All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

「会いたくないって、どうして?」奈々美は苛立ちを隠せず、その場で足を踏み鳴らした。ボディーガードが答えないと分かると、病室に向かって声を張り上げる。「祐一さん!どうして会ってくれないの?私、祐一さんを怒らせた?」「これはこれは、滝沢家のお姫様じゃない?あなたも門前払いを食う日が来るとはね」紬のからかうような声に、奈々美は振り返る。一瞬だけ由奈を見たあと、紬をにらみつけた。「調子に乗らないでよ。あなたなんかより、私の方が祐一さんとずっと仲がいいんだから」「そうかな?祐一兄ちゃんに追い返されてるのはあなたのほうみたいだけど?」紬はわざとらしく眉を動かし、得意げに笑う。「あなた……!」「前も言ってたでしょ。滝沢家のお嬢様だからといって、好き放題してたらバチが当たるって。ほら、祐一兄ちゃんにだって嫌われたでしょ?」奈々美の顔が真っ赤になる。手にしていたバッグを強く握りしめ、そのまま背を向けて去っていった。由奈はその後ろ姿を見送り、ふっと紬を見る。「奈々美とは、仲がよくないんですか?」「仲よくなれるわけないでしょ」紬は嫌悪を隠そうともせず言い放つ。「小さい頃、海都市に遊びに来るたび、あの子に散々嫌がらせされたんだから。滝沢家の娘ってだけで威張ってさ」肩をすくめる。「友達だって、本当に仲がいい人なんてほとんどいないよ。あの性格じゃ、周りが我慢してるだけ。滝沢家に生まれてなかったら、とっくに孤立させられてたと思うよ」思わず、由奈は吹き出した。すると紬は、ぐっと顔を近づけてくる。「お義姉ちゃん、笑ったほうがずっと可愛いよ。もっと笑って」「……今日が初対面なのに、どうして私が笑わないって分かるんですか?」「アルバムで見たから」由奈は目を瞬かせる。「アルバム?」「お義姉ちゃんと叔母さんと祐一兄ちゃんの写真。家族写真ね。どれも、あんまり笑ってなかった」由奈は言葉を失う。あれは結婚してすぐの頃に撮った写真のはずだ。あの頃、祐一の心に自分がいないことを知っていた。どんなに家族の前で笑おうとしても、胸の奥の寂しさまでは隠せなかった。「お義姉ちゃん会ったことがないのに、一目であなただって分かったのは――祐一兄ちゃんのところで、写真を見たことがあったから」その言葉に、由奈の眉がわずかに寄る。その頃、祐一は本を閉
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第372話

同じ頃、江川市。歩実のもとに、知らない番号の電話が入った。「滝沢祐一ががんだと知ってるかしら?」その一言に、歩実はしばらく言葉を失う。やがて冷ややかに笑った。「どなたか存じませんけど、作り話をするなら証拠くらい出したらどうです?」相手は怒るどころか、くすりと笑う。「ふふ、いきなりそう言われたら、確かに信じられないでしょうね。なら――石川由莉奈が計画したあの交通事故、その黒幕があなただってことを、私が知っていると言ったら?」歩実の表情が凍りつく。「……あなた、何者?」「敵じゃないわ」女の声は落ち着いていた。「あの事故はあなたがそそのかした。滝沢社長は病院に運ばれた後、公の場から姿を消した。滝沢家も彼に関する情報を封鎖し、海外療養中と発表。池上由奈も海都市に足止めされている。私の人間が情報を持ち帰らなければ、あなたに教えることもできなかったのよ」歩実はスマホを握り締める。顔色がゆっくりと沈んでいく。「……何が目的なの?」「取引がしたいの」女は淡々と続ける。「滝沢社長に捨てられたこと、池上由奈に初恋を奪われたこと、あなたはまだ根に持ってるでしょ?私ならあなたを助けられる。でも、その代わりにあなたにも協力してもらいたいの」歩実は鼻で笑う。「脅されるのは嫌いなの。今はあなたが私に頼む立場でしょ?どうして私が協力しなきゃいけないの?」「――米林圭介との過去を、私が知っているからよ」米林圭介(よねばやし けいすけ)。その名前が告げられた瞬間、歩実の足元がふらついた。血の気が一気に引き、呼吸が浅くなる。恐怖が、目の奥に広がる。沈黙が続くと、相手は確信したように言った。「よく考えて。あなたの過去、滝沢社長に知られたくはないでしょう?」歩実は唇を強く噛み、ようやく冷静さを取り戻す。「あなたの名前も知らないのに、どうやって信用しろっていうの?」「申し遅れたわ、私は石川っていうの。私の正体が気になるなら、明日の午後、住所を送るから、来てみるといいわ」通話は一方的に切れた。歩実はその場に立ち尽くす。これほどの脅威を感じたのは初めてだった。祐一は、彼女を深く憎んでいる。もし健斗の実父のことが明るみに出て、自分が長年彼を欺いてきたと知られたら――今度こそ、本当に居場所を失う。とにかく、相手が誰であれ、会わないという選
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第373話

体の奥で、血が逆流したような感覚が走った。耳鳴りがあまりにも生々しくて、一瞬、自分が聞いたのは幻聴だったのではないかと思う。――彼が、ずっと自分に惹かれていた?「……そう」彼女は壁に揺れる淡い光を見つめたまま、淡々と口を開く。「それでも、私より長門先生を優先して、彼女を信じて、私を突き放した。違う?」背後の祐一は、何も答えなかった。由奈は表情を変えずに続ける。「あなたは一度だって、私の味方になってくれたことはなかった。たとえ迷ったことがあったとしても、あなたはずっと長門先生を庇っていた」「……彼女を庇ったのは、負い目があったからだ」祐一は低く言う。「彼女が帰国してから、もう昔みたいな気持ちはなかった。それは……君が現れたからだ。君に惹かれていたから、俺の気持ちが揺れた」少し息をつき、彼は続ける。「本気で君を遠ざけたかったわけじゃない。ただ……自分が歩実を裏切ったような気がして、君に優しくすることができなかったんだ」由奈は、すぐには言葉を返せなかった。彼が自分の胸の内をここまで語ったことなど、これまで一度もない。そして彼女もまた、何も知らないままここまで来てしまった。「俺の気持ちが移ったのは事実だ。でも、あの誘拐事件の記憶を失ったあと、歩実は……ちょうど俺が一番つらい時期に現れただけだった」祐一はゆっくりと語り続ける。「高校に入るまで、俺はずっと海外の私立にいた。家の事情で、教師も生徒も打算で近づいてくる。だから、人付き合いが嫌いになった。母がそれを心配して、身分を隠して国内の公立に転校させたんだ。口下手で一人ぼっちだった俺に、最初に声をかけてくれたのが歩実だった」由奈は黙って耳を傾けていた。誘拐事件のあと、彼とは二度と会っていない。再び彼を見つけたのは、大学に入ってからのことだ。「由奈」祐一は腕に力を込める。「今になって分かった。初めて君を見たとき、理由もなく胸がざわついたのは……ただ顔が好みだったからじゃない。俺たちは、もっと前に出会っていたんだ。記憶が消えていただけで」祐一は小さく笑う。「再会してからも、俺はまた君に惹かれた……これって、運命だと思わないか?」由奈は目を閉じ、眠ったふりをする。祐一はしばらく待ったが、答えが返ってこなかった。彼女が寝たふりをしていることは分かっていた。胸の奥が疼いても
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第374話

看護師は笑いをこらえながら言った。「滝沢社長、まず朝食を召し上がってください。そのあとは点滴の時間です」祐一は軽くうなずき、振り返って由奈を見る。だが由奈は顔を背けたまま、彼を見ようとしない。彼は思わず小さく笑い、そのまま部屋を出ていった。ほかの人たちも続いて出ていくと、紬がようやく由奈のそばに寄り、小声で尋ねる。「お義姉ちゃん……祐一兄ちゃんと仲直りしたの?」「してませんよ」「じゃあ、なんで一緒に寝てたの?」由奈は呆れたように笑った。「祐一が勝手にベッドに上がってきただけ」紬は目を丸くする。祐一の行動に驚いたようで、言葉を失ったまま、しばらく固まっていた。……一方、歩実は指定された住所を頼りに、石川美容クリニックへとやってきた。看護師に案内され、院長室へ通される。回転チェアに座っていた女が、ゆっくりと振り向いた。「よく来てくれたわね。座って」歩実は腰を下ろし、じっと相手を観察する。「私たち……会ったことはないよね?」亜紀は微笑んだ。「そうよ。あなたは私を知らない。でも私は、あなたを知ってるの」「どうして?」警戒を解かない歩実を見て、亜紀は立ち上がり、ゆっくりとお茶を淹れた。「米林家の親子と知り合いだから、自然とあなたのことも耳に入るの」歩実は手をぎゅっと握りしめ、黙り込んだ。亜紀はお茶を持って戻り、カップを歩実の目の前に置く。「言ったでしょう。私たちは敵じゃないって。だから、そんなに身構えなくていいわ」「なぜ敵じゃないって言い切れるの?」「理由は単純よ。私は、池上由奈が中道家に戻るのを望んでいない。そしてあなたも……彼女に踏みつけられるのは嫌でしょう?」その言葉に、歩実の表情がわずかに揺れた。自分の弱みを握られているうえ、すべてを見透かされている。ここで逆らえば、次に何が起こるか分からない。歩実はゆっくりと息を吐いた。「……分かった。何がしたい?協力するわ」……二日後。倫也が診察を終え、執務室へ戻る途中、ナースステーションから由奈の話題が聞こえてきた。彼女が長期休暇を取ったことだ。足が止まる。本来なら、由奈はもう戻ってきているはずだ。だが実際はまだ戻っていない――祐一のために海都市に残っているのだろうか。倫也の表情が暗くなったまま、部屋に入る。中では裕人が待って
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第375話

浩輔の指が激しく震えた。身体という檻を破って反論したいのに、声を出せず、ただ涙を堪え、喉の奥からかすれたうめき声を漏らすしかなかった。その様子を見下ろしながら、歩実は唇をゆっくりと歪める。由奈もきっと同じような苦しみを味わっている――そう思うと、胸の奥がぞくりとするほどの興奮が込み上げた。次の瞬間、彼女はそっと車椅子のブレーキを外す。緩やかな傾斜に乗り、車椅子はゆっくりと水辺へ滑り出した。浩輔は、自分がそのまま湖へ落ちていくのをただ見ていることしかできない。どうすることもできず、絶望の中で目を閉じた。「やめて!」叫び声と同時に、綾香が駆け寄ってくる。しかし間に合わず、浩輔は車椅子ごと水へ落ちた。綾香は歩実を問い詰める暇もなく、そのまま湖へ飛び込む。歩実の顔色がさっと変わる。だが何か言う前に、向こうから美夏が倫也と裕人を連れて走ってくるのが見えた。まずい――彼女は慌てて帽子を深くかぶり、振り返りもせず走り出す。「待て!」裕人がその背中を追った。歩実は人混みの中へ紛れ込む。もう少しで追いつくというところで、彼女は突然通行人の腕を引き寄せ、裕人の進路を塞いだ。「ちょっと!危ないでしょ!」怒鳴り声が飛ぶ。裕人は通行人を避けて一瞬足を止める。顔を上げたときには、歩実の姿はもうどこにもなかった。一方、綾香は浩輔を必死に岸へ引き上げる。倫也と美夏も手を貸した。浩輔は水を大量に飲み、すでに意識を失っている。倫也はその場に膝をつき、すぐさま心肺蘇生を始めた。数分後、浩輔の口から水が吐き出され、かすかに意識が戻る。だが彼の体が小刻みに震え、倫也はすぐさま自分の上着を脱ぎ、浩輔にかけた。そこへ錦山リハビリテーション病院の医療スタッフが駆けつけ、彼を救急室へ搬送した。三人も付き添う。――廊下。看護師が綾香にバスタオルを渡す。美夏が綾香の髪を拭きながら言った。「間に合って本当によかったです。あなたが泳げなかったら、本当に危なかったんですよ」綾香は何か言いかけたが、そのとき裕人が息を切らして戻ってきた。「犯人は?捕まえられましたか?」美夏が問いかける。裕人は腰に手を当て、悔しそうに首を振る。「逃げ足が速すぎました。あと一歩だったのに、うまくかわされてしまって」そして眉をひそめる。「で、あの女、いったい誰
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第376話

「はい、大丈夫です。でも、かなり強い刺激を受けたみたいで……」綾香の声が、電話越しに続いた。「それで、同じことが二度と起きないように、池上先生へ連絡する前に、東山先生が浩輔さんをうちの病院へ転院させました」由奈のまぶたがわずかに揺れる。胸の奥に張り詰めていた緊張が、少しだけほどけた。「……綾香さん。今日のこと、本当にありがとう」「いえ、そんな。気にしないでください」「でも、あなたの顔も見られているはずです。しばらくは慎重に動いたほうがいい。私も、できるだけ早く江川市に戻るから」「分かりました」綾香は頷いたあと、ふと思い出したように言葉を続ける。「そういえば、今日は白石先生と稲垣先生にも助けてもらいました。病院でも、防犯カメラの確認を進めています」由奈は一瞬、言葉を失った。視線を落とし、静かに答える。「……分かりました。代わりに、お礼を伝えておいてください」通話を終え、振り返った瞬間。ドアのそばに、祐一がもたれかかるように立っていた。――聞いていたのだ。「歩実は、君が思っているほど甘い相手じゃない」その言葉に、由奈は思わず笑ってしまう。乾いた、どこか諦めを含んだ笑みだった。「あなたは彼女を何度も見逃してきたでしょ。相手が手強いかどうかなんて、もう関係ないんじゃない?」そう言って歩き出そうとした瞬間、腕を掴まれる。祐一はゆっくり口を開いた。「中道さんが、あのとき浩輔を錦山リハビリテーション病院に入れる手配をしただろ?俺ですら、居場所を突き止めるのに時間がかかった。歩実が、そう簡単にその情報を知るはずがない」由奈の足が止まる。自然と眉が寄った。確かに、その通りだった。浩輔を入院させたとき、誰にも知らせていない。まして歩実が、わざわざ自分を陥れるために浩輔の居場所を探る理由もない。祐一は続ける。「最初は、歩実の背後にいるのは影山だけだと思っていた。でも、あいつからある話を聞いて……それだけじゃないと分かった」由奈は振り向く。「……どういうこと?」祐一の目がわずかに伏せられる。顔つきが真剣になる。「当時、歩実がおばあさまから金を受け取ったのは、妊娠していたからだ。だが、俺たちが付き合っていた間、体の関係を持ったことは一度もない」由奈の瞳が、わずかに揺れた。「それに」祐一は続ける。「彼女は、かな
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第377話

由奈は何も答えなかった。千代がさらに問いただそうと口を開きかけたそのとき、将平が穏やかな声で割って入る。「もういいだろう。検査が済んだなら、それで十分だ」そう言って祐一に視線を向ける。「会社のことで、少し二人で話がしたい」祐一の表情がわずかに引き締まる。「分かった」二人が並んで去っていく背中を見送ると、千代はゆっくりと由奈へ向き直った。「祐一の病気が治るのなら……あんたたちの離婚を認めてもいいわ」淡々とした口調だった。だが、その奥には強い決意がにじんでいる。「私には、あの子しかいないの。もう誰のためであれ、息子が傷つく姿は見たくないのよ」言いながら、手にしていたバッグを指先でなぞる。「もしあんたに子どもができれば、母親の気持ちもよく分かるはずよ」返事を待つことなく、千代は由奈の横を通り過ぎ、そのまま去っていく。残された由奈は、その場に立ち尽くした。胸の奥に、何かが静かに沈んでいく。……倫也は浩輔の処置を終え、病室を出たところで、ポケットのスマホが震えた。画面に表示されたのは由奈からのメッセージ。転院の手配に対する礼だった。彼はしばらく画面を見つめる。指を動かし、返信を打ち込む。だが、途中で消して、もう一度書き直し――また消す。結局、送ったのは一行だけだった。【江川市で待ってます】「白石先生」声に顔を上げると、綾香が歩み寄ってくる。彼はスマホをしまい、軽く頷いた。「手続きは終わりましたか?」「はい、全部済んでます」「そうですか、お疲れ様でした」そのとき、病室の中で横になっていた浩輔が、ゆっくりと目を開けた。ぼんやりと天井を見つめる。水に落ちた恐怖よりも、胸を締めつけていたのは――歩実の言葉だった。もう、両親はいない。たった一人の姉まで……自分を捨てたのか?恐れと不安が、静かに広がっていく。……警察が歩実を訪ねたとき、彼女は亜紀と向かい合い、穏やかにお茶を飲んでいた。「長門さん。通報がありました。錦山リハビリテーション病院の近くで、池上浩輔さんに対する殺人未遂の疑いがあるとのことです。今朝、どこにいらっしゃいましたか?」歩実は一瞬だけ目を伏せ、動揺を押し殺す。そして亜紀に視線を送った。亜紀は微笑んだまま答える。「これは何かの間違いなのでは?長門さんは午前中、ずっと
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第378話

翌日、由奈のもとに綾香から調査結果が届いた。やはり予想していた通りだった。歩実にはアリバイがある。事件が起きた時間、彼女は石川美容クリニックにいて、その証人は亜紀だという。――ここまで用意周到だなんて。由奈は静かに息をついた。自分が中道家の娘であることを、あえて中道家の人間に知られたくない理由。それは単なる確執だけなのだろうか。その真意は、まだ見えてこない。「お嬢様?」不意に呼ばれ、由奈の足が止まった。華沢私立病院のロビーで、智宏と駿介にばったり出くわしてしまう。そういえば、母――恭子もこの病院に入院している。ただし病棟は別だ。同じ病院にいる以上、いつかは顔を合わせると思っていたが、ここまで長く海都市に滞在することになるとは、予想外だった。こちらに歩いてくる智宏を見て、由奈は気まずそうに視線を逸らす。「……お兄さん」「江川市に戻ったんじゃなかったんですか?」「そうですよ。お嬢様、どうしてまだここに?」隣の駿介も不思議そうに口を挟む。由奈は無理に笑みを作った。「ごめんなさい、お兄さん。わざと嘘をついたわけじゃなくて……」智宏は眉をひそめる。自分に知らせず海都市に残った理由――まさか。「……滝沢社長のためですか?」「違います!」思わず強く否定した由奈は、自分の声の大きさに気づき、慌てて息を整えた。「そういうことではありません。ただ……離婚がまだ成立していないので、今も一応、滝沢家の嫁のままなんです」一拍置き、静かに続ける。「でも、千代さんが約束してくれました。治療に付き添えば、祐一に離婚届へサインするよう説得すると」「あの人の言葉、本当に信用できますか?」智宏は苦笑する。「息子のためなら、いくらでも約束を破るでしょう」由奈は返す言葉を失った。そのまま、智宏は由奈の手首をつかむ。「滝沢家の人間と、直接話をつけに行きましょう」「お兄さん――」止めようとした、その瞬間。エレベーターの扉が開き、祐一が姿を現した。二人の視線がぶつかる。言葉はなくとも、空気が一瞬で張り詰める。祐一は二人の前で足を止め、淡々と口を開いた。「これはこれは、中道さん。顔色が悪いですね。どうかしましたか?」「それは、聞かなくても分かるのでは?」智宏は冷ややかに笑った。「うちの妹を滝沢家が半ば強引に引き留めておいて、何の
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第379話

祐一がそう呼んだ瞬間、智宏は思わず言葉を失った。まさか、由奈のためにここまで腹をくくっているとは思っていなかったのだ。何か言い返そうとした、そのとき。祐一はふっと表情を戻し、淡々と言った。「……今のは冗談です。この格好で手ぶらのままお義母さんにお会いするのも、さすがに失礼でしょう。また日を改めて伺います」智宏は奥歯を噛み締め、そして笑った。「手ぶらで結構ですよ。うちの母はそんなこと気にしませんから……それとも、滝沢社長は怖気づきましたか?」祐一がいつもと違う態度を見せるほど、智宏は引く気になれない。「お義兄さんがそこまでおっしゃるなら、従うしかありませんね」「……」由奈はわずかに口元を引きつらせ、視線を逸らした。「お兄さん、お母さんが待っていますよ」それ以上は何も言わず、智宏は由奈とともに歩き出す。祐一も慌てる様子はなく、静かに後ろからついてきた。四人はエレベーターに乗り、十二階のVIP療養室へ向かう。病室の前で駿介は立ち止まり、体を横にして三人を中へと通した。恭子はちょうど薬を飲み終えたところらしく、ベッドに背を預けて休んでいた。だが手は止まっていない。小さな人形の洋服を、丁寧に縫い続けている。ベッドのそばには、付き添いの使用人が二人控えていた。物音に気づいた一人が扉へ向かい、智宏と由奈の姿を見ると、柔らかく微笑んで一礼する。「坊ちゃん、お嬢様。お待ちしておりました」由奈も笑顔でうなずき、智宏とともに部屋へ入った。智宏はベッドのそばまで歩み寄り、恭子が持っている人形の洋服を見て、ふっと笑う。「お母さん。妹を連れてきましたよ」恭子は顔を上げ、手を止める。「ゆうちゃん!会いたかったの!」「お母さん」由奈はベッドの縁に腰かけ、その手を握る。「ちゃんと休まないといけないでしょ?またにん……ゆうちゃんの服を作ってたの?」本当は「人形」と言いかけた。だが母は長い間、その人形を心の支えにしてきた。だから由奈はあえて母にとって馴染みのある言い方をした。「うん!ゆうちゃんはどう思う?可愛いでしょ」恭子は縫い掛けの洋服を愛おしそうに撫でる。「ええ、お母さんが作った服なら、何でも可愛いですよ」恭子はすっかり上機嫌になった。そのとき、ようやく祐一の存在に気づく。彼が自分と同じ病院の入院着を着ているのを見て、じっと
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第380話

恭子が迷いなくうなずいた瞬間、祐一は小指を差し出し、子どものように指切りの仕草をしてみせた。恭子はこういうやり取りに弱い。結局、彼は一人で恭子をあっという間に笑顔にしてしまった。智宏の表情は硬くなる。だが、反論の言葉は出てこない。――祐一より先に、由奈に出会っていれば。そんな後悔が、胸の奥をかすめた。やがて恭子が眠りにつき、三人は静かに病室を後にする。廊下へ出た瞬間、由奈が口を開くよりも早く、智宏が祐一の胸ぐらをつかんだ。「滝沢社長。精神疾患の患者相手に、ああいうやり方はどうなんです?」由奈ははっと我に返る。もし本当に殴り合いにでもなれば、千代一人でも厄介なのに、滝沢家の人間は黙っているはずがない。「お兄さん、落ち着いて」だが智宏は手を緩めない。視線は、どこか余裕を残したままの祐一の顔に釘付けだった。祐一もまっすぐ見返す。「お義母さんは精神的な病を抱えているかもしれません。でも、少なくとも誰が本当の娘かということについては、あなた方親子よりよほどはっきりしているのでは?それに、俺は普通に会話をしただけです。後ろめたいことなど何もしていません」智宏の手の甲に青筋が浮かぶ。図星を突かれたのは明らかだった。「祐一、いい加減にして!」由奈は智宏をかばうように祐一を押しのける。「もう終わったことなのに、どうしてわざわざ掘り返すの?人を追い詰めないと気が済まないの?」祐一の目が、わずかに曇った。「追い詰めている?俺が?」由奈はその視線から目をそらす。「兄や父のことを、とやかく言う資格はあなたにはない。それに……」数秒の沈黙。それからもう一度、まっすぐ彼を見つめた。「一番、そんなことを言う資格がないのは、あなたでしょう」その言葉に、祐一の背筋がぴたりと固まる。唇に浮かんでいた笑みが、静かに消えていった。深い海の底のような瞳。波立っているはずなのに、表面だけが不気味なほど凪いでいる。――否定されるというのは、こんなにも胸を締めつけるものなのか。由奈は智宏の腕を引き、そのまま彼の横をすり抜ける。祐一は動かず、広い廊下に一人取り残された。エレベーターを降りたところで、智宏がふっと笑った。「滝沢社長、頭に血が上って、気絶でもしたらどうします?」「自分の兄をかばっただけです。怒られる筋合いなんてないでしょ」
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