余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる のすべてのチャプター: チャプター 461 - チャプター 470

555 チャプター

第461話

紬もまた、香凛の容赦のない物言いに内心で驚いていた。香凛は紬の隣でゆったりと腕を組み、完全に虚を突かれた寧音を冷ややかに見下ろした。「ここに並んでいる機体はすべて、国家の誇りを象徴する重要な機密です。一般人に対する審査が厳しいのは当然のことでしょう。園部さんのご事情については、私も海外でいろいろと耳にしているわ……とてもじゃないけれど、あなたに搭乗の資格があるとは思えない」幼い頃から周囲に傅かれて育ってきたゆえか、香凛にはそもそも「人前で気を遣って言葉を選ぶ」という概念が存在しないらしい。しかも、彼女には絶対的な後ろ盾がある。頼みの綱である慎がこの場にいない今、寧音には正面から反論するだけの言い返す勇気がなかった。それでも――寧音は瞬時に顔を歪ませ、腹の底からこみ上げてくる怒りをかろうじて抑え込んだ。「望月さん。私に対して、何か個人的な偏見でもおありですか?」「あえて訂正させていただきますけれど、偏見ではありませんわ」香凛は回りくどい言い訳などしない。組んだ両腕を解くことなく、寧音の全身を上から下へと値踏みするようにゆっくりと眺め回しながら、淡々と言い放った。「はっきりと申し上げますが、この世に万人に好かれる人間など存在しません。自分が特別扱いされないからといって、それを『偏見』と呼んで被害者ぶるのは的外れというものです。私に話しかけるなら、まずご自身の振る舞いを省みてからにしてくださいな」寧音の顔色がいっそう険しく強張った。香凛はそんな彼女から視線を外し、秀治の方へと目を向ける。「おじ様。このような重要なプロジェクトにおいては、専門的な能力と同様に、資質も問われるべきかと存じます。倫理観やモラルに欠ける方は、最初から検討の対象から外された方が国のためではないでしょうか?」寧音の呼吸が一瞬、ピタリと止まった。すがるような思いで、慌てて秀治の顔を見る。しかし、秀治は若い子たちのように、個人的な感情をあからさまに表に出すことはない。彼はあくまで、規定と手順に従って冷静に判断を下すだけだ。秀治は静かに口を開いた。「政府には政府の、厳格で公正な評価基準がある。すべてはそれに沿って進めるまでだ」その言葉を聞いて、香凛はふっと小首を傾け、満足そうに笑った。「そうですよね。国防施設なのだから、
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第462話

寧音が黙って引き下がるしかなかったのも当然の話だった。紬はフライテックのオフィスへと戻った。現在、会社では複数の大規模なプロジェクトが同時進行で動いている。紬は自分にしかできない核心部分の開発にのみ集中し、残りの実務は各部門の責任者に任せる体制をとっていた。自身の体力を削りすぎないよう、意識してペースを調整しているのだ。午後になって、待ちに待った嬉しい知らせが届いた。紬が執筆した論文が、ついに学術誌のオンライン版で先行公開されたのだ。当初の予定よりもかなり早い刊行だった。その知らせを聞いた瞬間、紬の胸のつかえが取れたような気がした。オンライン公開の後は、紙媒体での正式な出版に向けた準備も進める必要がある。学術界における資料的価値と権威性という意味において、紙媒体での出版はまた別の大きな意義を持っているからだ。翌日、宏一から直接電話がかかってきた。「君の論文が出たな。A大が機関リポジトリを契約しているから、うちの学生たちもすぐに読めるようになるだろう。……ところで、来週はA大の創立記念祭だ。今回の論文の筆頭著者として、記念祭で記念講演をしてもらえないか?」それがどれほど光栄な誘いであるか、紬にもよくわかっていた。国内屈指の難関大学であるA大の創立記念祭でスピーチをする。それは、学術界において確固たる地位を認められた証でもある。「はい、もちろんです」電話越しの宏一の声も、いつもより珍しく弾んでいるように聞こえた。彼は普段めったに口にしないような労いの言葉をかけてくれた。「今回は、本当によくやってくれた。私としても誇りに思うよ。当日は学術界の重鎮や、各界の著名人も大勢出席する。君にとってこれ以上ない素晴らしい機会になるはずだ。しっかり準備してきなさい」「はい、ありがとうございます」電話を切ると、紬の胸の奥がじわりと温かくなった。がむしゃらに前だけを見て走り続けたその先で、長谷川家での生活でばらばらになっていた自分自身の欠片を拾い集め、ようやく一つに結び合わせることができたような気がした。紬は空いた時間をすべて使い、スピーチの原稿準備に取り掛かり、何度も繰り返し確認と推敲を重ねる。薬を飲み、もう少し原稿のブラッシュアップをしようと机に向かったとき、手元の携帯が短く震えた。画面を見ると、笑
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第463話

A大でのスピーチの準備を進める合間、紬は息抜きにSNSを開き、何度か香凛の投稿を目にした。香凛は、想像以上にエネルギーに満ち溢れた人物らしい。自身のアトリエでの制作風景や、絵の具にまみれたキャンバスの写真を何枚もアップロードしており、その様子を眺めていると、芸術に携わる者に共通する気質というものを改めてよく理解できた。感情が人一倍豊かで、ひどく繊細かと思えば、恐ろしいほど激しくもある。とりわけ、本当の意味でのお嬢様という特権的な立場で生きてきた人間が持つその気質は、一般人とは比較にならないほど強烈だ。帰国したばかりの初対面の場で、寧音のような小賢しい人物を一蹴したのも、なるほど頷ける話である。紬は彼女の投稿がタイムラインに流れてくるたびに、「いいね」を押した。スピーチの準備が万端に整った頃、名誉卒業生の一人として、承一も紬に同行してA大へ赴くことが決まった。創立記念祭の当日は、普段の落ち着いたキャンパスとは打って変わり、格段に賑やかな空気に包まれていた。他校の学生や、一般の見学者も多数訪れており、キャンパス全体が若々しい活気に溢れている。見慣れた校内を歩きながら、承一が隣で表情を引き締めて言った。「今日は学術界の重鎮や、業界の大物も大勢来ている。これからお前が登壇して話す相手には、有名な学会の権威や、世界的学術誌の編集長なんかも含まれているんだ。A大の創立記念祭で演説に招かれるというのは、それだけ格式の高い場なんだよ。今日のスピーチが成功すれば、お前の研究者としての地位は不動のものになる……どうだ、緊張してるか?」誰にでも与えられる機会ではない。今日の登壇は、温井紬という人間の実力を「学術界の新星」として、公式に世間へ知らしめる絶好の舞台となる。正直なところ、紬も少しばかり緊張していた。こうして公の場で大々的に自分の名前と顔を出すのは初めてのことだし、何より相手は業界の重鎮ばかりだ。気を抜けるはずがない。「ええ、少しだけ。でも大丈夫、話し始めればすぐに慣れると思うわ」紬の声には張りが宿り、前向きな自信が滲み出ていた。承一が愉快そうに声を上げて笑った。「なんだ、あの完璧主義の紬にも、ちゃんと緊張する場面があるんだな。大丈夫だよ、今日は親も来てくれる。オレたち身内がみんなでお前の後ろに控えている
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第464話

「よくまあ、どこへでも連れ回すものね」承一が冷ややかに鼻で笑った。そちらの席へ向かわなければならない以上、紬は否応なしにその光景を目にすることになった。寧音はすっかり機嫌をよくしているらしく、口元を上品に手で覆いながら、隣に座る慎に何事か囁きかけては楽しげに笑っている。自分の座席位置を確認したかっただけなのだが、近づいてみてはっきりとわかった。紬の席は、他でもない慎のすぐ隣だったのだ。紬は思わず端正な眉をひそめた。それに気づいた承一が身をかがめ、紬の耳元で囁いた。「スタッフの誰かに頼んで、席を替わってもらえないか交渉してみるか?」紬はしばし唇を引き結んで考えたが、やがて静かに首を横に振った。「席次はすべて事前に決められているし、今日は各界から大勢の要人が来ているわ。座席の配置はそれぞれの立場や関係性に配慮して慎重に組んであるはずだから、私一人の都合で動かしてしまったら、全体のバランスが崩れてしまう」ここは格式高い公式の場であり、規則は厳格に守られている。自分の個人的な感情のせいで、運営スタッフに余計な迷惑をかけるわけにはいかない。その理屈は、承一にもよくわかっていた。紬は諦めて、自分の席へと歩を進めた。ちょうど顔を上げた慎と、ふいに視線がぶつかる。彼の深く静かな瞳が、紬の今日の装いにスッと向けられた。彼女が身に纏っているのは、上品な光沢を放つ深緑のシルクシャツだ。細く絞られたウエストのデザインと、季節が春めいてきたせいか薄手になった生地のせいで、紬の体はひどく華奢に見え、どこか凛とした空気を漂わせている。すらりと伸びた白い首筋にはシャツと同色のリボンがゆるく結ばれており、胸元の鎖骨がくっきりと浮かび上がって見えた。紬は慎の視線など欠片も気にすることなく、席につくなり携帯を取り出し、スピーチの原稿の最終確認を始めた。その隣に紬が座ったのを目にした瞬間、寧音の作られた笑顔がすっと消え失せ、表情が凍りついた。紬は、そんな二人を気にかける素振りすら見せなかった。そのとき、隣から慎の低く落ち着いた声が届いた。「その席、ちょうどエアコンの吹き出し口の真正面だ。冷えるだろう。席を替わろうか」紬は顔を上げることすらなく、淡々と答えた。「お構いなく。必要ありませんから」ピシャリと拒絶され、慎は
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第465話

紬はちょうどスピーチの原稿を読み終え、携帯をバッグにしまった。一颯はそこでようやく紬の存在に気づき、ひどく複雑な顔をした。紬が「長谷川夫人」であると知ってからというもの、彼は気まずく思うと同時に、寧音を心底可哀想に感じていた。そりゃあ、紬があれほど寧音にキツく当たるわけだ。「園部さんの今回の論文は、本当にレベルが高いんだぞ。温井も、園部さんの勤勉さを少しは見習ったらどうだ?」一颯は不遇な寧音の肩を持とうと、紬に向かってチクリと嫌味を放った。それを聞いた寧音は、かつてニューヨークのホテルで、紬が専門的な議論にまったくついていけなかった無様な場面を思い出し、優越感に浸りながら黙って座っていた。紬は、一颯の方を冷ややかに一瞥しただけで、相手にしなかった。彼女が言い返すよりも早く、知人との挨拶を終えて戻ってきた承一が、その言葉を耳ざとく聞き咎めた。「なるほどね。以前、うちの笑美がお前のことを指して『保護者気取りか』と言っていた理由が、今ようやくわかった気がしますよ。清水社長がこれだけ必死に気を遣って尽くしてあげているのに、園部さんからは一言も褒めてもらえないんですか?飼い犬を躾るなら、ちゃんと飴と鞭を使い分けないとダメでしょうに」強烈な皮肉に、寧音はピクリと眉をひそめた。一颯も顔色を変えて反論する。「私は純粋な好意でアドバイスをしただけです。もっと勉強してもらって、何が悪いんですか」寧音も不快感を露わにして眉間に皺を寄せた。「承一代表。私と清水社長の関係について、そんな下世話な憶測をやめていただけますか」承一はスーツの袖口の埃を軽くはたくふりをしながら、わざとらしくとぼけた声を出した。「おや、これは失礼。ごもっともです。なにせ今、そっちが寄り添っているのは、うちの紬の『旦那様』ですものね」寧音の表情がすうっと暗く曇った。その言葉が終わるか終わらないかの絶妙なタイミングで、挨拶を終えた慎が戻ってきた。どうやらやり取りは耳に入っていなかったらしく、彼は席に腰を下ろした。紬はもう、彼らの三文芝居に注意を向ける気力もなかった。承一の一言が、鮮やかな意趣返しになっていたからだ。そちらから視線を外したとき、講堂の入り口付近に、ちょうど到着したばかりの宏一の姿が目に入った。紬はハッとして、すぐに立ち上がって恩
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第466話

紬は、周囲でそんな見当違いな憶測が飛び交っていることなど知る由もなく、宏一と一緒に前へと向かって歩いていた。その道すがら、宏一は冷ややかな表情でボソリと言った。「今後、誰かが君に何か嫌味を言ってきたら、すぐに私に報告しなさい」不器用な恩師が、こんな些細なことを本気で気にして庇ってくれているのがどこか可笑しくて、同時にひどく温かくて、紬は素直に「はい」と頷いた。席に着くと、少し離れた通路のあたりで、寧音が何人かの著名な研究者や編集者と談笑しているのが目に入った。紬は何も言わず、静かに座った。一方の寧音は、一颯の口利きのおかげで、編集者と直接言葉を交わす機会を得ていた。編集者の態度はとても丁寧だった。「あとでぜひゆっくりお話ししましょう……ところで園部さん、最近トップ誌で刊行された『あの論文』には、もう目を通されましたか?」寧音は少し返答に迷った。ここのところ息抜きに北海道へも慌ただしく旅行してきたばかりだ。ニューヨークから帰国した直後、界隈で話題になっていた論文の存在を知り、調べようとはしたのだが、結局そのまま放置してしまっていたのだ。「お恥ずかしながら、まだ拝読できておりません」するとその編集者は含みのある目で言った。「早急に、一度目を通されることを強くお勧めしますよ。今、界隈では各分野の猛者たちが一斉に動き出していますからね」そこまで言われて少し気になり、寧音はその場でこっそり携帯を取り出し、学術データベースのサイトを開いてみた。トップページに、権威あるトップジャーナルに掲載された一本の論文が大々的にピックアップされているのを見て、寧音は思わず息を呑んだ。最近、いったいどの大家がこれほど革新的なものを書き上げたというのか。この学術誌の格は、間違いなく業界の頂点だ。厳しい査読を通過し、ここに論文を載せられるのは、世界でもほんのひと握りの天才か重鎮に限られる。先ほどの編集者が勧めてきたのもうなずける内容だった。ただ、自分にはあまり関係のない世界の話だとも思った。こんな最高峰の学術誌に名を連ねることができるのは、雲の上にいる業界の重鎮ばかりであり、自分のような若手の手が届く領域ではない。気にするほどのことでもないだろう。席に戻ると、寧音の気分は明らかに上向いていた。今日この公の場でいくつかの
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第467話

学長の声が響き渡った、まさにその瞬間。寧音の顔から、得意げな表情が霧散した。次の瞬間、彼女の瞳の奥に、じわりと信じられないという色が広がっていく。ハッと首を向けると、隣の席で、すでに立ち上がっている紬の姿があった。紬が静かに立ち上がると同時に、会場のあちこちから、驚愕に息を呑む声が上がった。そして一瞬の静寂の後、後方に座っていた学生たちの席から、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こったのだ。彼らA大の学生たちには、今日の講演について、事前に大学側から知らされていた。大学が学術データベースを契約したことで、彼らはすでにこの論文に目を通していたのだ。読んだ学生の全員が、その理論の圧倒的な深さと先見性に感嘆した。そして今、その天才的な著者が、他でもない「賀来教授の最後の愛弟子」である温井紬だとわかったのだ。彼らの興奮はいっそう高まり、熱狂の渦となる。このレベルの才能は、もはや嫉妬すら覚えさせない、圧倒的な知の結晶だった。慎は少しだけ首を傾け、静かに立ち上がる紬の横顔を、何も言わずにじっと見つめていた。一方、寧音の胸の中は激しくかき乱されていた。思考が一瞬完全に停止してしまい、目の前で起きているこの光景が果たして現実なのかどうか、しばらく判断がつかなかった。その寧音の表情の変化に気づいた一颯が、論文の重みを知ったばかりの衝撃から、つい、うわ言のように口を滑らせた。「……何か、人違いではありませんか?」一颯は先ほど、他でもない寧音から「これは相当な大家の書いたものに違いない」と聞かされていたのだ。それが……温井紬の作だというのか?一颯の場違いな声はひどく浮いて聞こえた。承一が、心底不快そうに眉をひそめて一颯を睨みつける。壇上の学長が満面の笑顔で紬に呼びかけた。「では温井さん、どうぞ壇上へ。学生の皆さんに向けて、お話しいただけますか」寧音は信じがたい衝撃の底から現実へと引き戻された。紬は落ち着いた優雅な足取りで階段を上り、演台の前に立った。この高い場所から見渡す、千人を超える会場全体を前にして、紬は初めて、本当の意味で自分自身の名を世間に向けて名乗った。「皆様、はじめまして。温井紬と申します――」最前列から、慎の漆黒の瞳が、壇上で輝く紬の姿を静かに見上げていた。寧音は、紬が壇上に上がっ
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第468話

あの厳格な宏一でさえ、珍しく表情をほころばせていた。愛弟子に対する誇らしさを、もはや隠そうともしない。周囲にいた、それまで多少気取っていた大御所たちも自然と頬を緩め、次々と紬に声をかけてくる。紬はその称賛の輪の中心で、まるで夜空に瞬く星のように、眩く輝いていた。周囲のすべての景色が、すっかり霞んで見えるほどに。寧音は、自分には到底想像も及ばないその光景が、目の前で揺るぎない現実として繰り広げられるのを、ただ見つめることしかできなかった。そこに座り込んだまま、どんな顔をすればいいのかさえわからない。指の先まで、氷のように冷え切っていた。一颯もまた、ようやく圧倒的な衝撃から我に返り始めていた。鳴り止まない拍手も、後方の学生たちの興奮しきった歓声も、紬がこの場の誰の目にも天才として映っていることを、雄弁に物語っている。だが、彼にとってそれ以上に気にかかるのは、隣に座る寧音の様子だった。目をやると、彼女は顔からさっと血の気が引き、ほぼ無表情になっていた。一颯は無意識に拳を強く握りしめ、立ち上がって紬の方を見た。「一つ、いいか……温井、お前いったいいつこの論文を書いたんだ?」声が、極度の緊張からか少し上ずっていた。周囲の何人かが訝しげに振り返る。紬は心底退屈そうに一颯を一瞥し、言葉の続きを待った。一颯は思い詰めたように眉を寄せた。「皆さんがおっしゃる通り、この論文は申し分のない水準です。しかし、彼女がこの業界に入ってまだどれくらいですか?異分野から転向して半年も経たずして、業界の頂点に立ったと?園部さんは違います。正当なプロセスで学びを深め、持ち前の才覚で今日の地位を築いてこられた。温井は業界に入ったばかりで、園部さん以上のレベルの論文を発表したというんですか?」寧音は血の気のない唇を引き結んだまま、何も言わなかった。それでも――一颯の疑問には、確かに一理あるとも思う。紬が業界に入ってどれくらいになるというのか。あれほどの実力があるのなら、なぜ今まで誰も「温井紬」という名前を聞いたことがなかったのか。一颯の言葉は、寧音の心の中で、一筋の希望となって静かに形を成した。さっきまで痺れたように動かなかった胸の奥が、少しだけ落ち着きを取り戻してくる。高揚していた会場の空気が、一颯の一言で一瞬に
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第469話

実際のところ、一颯が堂々と疑念を口にしたとき、その場の一部は確かに揺れていたのだ。先ほどの講演の内容が、いかに圧倒的で隙のないものであったかを、誰よりもわかっていたからだ。業界においても、間違いなく最高水準に位置する革新的な内容だった。だが一点だけ、一颯の指摘した事実は正しい。紬はまだ何歳だ?二十五歳を少し過ぎたばかり。多くの人間にとってまだ大学院生か博士課程の年齢であり、天才とされる人間でさえ、その大半は恩師の後を着実にたどりながら少しずつ力をつけていく段階に過ぎない。しかし紬はどうか。フライテックで国内の飛行制御システムを飛躍的に前進させ、業界の大家でさえ感嘆する最高水準の学術論文を軽々と書き上げた。過去の天才と呼ばれる者たちより数十年も先を行き、いわゆる泥臭い下積みという期間すら経ていない。冷静に常識で考えれば、信じがたいほど都合の良すぎる話だった。だからこそ疑問の声が上がると、疑念を抱く者が出てくる。もしかしたら、この若く美しい女性も、世の多くの野心家と同じように、権力者の手段とコネを使って自分を虚飾に彩られた虚像なのではないか、と。千人を超える巨大な会場で、信じる者がいれば疑う者もいた。しかし、承一が決定的な一言を放った直後、その場の誰一人として気づいていなかった。「冷静でいよう」と自分に言い聞かせていた寧音の心が、その一瞬で脆くも崩れ去ったことを。顔に出そうになる驚愕と動揺を、必死に押しとどめる。承一は、決してあの意味で言っているのではないはずだ……。しかし――承一はポケットに両手を突っ込んだまま寧音を見下ろし、まるでおかしな冗談でも言うように口の端を上げた。「――あれはね、うちの紬の作品なんですよ」寧音の顔色が、一瞬にして土気色へと変わった。弾かれたように顔を上げ、静かに佇む紬を見る。紬はただ、虚空を見つめるような冷ややかな目を向けてきた。その瞳には、かつて一度として相手を「対抗すべき同等の存在」と見なしたことのない、淡々とした気配があった。寧音にとってその眼差しは、対等なライバル扱いさえしてもらえていないという、何よりも残酷な侮辱に他ならなかった。胸の奥深くまで、鋭く突き刺さる。承一は壇上の学長の方へと向き直った。「学長、紬が執筆した論文が、ほかにもあと二本存在します
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第470話

英明の放ったその一言が、疑念を完全に払拭し、事実を確定させた。この場にいる誰もが知っていたからだ――紬は宏一の愛弟子であり、英明と宏一は長年にわたって犬猿の仲であるという事実を。その英明が、自ら進んで証言をしたのだ。これほど真実味を帯びる言葉はない。もし本当に紬の作品でないのなら、あのへそ曲がりの英明が、わざわざ宿敵である宏一の顔を立ててやるような真似など絶対にしないはずなのだから。この会場において、英明のたった一言ほど、重みと説得力を持つものは他になかった。二人は人間的な相性こそ最悪だが、学術に対する厳正で潔癖な姿勢においては、常に同じ高みを見据えている。一颯は英明から言葉を叩きつけられ、血の気を失って黙り込んだ。思わず、隣の寧音へ目をやる。寧音はその場に釘付けになり、必死に感情を押し殺していた。しかし、微かに引き攣っている唇が、彼女の激しい動揺を雄弁に物語っていた。まさか、英明が自ら進み出て証言をするなんて思ってもみなかった。彼は、以前から紬の実力を知っていたということなのか。では、なぜ自分に対して一度もそのことを口にしなかったのか。――紬の本当の恐るべき実力に、自分は一欠片も触れられていなかったのだ。あの複数の論文の存在が、寧音の胸に幾重もの衝撃となって押し寄せていた。もし、このまま紬に時間と機会を与え続ければ、彼女はいったいどこまで上り詰めてしまうのか。寧音は懸命に呼吸を整え、込み上げる感情を押し殺した。こんな大勢の目が光る公の場で、何があろうと平静を失うわけにはいかない。これは、ただの論文の話……実際のプロジェクトや、実務の研究の場では、私には敵わないはずだ!寧音は心の中で、自分に言い聞かせるようにその言葉を繰り返した。慎はゆったりと組んでいた腕を解き、腕時計の文字盤を指先で軽く叩いてから、ゆっくりと立ち上がった。壇上の紬を見上げ、そこでようやく、静かな声で言葉を発した。「おめでとう」それはまるで、英明の証言に背中を押されたかのようなタイミングだった。この落ち着いた「おめでとう」が、今日の彼女の栄誉を純粋に祝うものなのか、それとも疑念を見事に晴らしてみせたことへの賛辞なのか、誰にも判断はつかなかった。ただ確かなのは、これより先、紬の実力に対して一片の疑念を持つ者など誰もいな
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