦は仰け反る。「久しぶりに良い運動した。……お、今夜は月が綺麗だな」偶然見上げた先に満月を見つけ、紫弦は嬉しそうに背伸びした。千華も息を切らしていた。だ
それもこれも全ては自分のせいだ。巻き込んでしまった彼らには申し訳が立たず、言葉が見つからなかった。鹿台には客人を歓迎する為の席が設けられ、父は促されて着座した。一方で自分は、そのすぐ近くの柱に無理やり括り付けられた。神器の縄はそのまま、逃げられないように強い力が込められている。「千華、大人しくしてろ。抵抗は許さない」低く、抑揚のない声が降り掛かる。千華は静かに頷いた。紫弦は席につくよう国王に言われたが、千華の隣に立っている。「お久しぶりです、陛下。十四年前にお会いしているのですが、ご記憶にごさいますでしょうか」「もちろん。紅天殿ですよね。あの時は祝福の言葉と礼物をいただき感謝しております。……しかしまさか、千華殿があの時一緒にいた方だったとは……。紅天殿に気を取られて、記憶していなかったようです。申し訳ない」陛下は苦笑している。千華はいよいよ罪悪感で潰されそうだった。十四年前のことも黙っていたから、陛下は二重で隠し事をされた、と感じてるはずである。「……俺の父上もそうだが、千華の父上も本当に若いな。むしろ俺達と同じに見えるぞ」「あぁ。歳はとらないから……」紫弦が驚きながらこそこそ話してきたので、声を潜めて答える。会うのは何年ぶりだろう。だがいつ見ても変わらない、端麗で優雅な出で立ちの父。いつも鉄面皮だが、今回初めて怒りの表情を見た。何事も動じない彼を怒らせたのは、きっと自分だけだ。「此度のことがなければ、次代の戴冠式で来訪するつもりでした。お騒がせして本当に申し訳ない」全てはこの愚息のことで、と紅天は千華を一瞥した。千華は身体を震わせて俯く。既に紫弦からも国王に話していたが、紅天の来意は修行から逃げ出した千華を連れ戻しに来たことだと告げた。「この馬鹿息子は修行に耐えかね、奸計をめぐらし神門から逃げ出したのです。しかも霊鳥を盗み、天界と人界を結ぶ門番も騙して」「で、でも……水を差して申し訳ありません。千華は、自分の意志で神門に入ったわけじゃないんですよね?」すかさず紫弦が尋ねた。「千華が自分の意志で修行に入ったのなら、途中で逃げ出したことは完全に罪だと思います。でも彼は元々自信もなくて、ひとりでずっと悩んでいたそうなんです。たくさんの方に迷惑をおかけしたことは償わないといけませんが、その……彼を悪と決めつけるのはあまりにも乱暴かと
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