「本気で婚約を解消するつもりなの?」テーブルの向かい側で、上質な服に身を包んだ中年女性が、疑いの目を向けてきた。星野文月(ほしの ふみづき)は、目の前に置かれた婚約書を手に取ると、迷うことなく真っ二つに引き裂いた。そして、深津蒼介(ふかつ そうすけ)の母親――深津梨沙子(ふかつ りさこ)へと視線を戻した。「これで、信じていただけましたか?」梨沙子は一瞬言葉を失い、目には明らかな驚きが浮かんだ。だが、すぐに嘲るように唇を歪めた。「いいでしょう。新しい身分はこちらで手配してやるわ。一ヶ月以内に、この澄川市から出ていきなさい」文月はグラスを握りしめ、静かに頷いた。「わかりました」彼女がバッグを手に席を立とうとすると、梨沙子が鋭い声で呼び止めた。「約束は守ってもらうわよ。余計な騒ぎは一切起こさないこと。もし蒼介のお父さんが彼の浮気を知ったら、ただじゃ済まないから!」文月の足が止まった。ある過去の出来事が、脳裏をよぎる。かつて、他人から見れば、彼女と蒼介の関係は陳腐なおとぎ話そのものだった。ド貧乏シンデレラが、白馬の王子様に見初められた物語。大学時代、彼女は真面目な優等生で、彼は誰もが憧れる御曹司。どう考えても、交わるはずのない二人だった。それなのに、蒼介は彼女に一目惚れしたのだ。周囲の学生たちの話では、蒼介はまるで何かに憑かれたかのように、彼女と付き合うためなら、どんな無茶でもした。勉強嫌いだった蒼介が、彼女の欲しがっていた一冊の専門書を手に入れるため、雪の降る冬の夜に街中を探し回ったこともあった。彼女が魚料理を好むと知ると、夜明け前から釣りに出かけ、危うく川で溺れかけたことさえあった。当初、文月は身分の差があまりに大きいことを理由に、彼の熱意に感動はしても、彼の想いを何度も断っていた。しかし、彼女との婚約を許してもらうため、蒼介は実家で土下座までし、父親に本気で足を折られかけたのだ。病院へ運ばれる途中、蒼介は彼女に電話をかけ、震える声で「結婚してほしい」と告げた。その夜、文月はついに心を開き、蒼介こそが一生を共にする相手だと確信した。大学時代から卒業、そして婚約したこの二年間を含め、六年の歳月を共にしてきた。もうすぐ結婚というその時に、自分だけを見つめてくれていたはずの男が、なぜ突然心変わりしてし
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