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All Chapters of 春風を誤ちて: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

一瞬、直樹は自分が幻覚を見ているのではないかと思った。彼は仁美の名を呼びながらドアを押し開けた。「仁美、どこにいるんだ?」別荘の中は空っぽで、静けさだけが支配していた。直樹は自分の声の反響すらはっきりと聞こえた。灯りを点けると、広いリビングががらんとしているのが目に入った。テーブルの上には、彼が出発前に食べ残したスイーツがそのまま置かれ、花瓶の花は机の上に枯れ落ちた。明らかに、長い間ここに人の気配はない。だが、仁美にまつわるものはすべて消えていた。彼女のぬいぐるみも、写真も、よく読んでいた本も。まるで跡形もなく消えてしまったかのように。直樹の冷ややかな瞳に、瞬く間に動揺が走る。彼は慌てて寝室へ駆け込み、ドアを開けると鼻をつく消毒液の匂いが漂った。部屋は不気味なほど清潔で、まるで誰も住んでいないかのようだった。クローゼットもドレッサーも空っぽで、布団と枕はきちんと畳まれてベッドに置かれていた。彼はドレッサーの引き出しを乱暴に開けたが、中にあったのは些細な物ばかりで、肝心の仁美の証明書類は一切なかった。充血した瞳が真っ赤に染まり、愛を失う恐怖が喉を締めつける。「仁美、冗談はやめろ。早く出てきてくれ。俺は君なしじゃ生きられないんだ。怖がらせないでくれ。贈った物が気に入らないのなら、別のを用意するから。君と一緒に選びに行こう。舞との間に、本当に何もないんだ。なんで信じてくれない」必死の言葉は闇と沈黙に吸い込まれるばかりだった。直樹は諦めきれず、別荘中を探し回ったが、仁美の影はどこにもなかった。彼女は去る前に、二人の愛の象徴であった庭のアオギリの木までも伐り倒していた。月明かりに照らされた無残な切り株があまりにも寂しげだった。舞の件で仁美は本当に去ってしまったのだ。直樹はベッドに崩れ落ち、胸が裂けるような痛みに襲われた。これまで何度も彼女を怒らせても仁美は決してここまで決然とした態度を見せたことはなかった。抱きしめ、花を渡せば、彼女は機嫌を直し、甘えるように胸へ飛び込んできたのに。「今回だけは許してあげる。だって、直樹はいつも私に一番優しいから」だが今度ばかりは違った。自分の痕跡をこの別荘から完全に消し去るために、仁美は消毒液で隅々まで拭き上げ、彼女の匂いすら拭い去っていた。
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第12話

直樹が慌てて山口家に駆けつけたとき、目に入ったのはソファに悠々と腰掛け、おやつを食べながらテレビを見ている舞の姿だった。息を切らして飛び込んできた彼を見て、彼女は驚いたように笑みを浮かべる。「やっと来てくれたのね」胸に飛び込んできた女を見下ろしながら、直樹の眉間は深く寄り、その声には明らかな不快が混じる。「なぜ嘘をついた?」舞は唇を尖らせ、不満そうな声を漏らす。「だって、直樹は帰国してから全然私に会いに来てくれないし、メッセージもなかなか返してくれない。ちょっとしたいたずらをしただけよ」彼女は媚びるように笑い、直樹の腕を取ってソファに座らせる。「直樹、仁美はもう出て行ったのでしょう?」「いずれ戻ってくる」直樹は反射的に答える。その言葉に、舞の笑みが一瞬固まり、瞳の奥に怨嗟が走った。だがすぐに顔を取り繕い、甘い声を続けた。「前に誕生日のプレゼントは何が欲しいかって聞いてくれたでしょう?今決めたの。直樹と結婚式を挙げたい」直樹の眉はさらに深く寄せられ、固く唇を結んだ。彼はまだ既婚者であり、この話が広まれば世間の非難を浴びる。何より、仁美に知られれば説明のしようもなかった。「別のものにしろ。それ以外なら何でもいい」舞の目に涙が浮かび、彼の衣の端を掴み、哀願する。「でも、私が欲しいのはそれだけなの。数日後には、親に決められた政略結婚を強いられるの。断ることなんてできない。でも、私の心にいるのは直樹だけなの。たとえ偽りの式でも、友人だけを招いた小さなものでもいい。一生のお願いだから......」直樹が一瞬震え、過去の出来事に触れられたことで、その心はわずかに和らいだ。それでも口を閉ざす彼に、舞は涙に濡れた瞳で彼を見つめると、壁に頭をぶつけようと身を翻した。「愛する人と結ばれないなら、生きる意味なんてない。死んだ方がマシよ!」直樹の心臓は跳ね上がり、咄嗟に彼女を抱き留める。声は震えていた。「わかった!約束するから、馬鹿なことはするな」舞は胸に顔を埋め、彼の目に映らないところで冷ややかな笑みを浮かべる。再び顔を上げると、泣きそうな表情に戻っていた。「やっぱり、直樹の心にはまだ私がいるのね。覚えてる?昔、海辺で結婚式を挙げようって言ったこと。まさか本当にこの機会が巡ってくるなんて。これで
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第13話

人目を避けるため、直樹はわざわざ人里離れた海岸を婚礼の会場に選んだ。招かれたのはごくわずかな友人ばかり、寂しいほどに少ない。誰もが直樹がすでに三年前に結婚していることを知っていたが、そのことを口にする者は一人もいない。こちら側の人間にとって、「運命の人」は一人だけに限られない。家にも、外にも、それぞれの「真実の愛」が存在するのが見慣れた日常だった。結婚式の飾り付けは盛大で、花々も、風船も、灯りも、すべてが華やかで、どこまでも甘美で贅沢な雰囲気を醸し出していた。直樹が姿を見ると、友人の一人がすぐに駆け寄り、上品な宝石箱を差し出した。「直樹、お前の頼みどおり七カラットのダイヤを探してきた。どうだ?」直樹は箱を受け取り、開ける。巨大なダイヤは陽光を浴び、七色の光を散らしてきらめいた。彼は無表情のまま、ひとつ頷いて蓋を閉じる。ひとりの友が言いかけて口をつぐみ、やって来る舞の姿を横目に、思い切って口を開いた。「直樹、お前と舞は本気なのか?」直樹は眉を寄せ、その言葉の意図を掴みかねる。「俺が言いたいのは......彼女がお前をそこまで愛していなかったとしても、一緒にいたいのか?俺の家はクラブをやってるの知ってるはずだ。舞がよく若い男たちと連れ立って酒を飲みに来るのを見かけるんだ。夜中まで酔いつぶれて......何が起きるか分かるだろう?」直樹の表情が一瞬固まると、友はさらに言葉を添えた。「しかも相手は皆、金持ちの御曹司だ」直樹は唇を固く結び、やがて低く答えた。「友人かもしれない」友がまだ口を開こうとした瞬間、彼は遮った。「もういい。俺は彼女を信じる」やがて、友人たちに囲まれた舞が、純白のウェディングドレスを手に笑みを浮かべながら、ゆっくりと彼のもとへ歩み寄ってきた。化粧は隙なく整えられ、気品に満ち、その姿はまさしく彼が思い描いていた美しさそのものだった。幾度となく夢に見た光景、最も待ち望んだはずの瞬間のはずなのに、直樹の胸にはなぜかぽっかりとした空虚が広がっていた。「舞ちゃん、今日は本当に綺麗だ!宮下さんがわざわざミラナまで出向いて、有名デザイナーに特注させたんだろう?」「こんなにも長い年月が経っても、宮下さんの想いは一途そのもの。彼にとって、舞以上に大切な人などきっといないのよ!」
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第14話

そのとき、彼の掌は汗でびっしょりと濡れ、緊張のあまり司会者の問いにも危うく答えられなくなっていた。仁美はそっと彼の掌を握り、茶化すように小声で囁いた。「後悔するなら、今すぐ直樹を気絶させて連れて行くわよ」直樹は思わず笑い、しかし声音は確かだった。「連れて行ってくれ。もう一生、君のそばから離れないんだから」仁美はツンとすましたように鼻を鳴らした。「そんなの嫌。直樹が私のことを嫌になったそのとき、私は手を放してあげる」だが今、離れられないのは彼の方だった。「宮下直樹さん、貧しくとも富めるとも、山口舞さんを妻として迎えますか?」司会者の声が一段と高く響く。直樹ははっと我に返った。突然、胸の奥にどうしようもない苛立ちが広がり、視線の先で誰かの哀しげな眼差しが自分を見つめている気がした。目を凝らすと、そこにはウェディングドレスをまとった仁美の姿が見えた。だが、次の瞬間には空席に変わっていた。「俺は......」直樹は口を開いたが、声は喉で詰まり、一言も出てこなかった。空気が凍りつき、会場は静まり返る。列席者たちは皆、訝しげな視線を彼に向け、舞の笑みさえ引きつった。「直樹、どうしたの?」探るような彼女の声。直樹は目を閉じ、深く息を吐き、もう一度目を開くと、心の迷いを押し殺した。答えるな、と内なる声が叫んでいた。「誓います」と言おうと唇を動かした瞬間、胸に渦を巻くような激痛が走り、鉄の味が喉を突き上げた。眉をひそめると同時に、大量の鮮血が口から溢れ出し、真っ白のシャツを紅に染め上げる。「直樹!」誰もが息を呑み、舞は慌てて立ち尽くす。「救急車を!早く!」会場は一瞬で混乱に包まれた。直樹は内臓が灼けつくように熱くなるのを覚え、顔を背けると、再び血が噴き出し、純白のジャスミンの上に散った。視界は暗転し、手で口元を拭うと、指先にぬるい血が滲む。震える手を持ち上げると、左の薬指にはめられたダイヤの指輪が血に染まり赤く濡れていた。目が霞み、世界は暗闇に沈む。倒れ込む彼の身体を、舞が抱きとめた。「直樹、直樹!目を覚まして......!」温かな腕に包まれながら、なぜか彼の脳裏に浮かんだのは仁美の面影だった。「......仁美、俺は......」掠れた声が
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第15話

直樹が再び目を開けたとき、自分が病室のベッドに横たわっていることに気づいた。次の瞬間、病室の扉が勢いよく開かれ、軽やかなハイヒールの音が響く。彼は思わず顔を上げ、入口を見やった。「仁美、ようやく戻って――」きてくれたんだ。最後の言葉は、喉の奥で押し潰されるように途切れた。入ってきたのは舞で、彼の言葉など聞こえなかったかのように目を赤くしてベッドへ駆け寄った。「お医者さんはね、直樹が働きすぎて休まなかったせいで倒れたんだって。私、直樹の好きな魚のスープを煮てきたの」直樹は枕元の保温ポットを一瞥し、掠れた声で問いかけた。「......仁美は、来たか?」舞の笑みが一瞬だけ凍りつく。しかしすぐに平然を装った。「何日も廊下で見張っていたけど、一度も来ていないよ。ねえ、私が看病しに来てるのに、嬉しくないの?目を覚ましてすぐに仁美のことばかり......直樹は三日も眠り続けていたのよ。それなのに、彼女は一度も顔を見せなかった。もう、あなたに飽きてしまったんじゃないの?」「舞」直樹の声は低く、冷ややかだった。「言い過ぎだ」舞は唇を噛み、作り笑いを浮かべる。「ごめん。嫌ならもう言わないよ」二人の関係が再び燃え上がったとき、直樹は彼女に言った。自分はまだ仁美に借りがある。たとえ彼女とやり直したとしても、仁美に対してだけは決して欠いてはならないのだと。舞は、彼が本気だとは思ってもみなかった。「もう仁美に伝えてあるわ。きっと来るはず。それより、まずはスープを飲んで元気をつけて」舞が保温ポットを開けると、魚のスープの匂いが病室に広がった。だが直樹は、反射的に眉をひそめる。「......いい。来なくてもいい。舞がいてくれるならそれで。ただ、忘れたのか?俺は昔から魚は食べない」舞の手が止まり、引きつった笑みを浮かべる。「ごめんなさい、間違えちゃったみたい。すぐに別のスープを用意させるから」「いらない」直樹の声は氷のように冷たく、顔にも感情は浮かばなかった。「最近舞がよく外出していると聞いた。友人と酒を飲みに?」突然の問いに舞は肩を震わせる。「ええ......まあ、友達と少しおしゃべりしただけ」彼の眼差しは冷ややかで、何も語らぬまま彼女を見透かすようだった。舞の心臓は締めつけ
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第16話

直樹が退院したとき、伊藤は調査資料を彼の前に置いた。「社長、判明しました。奥さんが送った離婚届受理証明書は本物です。お二人はすでに離婚状態にあります。離婚届は一か月ほど前に提出されていました」彼には、離婚届に署名した記憶がまるでなかった。直樹はこめかみを揉みながら長く思い返し、ようやく思い出した。あの時、自分が埋め合わせをすると口にしたときのことだ。彼女が望んだのは家でも車でもなく、ただ自由だった。つまり、彼女はその時すでに去ることを決意していたのだ。心臓が大きく跳ね、低く沈んだ声が漏れる。「続けろ」「さらに調べたところ、山口さんは最近頻繁にクラブへ出入りしており、酔い潰れると京市の御曹司たちとホテルへ行くことがあります。あの政略結婚も偽物でした」直樹の顔には変化がなかった。だがその言葉の後半に差しかかった瞬間、額の青筋が浮かび上がった。「奥さんが去ったことも山口さんと無関係ではありません。奥さんは彼女に尾行されていました。もし機転を利かせて逃れなければ、すでに......それと、パーティーで流された映像も合成です。山口さんの身体と奥さんの声を合わせた偽物でした。さらに、奥さんを地下室へ反省させた件ですが、山口さんの指示で鞭で九十九回打たれ、幾十もの平手打ちを受け、その様子が録画されていました。加えて、山口家を訪れた際、奥さんは一昼夜プールに沈められ......」あまりに残酷な証拠に、伊藤は声を詰まらせ、顔を伏せた。直樹の冷酷な眼差しを直視できず、声は次第にか細くなっていった。報告が終わった後、部屋には凍りつくような沈黙が広がる。直樹の瞳の奥には、燃え盛る炎が渦巻いていた。震える指で彼は動画を再生した。鞭で九十九回打たれ、彼女は一声も上げずに耐えていた。身体は血にまみれ、息も絶え絶え。だが、あの男が仁美に覆いかぶさった瞬間、彼女は自尊心をかなぐり捨て、必死にあがき、泣き叫び、助けを乞うた。その惨烈な泣き声は鋭い刃のように彼の胸を抉り、心を血に染める。直樹は慌てて動画を止め、苦痛に目を閉じた。この瞬間、彼は自分の頬を何度も叩きたい衝動に駆られていた。もう二度と彼女に辛い思いをさせないと誓ったはずなのに、同じ苦しみを彼女に二度も味わわせてしまった。幾多の血と嵐を見慣れてきたはずな
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第17話

舞は次第に息が詰まり、顔は紫色に変わりかけていた。彼女は本能的に両手を伸ばして、まるで鉄のように力強く彼の大きな手を引き剥がそうとした。「舞、いい度胸じゃないか。仁美に手を出すとは。俺があのときお前に言ったことを忘れたのか!」「ううう......」舞の顔は真っ赤に上気し、両手は力尽きてゆき、口をわずかに開いて言い訳をしようとするが、出てくるのは断片的な音だけだった。視界は断続的に暗転し、窒息寸前のその瞬間、直樹はまるでゴミでも投げ捨てるかのように彼女を乱暴に放り投げた。ドンッ!舞の背中は壁に激しくぶつかり、激しい痛みに思わず顔をしかめ、かすかなうめき声を漏らした。彼女は大きく息を吸い込み、涙が糸のように切れてぽたぽたと落ちた。「直樹、聞いてよ、あれは全部嘘なの。私......私は、何もしてないのよ」直樹がどこまで知っているのか、彼女には分からなかった。ただ彼のズボンの裾を必死に掴み、哀れっぽい顔を作り、いつものように可哀そうな仕草を演じるしかなかった。だが、直樹は冷ややかに彼女を睥睨し、その瞳にはもうかつての優しさも思いやりも欠片ほども残ってはいなかった。「何もしていない?」直樹は机の上にあった伊藤が持ってきた資料を手に取り、一枚を彼女の顔に叩きつけるように投げつけた。「仁美がバーを出たあと尾行させたのも、鞭で九十九回打たせたのも、プールに一昼夜押し込めたのもお前の指示じゃないって言いたいのか?見事な芝居だ。俺でさえ騙されていた」資料に打たれ、舞の頬は赤くなり、慌てて地面に落ちた写真を見つめる。そこには別の男に抱かれる彼女の姿が写っている。血色は徐々に失われ、全身が震えていた。「ち、違う、違うのよ直樹、あれは彼らに強要されたの!私は話を――」直樹はためらうことなく右手を振り上げ、彼女の頬を平手で打ち据えた。言葉を遮るように。舞は殴られた衝撃で顔を大きく逸らし、口から大量の血を吐き出した。「ごめんなさい、ごめんなさい直樹......私が悪かった......全部自分の、山口家のためなの、仕方がなかったのよ......お願い、今回だけ許して......」恐怖が肉体的な痛みを凌駕していた。舞は知っている、今回はただ事ではないと。跪いて懇願すること以外、彼女には生き残る術が残されていないかもしれない。
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第18話

直樹はこめかみを押さえ、ずきずきとする眉間を揉みほぐした。心の中の苛立ちはますます募るばかりだった。仁美が去ってからというもの、すべてがひどく味気なく思えた。かつては結婚さえすれば彼女を手中に収められると信じて疑わず、まさか音もなく姿を消す日が来るとは夢にも思っていなかった。なぜ二人の関係がこのような結末を迎えることになったのか、彼には理解できない。仁美は彼が大切に育てた花のような存在だった。だが、その花が枯れ始めていたことにすら彼は気づかなかった。いつからだろう。彼の怒りっぽさが募り、口論になればいつも顔を曇らせ、ドアを叩きつけて出て行くようになったのは。謝罪といえば、高価なアクセサリーを差し出すばかり。彼女は毎回こんなものいらないと言っていたのに、彼は欲が深いと勝手に決めつけ、いくら金を注いでも満たされないと誤解していた。今にして思えば、彼女が求めていたのは、ただ温かく抱きしめてくれる腕だった。「......仁美」直樹は窓の外の高層ビル群を見上げ、理由もなく胸にぽっかりと穴が空いたような虚しさと疲労を覚えた。ちょうどそのとき、友人からバーに誘われた。そこはかつて仁美と共に訪れた店だった。店内に足を踏み入れると、眩い光と耳をつんざく音楽に一瞬意識が揺らぐ。思わず、彼女がいつも座っていた席に目を向けると、そこに白いワンピースを着た笑顔の彼女が見えた気がした。だが、瞬きをした次の刹那には、そこはただの空席。直樹は適当な席に腰を下ろし、杯を重ねていく。やがて仲間たちが集まり、冗談めかして彼を冷やかす。「今日は一人でやけ酒か?舞はどうした、ついて来なかったのか?」直樹はグラスを持つ手を止め、低い声で答えた。「......別れた」互いに顔を見合わせた仲間が口を開く。「別れて正解だよ。あの女、普段から遊び歩いてるって前から聞いてたし、裏でも派手にやってるらしいじゃないか。それなら家庭に戻って、きちんと奥さんを大事にした方がいい」「そういえばさ、奥さんの姿をしばらく見てないな?」直樹は顔を上げず、黙って酒をあおった。事情を知る一人が、慌てて質問者を睨みつける。「仁美とはとっくに離婚してるんだ。だから先日の結婚騒ぎでも彼女が何も反応しなかったんだろう」自分の失言に気づいたその男は、へ
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第19話

直樹は車の中で一夜を明かした。翌朝、目を覚ますと頭は割れるように痛み、スマホを開けば伊藤からの不在着信がずらりと並んでいた。疲れ切った様子で眉間を揉みながら折り返し電話をかけると、掠れた声で問う。「何だ」電話口の伊藤の声は、どこか興奮を帯びていた。「社長、奥さんの消息が入りました!最近、新しく契約を結んだ取引先のリストに、奥さんのお名前がありました。調べてみたところ、入社したのはちょうど家を出ていった数か月前でした」直樹の心臓は一瞬大きく跳ね、スマホを握る手が震えた。「南市の会社か?すぐに契約条件を修正しろ。利益配分は五対五から四対六に。契約書を相手に送り直せ。それと、どんな手を使ってでもいい、一週間後の商談には必ず彼女を出席させろ」細かく指示を飛ばして電話を切ると、頬に温かい雫が落ちてきた。手で触れてみれば、自分がもう涙に濡れていることに気づく。直樹は座席に身を預け、早鐘のように鳴る心臓を押さえた。「仁美、待っていてくれ......」......一方そのころ、南市に降り立った仁美は無事に入社を果たしていた。だが会社に足を踏み入れるや否や、上司がかつての知り合いであることを知る。資料を手に清水和也(しみず かずや)のデスクに立つと、彼がちらちらと視線を送っていることに気づいた。「清水さん、午後の契約書がまだ一枚も処理されていませんよ」仁美は気遣うように声をかけた。和也は書類を置き、わずかに吊り目がちな双眸に複雑な色を宿す。その右目の下にあるぼくろは、彼の気配にさらに気品と冷たさを添えていた。古参の社員がこの姿を見れば、冷や汗をかいただろう。会社中の誰もが知っている。和也が最も嫌うのは、仕事に口を出されることだ。ところが次の瞬間、彼は傷ついたような表情を浮かべ、仁美を腕に引き寄せた。「君がずっとここに立っているから、仕事に集中できない。誘惑されているみたいで......もう二時間も待てない。今すぐ君を家に連れて帰りたいよ」仁美は困ったように眉を寄せ、彼がさらに甘えん坊になったと感じた。「家に帰ったら、和也の好きなブロッコリーと牛肉の炒め物を作ってあげるから、今は離して。誰かに見られたら困るでしょ」和也は彼女を見上げ、隠すことなく愛情を湛えた瞳を向けた。彼は柔らかな髪
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第20話

仁美は聞き覚えのある姓を耳にした瞬間、全身が一瞬固まった。すぐに視線を伏せ、唇をきゅっと結ぶ。このプロジェクトが和也によって何か月も追いかけられ、会社全体が重視していることを彼女は知っていた。もし自分が口を開けば、和也は迷わず彼女のために断るだろう。だが彼女は、仲間たちの努力が無駄になるのを望まなかった。ましてや、自分と直樹はすでに離婚している。ただ顔を合わせるだけなら大したことではない。彼女は和也を困らせたくなかった。「......私が行くよ」ハンドルを握る和也の手に、力がこもる。瞳が暗く沈んだ。「会いたくないなら僕から断るよ。清水家の規模からすれば、たかが一つのプロジェクトなど、なくても困りはしない。あの男が仁美を傷つけたことを思い出すだけで、僕は......」仁美の瞳が柔らぎ、車が家の前に停まったとき、彼女はそっと彼の頬に口づけた。「この件が終わったら、和也のご両親に会わせてね」和也は一瞬呆然とし、すぐに顔を赤らめ、少年のようにしどろもどろに答える。「......あ、ああ......!」彼の手を引いて家の中へ入ると、猫のモチゴメが駆け出してきて、ぱっと彼女の腕に飛び込み、甘えた声を上げた。「モチゴメと遊んでて。私は夕食を作るから」彼女が台所へ消えると、和也は猫を抱き上げたまま、つい視線をその背中に追い続けてしまう。モチゴメが不満そうに爪を立てるまで、彼は我に返らなかった。仁美が和也のために台所に立つのは数えるほどしかない。和也は彼女が手を切るのではないか、油がはねて火傷するのではないかと心配で普段は決して料理をさせなかった。猫を抱き締め、彼は小さく呟く。「......こんな暮らし、いいよな。まるで夫婦みたいだ」胸の奥に、温かな家の感覚が芽生える。夕食を共にし、映画を一本観終えると、和也は帰路についた。永長家には余分な部屋がなく、彼は仁美の意思を尊重し、二人の初夜は新婚の日にと決めていた。「また明日」玄関先で、和也は名残惜しそうに彼女を抱き締める。仁美は背伸びして、その唇に軽く口づけした。「うん、またね」車が視界から消えるのを見届け、彼女はようやく洗面を済ませて床に就いた。そのとき不意にスマホが鳴る。京市にいる友人からのメッセージだった。また直樹と
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