All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 811 - Chapter 820

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第811話

「裕之」と朱美が両手を小麦粉で真っ白にしたまま声をかけた。「ちょっと助けてもらえないかしら?」裕之はわずかに眉を上げた。「何してるんだ?」「お母さんが、皮から手作りで餃子を作ろうって言い出して」明里が補足するように説明する。「でも、生地を練るのって意外とコツがいるみたいで。私たちじゃ、どうにも上手くいかなくて……」「代わるよ」裕之は手早く上着を脱ぐと、手慣れた様子で袖をまくり上げた。朱美が少し意外そうに首を傾げる。「あら、できるの?」「ああ、できる」手を洗い、戻ってきた裕之が短く答えた。「若い頃、何度かやったことがあるからな」「知らなかったわ」「俺たちが一緒になってから、家で餃子を作る機会なんてなかったからな」裕之はボウルの中の粉に指を沈め、感触を確かめながら言った。「……いや、一度だけあったか。だが、あの時は市販の皮を使ったんだったな」「そうそう、よく覚えているわ。あの時、裕之が包んだ餃子がすごく綺麗だったから」「生地を練るのも、実は得意なんだ」要領を掴んでいる彼にとって、それは簡単だった。裕之が少しばかりの打ち粉を足し、何度か力強くこねると、それだけで生地は見違えるようになめらかさを増していく。ボウルの縁にこびりついた粉まで丁寧に巻き込み、一つの塊へとまとめ上げると、最後には彼の手も、ボウルも、そして作業台も、少しも汚れていない、見事な手際だった。「すごいわ!」朱美は思わず感嘆の声を漏らし、感心して見入っている。宥希は小さな生地の切れ端を分けてもらって、手のひらで転がして楽しそうに遊んでいた。潤と明里は顔を見合わせ、その光景に自然と笑みがこぼれた。そこへ、家政婦も戻ってきた。家族全員で手分けして作業を進めると、瞬く間に美味しそうな餡ができあがり、いよいよ皮を伸ばして包む工程に移る。皮を丸く伸ばす作業にも、コツが必要だった。朱美もそれなりにこなしてはいるが、その仕上がりはお世辞にも綺麗とは言えなかった。一方、裕之の手から生み出される皮はまるで別物だった。どれもが綺麗な円を描き、その厚みも均一に整えられている。明里も挑戦してみたものの、見た目以上に難しいらしく、何度繰り返してもいびつな形にしかならない。潤も似たようなもので、普段の料理では手際の良さを見せる彼も、餃子の皮という
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第812話

潤と朱美は顔を見合わせた。潤には、これ以上強く引き止める言葉が見つからない。朱美も、彼に頼ってもどうにもならないことをわかっていた。朱美は明里をそっと引き寄せ、静かな声で言い聞かせるように語りかける。「お母さんが一番心配しているのはね、あなたの体のことなの。でもアキ、少し冷静に考えてみて。もし無理がたたって二日行っては二日休むようなことになったら、かえって周りの先生たちに迷惑をかけることにならないかしら?」現在、妊娠中の明里への配慮として、以前担当していた授業はすでに他の講師に代わってもらっている。しかし、彼女が今抱えている研究プロジェクトは、途中で投げ出せないものだった。朱美の言い分は、痛いほど理解できた。「それにね、どれほど注意を払っていても、研究室の機器の中には放射線を出すものもあるでしょう。あなたが学校へ行くたびに、お母さんは心配で気が気じゃないのよ。生きた心地がしないの」明里は唇を噛み、黙り込んだ。隣に立つ潤も、一言も発することができない。朱美が諭すのであればまだ聞き入れる余地もあるだろうが、もし自分が同じ言葉を言おうものなら、今の明里が激しく反発することは目に見えていた。「……大丈夫だよ。ゆうちっちを妊娠していた時は海外でずっと働いて、そのまま産んだじゃない」「ええ、そうね。わかっているわ」朱美は言葉を継いだ。「けれど、あの時はまだあなたの体が若かったからでしょ。でも、今はどうなの?しんどさを押し殺して無理をしても、それで誰も幸せにはなれないのよ。せっかくこの子を授かり、産もうと決めたのなら、親としての責任を全うしてあげなさい。生まれてくる子が、あなたの無理のせいで体の弱い子になってもいいの?」そんな未来は、微塵も望んでいない。けれど、明里の耳にはそれが少し大げさな脅かしのように聞こえた。自分の体調の限界は、自分が一番よく理解しているつもりだ。定期検診を欠かさず受け、自分の体の声を聞いていれば、そこまで深刻な事態にはならないはずだという自負があった。これほど言葉を尽くしても明里が首を縦に振らないため、朱美もそれ以上は言うのをやめた。うちの家計なら、彼女が妊娠期間中にどれほど仕事を休もうと、何一つ支障はない。それでも明里が己の意志で歩みたいと言うのであれば、それを阻む権利は誰にもなかった。
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第813話

「お前、今の自分の顔を鏡で見てみろ」潤は眉間にしわを寄せた。「かつてのあの、余裕ぶった態度はどうしたんだ」「……自分でも、余裕でいたいさ」啓太は自嘲気味に笑った。「好んでこんな無様な姿になっていると思うか?」まさかこの歳になって、あんな年下の若い子に、ここまで心を掻き乱されるとは思ってもみなかった。成れの果てが、この有様だ。最後に優香の姿を目にしたのは、潤の結婚式の場だった。けれど、彼女の兄である隆が厳しく目を光らせていたし、優香自身も関わるつもりが毛頭ないのか、一度視線が合ったきり、言葉を交わす隙さえなかった。帰国後も、偶然を装って何度か会いに行こうと試みた。しかしいざ対面すると、優香は冷淡に背を向け、一言も発しないまま立ち去ってしまう。その上、実家では政略結婚の縁談が持ち上がり始めていた。八方塞がりの啓太は、やり場のない苛立ちを潤にぶつけるしかなかった。それなのに、明里は再び妊娠したという。幸せの絶頂にいる親友と比較して、自分の惨めさが余計に際立っていく。「お前と優香は、そもそも合わない。それに河野家が許すはずもないんだ。いい加減、諦めろ」「そんな正論、よく言えるな。昔のお前だって、明里さんのことを諦めなかったじゃないか」「……あれは、俺たちの想いが通じ合っていたからだ」潤は冷静に告げた。「お前のケースとは、根本的に違う」「実、あの当時、彼女がお前を好きだという確証なんてなかったはずだろ」「それはそうだが」潤は言葉を継ぐ。「少なくとも俺が手を伸ばせば、彼女はそれに応えてくれた。お前はどうだ?優香は、一度でもお前をまともに相手にしたか?」「『優香』だと?随分と親しげに呼ぶんだな!」「あの子は俺の義妹だ。今の俺にとっては、守るべき妹の一人なんだ」啓太は捨てられた子犬のような顔で、潤を見上げた。「……本当になんの力にもなってくれないのか?」「俺に死ねと言っているのか」潤はため息を漏らした。「友達は大事だが、嫁はそれ以上に大事だ。お前が彼女にとっていかに『天敵』と見なされているか、自覚はあるだろう」「誠心誠意謝れば、済む話じゃないのか?昔のことは……あれは誤解があったんだ。彼女だってお前のことは許したんだろ。なのに、どうして俺のことは根に持つっていうんだ?」「明里ちゃんが俺を許したのは、そこに愛
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第814話

「わからない。でも、どうしても会いたいんだ。たとえ……これが最後になったとしても。会って、ちゃんと終わりにする。どんなに冷たくあしらわれても、それでも直接話したいんだ」その切実な声に、潤の心もわずかに揺らいだ。「……わかった、聞いてみる」潤はそれしか言えなかった。「でも、優香が会ってくれるかどうかは保証できないぞ」「頼む、会わせてくれ」「俺に内緒で勝手にセッティングしろって言うのか?それは無理だ!」潤は声を荒らげた。「頼むから、俺を巻き込まないでくれ」「お前、本当にそこまで嫁の顔色をうかがうのか!情けないにもほどがあるぞ!」「嫁に頭が上がらないのは、それだけ嫁を愛している証拠だ。妻を愛することの、一体何が恥ずかしいんだ」啓太は苦笑した。「俺だって尻に敷かれたいさ。でも、その機会すら与えてくれないんだ」潤は正直、啓太がここまで変わるとは思っていなかった。少し考えてから、問いかけた。「……一生、あの子を大切にできると誓えるか?」啓太は潤を見た。「俺には前科があるから、誰も信じてくれない。でも潤、お前は?一生、明里さんを愛し続けると誓えるか?」「誓える」「わかってる。俺が言っても、説得力がないのも」啓太は自嘲気味に言った。「何を言っても、何をしても、信じてもらえない」「できる限りのことはしてみる」潤は言った。「優香には話す。でも隠し立てはしない。会うかどうかは、あの子自身が決めることだ」「ああ」「それと」潤は続けた。「明里ちゃんにも話を通しておく」「話してくれ」啓太は言った。「なるようにしかならないさ。結果がどうあれ、お前を恨んだりはしない」「恋が上手くいかないからって、腐ってどうする」潤は言った。「そんな無様な姿を見せたら、優香はますますお前を嫌いになるぞ」啓太はぴくりと肩を震わせた。「女が惹かれるのは、魅力のある男だ。今のお前を鏡で見てみろ、酒とタバコ漬けじゃないか。そのどこに魅力がある?酒とタバコの匂いが染み付いた男を、喜んで愛する女がどこにいるんだ」啓太は自分の襟元を引っ張り、そっと匂いを嗅いでみた。本当に臭うのだろうか。「あんなに可憐な優香が、お前のその酒臭さを気に入ると思うか?」啓太は黙り込んだ。「しかも真昼間から、こんな薄暗い場所に入り浸って飲んだくれて!みっとも
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第815話

明里はすぐに眉をひそめた。「優香ちゃんに何の用なの?まだ諦めてないの?」「諦めてないさ。ただ、最後に一度だけ……」「一度だけ?そんなに気楽に言わないでよ。優香ちゃんが会いたいと思っているなら、わざわざあなたに頼んだりしないでしょう」「そうだな、わかってる。でも、あいつは俺の親友で、この一件だけはどうしてもと頭を下げてきたんだ。見て見ぬふりはできなかった」「優香ちゃんは私の妹よ。友達のために、その妹を危険にさらすつもり?」「本当に一回顔を合わせるだけだ」潤は必死に説得した。「俺もすぐそばについている。優香が嫌がるようなことは絶対にさせないから」明里の中での啓太の評価は、もうとっくに地に落ちていた。同情の欠片もない。「優香ちゃんに聞いてみて。彼女が嫌だって言ったら、それで終わりだからね」「ありがとう。それで、今日の具合はどう?お昼はちゃんと食べられそう?」「二杯はおかわりできるくらい食欲があったのに、あなたのせいで一気に食欲が失せたわ」潤は申し訳ないと思いながらも、一言だけ添えた。「あいつ、本当に昔とは変わったんだよ」「変わったかどうかなんて、関係ないわ。優香ちゃんが好きじゃないなら、どんなに改心しようと私にはどうでもいい話よ」「わかった、俺が悪かった。もう口出しはしない。昼はしっかり栄養をとってくれよ。夕方迎えに行ったとき、思う存分怒鳴ってくれていいから」「怒鳴る気力も残ってないわ」「俺が悪いことをしたんだから」「悪いってわかってるのに、やったのね」「約束してしまった手前、引けなかったんだ」「じゃあ、本当にこれが最後よ」明里はきっぱりと釘を刺した。「優香ちゃんのことに、もう二度と口を挟まないで」電話を切った後、潤はすぐに優香にメッセージを送った。今、電話してもいいか、と。優香からすぐに折り返しがかかってきた。「何かあったの?」潤はまず、電話口で頭を下げた。「優香、ごめんな。実は、一つ頼みがあって」「頼み?どうして潤さんが謝るの?」優香は不思議そうな声を上げた。「啓太が俺の親友だってことは、知っているだろ」啓太の名前が出た途端、電話越しの優香の気配がふっと冷え込んだ。潤は率直に切り出した。「あいつが、どうしても一度だけ会いたいって、俺に頼み込んできたんだ。優香、俺の顔を立
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第816話

優香の安全のためにも、立ち会わないわけにはいかなかった。啓太の財力と人脈をもってすれば、優香に接触する手段など他にいくらでもある。それは潤にもわかっていた。でも、あいつは彼女に嫌われたくなかったのだ。無理やり会うようなことだけは、絶対にしたくなかったのだろう。夕方五時過ぎ、潤は明里を迎えに行き、二人で帰路についた。車の中でも、話題は自然と啓太と優香のことになった。家に着くと、その会話を聞きつけた朱美が「優香に何かあったの?」と尋ねてきた。潤は明里の顔を窺った。「話してもいいか?」「別に隠すことでもないでしょ」潤が事の顛末を説明すると、朱美は小さく頷いた。「一度ちゃんと話し合うのは悪くないわね。お互い、すっきりするでしょうし」潤はそれとなく、親友である啓太の肩を持とうとした。「啓太という男、根はそこまで悪い人間じゃなくて……」朱美はにっこりと微笑んだ。「でもね潤、世の中に誠実でいい男なんていくらでもいるのに、うちの優香がわざわざ、その『元・遊び人』を選ぶ義理なんてないでしょう?」ぐうの音も出ないほどの正論に、潤は密かに白旗を揚げた。優香ほどの容姿と家柄があれば、どんな相手だって選び放題だ。昔どんなに遊んでいたにせよ「改心したから」という理由だけで、彼女の恋愛対象に入るはずがない。最初から土俵にすら上がれていないのだ。明里も横から口を挟んだ。「お母さんの言う通りよ。だから、もうこれ以上は余計な口を出さないでね」「口を出すつもりはないんだけど……」朱美は笑って手を振った。「まあまあ。恋愛の行方なんて、当人同士にしかわからないものよ。案外、話し合ってみたら優香の気持ちが変わるかもしれないしね」その言葉に、潤は意外そうな顔をした。「お義母さん、もし優香が本当に彼のことを好きになったとしても、反対はしないんですか?」「私がそんなに分からず屋に見える?それに、優香の人生は優香のものよ。私がとやかく口を挟むようなことじゃないわ」とはいえ、朱美は河野家において非常に発言力が大きく、親族一同から一目置かれている。特に優香の両親――朱美の兄夫婦は、彼女が反対さえしなければ、話をすんなり通してくれる可能性が高い。しかし、潤はすぐに思い直した。取らぬ狸の皮算用もいいところだ。優香は啓太に微塵も興味を抱いていない。その
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第817話

「どうぞ」啓太が短く促した。「昔、あなたが付き合っていた女性たちの中には、あなたから口説いたわけではなく、向こうから言い寄ってきた人も結構いたんじゃないですか?」啓太は苦しげに目を伏せた。「……ええ、そうです」「じゃあ、あなたのことが好きで必死に追いかけてきたけれど、あなたがまったく興味を持てなかった人もいましたよね?」啓太は深く頷いた。「いました」「それとまったく同じことです」優香は告げた。「好きでもない相手からは、何をされても好きにはなれません。むしろ、しつこくされるほど鬱陶しくなるだけ。私の言っていること、間違っていますか?」啓太には、「はい」と肯定する以外の言葉が見つからなかった。「だったら、私の立場になって考えてみてください。私がなぜあなたを拒絶するのか、わかるはずです」優香はきっぱりと話を締めくくった。「私たちは住む世界が違います。今も、そしてこれからも」優香が席を立とうとした瞬間、啓太が慌てて手を伸ばし、その動きを遮った。「待ってください」「まだ何かご用ですか?」「自分に前科があって、これまでの恋愛が不誠実だったことは痛いほどわかっています。でもそれは、本気で心を動かされる相手に、まだ出会っていなかったからなんです」「あなたの人生観は尊重しますよ」優香は淡々と返した。「心が動かなくても、その相手と寝ることができる。それを何とも思わない人も、世の中にはいるでしょう。でも私は、たぶん少し面倒な性格なんです。心から愛している人としか、そういう関係にはなれません。だから申し訳ありませんが、あなたがいくら言葉を尽くしても、受け入れることはできません」「俺が拒まれるのは、過去のせいだけじゃないと思っています。今の俺には、君に信頼や安心を与えるだけの資格がないからだ。だったら――」啓太は優香の瞳をまっすぐに見つめ返した。「――俺の個人資産を、すべて譲渡すると言ったら、どうですか。これくらいの誠意を見せれば、少しは信じてもらえますか」優香は思わず瞬きをした。「……何ですって?」「俺が所有している資産を、そっくりそのまま君に移すんです。会社の株式も、不動産も、投資信託も、すべて。残らず全部です」「熱でも出ているんじゃないですか」優香は呆れたように言った。「正気で言っているとは到底思えません」
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第818話

明里は冷たいアイスクリームをひと匙口に含み、それが溶けるのを待ってからようやく尋ねた。「それで、結局口説くのを許したの?」「正直、あんな突拍子もない条件を出してくるとは思わなかったわ」優香は肩をすくめた。「まあ、三ヶ月で綺麗さっぱり諦めてくれるなら、別にいいかなって思って」明里は少し不安げに眉をひそめた。「でも……もし無理やり何かされたらどうするの?」優香はふかふかのソファに沈み込んでいた体を少し起こし、明里の顔を見た。「まあ、口説くのを許しただけで、付き合うって約束したわけじゃないのよ?送られてきたメッセージを無視しても、電話に出なくても、デートの誘いを断っても、それは全部私の自由なんだから」それを聞いて、明里はぽかんと口を開けた。「じゃあ、あの男は一体何のために追いかける気なの?」「私、前にあの人の連絡先を全部ブロックしたじゃない」優香は悪戯っぽく笑った。「たぶん、そこがゴールなんじゃないかな。少なくとも今は、私の連絡先の『友だちリスト』に戻っているわけだし」「それで、自分の資産を名義ごと全部渡すって言っていた件だけど……」「もちろん、絶対に受け取らないわ。そんなもの受け取ったら、ますます関係がこじれて面倒なことになるもの。それに、私があの人の財産に惹かれているわけでもないし」少し間を置いてから、明里はぽつりと零した。「でも正直なところ、あの人があそこまで本気だとは思わなかった」「昔から周りに女の子がたくさんいた人だから、歯の浮くような甘い言葉なんて、息を吐くように出てくるだけじゃないの」優香は冷ややかに言い放った。「まあ、それもそうね」明里は苦笑した。「でも正直に言うと、そういう女性関係の奔放さを別にすれば、増田さんってすごく魅力的な男性だと思うの。流されないように、あなたも気をつけてね」優香はくすっと吹き出した。「大丈夫よ、私には他に好きな人がいるんだから」明里は驚いて目を丸くした。「あれ、この前気になってるって言ってた人とは、合わなかったんじゃなかったっけ?」以前、優香に気になっている男性がいると聞いて、明里も密かに良い展開を期待していたのだ。だが結局、その後は連絡を取らなくなったと聞いていたはずだった。「あの人じゃないわよ。私が高校の時にお世話になった先生なんだけど……」「えっ、先生って……
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第819話

「絶対に受け取らないわよ」優香はすごい勢いでスマホを操作しながら宣言した。「ふざけないでって、今すぐ返信してやる!」優香はその後も夜の九時過ぎまで明里ととめどなくおしゃべりを楽しんでいた。潤が寝室に戻ると、明里はすでにベッドに潜り込んで横になっていた。潤も彼女の隣に寝転がった。「優香と何をそんなに長々と話していたんだ?俺の悪口で盛り上がっていたんじゃないだろうな?」「どうしてそこであなたの悪口になるのよ」明里はくすくすと笑った。「でもね、増田さんには正直、勝ち目がないと思うわ。折を見て、今のうちに諦めるよう説得してあげて」「俺の言葉を聞き入れるような奴なら、お前に怒られるとわかってて優香に会わせたりしないさ」「怒られるって、ちゃんとわかってはいたのね」明里は潤の鼻先を軽くつまんでから、真面目な顔に戻った。「ところで知ってる?彼が自分の個人資産を全部、優香ちゃんに譲渡しようとしているってこと」潤はぎょっとして目を丸くした。「は?何でそんなことに?」「優香ちゃんに安心してもらうため、だって」「てっきり、優香があいつを受け入れることを承諾したのかと思ったよ」「まさか。そんなわけないじゃない」明里は潤の胸を軽く叩いた。「今すぐ電話して、あんな馬鹿なことはやめるように言ってきてよ」親友の極端すぎる行動に潤も今ひとつ理解が追いつかなかったが、素直に体を起こして「わかった、今すぐかける」と応じた。電話をかけると、啓太はワンコールですぐに出た。「どうした?」潤は単刀直入に切り出した。「お前、自分の名義の資産を全部優香に譲渡するつもりだって?本当なのか?」「ああ。本当だ」「冷静になって、ちゃんと考えた上でのことか?」「考えるまでもないさ」啓太はあっさりと答えた。「俺には優香からの信用が絶望的にない。今の俺にアピールできるのが金しかないなら、自分の本気を証明するためにそれを全部投げ出すしかないだろ」「お前という奴は本当に……だがな、優香がそんなものを受け取るわけがないぞ」「じゃあ、俺はどうすればいいんだ。何かいい方法があるなら教えてくれよ」啓太は切実な声で言った。「俺がこれまで散々好き勝手に遊んでこられたのは、金があったからだ。だから、その原因である金を全部彼女に渡すことで、もう二度とあんな馬鹿なことはしないって伝
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第820話

潤の温かい言葉を聞きながら、明里はふと、職場のとある女性教員のことを思い浮かべていた。現在、明里の妊娠を知っているのは千秋と碧の二人だけだ。まだ安定期にも入っていないうちから周囲に言いふらして、特別扱いされるのは本意ではなかった。同じ職場のひとつ上の階に、現在妊娠後期の女性教員がいる。時折、昼休みに食堂で席が一緒になることがあった。その先生は食事中、よく自分の夫への愚痴をこぼしていた。外資系企業に勤めていて高収入で、ひょろりと背が高くて、見た目にはとても温和そうな男性だ。明里も、何度か顔を合わせたことがある。千秋も「すごく優しそうな、いい旦那さんですよね」と言っていた。しかし当の奥さんは、「いい旦那?男なんてどいつもこいつも同じよ」と、鼻で笑ったのだ。千秋が興味津々で前のめりになる。「どういうことですか?詳しく教えてくださいよ!」そこから、女性教員の独演会が始まった。家に帰ってくれば服は脱ぎっぱなし、隙あらばスマホでゲームに没頭し、何かを頼んでも何度かきつく言わないと腰を上げない。そのうえ、何をするにも先のことを考えないのだという。洗濯を頼めば、服を洗濯機に放り込んで回すだけで、干すことまで頭が回らない。食器洗いを任せれば、茶碗と皿だけを洗って満足し、油跳ねしたコンロを拭こうとはしない。ゴミ袋を玄関にまとめておいても、言葉で指示を出さなければ、出勤ついでにゴミ捨て場に持っていくことすら思いつかない。ゲームに夢中になっている時に話しかけると「うん、うん」と生返事をするだけで、まったく頭に入っていない。後から確認しても、何一つ覚えていない始末だ。ひとしきり不満を吐き出してから、女性教員は明里の方を向いて同意を求めた。「村田先生、男の人なんて、だいたいこんなものですよね?」同じ既婚者として、きっと強く共感してくれると思ったのだろう。明里は曖昧に笑って、「そうですね」とだけ答えておいた。しかし内心では、うちの潤にはそういうだらしないところが何一つないと密かに思っていた。普段の家事は家政婦がやってくれるため、彼が直接手を動かす場面はそこまで多くはない。だが、明里の下着だけは、潤が必ず自分の手で洗ってくれる。一緒に暮らし始めた頃はひどく気恥ずかしかったが、彼がどうしても自分で洗うと言って聞かないため、気づけばそれがすっ
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