All Chapters of 取り返しのできない道のり: Chapter 1 - Chapter 10

26 Chapters

第1話

「長谷川さん、検査の結果、あなたは不妊症ではありません」医者の口にしたその言葉は、鋭い刃のように長谷川夏子(はせがわ なつこ)の胸を貫き、その場に立ち尽くすしかなかった。彼女はバッグから過去の健康診断書をすべて取り出し、医者に差し出した。「そんなはずはありません。ずっと白野財閥傘下の私立病院で定期的に検査を受けてきたのです……」医者はきっぱりと言った。「誤診か、あるいは検査結果の取り違えでしょう」彼女は慌てて、ラベルのない薬瓶を取り出した。「これ、見ていただけますか?何の薬でしょうか?」医者は錠剤を砕いて匂いを嗅ぎ、「複合型レボノルゲストレル錠ですね」と答えた。夏子はわずかな医学知識から、すぐにすべてを悟った。彼女が長年服用していたのは、栄養補助剤などではなく、長期的な避妊薬だったのだ。しかし、ここ数年ずっと彼女に薬を処方していたのは道則のかかりつけ医であり、そんな初歩的なミスが起こるはずがない。ある疑念が頭をよぎった瞬間、夏子は茫然とした。そんなはずはない。結婚してからの数年間、白野道則(しらの みちのり)は彼女に本当によくしてくれた。五年前に彼女が不妊と診断されたとき、道則は彼女を慰めただけでなく、施設へ連れて行き、男の子を養子に迎えて白野明(しらの あきら)と名付けた。実の子のように愛情を注いで育てていた。子どもが大好きな道則が、どうしてわざと彼女に避妊薬を飲ませるようなことをするだろうか。夏子は検査報告書を手に、疑念を抱えたまま家に戻った。ちょうどドアに手をかけたそのとき、中から声が聞こえてきた。それは白野家のかかりつけ医の声だった。「社長、奥様の薬はこのまま続けさせますか?」夏子の手が宙で止まった。しばらくして、道則の低く沈んだ声が響いた。「俺が薬をやめろと言ったか?そのまま続けろ。ただし、気づかれないように慎重にな」かかりつけ医が警告した。「薬は毒にもなります。このまま飲み続ければ、奥様は本当に子どもを産めなくなるかもしれません。それでもよろしいのですか……」道則は目を伏せ、しばらく沈黙した後、口を開いた。「夏子に、自分は子どもを産めないと思い込ませるしかない。そうすれば明が正々堂々と白野家にいられる。何と言っても、自分の息子だ。このまま隠し子にしておこうと思うのは、無理だ」
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第2話

夢の中で、夏子は、自分が妊娠できないと知らされたあの頃へと戻っていた。彼女は幼い頃から児童養護施設で育ち、家庭を築き、夫を支えて、子どもを育てることが最大の夢だった。その夢が絶たれた彼女は、部屋に閉じこもり、飲まず食わずで、ついには手首を切って自殺を図った。そんな彼女を救ったのは道則だった。施錠されたドアを蹴破り、瀕死の彼女を病院へ運んだのだ。それ以来、道則は片時も離れず、彼女のそばに寄り添い続けた。彼は何度も彼女に語りかけた。「俺が愛しているのはお前自身だ。子どもを産めるかどうかなんて関係ない」白野家の両親はこの出来事を知ると、密かに離婚協議書を用意した。道則の母親の京子(きょうこ)は毅然とした態度で言い放った。「白野家は、役立たずを養うつもりはないわ。二十億円の手切れ金で、残りの人生を贅沢三昧に暮らせばいいじゃない。白野家を出てください」道則も彼女を庇いながら言った。「なら夏子と一緒に出て行く。俺のことをまだ息子だと思っているのか?」今思えば、あの深い愛情の裏には、すべて偽りが潜んでいた。彼女が目を覚ましたとき、部屋はがらんとしており、道則と明の姿はどこにもいない。夏子は起き上がって階下へ降り、どうして道則が自分を騙したのか、直接聞こうとした。しかし、半開きの書斎の扉の隙間から、親子が仲睦まじく語り合う光景が目に入った。明は甘えるように言った。「パパ、いつママに会いに行けるの?僕、すごく会いたいんだ」夏子には理解できなかった。自分は家にいるのに、なぜ明はそんなことを言うのか?次の瞬間、道則がその答えを彼女に告げた。「毎月9日にお母さんに会いに行くって約束したでしょ?明日が9日なんだから、もう一日だけ我慢しようね」明は不満そうに口をとがらせて、「やだやだ、今すぐママに会いに行きたい!」道則は声をひそめるように合図して、「明、いい子にして。もし夏子お母さんに俺たちの秘密がバレたら、もうお母さんに会いに行けなくなるよ」明は慌てて口を押さえた。道則は彼の頭を撫でながら、「それから、家ではお母さんって呼ぶんだよ。バカな女なんて言っちゃダメ」9日?毎月9日、彼ら三人は白野家の本家に戻って夕食を共にすることが慣例となっている。まさか明の実の母親が白野家の本家にいるのか?でも白野家の本家
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第3話

その晩、夏子は道則が熟睡している隙にバルコニーに出た。彼女は国際電話をかけた。「こんにちは、長谷川夏子です」電話の向こうからは喜びに満ちた声が返ってきた。「私たちのかわいい娘!やっと電話してくれたのね」夏子は淡々と告げた。「あなたたちと一緒に海外で暮らすことに決めました」実際に行方不明者支援組織から連絡があったのは、半月前のことだった。彼女の実の両親と連絡が取れたという知らせだった。スタッフの話では、実の両親は十数年前にイギスタンへ移住したが、これまでずっと彼女を探し続けており、今は一緒にイギスタンで暮らしたいと願っている。その時の彼女は、愛する夫と子どもを置いていくことができず、涙をこらえてその申し出を断ったのだった。今では、もう未練はない。電話の向こうで、夏子の母親がすぐに答えた。「手続きは弁護士に依頼して、できるだけ早く進めていく。遅くとも月末までにはグリーンカードを届けると思う」月末まで、あと十日間。国内のことを整理するには十分な時間だ。「わかった。十日後に会いましょう」道則はぼんやりと目を覚まし、いつものように隣に手を伸ばしたが、そこには誰もいなかった。シーツが冷たい。彼は一気に目を覚ました。「夏子、夏子?」夏子は電話を切り、バルコニーから戻ってきた。道則はベッドから飛び起き、彼女を強く抱きしめた。「どこに行ってたんだ?すごく心配したんだぞ」夏子は彼の背中を優しく叩いてなだめた。「ちょっとバルコニーで風に当たってただけよ。そんなに慌ててどうしたの?」道則は声を落として彼女の肩に顔を埋めながら呟いた。「これからは、何の前触れもなくいなくならないでくれ。さっき、本当に胸が痛んだ。お前が俺のもとを離れてしまったのかと思った」夏子は微笑んで言った。「私たちはこんなに愛し合ってるのに、どうして私があなたから離れると思うの?ね?ただし……」彼女は少しの間を置いた。道則が尋ねた。「ただし、何?」夏子は彼をそっと引き離して言った。「ただし、あなたが私を騙したり、傷つけたりしたらね」道則は少し気まずそうにして、慌てて話題を変えた。「明日は本家に戻る日だけど、お前が行きたくないなら、俺は……」毎月白野家の本家に行くことは、夏子にとっていつも悪夢のようなものだった。道則の
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第4話

翌朝早く、明はきちんと身支度を整え、夏子を急かした。「不器用でのろい。爺ちゃんと婆ちゃんに会いに行くんだから、早く早く」夏子は相変わらずマイペースで化粧をし、服をきちんとコーディネートしてから出かけた。車は白野家の本家の庭に静かに停まり、京子が満面の笑みで駆け寄って明を抱きしめた。「まあまあ、うちの可愛い明が、なんだか痩せちゃってる。誰かにいじめられてるんじゃないの?」そう言いながら、視線を夏子に向けた。道則は慌てて間に入り、「橋本先生によると、明の血中脂質が少し高いので、食事はあっさりしたものにしたほうがいいようだ」と説明した。すると京子は不満そうに言った。「こんな小さい子は今が成長期なのに、肉を食べないなんてダメよ。さあ、ばあちゃんがお肉を沢山食べさせるからね」道則は夏子の肩を抱き寄せ、「あまり深く考えるな。母さんも明のことを思ってくれたんだ」と言った。夏子は最初こそ戸惑っていた。明は白野家の血を引いていないのに、どうしてあんなに可愛がっているのかと。実は、明はもともと道則の隠し子だったのか。玲子が腰をくねらせながら現れ、「お兄ちゃん、夏子さん、お帰り」と挨拶した。道則は冷たく「うん」とだけ返したが、視線は彼女の白くあらわになった胸元にさまよっていた。二人はまるで周囲に誰もいないかのように目配せを交わしており、夏子はこれまでそのことにまったく気づいていなかった。家族の集まりのたびに、京子は家政婦を休ませ、夏子一人に台所仕事を押しつけた。下ごしらえ、調理、皿洗いまで。夏子は息つく間もなく立ち働きながら、彼女の冷たい嫌味にも耐えなければならない。「ちっちっ、卵も産めないメンドリなんて、うちの田舎じゃ煮て食べるのが当たり前よ。女なんて、子を産めないならせいぜい料理でもしていればいいのよ」その頃道則はたいてい二階の寝室でビデオ会議をしており、玲子の姿も見当たらない。夏子はこのとき初めて気づいた。京子はわざと二人に密会の機会を与えていたのだ。今回も例外ではなく、夏子は台所で野菜の下ごしらえをさせられている。道則と玲子は相次いで二階へ上がり、京子は明を連れて庭で遊んでいる。夏子は足音を忍ばせて二階の客間にあるバルコニーへ向かった。そこは玲子の寝室とつながっており、部屋の様子を一望でき
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第5話

料理がテーブルに運ばれてくるまで、道則と玲子はなかなか離れようとしなかった。道則は夏子の隣に座り、豚の角煮をそっと彼女の皿に取り分けながら、「お疲れさま、夏子」と声をかけた。玲子は嫉妬を隠さずに言った。「夏子さんは本当に幸せね。私なんて、ずっと一人ぼっちよ」夏子は、テーブルの下で玲子の足が道則の足に絡みつき、彼のスラックスの裾の間を擦り上げているのを目撃した。その瞬間、夏子には皿の中の豚の角煮が生臭くて脂っこく感じられ、黙って端に寄せた。明は玲子にぴったりとくっついて、「おばちゃん」と何度も呼びかけた。「おばちゃん、お肉食べて!」「おばちゃん、お寿司食べて!」夏子は冷ややかな目でその様子を見つめながら、何気なく口を開いた。「明と玲子、本当に親子みたいに仲がいいわね」この一言で、食卓は水を打ったように静まり返った。道則は顔をしかめて言った。「夏子、何を馬鹿なことを言っているんだ?」夏子は笑みを浮かべて言った。「冗談よ。そんなに真に受けないでよ。本気にしたみたいな反応ね」食事が終わる頃には、それぞれが胸に思惑を抱えていた。食後はいつものように、白野家恒例の「子孫への訓戒」の時間となった。京子は夏子から差し出されたお茶を受け取り、一口すすった。「女にとって一番の失敗って、何かわかる?」夏子は手を下げて脇に立ち、「夫の家のために子を産めないことです」と答えた。京子は満足そうにうなずいた。「少しは自覚があるようね。あの時、道則が取りなしてくれなかったら、あなたは白野家に残れなかったでしょうね」夏子が京子の話を遮った。「だから私は感激の涙を流し、明を大切にして、義理の両親に孝行しなければならないのですね?」京子は言葉に詰まった。「もういいわ、帰ってちょうだい」夏子は無表情のままリビングに戻った。道則は父親に書斎へ呼ばれたまま、まだ戻っていない。リビングでは玲子が明と一緒にテレビを見ていた。玲子は両手を胸の前で組み、「あら、今日はずいぶん早くお説教が終わったのね?お母さんも年を取って、気が弱くなったのか?家に卵を産まない雌鶏がいても、我慢できるようになったなんてね」明は彼女の袖を引っ張って、「ねえ、おばちゃん、卵を産まない雌鶏ってなに?」と聞いた。玲子は何気なく夏子を指さして、「ほら、
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第6話

夏子が病院で額の傷の手当てを終えて家に戻ったときには、すでに深夜になっていた。別荘の中は真っ暗で、道則も明もまだ帰っていなかった。そのほうが都合がいい。離れる前にいくつか片付けておきたいことがあるからだ。道則は、交際中も結婚後も、夏子に対して惜しみなく与えてくれた。100㎡のクローゼットは、物でぎっしりと埋め尽くされていた。世界最高級のジュエリー、限定版の靴やバッグ、数えきれないほどのオートクチュールドレス。以前は、夏子は道則の気前の良さを愛情の表れだと思っていた。だが今になって、それが罪悪感からくるものだったと気づいた。売れるものはすべてフリマアプリに出品し、売上金はそのまま児童養護施設に送金した。部屋の隅には、埃をかぶった段ボール箱がひとつあった。中には、道則と夏子が恋人だった頃の甘い思い出が詰まっていた。学生時代、道則が夏子に書いたラブレターは、なんと365通にも及んだ。彼は丸一年、夏子をひたむきに想い続け、毎日欠かさず手紙を書き続けた。当時、夏子の友人たちは道則のことを夏子の熱心な郵便配達人と冗談まじりに呼んでいた。夏子はその中の一通を取り出して開封した。古びた紙とインクからは、かび臭い匂いが立ちのぼり、目に染みて涙が出るほどだった。夏子は段ボール箱を売れ残りのガラクタと一緒に庭へ運び出し、ワインセラーから道則が大切にしていたロマネ・コンティ1990を一本取り出した。彼女は、世界にわずか8本しか残っていないとされるこの赤ワインの半分を、燃やそうとしているものの上に注ぎ、火をつけた。炎が立ち上る中、彼女はボトルを手に取り、残りのワインを飲み干した。アルコールが喉を通って体内に流れ込み、焼けつくような熱さが広がった。十年の青春と恋も、わずか十分で灰と化した。風が吹き抜けると、何もなくなり、ただの灰白色の灰の跡しか残らなかった。彼女は庭のブランコに腰掛け、日の出を待ちながら酒を飲んでいた。空がほのかに明るみ始めた頃、道則が戻ってきた。彼は玲子の傷の手当てが済んだら、夏子を探しに行くつもりだった。しかし玲子に引き止められ、「傷が痛む」とか「怖くてめまいがする」と訴えられた。病院で一晩中振り回され、ようやく玲子を寝かしつけた。道則はまず実家に電話をかけると、京子が夏子は昨夜出て
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第7話

夏子が目を覚ましたとき、道則は袖をまくり、散らかった庭を掃除していた。彼女は静かに彼のそばへ歩み寄り、立ち止まって言った。「ごめんね、あなたの赤ワインを何本か飲んじゃったの」道則は驚いて振り返り、彼女を抱きしめた。「ワインくらいどうでもいいさ。お前が喜んでくれるなら、全部割れても構わないよ。ごめん、夏子。昨日はあんなひどいことを言うべきじゃなかった。俺も焦ってたんだ。母さんが、玲子がお前のせいで怪我したって知ったら、またお前を責めるんじゃないかって……」本当に?夏子が責められるのを恐れていたのか、それとも明の実の母親に何かあったら困ると思ったのか?夏子はもう白野家の複雑な関係をはっきりさせようとは思わない。どうせもうすぐこの泥沼から抜け出すのだから。「うん、私は大丈夫。牧野先生に会いに行きたい」牧野(まきの)先生は児童養護施設の園長だ。道則は彼女をそっと抱き寄せて言った。「よし、それじゃあもう一度チャリティー資金を追加して、お前の名義で児童養護施設に寄付しよう。俺なりの償いのつもりだけど、いいかな?」夏子は微笑んで答えた。「もういいの、既に寄付したわ」彼女はさっき、昨日中古品販売サイトに出品した品々を確認していたが、一晩で全て売り切れていた。総額で十億円、児童養護施設の改修と増築には十分な金額だ。道則はそれ以上は言わず、地面の灰を見つめて尋ねた。「この灰は何?何か燃やしたのか?」「ただのいらないゴミよ」道則はアシスタントに指示を出し、トラック一台分の寄付品を児童養護施設に届けさせた。夏子は牧野先生に別れを告げに来た。今回イギスタンへ行ったら、もう二度と戻って来られないかもしれない。牧野先生はその言葉を聞いて顔色を変えた。「もしかして、白野さんに何か酷いことされたの?」夏子はうつむいたまま、黙っていた。牧野先生はため息をついて言った。「いい子ね、安心して行きなさい。私のことなど心配しなくていいわ」道則は寄付品を降ろし終えて近づいてきた。「どこへ行くの?」夏子は牧野先生と目を合わせて話題をそらした。「子どもたちにプレゼントを届けに行くの」道則は夏子の手を取り、「じゃあ、俺も一緒に行くよ」三人がちょうど出発しようとしたそのとき、一台の車が目の前に停まった。玲子はシャ
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第8話

夏子はまったくの他人を見るような目で道則を見つめた。玲子は彼の背後に隠れながら顎をしゃくり上げ、次の瞬間、風を切る勢いでその平手が夏子の頬を打った。パチン!その一撃に道則も呆気に取られた。夏子の顔は横に弾かれ、口の中に血の味が広がった。彼女は道則の腕を振りほどき、床に倒れていた少女を抱き上げ、優しくあやした。そして顔を上げ、冷たい目で玲子をにらみつけた。「出て行って。さもないと警察を呼ぶわよ」道則が前に出ようとすると、玲子が彼の腕をつかんで引き止めた。「出て行くわよ。誰がこんなみすぼらしい場所にいたいもんか」道則はため息をついた。「じゃあ、俺たちは先に行くよ。少し頭を冷やしてくれ。お前は白野家の嫁なんだ。俺たちは家族なんだから。孤児のことで雰囲気を悪くするなんて、割に合わないぞ」そして、わざとらしく玲子を数言叱った。夏子は、ただ心がひどく冷え込むのを感じていた。道則は忘れていたのだ。彼女自身もかつては孤児だったことを。夏子は身支度を整えた少女を牧野先生に預け、振り返って一束の書類を道則に手渡した。「これは今日届いた寄付品のリスト。署名してから行ってください」道則はそれを受け取り、玲子に急かされるまま慌ただしく署名した。その中に離婚協議書が含まれていることには、まったく気づかなかった。思えば、夏子は京子に感謝すべきかもしれない。当時、道則との離婚を強く迫られた際、白野家は即時効力を持つ離婚協議書を用意していた。そして道則がその書類に署名した瞬間、夏子はもはや道則の妻でも、白野家の嫁でもなくなったのだった。再び目を上げると、道則の目には後ろめたさがにじんでいた。「橋本先生を呼ばせる。治療費はすべて白野財閥が負担する」「必要ないわ。彼女はただの孤児よ。白野財閥の名に泥を塗らないで」道則は言葉に詰まり、とりあえず玲子を本家へ送り届けることにした。道中、彼は苛立った様子で言った。「子供相手に本気になるなんて、どうかしてるぞ」玲子は口を尖らせて言った。「向こうが先に意地悪をしてきたのよ。児童養護施設で育った子に礼儀なんて期待できないでしょ?」道則は鋭い視線を向けた。「そんなこと言うな。夏子も児童養護施設で育ったんだから」玲子は気にも留めず、目をくるりと回した。道則は苛立ち
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第9話

道則は玲子を自分名義の別荘に連れて行き、丸三日間、ひたすら共に過ごした。その間、玲子は絶え間なく夏子にメッセージや、動画とGIFを送りつけていた。白野家の正妻の座を奪おうと、全力を尽くしていた。明を産んだ以上、白野家が自分を嫁に出すことはないと彼女自身も分かっていた。このまま一生を終えるくらいなら、白野家に道則の妻として認めさせた方がいい。夏子を追い出すだけでなく、道則の心も奪う必要がある。三日が経ち、さすがの彼女も体力の限界を迎えた。再びベッドに力なく倒れ込み、玲子はようやく道則を解放した。彼女は道則の胸に頭を預け、「あなた、行ったらもう戻ってこないんじゃないの?」と尋ねた。道則は力なく答えた。「これからは、お前とは兄妹に戻ろう。でもお前は明の母親なんだから、たとえ将来俺と夏子の間に子どもができても、明は白野家の長男であることに変わりはない。彼が受けるべきものは、きちんと与えられるよ」玲子は探るように尋ねた。「本当にあの女との間に子どもを作るつもりなの?」道則は不満そうに眉をひそめた。「あの女じゃなくて、お義姉さんって呼べよ」そう言って彼は玲子を脇に押しやり、携帯の電源を入れた。不思議なことに、いくつかの仕事関連のメッセージ以外、夏子からは一通の連絡もなかった。彼は急に不安を覚えた。あの日児童養護施設で、道則は夏子が他人の前で自分の顔に泥を塗ったと感じ、思わずきつい言葉をぶつけてしまったのだった。数日前、家政婦からわざわざ電話があり、「奥様は帰宅後、顔色が悪く、ご自分の部屋にこもって食事も取ろうとされません。まさか何かあったんじゃないでしょうか?」と伝えられた。道則は玲子の上で動きながら言った。「あの子には両親もいなければ帰る家もない。白野家以外に行く場所なんてないさ。ただの癇癪を起こしてるだけだ。頭が冷えれば、自分から戻ってくるよ」長年の経験から、彼はそのパターンをすっかり把握していた。毎回「家出する」と言いながら、最後にはしょんぼりして戻ってくるのが常だった。彼が少し折れて、引き際を作ってやれば、大ごとにはならずに済んできた。だが今回は、なぜか確信が持てなかった。道則は慌てて服を着て、顔も洗わずに車を走らせて家へと向かった。道中、彼はずっと夏子に電話をかけ続けたが、ずっと電
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第10話

道則は、ただ頭がガンガンと鳴るのを感じていた。彼は駆け寄って家政婦の襟元をつかみ、連日の疲れで目は血走っていた。「なぜ妻がスーツケースを持って出て行ったことを、すぐに知らせなかったんだ?」家政婦は彼の鬼気迫る表情に怯えて、震えながら答えた。「わ、わたし、お電話はしました……」「電話してきたときは、彼女の顔色が悪いって言っただけだっただろう?」家政婦は手を振りながら説明した。「奥様が出て行かれたあと、すぐにお電話しました。でも電話に出たのは玲子お嬢様でした。彼女が、旦那様はお休み中だと言っていました。私が奥様が出て行かれたと伝えると、伝えておくと言っていました」玲子?道則は家政婦を突き放し、「あのクソ女、よくも俺の電話に出やがったな!」彼は振り返って壁の空白を指さした。「じゃあ、あの結婚写真はどうなったんだ?」「奥さんが埃がついてるから拭かないとと言って、外して寝室に持って行きました」道則は慌てて二階の寝室へ駆け上がった。ドアは少し開いていて、道則は震える手でそっと押し開けた。ベッドはきちんと整えられていた。彼はドアの前に立ち尽くし、急に中へ入るのが怖くなった。寝室の様子は一目で見渡せたが、結婚写真はどこにも見当たらなかった。道則はほっと胸をなでおろした。もしかすると夏子は本当に埃を拭くためだけに外したのかもしれない。しかしその時、ふとベッドの下から額縁の端が覗いているのが目に入った。道則は足元から力が抜けるようになりながら、這うようにして額縁をベッドの下から引き出した。高さ二メートルの結婚写真は、誰かによってハサミで真っ二つに切られていた。夏子の写っている半分はなくなっており、道則一人の姿だけが残されていた。彼はようやく気づいた。別荘のどこにも夏子の匂いが残っていないことに。ピンポーン――インターホンが鳴った。道則はふらつきながら立ち上がり、玄関へ駆け寄った。「きっと夏子が帰ってきたんだ、夏子!」ドアを開けると、そこに立っていたのは郵便配達員だった。「お届け物です。署名をお願いします」道則は何か届く予定があったか思い出せず、適当に署名をして、それを玄関のシューズボックスの上に無造作に置いた。彼はソファに崩れるように座り込み、両手で頭を抱えた。「夏子は出
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