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第14話

Author: トフィー
そのとき、彼の掌は汗でびっしょりと濡れ、緊張のあまり司会者の問いにも危うく答えられなくなっていた。

仁美はそっと彼の掌を握り、茶化すように小声で囁いた。

「後悔するなら、今すぐ直樹を気絶させて連れて行くわよ」

直樹は思わず笑い、しかし声音は確かだった。

「連れて行ってくれ。もう一生、君のそばから離れないんだから」

仁美はツンとすましたように鼻を鳴らした。

「そんなの嫌。直樹が私のことを嫌になったそのとき、私は手を放してあげる」

だが今、離れられないのは彼の方だった。

「宮下直樹さん、貧しくとも富めるとも、山口舞さんを妻として迎えますか?」

司会者の声が一段と高く響く。

直樹ははっと我に返った。

突然、胸の奥にどうしようもない苛立ちが広がり、視線の先で誰かの哀しげな眼差しが自分を見つめている気がした。

目を凝らすと、そこにはウェディングドレスをまとった仁美の姿が見えた。

だが、次の瞬間には空席に変わっていた。

「俺は......」

直樹は口を開いたが、声は喉で詰まり、一言も出てこなかった。

空気が凍りつき、会場は静まり返る。

列席者たちは皆、訝しげな視線を彼に向け、舞の笑みさえ引きつった。

「直樹、どうしたの?」

探るような彼女の声。

直樹は目を閉じ、深く息を吐き、もう一度目を開くと、心の迷いを押し殺した。

答えるな、と内なる声が叫んでいた。

「誓います」と言おうと唇を動かした瞬間、胸に渦を巻くような激痛が走り、鉄の味が喉を突き上げた。

眉をひそめると同時に、大量の鮮血が口から溢れ出し、真っ白のシャツを紅に染め上げる。

「直樹!」

誰もが息を呑み、舞は慌てて立ち尽くす。

「救急車を!早く!」

会場は一瞬で混乱に包まれた。

直樹は内臓が灼けつくように熱くなるのを覚え、顔を背けると、再び血が噴き出し、純白のジャスミンの上に散った。

視界は暗転し、手で口元を拭うと、指先にぬるい血が滲む。

震える手を持ち上げると、左の薬指にはめられたダイヤの指輪が血に染まり赤く濡れていた。

目が霞み、世界は暗闇に沈む。

倒れ込む彼の身体を、舞が抱きとめた。

「直樹、直樹!目を覚まして......!」

温かな腕に包まれながら、なぜか彼の脳裏に浮かんだのは仁美の面影だった。

「......仁美、俺は......」

掠れた声が
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