All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 381 - Chapter 390

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第381話

由奈は祐一の手元を見つめたまま、すぐには動かなかった。千代は胸の奥に込み上げた怒りをどうにか飲み込み、息を整えてから息子に問いかける。「祐一はどう思うの?」祐一は無言でおかずを口に運び、静かに言った。「池上家には育ててもらった恩がある。ここで止めたら、彼女が薄情だって言われるだけだ」千代は眉をひそめる。「じゃあんた自身は?由奈がいなくてもいいの?」祐一の視線がゆっくりと由奈に落ちる。「俺も一緒に行く」その言葉に、由奈は目を見開いた。「何を言ってるの?」千代の顔色がさっと変わる。「その体でまだ無理をする気?これ以上振り回されてどうするのよ!」祐一は肩をすくめた。「今すぐどうこうなる病気じゃない。ずっと病院にいるのも退屈だし、気分転換だと思えばいい」あまりに軽い口調に、千代の顔はみるみる青ざめる。鋭い視線が由奈に突き刺さった。由奈はそれを受け流し、淡々と言う。「私は付き添ってほしいなんて頼んでない」「ああ、そうだな」祐一の声は低く、静かだった。「俺が勝手に行くだけだ。何かあっても、君のせいにはしない」「祐一!」千代の声が裏返る。目に涙が滲んでいた。自分の息子が、想いを返してもくれない女のために母親と対立する。腹が立たないはずがない。「俺の体が大事か、それとも母さんの反対が大事か?」祐一の一言に、千代は言葉を失った。彼はゆっくりと続ける。「ずっと入院してるほうが回復にいいとは限らない。それに、治らない病気でもないんだろ?」千代はしばらく立ち尽くし、やがて深く息を吐いた。「私が許しても意味はないわよ。お父さんに話してちょうだい」「ああ、ちゃんと話すよ」千代はバッグの持ち手を強く握りしめ、由奈を一瞥する。「もし祐一に何かあったら、私は絶対にあんたを許さないから」由奈は何も答えなかった。重い足音とともに千代は部屋を出ていき、ドアが強く閉まる。しばらく経っても、怒りがまだ空気に残っていた。由奈は祐一を見つめる。「お母さんを怒らせる必要はなかったでしょ。あの人はあなたを心配してるだけ。それに、その体で江川市に行って何ができるの?」背を向けようとした瞬間、祐一の手が彼女の腕を掴んだ。「池上家のことには、俺にも責任がある。行かなきゃいけないんだ」数秒、由奈は黙り込む。やがてそっと手を引き抜い
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第382話

将平はネクタイを整えかけた手を止め、眉をひそめた。「何の話だ?」千代は乾いた笑みを浮かべる。「何の話って、あんたが一番分かってるでしょ?」長年押し殺してきた感情が、ついにあふれ出した。「祐一を産んでから、私に一度でも優しくしてくれたことがあった?もし私が松本家の娘じゃなかったら、とっくに追い出していたんじゃない?」将平の胸が大きく上下する。怒りが目に宿った。「いい加減にしろ!いい年して何を騒いでいる。恥ずかしくないのか?」その一言が、千代の胸を鋭くえぐる。彼女の目が赤く染まった。「私は二十六であんたに嫁いで、二十八で祐一を産んだ。今はもう五十八よ。滝沢家に縛られて三十年、あんたを支えながら子どもを育ててきた。私はもう昔みたいに綺麗でもなんでもない。でも、あんたはほとんど変わらなかった。私が嫌いになるのも無理はないわよね」声が震える。「何せ、私は皐月さんとは違うからね。私はあの人みたいに優しくもないし、甘え上手でもない。だから、あんたは今でも彼女を忘れられないんでしょう?」将平の表情が、冷たく沈んだ。「もう過去のことだ。私を恨むのは勝手だが、彼女まで引き合いに出すな」それだけ言い残し、彼は彼女を避けるように部屋を出ていく。千代はゆっくりと顔を上げた。頬を伝う涙を指で拭い、口元には、痛々しいほどの笑みを浮かべていた。……ただ江川市へ戻るだけのはずだった。それなのに、祐一と将平がそろって同行するとは、由奈は思いもしなかった。祐一のために医療チームまで帯同し、滝沢家は専用機をチャーターした。当然、由奈が予約していた便はキャンセルになる。午前十時に出発した機体は、十二時半には江川市に到着した。一行はそのままインターナショナルホテルへ移動し、医療スタッフの宿泊費も含め、すべて滝沢家が負担していた。最上階のプレジデンシャルスイート。六つの寝室があり、将平と祐一、由奈のほか、主治医と秘書の古賀が滞在することになった。古賀は将平の右腕として十年以上仕えてきた人物で、最も信頼されている側近だ。荷解きが終わると、主治医はすぐに祐一の採血を行い、知人のいる病院へ検査を回すよう指示を出した。祐一が薬を飲み終え、医師たちが部屋を出ていったあと、将平は静かに由奈に視線を向ける。「養父母の息子が心配なら、ここに連れてきてもいい」
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第383話

しばらく病院に顔を出していなかった由奈が科へ戻ると、看護師長と当直の看護師たちは一様に驚いた顔をした。「池上先生、戻られたんですね?」由奈は軽く頷き、微笑む。「白石教授はいますか?」「今日は稲垣先生と外出されています。でも、東山先生ならいますよ」礼を言ってから、由奈は美夏の執務室へ向かった。美夏は患者のカルテに向き合い、処方を書き込むのに集中していて、由奈が入ってきたことにも気づかない。由奈は軽く咳払いをした。その音に美夏が顔を上げる。一瞬ぽかんとしたあと、椅子の背にもたれた。「やっと戻ってきたんだ。遅すぎじゃない?」由奈は苦笑する。「足止めされててね……何とか都合をつけて戻ってきたの」「てっきり旦那さんと仲直りして、江川市を離れるのかと思ってた」「そんなことないよ」由奈はすぐに否定する。「私はここを離れるつもりはないから」美夏は肩をすくめた。「まあ、それはいいとして。弟さんのこと、もう綾香さんから聞いたよね?病室を案内するよ」二人は執務室を出た。「弟の様子は?」「かなりショックだったみたい。ここ数日、ずっと元気がないって綾香さんが言ってた」美夏は振り返る。「それと、稲垣先生が通報したの。長門さんは事情聴取を受けて、昨日は警察署で調書まで取られたらしい。でも、本人は全部否定してるし、アリバイも証人もあるって」由奈は黙り込む。歩実が嘘をつくことくらいは、予想していた。「彼女を、裏で支えてる人間がいる。だから強気なんでしょう」内科病棟に着き、美夏は浩輔の病室の前で足を止めた。窓から中を見ると、浩輔は車椅子に座り、背中をドアに向けたまま窓の外を見つめていた。その姿があまりにも寂しげで、由奈の胸が締めつけられる。血のつながりはなくても、彼女にとって浩輔はもう実の弟と変わらない。由奈は静かにドアを開け、彼のそばへ歩み寄った。足音に気づいた浩輔が振り返る。虚ろだった瞳に、わずかな光が宿る。由奈はゆっくりとしゃがみ込み、目線を合わせた。「ただいま、浩輔。待たせてごめんね」浩輔の目に涙がにじむ。唇が震え、何か言おうとするが、喉から漏れるのはかすれた声だけだった。感情が高ぶっているのを察し、由奈はすぐに落ち着かせるよう声をかける。「大丈夫。姉さんがずっとそばにいるから。もう、あなたを一人にしたりはしないわ」
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第384話

胸騒ぎに駆られ、由奈は慌ててスマホを取り出すと、綾香に電話をかけた。ほどなくして、電話が繋がる。「もしもし、池上先生?」由奈の張りつめていた表情がわずかに緩む。「綾香さん、家にいないんですか?」「いますけど……」そのとき、綾香は隣室――倫也の部屋から顔を出し、由奈の姿を見つけると、通話を切って駆け寄る。「池上先生、戻ってきたんですね?」由奈は驚いて彼女を見た。そこへ裕人も顔を出す。「池上先生、お帰りなさい」二人とも倫也の部屋にいるのを見て、由奈はようやく胸をなで下ろす。そして視線を綾香に向けた。「綾香さんに何かあったのかと思って……心配してました」綾香はちらりと裕人を見る。「実はさっき、怪しい男の人が二人来たんです。連れて行かれたらどうしようって困っていたら、ちょうど白石先生と稲垣先生が出てきてくれて……それで稲垣先生に、しばらく白石先生の部屋に避難したほうがいいって言われたんです」裕人は腕を組み、ドアにもたれかかった。「その通りです。僕たちがいなかったら、綾香さんは無理やり連れて行かれていたかもしれません」由奈はすぐに察した――歩実か亜紀の差し金だろう。だが、まさか住所まで突き止められていたとは思わなかった。もし二人がいなければ、本当に綾香は危なかったかもしれない。気持ちを落ち着け、裕人に向き直る。「……ありがとうございます」「僕じゃなくて、お礼は白石先生に言ってください。では、僕はこれで」裕人は手をひらひらと振り、そのままエレベーターへ向かった。姿が見えなくなってから、由奈は綾香に向き直る。「あんなことが起きた以上、この部屋はもう安全とは言えませんね」綾香はうなずいた。「しばらく東山先生のところに泊めてもらおうと思っています。彼女は一人暮らしですし、勤務時間も同じなので、そのほうが安心かなって」由奈は目を伏せる。確かに、一人でいるよりずっといい。「そうですね。そのほうが安心だと思います」綾香はすぐに美夏へ連絡し、荷物をまとめるため部屋へ戻った。由奈が振り返ると、不意に倫也と目が合う。いつの間にか、彼はドアの前に立っていた。「やっと戻る気になったんですね」由奈はくすっと笑う。「その言い方だと、帰ってきてほしくなかったみたいに聞こえますけど」倫也は視線を逸らす。「それはあ
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第385話

由奈は眉を吊り上げ、声を一段高くした。「どうして責めちゃいけないの?この六年間、ずっと私が我慢してきたのよ。私が待たされるのは当たり前で、彼が少し待っただけで苛立ってもいいっていうの?」ボディーガードは思わず口をつぐんだ。――この夫婦、黙っているときはまだいい。けれど口論になると、どちらも迫力が凄まじい。麗子がどうやって耐えてきたのか、不思議でならない。祐一は奥歯をかみしめ、しばらくしてから落ち着いた声で言った。「夕食を温め直してくれ」ボディーガードは無言でうなずき、テーブルの料理を運んでキッチンへ向かう。リビングには、由奈と祐一だけが残った。本気で怒っている由奈を見て、祐一は額に手を当て、こめかみを軽くもみほぐす。「俺は……そこまで腹が減っていなかっただけだ」「餓死したって、私には関係ないわ」あまりにも冷たい言い方だった。だが祐一は、なぜかふっと笑った。「何がおかしいの?」彼は視線を外さずに答える。「怒るってことは、まだ気にしてるってことだろ」由奈は言葉に詰まり、唇を引きつらせた。「あなたに何かあったら、滝沢家が私に責任を押しつけてくるでしょ。面倒なのが嫌いなだけよ」そう言い捨てると、背を向けて部屋へ戻る。祐一は唇をわずかに引き結び、かすかな笑みだけを残した。翌朝。朝食を取っていた由奈のスマホに、裕人から返信が届いた。【白石先生が好きなものは、けっこう多いですよ】【具体的には?】【たとえばペットなら冷血動物。食べ物は辛いものが好きです。コーヒーはインスタントじゃなくて、必ず挽きたて】【それで……プレゼントを贈るなら、何がいいと思います?】【なるほど、プレゼントですか。だったらライターにしてください!】由奈は思わず画面を見つめた。ライター?倫也は煙草を吸わないはずだ。【本当にそれでいいんですか?】【僕を信じてください。ライターを渡せば、絶対に喜びますよ!】その頃、会議室では。スマホをいじっている裕人の動きに、隣の倫也はすぐ気づき、そのスマホをさっと取り上げた。その拍子に、画面に映っているチャットのやり取りが、一瞬だけ視界に入る。「ちょっ――」裕人が思わず声を出すと、会議中の医師たちが一斉に振り向いた。慌てて頭を下げ、気まずそうに笑う。倫也は彼を一瞥し
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第386話

由奈はその場に立ったまま動かず、近づいてくる祐一を見つめた。「どうしてここに?」「心配だったから」あまりにもあっさりした答えに、彼女は一瞬きょとんとする。「……どうして私がここにいるって分かったの?」祐一は答えず、視線だけを彼女のスマホに落とした。由奈はすぐに察する。「位置情報、ね……」言い終わらないうちに、祐一がふいに紙袋を手に取った。「何を買ったんだ?」「ちょっと――」由奈は慌てて取り返す。「あなたにじゃないから」その一言で、彼の動きが止まった。袋の中の小さな四角い箱に目を留め、眉をひそめる。「……誰に?」「兄に」「どうして急にプレゼントなんかを?」由奈は視線をそらした。「私があげたいの。悪い?」祐一は小さく笑ったが、その目にはどこか寂しさが滲んでいた。「俺は……君からプレゼントなんて、もらった覚えがないな」「本当に?」彼はわずかに眉を寄せ、思い返すように黙る。由奈は静かに言った。「もし私が何も贈っていなかったなら、『もう余計なことはするな』って言われることもなかったよ」――結婚一周年の冬。彼女が初めて贈ったのは、手編みのマフラーだった。けれど返ってきたのは、「もう余計なことはするな」という一言。それ以来、彼女は祐一に何も贈っていない。祐一の胸がわずかに締めつけられる。「……あのマフラーが、君の手編みだとは知らなかった」「そう。編み目も不揃いで、きっとみっともなかったでしょうね」由奈は自嘲気味に笑う。「私でも、あれはちょっと嫌かも」「そういう意味じゃない」「もう昔の話よ」ぽん、と軽く彼の肩を叩き、微笑む。「滝沢社長、そろそろ戻りましょう。長く外にいると、私が怒られちゃう」祐一は唇を引き結んだまま、何も言わなかった。ホテルへ戻ると、ちょうど廊下で将平がボディーガードを叱りつけているところだった。「しっかり見張れと言っただろう!どこへ行ったのかも把握してないとはどういうことだ?こっちは給料を払ってるんだぞ!」ボディーガードは頭を下げ、ただ黙って怒りを受け止めている。二人の姿が視界に入ると、将平の表情がわずかに和らいだ。由奈の背後にいる祐一へ視線を向ける。「出かけるなら一言くらい言え」由奈は無意識に紙袋を握りしめた。「少し気分転換しただけだ」祐一はさりげ
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第387話

その夜、祐一はほとんど眠れなかった。目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。朝の食卓で、由奈は何も聞かず、ただ静かに朝食を口に運んでいた。将平がふと息子の顔色に気づく。「体調が悪いのか?」祐一は低くかすれた声で答えた。「いや、問題ない」将平の視線が由奈へ移る。彼が何か言う前に、由奈は口を開いた。「お義父さん、今日も出勤したいと思います」将平はナイフを止め、しばらく考えたが、やがて静かに頷いた。「分かった。行ってこい」「ありがとうございます」祐一が彼女を見た。「送るよ」由奈は反射的に断ろうとしたが、将平がゆっくりとベーコンを切り分けながら言う。「心配なら古賀に送らせればいい」「妻の送り迎えは人に任せたくない」由奈は小声で抗議する。「本当に大丈夫だから」「俺も病院へ行く。ついでだ」有無を言わせぬ口調に、彼女は黙るしかなかった――昔はこんなに付きまとうタイプじゃなかったのに。朝食を終え、祐一と由奈はホテルを出た。祐一は少し後ろを歩き、ボディーガードが車を回してドアを開けた。車に乗り込んだ直後、由奈のスマホが鳴る。綾香からだ。通話ボタンを押した瞬間、向こうの慌てた声が飛び込んできた。「池上先生、浩輔さんが……屋上にいるんです!」由奈の頭の中が真っ白になる。祐一が異変に気づく。「どうした?」由奈は震える手でスマホを下ろした。「すぐ病院へ……お願い、急いで」……病院の屋上。浩輔は手すりを掴み、ふらつきながら立っていた。足元の地面は遥か遠く、人影が蟻のように小さく見える。下では野次馬が集まり、医療スタッフが通報し、すでに警察と消防が到着していた。救急車も待機している。人々を誘導する警察の脇を、由奈が駆け抜けようとしたが、止められてしまった。言葉にならない説明を必死に繰り返す彼女の背後から、祐一が落ち着いた声で告げた。「屋上にいるのは彼女の弟です」警察が目を見張る。「ご家族ですか?」「はい!」由奈は我に返り、職員証を差し出した。「院内の医師でもあります」すぐに通された。エレベーターで最上階へ。そこからさらに非常階段を上がった先の通路には、すでに数名の医療スタッフが集まっていた。倫也と綾香の姿もある。消防隊員たちが装備を整え、救助の準備を進めていた。「私に話をさせてください。弟
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第388話

浩輔は由奈を見つめたまま、今にも崩れ落ちそうな表情で言った。「全部……知ったんだ。父さんも母さんも、もういないんだろ……?それに、あんたは俺の本当の姉じゃない。俺の姉さんが、俺を捨てるはずない……」由奈は数秒、言葉を失った。浩輔が後ずさったのを見て、手が震える。「浩輔!」必死に声を張る。「私はあなたを捨ててなんかいない!たとえ血が繋がっていなくても、私にとってあなたは弟なの。二十年も一緒に暮らしてきたんでしょ?それを、血が繋がってないってだけで全部否定するつもり?」浩輔の目が揺れる。「でも……長門歩実が……」由奈は一歩踏み出した。「あの人が何を言ったのかはわからない。でも、あんな人間の言葉を本気で信じるの?あなたが眠っていた数か月の間に、父さんと母さんが亡くなったことは全部、あの人と関係している。私はすべて覚えてるの。だから、見逃すつもりもない」浩輔はその場に立ち尽くし、言葉を失う。由奈はゆっくり距離を詰める。「父さんと母さんはもいない。私には、もうあなたしかいないの。なのに……あなたまで、私を置いていくの?」浩輔は動かない。その瞬間、別方向から安全ロープをつけた消防隊員が近づき、浩輔が気づく前に一気に引き寄せた。二人はそのまま床に倒れ込み、隊員がしっかり彼を押さえ込む。浩輔は諦めたように、抵抗をしなかった。……その後、綾香と医療スタッフが浩輔を病室へ連れていった。由奈は家族としての引き継ぎや事情説明のため、その場に残り、警察と消防に礼を述べた。ほどなくして、彼らは引き上げていく。由奈も戻ろうとしたが、ふと足を止めた。倫也がまだそこに立っていたのだ。「白石先生?」歩み寄る。「まだいたんですね」「あなたを待っていました」一瞬、きょとんとする。すぐに思い出し、バッグから小さな箱を取り出した。「これ……白石先生に」「ライターですか?」倫也が眉を上げる。由奈は差し出した手を止めた。「どうして分かったんですか?」「稲垣が教えてくれたんです」「……」呆れて言葉も出ない。倫也は箱を受け取り、中を確認して小さく笑った。「なかなかいいセンスですね」何か言いかけた、そのとき。エレベーターの前に、祐一が立っているのが見えた。彼の視線は、倫也の手の中の箱に落ちている。倫也も振り返る。由奈は目をそらし
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第389話

「浩輔……」由奈は、ここまで彼が取り乱すとは思っていなかった。慰めようと声をかけたその瞬間、浩輔は必死な目で彼女を見上げる。「姉さん……あの人、帰らせて。もう会いたくないんだ」その声は震えていた。由奈は、これ以上刺激を与えてはいけないと悟り、静かに立ち上がると祐一のもとへ歩み寄った。「……外に出てくれる?」祐一は動かなかった。ただ、ベッドの上の浩輔をまっすぐ見つめたまま、低い声で言う。「俺を恨んでるのは分かってる。歩実の件は俺にも責任がある。だから……必ずけじめはつけるよ、あいつを見逃したりはしない」「そんなの、信じるわけないだろ」浩輔は顔を背けた。たとえ痛みが消えてなくなるとしても、彼の心には、一生消えない傷跡ができてしまっている。由奈は何も言わず、祐一の腕をつかんで病室の外へ引っ張り出した。廊下に出ると、すぐに口を開く。「浩輔はあなたに会いたくないの。お願いだから、これ以上刺激しないで」祐一は苦笑するように息を吐いた。「……姉弟そろって、同じこと言うんだな」以前、彼女にも同じことを言われていた――信じるわけない、と。由奈はその意味を深く考えようとはせず、ただ視線を逸らした。「今日は帰って」「帰ってもいい。だが、その前に答えろ」祐一は一歩近づいた。「エレベーターで聞いたことだ。どうして俺を騙した?」由奈の足が止まる。だが、答えない。「最初から本当のことを言えばいいだろう。あれは、あいつに渡すものだって」由奈はゆっくり顔を上げた。「最初からそう言ったら、あなたは許してくれた?誰に何を贈ろうと、私の自由でしょ。あなたにいちいち報告する義理なんてないわ」祐一は深く息を吸い込む。「……でも、君は俺に嘘をついた」由奈の瞳がじわりと赤く染まった。「それがどうしたの?あなたも私に嘘をついてたじゃない。あの女が帰国した夜、残業だって言ったわよね。でも実際はどうだった?奈々美が写真を送ってきたの。あなたがあの女と一緒にいるところを、見せつけるみたいにね」祐一は息をのみ、顔をこわばらせた。あの夜、彼は確かに会社にはいなかった。誤解を招きたくなくて――ただ、それだけのつもりだった。「……違う」「何が違うの?」由奈は一歩踏み出す。「結局同じでしょ。どっちも嘘なんだから」祐一は言葉を失い、視線を落とした。由奈は
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第390話

由奈は、亜紀の顔をじっと見つめていた。完璧に整えられた美しい顔。けれど、どこか拭えない違和感がある。整形していることは、すでに分かっていた。それでも、眉や目元には母に似た面影が残っている――初めて会ったとき、どこか見覚えがあると思ったわけだ。由奈は我に返る。「……母と双子なら、私に恨みもないはずですが」その一言で、亜紀の表情が一瞬にして冷えた。由奈はさらに続ける。「石川由莉奈さんのDNA鑑定に細工したのは、あなたですよね。そこまでして、私に本当の家族と再会して欲しくなかったのですか?」亜紀はカップを軽く揺らしながら、低く答える。「まさか、智宏があなたを見つけられるとは思わなかったわ。もう二十年以上も経っていたのに、正気を失っていたはずの姉が、あなたが自分の娘だと分かった……本当不思議、心が壊れても、肝心なことは分かるものなのね」由奈は唇を引き結ぶ。「……母は、あなたの姉なんですよ」「黙りなさい!」亜紀はカップを乱暴にテーブルへ叩きつけた。中身が跳ね、白いクロスを濡らす。怒りと、悔しさと、深い憎しみが入り混じった目で由奈をにらんだ。「あなたには何も分かっていない。同じ顔をして生まれても、家族は私たちを平等に扱ったことはなかった」声は震えていたが、止まらない。「たった数秒早く生まれただけで、姉は石川家の長女。愛情も、権利も、全部あの人のものだった。私たちの性格も正反対。姉は愛嬌があって、大人に取り入るのが上手。でも私は、媚びるのが嫌だった。ただ自分の力を証明したかっただけなのに、いつも『姉に劣っている』って言われ続けてきたのよ」由奈は息をのんだ。亜紀はさらに続ける。「それに……本当は、あなたのお父さんと結婚するはずだったのは、私だったの」由奈は目を見開く。「驚いた?」亜紀は冷たく笑った。「そうよ。中道家は、私に秀明さんと結婚してほしかった。そして、秀明さんに先に出会ったのも、私だった」ゆっくりと両手を持ち上げる。「どうして私が、いつもこれをつけていると思う?」答えを待たず、レースの手袋を外した。そこに現れたのは――何度も皮膚移植を繰り返した跡が残る、歪んだ手だった。由奈は言葉を失う。「これは……」「火事よ」亜紀は淡々と語る。「顔も手も焼かれた。だから整形したの。私は美大で彫刻を専攻していた、手が
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