All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 791 - Chapter 800

802 Chapters

第791話

ゆっくりと目を開けると、少し離れた場所で、潤がノートパソコンに向かって黙々と仕事をしている姿が見えた。明里は声をかけず、身じろぎもせず、ただじっと彼の端正な横顔を見つめていた。これだけ長く眠って、ようやく十分な睡眠が取れた気がする。あの頭の中を覆っていた、ぼんやりとした不快な重さはすっかり消え去っていた。ただ静かに目を開けて彼を見つめていた。視線に気づいたのか、それとも単なる偶然か――しばらくすると、潤がふと顔を上げ、こちらへ視線を向けた。目が合うと、彼は優しく微笑んだ。「起きたの?」明里はまだ動こうとはしなかった。「今目が覚めたばかりなのに、もう見つかっちゃった」潤は手元のパソコンを置き、大股でベッドへと歩み寄ってきた。「ついお前の顔を見たくなるんだよ。それにしても、よく寝るね」「自分でもよくわからないの」明里は体を起こし、ベッドの端に座った潤の膝の上にコロンと頭を乗せた。「今、何時?」「二時を過ぎたところ」と潤は彼女の髪を撫でながら言った。「お昼ご飯の時間に一度起こそうかとも思ったんだけど、あまりにも気持ちよさそうにスヤスヤ寝てたから、起きるまで待ってたんだ。まさかこんな時間まで寝るとは思わなかったけどね」「お腹、すかなかった?」「俺は平気だよ。朝にしっかりたくさん食べたからね。お前は?お腹すいたか?喉は?水、飲むか?」「うん、お水飲む」潤は明里の頭をそっと支えて枕へ寝かし直してから、水を注ぐために立ち上がった。戻ってくると、明里の体を起こし、グラスを持たせた。「ほら、飲んでみて」明里はベッドのヘッドボードに寄りかかりながら、グラスの半分ほどをゆっくりと飲んだ。「お昼は何が食べたい?」潤が尋ねた。「外へ出かける?それとも、ルームサービスで部屋まで持ってこさせようか?」「外へ出よう」明里は言った。「ずっと部屋に閉じこもってたら、あなただって息が詰っちゃうでしょ」「俺はそんなことないよ。お前と一緒なら、十日間一歩も外に出ずに閉じこもってたって平気だ」冗談めかしてそう言ってから、潤は聞いた。「着替えるか?」「自分で顔を洗ってくるわ」明里はベッドから下りた。「そんなに甲斐甲斐しく世話を焼かないで。これじゃあ、私、何もできない子供みたいじゃない」「考えすぎだ。家に帰ったら、こんなふうに
Read more

第792話

店の近くに車を止め、二人は手を繋いでそのこぢんまりとした食堂へ足を踏み入れた。食事時から外れた平日の昼下がりということもあってか、店内に他の客の姿はなかった。五十代くらいの店主が一人で厨房の片付けをしていた。こんな中途半端な時間に客が来るとは思っていなかったのか、少し驚いた顔で二人を見た。そして、店に入ってきた彼らの顔立ちを見て、もう一度大きく目を見張った。旅行客が多いこの街だから、全国各地から訪れる観光客には慣れっこだ。身なりのいい美男美女だって、決して珍しくはない。でも、ここまで顔立ちも纏っている雰囲気も群を抜いて洗練されている二人組など、彼はこれまで一度も見たことがなかった。店主は、注文すればすぐに熱々を作ると言ってくれた。明里は迷わず看板メニューの麺を注文し、潤はそこに郷土料理の小皿を二品追加した。注文の最後に、潤が念を押すように言った。「彼女の分には、パクチーは絶対に入れないでください」「入れてください」明里がすかさず口を挟んだ。「ほんの少しでいいから」潤は驚いて振り返った。「あの独特の匂い、苦手じゃなかったっけ?」「なんだか今日は、不思議と大丈夫な気がして」明里は言った。「せっかくだから、少しだけ入れてもらおうと思って」潤は仕方なく折れた。「では、ほんの少しだけでお願いします」簡素なテーブル席についてから、潤が言った。「もしやっぱり食べられなかったら、無理せずに俺のどんぶりに移してくれよ」「わかったわ」やがて湯気を立てる料理が運ばれてくると、潤は思いがけない光景を目にすることになった。明里が、あの独特の風味の麺を、実においしそうにすすっているのだ。「おいしい!」彼女は嬉しそうに声を弾ませて、箸を進めた。確かに、味は格別だった。潤も初めて口にしたが、これまで知らなかった奥深い香りと豊かな旨みが一杯に詰まっていた。明里はもともと食が細い方で、特に外食のときは出されたものを完食できないことが多い。麺は一杯でもかなりボリュームがあり、小皿料理まで頼んだのだから、彼女が食べ残す分を引き取るつもりで、潤は最初から構えていたのだ。ところが明里は、その大きな一杯を、最後の一滴まで驚くほどきれいに平らげてしまった。潤は目を丸くして聞いた。「ちょっと食べすぎじゃないか?な
Read more

第793話

結局、潤はどうしても明里を起こす気になれなかった。静かにスマホを取り出し、溜まっていたメールをいくつか処理しながら一時間以上待っていると、ようやく明里が自力で目を覚ました。助手席のシートはゆったりと倒してあったから、眠り心地は決して悪くなかったはずだ。「どうして起こしてくれなかったの」明里は自分のスマホで時間を確認し、少し慌てた声を出した。「私、こんなに寝てたの?」「覚えてないか」潤が顔を近づけ、彼女の頬にチュッとキスをした。「よく眠れた?すっきりしたか?」「うん、だいぶ良くなった」明里は窓の外の景色に目をやった。「ここ、もしかして植物公園?」「そうだよ」潤は彼女のシートを元の位置に戻してやりながら聞いた。「降りて、少し歩いてみるか?」「歩こう」この街は一年中春のように穏やかな気候に恵まれており、どこを見渡しても青々とした緑が溢れ、色とりどりの花々が美しく咲き乱れていた。二人で手を繋ぎ、心地よい風に吹かれながら三十分ほど歩いたところで、明里がふと立ち止まった。潤は不思議そうに小首を傾げた。「もしかして、また眠くなってきた?」明里はくすっと笑って首を横に振った。「だと思ったよ。さっきあれだけたっぷり寝たんだから……」「眠くないわ」明里は言った。「でもね――なんだかお腹がすいちゃった」「え?」潤は驚いた顔をした。「お腹が?さっきどんぶり飯を平らげたばかりじゃないか……」明里はじろりと潤を睨んだ。「私が食べすぎだっていうの?」「いや、そんなこと言ってないよ……」潤は慌てて弁解した。「ただ、いきなりそんなに食べてお腹を壊さないかと心配になっただけで」「もう子どもじゃないんだから、お腹を壊すほど無理して食べたりしないわよ!」明里は潤の腕をきゅっと掴んだ。「ねえ、何食べに行く?」「本当にまだお腹がすいてるの?」潤は念を押すように確かめた。「何が食べたい?」「さっき、ここの駐車場のすぐ横に、屋台がいっぱい並んでたよね」潤は言葉を失い、しばらく黙り込んだ。明里は不思議そうに顔を覗き込んだ。「どうしたの?」「あれは、ただの露店じゃないか」潤は顔をしかめて言った。「あんなところで食べて、お腹を壊さないか?」「大丈夫だってば!」明里は楽しそうに言った。「私、フランクフルトが食べたい!」車を降り
Read more

第794話

食後は夜の街をのんびりと散歩し、小さなお店で少し買い物をして、ホテルの部屋に戻ったのは夜の八時を過ぎた頃だった。部屋に入るなり、潤が明里の体を強く抱き寄せてしばらく深いキスをしていたが、外を歩いて汗をかいていたのか、肌が少しべたつく感じがして、明里はそっと彼を押し返して言った。「私、先にお風呂に入りたいな」「じゃあ、一緒に入ろう」「生理中なのに、一緒に入れるわけないじゃない」明里は彼の胸をぽんと軽く叩いた。「忘れてたの?」潤は彼女の柔らかい頬をつまんだ。「忘れてなんかいないよ。何かよからぬことでも考えてるのか?俺はただ、お前の背中を洗ってあげたいだけだよ」そんな都合のいい言葉を、当然信じるわけにはいかなかった。それでも明里には、甘えてくる彼をきっぱりとはねつけることはできなかった。二人で広い浴室に入り――明里は生理中であったが、潤にはそれ以外にも彼女を愛でる「別の術」がいくつも用意されていた。浴室から出る頃には、明里の体からはすっかり力が抜けており、潤がその体を軽々と抱きかかえてベッドへ連れ出した。彼が優しくドライヤーをかけてやっている間に、明里はすうっと心地よい眠りに落ちていた。耳元でドライヤーの大きな音がしているというのに、それでもぐっすり眠り込んでいたのだ。潤は愛おしそうに彼女の鼻先を指で軽く弾いてから、ベッドにきちんと寝かせた。自分も身支度を整えてから、その隣に静かに横になった。眠るにはまだ早かったため、手元のスマホで仕事のメールを確認しながら時間を潰した。十一時頃になり、そろそろ本当に寝ようかと思ったとき、隣の明里がもぞりと体を動かし、ゆっくりと目を開けた。「起きたのか?」潤は少し意外だった。朝まで泥のように眠り続けるだろうと思っていたのだ。明里は体を起こして、ぼんやりと宙を見つめていた。「嫌な夢でも見たのか?」潤が彼女の乱れた髪を優しく手で直してやった。実際、明里は夢を見ていた。胡桃と樹が出てくる夢だった。事故で眠り続けていた樹が奇跡的に目を覚まし、あっという間に元の元気な姿に戻って、胡桃が声を上げて泣いて喜んでいる――そんな、あまりにも幸せな夢だった。明里はスマホを手に取った。「胡桃に電話してみる」「もうこんな時間だぞ。邪魔したら悪いんじゃないか」
Read more

第795話

胡桃は疲れた手を下ろし、スマホをテーブルに置いた。「このままいつまでも起きないでいたら、そのうち可愛い息子に顔を忘れられちゃうわよ」そのとき、セットしていたアラームが静かに鳴った。胡桃は立ち上がり、樹の硬くなった体へのマッサージを始めた。ここのところ、彼女は病院の専門のマッサージ師から、筋肉をほぐすやり方を熱心に教わっていた。担当のマッサージ師は毎日決まった時間に来てくれるが、それ以外の時間にも、家族がこまめに患者の体をほぐして刺激を与えてあげると良いとアドバイスされていたのだ。胡桃はアラームをきっちり二時間ごとにセットして、昼夜を問わず樹の体を懸命にほぐし続けていた。「前は、私が少し触れただけで大げさにビクッと反応してたくせに。」彼女は力を込めてマッサージをしながら、一人で語りかけた。「今はいくら揉んでも全然動かないじゃない。あんた、もしかしてもうすっかり鈍くなっちゃったわけ?あんなに自信満々だったのに、いったいどうしちゃったのよ。ねえ、いつか目を覚ましたら、この苦労の分、たっぷり埋め合わせしてよね。毎日毎日あんたのマッサージばかりしてるせいで、私のきれいな手がすっかり荒れてきちゃったんだから」毎日、胡桃は彼に向かって語りかけ続けた。何を話そうかとわざわざ考える必要などなかった。もともとこの二人には、話題が尽きることはなかったのだから。今は、樹が軽口で答えてくれることはない。それでも胡桃には、彼に聞いてほしい、まだ話したいことが山ほどあった。これまで胸の奥にしまい込んで言えずにいたことまで、自然と口からこぼれ出るようになっていた。「ねえ、昔のこと、私がすっかり忘れたとでも思ってる?忘れたわけじゃないわよ。ただ、もう気にしていないだけなんだから。あのときだって、あんたが私のことを本気で好きだったってことは、ちゃんとわかってたわよ。でも知ってるでしょ、私、誰かに嘘をつかれるのがこの世で一番嫌いなの。特に、自分が心を開いた近しい人に嘘をつかれると、どうしても許せないのよ。あんたが単なる賭けのために私に近づいてきたって知ったとき、正直言って、本当に殺してやりたいって思ったんだから。冗談よ、いくら私でも犯罪なんて犯さないから安心して。でもあのときは、あんたの顔なんて二度と見たくな
Read more

第796話

毎日こうして彼のそばに寄り添っていると、胡桃の心は不思議と穏やかだった。思えば中学の頃からずっと、樹との縁が切れることはなかった。言葉にして伝えたことなどなかったけれど、胡桃はとっくの昔に、樹という存在が自分の中でいかに大きいかに気づいていたのだ。もう決して切り離せないほどに。こんな残酷な事態になって初めて、彼への自分の気持ちが、思っていたよりもずっと、ずっと深かったのだと思い知らされた。今の胡桃には、彼さえ目を覚ましてくれるのなら、どんな代償を払ってでも尽くしたいとすら思えた。明里から電話がかかってきたとき、胡桃はまだ起きていた。もともと彼女は夜更かしの習慣があり、それが以前、樹との他愛のないけんかの種になったこともあった。いつも午前一時、二時まで起きている胡桃を見て、体に悪いからやめろと樹は口うるさく言った。でも胡桃は、誰かに干渉されるのがひどく嫌いだったのだ。結局のところ、樹は「胡桃を徹底的に疲れさせる」という強引な力技でその問題を解決した。夜になると彼女にくっついて離れず、構い倒して疲れさせ、強制的に寝かしつけるという算段だった。あの頃の少し強引で呆れるような樹を思い出して、胡桃はつい、愛おしさに口の端を緩めた。今は、彼がずっとベッドで静かに眠り続けているせいで、胡桃も夜更かしをすることがなくなった。毎日、十二時には必ず横になるようにしている。だからスマホが鳴ったとき、胡桃はちょうど樹の清拭を終えようとしていた。これが終わったら、眠るつもりだったのだ。「胡桃、まだ病院にいるの?」「いるよ」ちょうど体を拭き終えた胡桃は、濡れたタオルを洗面器に戻した。「こんな時間にどうしたの?」「寝てたらふと目が覚めちゃって。夢に胡桃が出てきたから」胡桃は優しく微笑んだ。「私の顔が恋しくなった?」「うん、会いたくなっちゃった」傍らでその会話を聞いていた潤は、少しばかりむっとした。明里と胡桃のこの固すぎる絆に、たまに本気で嫉妬してしまうのだ。潤は黙ってベッドから立ち上がり、バルコニーへ出て静かにガラス戸を閉めると、仕事の取引先へ電話をかけることにした。明里はバルコニーのドアが完全に閉まったのを確認してから、声をひそめて言った。「胡桃、樹の様子はどう?」「変わらないわよ」
Read more

第797話

潤は一瞬で顔色を変えた。「どうした、どこか具合が悪いのか?」「あのね……」明里は口を開きかけてから、もしもただの取り越し苦労だったら彼を無駄に心配させるだけだと思い直し、言葉を飲み込んだ。「お腹がちょっと痛くて……一緒に来てくれる?」「わかった」潤はすぐに明里の体を軽々と抱き上げた。「生理痛か?ひどく痛むのか?大丈夫だ、今すぐ行こう」この時間帯、病院は救急外来しか開いていなかった。潤が焦った様子で受付に向かっている隙に、明里は当直の医師を見つけ、妊娠の可能性があることをこっそり伝え、検査をお願いした。潤が手続きを終えて戻ってきたときには、すでに検査の手配が済んでいた。そのまま、検査室へ向かった。診察室の扉の前で、明里は潤が中に入るのを制した。自動で動く内診台に腰を下ろし、ゆっくりと座面が持ち上がり、足が開かれていく。目の前を仕切る厚いカーテンの向こう側で、カチャカチャという器具の音が響いた。「少し冷たいですよ」看護師の控えめな声の後、独特の不快感と共に経腟プローブが挿入された。明里は反射的に、握り締めた拳に力を込める。「先生……」明里の絞り出すような声は、微かに震えていた。カーテンの向こうにいる医師に、縋るように問いかける。「私……妊娠、してますか……?」医師はモニターを見つめたまま、穏やかなトーンで答えた。「そうですね。今の超音波画像を見る限りでは……おめでとうございます。しっかりと胎囊が確認できますよ」明里の胸が、どきりと大きく跳ねた。「本当に……?」「もう少しリラックスしてくださいね。お腹に力が入ると見えにくいですから」医師はモニターを指し示しながら続けた。「この小さな袋が赤ちゃんのお部屋です……お産を希望されるということで、よろしいですか?」「はい、産みます」明里は即座に何度も頷いた。「赤ちゃんは、無事……育っていますか?」「今の段階では、順調と言っていいでしょう。まだ心拍の確認はこれからですが」医師は検査を終えると、静かにプローブを抜いた。「お疲れ様でした。椅子を戻しますね。隣の診察室でお呼びしますので、お着替えをしてお待ちください」検査結果の用紙を手にエコー室の廊下へ出ると、潤が落ち着かない様子でうろうろしていた。「どうだった?!」明里の姿を見るなり、彼はすぐ
Read more

第798話

やがて、眠気が波のように押し寄せてきて、明里は潤より先に眠りに落ちた。一方の潤には、眠気など微塵も訪れなかった。ただ彼女の体をそっと抱きしめたまま、その穏やかな寝顔を愛おしそうに見つめ続け、夜が白んでいくのを静かに待った。翌朝、明里が目を覚ましたのは、空腹でたまらなかったからだ。この耐え難い空腹感のおかげで、ようやく、自分が本当に妊娠しているのだと確信できた。一人目を妊娠したときと、まったく同じ感覚だった――一度お腹がすくと、すぐにでも何かを口に入れなければ絶対に気が済まない、あの強烈な欲求。あの頃は一人で海外にいて、どうしても食べたいものが手に入らなくて、一度だけ悔しくて泣いてしまったこともあった。でも今は違う。今の彼女には、食べたいものが手に入らない理由など何一つないのだ。明里がベッドでもぞりと動くと、潤がすぐに目を開けた。ほとんど眠れていなかったため、うとうとし始めたところだった。「ねえ……」明里の声にハッとして昨夜の出来事を思い出し、潤は勢いよく体を起こした。「どうだ、具合は?どこか変なところはないか?」明里は目を細めて幸せそうに笑った。「平気よ。でも、すごくお腹がすいちゃった」「すいたのか?何が食べたい?」「昨日食べた、あの麺」「今からか?」「うん」潤は何も言わず、明里を優しく抱き上げて洗面所へ連れて行き、自分も別の洗面台で手早く身支度を済ませて、すぐさま車を走らせた。ところが、到着した店はまだ閉まっていた。あの小さな食堂は、昼と夜しか営業していなかったのだ。朝ごはんは出していないらしい。明里は下ろされたシャッターと看板を見て、あからさまに落胆し、うつむいた。潤は入口の前でその悲しそうな顔を見てしばらく立ち尽くしていたが、やがてポケットからスマホを取り出した。「もう行こう」明里は諦めて言った。「他のお店を探してみましょう」「いや、店主に電話してみる」「そんな、いいの?」潤は明里の手をしっかりと握り、看板に書かれた番号に発信した。電話口から、ひどく眠そうな声が聞こえた。「はい、どちら様でしょうか?」「朝早くに申し訳ありません。今お店の前に来たのですが、まだ開いていないようで。今から開けていただけないでしょうか?」「お客さん、うちは午前十
Read more

第799話

あの潤が、街角の小さな食堂の店主を相手に、気さくな世間話を交わすような人間ではなかったはずだ。いつだって彼は、手の届かない高い場所に立っていた。近づきがたくて、冷徹で、まるで下界を見下ろす孤独な存在だった。でも、今の潤はもう神様などではない。喜怒哀楽の感情を持ち、明里という一人の女性を深く愛している、ただの一人の普通の人間なのだ。心温まる朝食を終えて店を出ると、ちょうど産婦人科の診察に間に合う時間になっていた。「あの店主さん、本当に親切でいい人だったね」明里は微笑みながら言った。「他人に情けをかければ、いつか必ず自分に返ってくるものさ」「そうだよね」明里は深く頷いた。「いい人のところには、ちゃんといいことが巡ってくるはずだわ」店主は知る由もなかった。あの朝の些細な親切が、やがて自分たちの人生にどれほど巨大な幸運をもたらすことになるかを――その後、彼の妻が近所のスーパーの福引きに参加したところ、なんと特賞である高級マンションの一室を引き当てたのだ。さらに、一人息子が地元で一番の大手外資系企業への就職を希望した際、大勢の優秀なライバルがいたにもかかわらず、最終的に三名という狭き門を突破した。息子の学歴は他の候補者たちと比べて決して飛び抜けたものではなく、もともと合格は絶望的だと思われていた。それでも、彼はその信じられない幸運を掴み取ったのだ。なぜ自分が受かったのかまったくわからないまま、息子は無事に入社を果たし、持ち前の誠実さと実力で地道に実績を積み上げ、やがて立派な中間管理職にまで昇進して――そこではじめて、ある噂を耳にした。あのとき自分が採用されたのは、とてつもない大物からトップへの「口添え」があったからだ、と。すでに社内でしっかりと認められる立場になっていた息子は、その得体の知れない恩人に心から感謝を伝えたかった。しかし、どれだけ手を尽くして相手を探そうとしても、誰も詳しい事情は知らず、ただ「一番上からの指示だった」ということしかわからなかった。この一件はずっと、息子の心の奥底に引っかかっていた。この仕事が、この幸運が、自分の人生を根底から変えてくれたのだから。やがて長い年月が経ち、大きな会食の席で偶然にも会長と同席する機会が訪れ、息子は勇気を出してその真相を尋ねてみた。会長も
Read more

第800話

朱美はその知らせを聞いた瞬間、大きな喜びと、娘の体への心配が同時に押し寄せた。旅行自体はとても楽しかっただろうが、慣れない環境での移動は体力も相当消耗していたはずだ。明里の体が心配でたまらなかった。信頼する病院でしっかりと診てもらい、少しの出血も大事に至るものではないとわかると、ようやく安堵の息をつき、胸を撫で下ろした。宥希は、大好きなママが赤ちゃんを産むのだと聞いて目を輝かせ、わくわくした様子で明里のまだ平らなお腹を見つめながら聞いた。「ねえママ、絶対に妹だよね?」「さあ、それはまだなんとも言えないわ」すると潤が自信満々に言った。「ああ、絶対に妹だよ」明里は潤をジロリと睨んだ。「子どもに変な期待を持たせるようなこと、言わないでよ」「変なことじゃないさ」潤は真剣な顔で言った。「俺の勘だ。絶対に、可愛い妹だから」その根拠のない自信に、明里は呆れて突っ込む気にもなれなかった。一日ゆっくりと体を休め、翌日、明里は胡桃に会いに行った。胡桃の様子は、結婚式のときとあまり変わっていなかった。相変わらず痛々しいほど細いが、その瞳にはしっかりとした意志の光が宿っていた。明里が新しい命を宿したことを知ると、胡桃は飛び上がるほど喜び、またしても「子ども同士を結婚させよう」というあの話を嬉々として持ち出してきた。「最初は二人とも男の子だったから話が流れちゃったけど、今回こそは私にも大きな望みがあるわ」胡桃は言った。「さすがのあなたも、二人続けて男の子を産むってことはないでしょ?」「そうだといいんだけどね」明里自身も、心の底では女の子を望んでいた。男の子一人、女の子一人――それが彼女の夢だったのだ。「でも、たとえ男の子だったとしても仕方ないし」と明里は少し笑って続けた。「そればかりは、私の意志で決められることじゃないんだから」「もちろん、どっちでもいいわよ」胡桃は優しく言った。「女の子なら華やかだし、男の子なら頼もしくていいじゃない」「そうね」明里は胡桃のひんやりとした手をきゅっと握った。「でも、どうしてこんなに痩せてるの。ちゃんとご飯、食べてる?」「食べてるわよ」胡桃はこともなげに言った。「もともと、もう少し痩せたいって言ってたじゃない」「これ以上、どこをどうやって痩せるっていうのよ」明里は心配そうに
Read more
PREV
1
...
767778798081
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status