All Chapters of 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Chapter 441 - Chapter 450

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第441話

慎の誕生日パーティーでの一件は、もはや隠し通せるものではなかった。西京市の上流社会では、一夜にしてほぼ全員が知るところとなっていた。慎の立場は、この社交界においても特別だ。隙のない彼から、あのようなスキャンダラスな話が表に出ること自体、誰もが想像すらしていなかったことだった。もちろん、上流階級においては、正妻がいながら外に別の女性を囲っている人間などいくらでもいる。出張先の都市ごとに「親しい女」がいたとしても、誰も驚きはしない。珍しくもない、社交界の暗黙の了解だ。ただ、今回の件で最大の問題となったのは——寧音という女は、世間に姿を現した当初からずっと、慎の「正式な交際相手」として堂々と振る舞っていたことだ。見た目は洗練されていて、家柄もよく、上流社会でも高く評価される学歴を持ち、帰国するなり長谷川家の当主である慎に大切に扱われていた。人々の目には、彼女の姿が何重にも美化されて映っていた。それが、一夜にして完全に崩れ去った。ただの、他人の家庭を壊そうとする略奪者だったと白日の下に晒されたのだ。高学歴、優雅さ、完璧なイメージ——寧音を飾っていたすべてが、まるで正反対の醜いものへと変わった。人々が息を呑み、同時に好奇の目を向けるのは、まさにそこだった。単に男が外に女を囲うこと自体は、少しも珍しくないのだから。だからこそ、嵐が過ぎ去った後も、こうしてこの三人が同じ場所で顔を合わせれば、周囲からの容赦ない比較と憶測が止まらない。紬にも、今この場にいる人間たちがどんな下世話な詮索をしているかは、手に取るようにわかっていた。人というのは、そういう生き物だ。ただ、紬自身は、そういう泥沼の揉め事に自分から首を突っ込むつもりはまったくなかった。慎がどう出るかなど確認もせず、さっさとスタッフが置き直したネームプレートを手に取った。「気を遣わなくていいです。もともと用意されていた席に座りますから」それだけ言って、後方の自分の席へと向かった。いわゆる「女の争い」のような、安い三文芝居に付き合うのは心底嫌だった。慎に選ばれるのを健気に待つなど、もっと嫌だ。自分の選択権は、最初から最後まで自分にある。その迷いのない振る舞いに、周囲から驚きの声が漏れ、それから一拍置いて、嘆息が漏れた。さすがは、本物の長谷川夫人だ。この肝の
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第442話

紬への評価がそうやって揺るぎないものになると、今度は後方に座る寧音へと向く視線に、複雑な色が混じり始めた。寧音は、四方八方から突き刺さるような視線を感じていた。顔には何も出さなかったが、手元の万年筆を握る手に、白くなるほど力が入った。この天と地ほどの落差には、まだ到底慣れることができない。紬は最初から我関せずの態度を貫いていたため、周囲の反応に動じることもなかった。周囲がまだ彼女から何か内情を探ろうとしていたところへ、承一がさりげなく間に入って話題を引き取り、手際よく話をまとめて切り抜けてくれた。会議が終わると、紬と承一はすぐに立ち上がり、足早に退席した。慎がどうしているかなど、気にも留めなかった。これ以上、話題の中心にいたくなかった。残された慎と寧音が、余計な隙を見せたくなかった。自分たちの関係を世間がどう見るかは、他人の勝手だ。……スキャンダルの噂は猛烈な勢いで広がっていた。その渦中に関わってしまった一人として、正樹はずっとやり場のない気持ちを持て余していた。言葉にならないような酷い後味の悪さが胸に残り、いっそ何もかも消えてしまえばよいとさえ思うほどだった。夜になって、たまらず凛太をバーに呼び出した。凛太はちょうど隣の市から戻ったばかりで、翌日は仕事が入っていなかったので、従弟の様子を見に来ることにした。指定された席に着くと、正樹はすでに一人でしばらくの間、強い酒を飲んでいたようだった。「どうした?失恋でもしたか?」凛太は隣に腰を下ろしながら、カウンターにカバンを置いて適当なカクテルを頼んだ。正樹は凛太を一瞥して、不機嫌に眉をひそめた。「失恋って、付き合ってもいないのに」「じゃあ、何を一人で嘆いているんだ」正樹は口を開きかけ、鬱憤を晴らすかのように、昨夜の誕生日パーティーでの一件を事細かに話した。凛太はグラスの縁を指でゆっくりとなぞり回しながら、目も上げずに淡々と言った。「で、それがどうした?」正樹は呆れて固まった。「おかしいとは思わないか?正式な交際相手だと思っていた女が実は略奪愛を狙う愛人で、二人の仲を裂こうと邪魔者扱いしていた女が、本当の正妻だったなんて!俺は今、自分のしでかしたことへの恥ずかしさと怒りで、消えてしまいそうなんだよ」凛太はようやく正樹を見た。「以
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第443話

見出しを見た瞬間、正樹はすぐさま記事を開いた。そこに添付されていたのは、昨夜のパーティーでの配信の録画映像だった。ちょうど寧音に向けられていたカメラのマイクが、慎のあの決定的な一言をしっかりと拾っていた。「……妻の紬です」慎本人は画面に映っていない。しかし、大写しにされた寧音の表情はあまりにも鮮明だった。瞬時に血の気が引いていくその顔が、残酷なほどはっきりと世界中に晒されていた。配信の切り抜き動画はすでに何度も転載され、画質がかなり粗くなっていた。正樹がコメント欄を開くと、すでに目を覆いたくなるような大量の書き込みが溢れ返っていた。この映像の巧妙で恐ろしいところは、慎が自ら妻の存在を堂々と明らかにしているのだ。寧音との親密な繋がりを示す場面は、一切映っていない。それゆえに、世間のコメントの矛先はすべて寧音一人へと向いた。既婚者と知りながら何か下心を持って近づいたが、あえなく正妻に阻まれてうまくいかなかったのではないか、という見方が大勢を占めていた。寧音が誰か知らない人間も世間には多いが、慎の名前を知らない人間はこの国にはいない。名家の御曹司であり、彼が関わる企業や投資プロジェクトはすべて大成功を収めている。金融界でも若きカリスマとして名の知れた存在だ。さらに以前、経済誌のインタビューで顔を出したこともあり、その洗練されたルックスや肩書きは、そこらの芸能人にもまったく引けを取らない。あらゆるSNSで影響力を持つ人物だ。そんな雲の上の存在が、突然こういう泥沼のスキャンダルの話題の中心になったのだ。当然、世間の注目度は爆発的に跳ね上がった。だが映像の中の慎は、ただ妻の存在を公表しただけであり、そこに付け入る隙がない。結果として、すべての批判の矛先は、残された寧音一人へと集中した。正樹は異常な勢いで伸び続ける再生数とコメントの数字を見て、不審に首を傾げた。「なぜ、長谷川家の方で火消しに動かないんだ?」……一方、寧音の方でもこの大炎上を把握していた。どれほど気丈に振る舞おうとしても、ネット上の目を覆いたくなるような中傷コメントを目にすれば、息が詰まった。昨夜の生配信の直後は、一晩何事もなかったというのに。今夜になって突然ネットの海に浮上して、しかも一番見られたくない自分の顔まで鮮明に映っている。
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第444話

あの騒動の余波は、当然のように咲の身にも及んでいた。自宅へ戻ってきた咲の顔色には、隠しきれない疲労と苛立ちが滲んでいた。「どいつもこいつも節穴ばかり!慎さんが本当は誰を守ろうとしているのかも分からずに、いい加減な憶測で正義の味方気取りで!」咲は忌々しげに毒づいた。寧音は静かに目を閉じ、胸の内で荒れ狂う感情をどうにか押さえ込んでから、努めて冷静な声で答えた。「大丈夫よ。慎と相談するわ。状況さえ正確に伝われば、すぐに動いてくれるから」咲もその点に関しては疑っていない。だが、やはり腹の虫が収まらなかった。「温井紬は、本当にあの母親にそっくりね。表向きは何も気にしていないふりをして、裏ではしっかり策を巡らせている。あなたと慎さんがようやく、という絶好のタイミングで、わざわざ大奥様を呼びつけてこんな騒ぎを起こすなんて」「お母さん」寧音は、それ以上その名を聞きたくなかった。「もういいの。慎にも事情があったのよ。大奥様があの場に乗り込んできた以上、長谷川グループの企業イメージと信頼を守るためには、紬の存在を認めるしかなかった」あれだけ大勢の目撃者がいたのだ。完全に情報を封じることなど不可能に等しい。慎の立たされた苦境は、寧音にも痛いほど理解できた。咲も深呼吸をし、ゆっくりと思考を整理した。「社交界では、この程度の話は大事には至らないわ。しばらく噂になっても、すぐに下火になるでしょう。ただ、ネットに出回っている配信の切り抜きだけはきれいに処理して、下世話な憶測を止めさせないと」「しばらくは目立った行動を控えることね」寧音は携帯を強く握り締めながら、眉をひそめて頷いた。「分かってる」慎とは、まだ連絡がつかない。そこへ、別の着信が画面を光らせた。一颯からだ。あの騒動の最中、彼が浮かべていた呆然とした顔を思い出し、寧音は通話ボタンをタップした。要件は「会いたい」というものだった。気を紛らわせたかった寧音は、それを承諾し、別邸の近くで落ち合うことにした。「わざわざ呼び出して……何か、ありましたか?」あれほどの修羅場を経験したにもかかわらず、彼女の纏う空気に揺らぎは見られなかった。寧音の立ち姿を一目見て、一颯は少しだけ安堵する。完全に打ちのめされているわけではないらしい。ニュースを見て、彼女の状況が心
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第445話

一颯の中では、すでに答えは出ていた。寧音が不当な謗りを受けるなど間違っている。もし彼女が望むなら、自分がすべてを受け止める防波堤になろうと。最初から、彼女のことが好きだった。ただ慎という存在があったからこそ、越えてはならない一線を必死に守ってきた。だが今、あの関係が正式なものではないと分かった以上、自分が動かない理由などどこにもない。寧音は驚く様子もなかった。まるでこの手の展開に慣れているかのように、静かに凪いだ瞳で見返す。「清水社長、私に好意を寄せてくれてありがとうございます。でも……できれば、これからも良き友人でいてほしいな」それに慎は、紬のことなど少しも愛してはいない。感情の欠片も持ち合わせていない。それなのに、なぜ外野の人間は、紬があの正妻の座にいつまでも居座り続けられると思い込んでいるのか。今は、一颯に対して決定的な拒絶の言葉を突きつけるのは避けた。同じ業界に身を置く者同士、今後も顔を合わせる機会はあるし、協力し合うこともあるだろうから。一颯も、やんわりとした拒絶の意図を察知した。寧音の目は確かに高い。だが、彼女を想う感情の深さにおいて、自分は決して慎に劣ってはいない。少なくとも、「きちんとした立場」を与えることができるのだ。寧音はそれ以上、何も語らなかった。「今日はわざわざ来てくれてありがとう。人が困っている時に手を差し伸べるのは、とても勇気のいることですから。でもね、私と慎は、あなたが想像しているような関係じゃないの。純粋なお付き合いよ」それだけを言い残し、一颯がどう解釈するかなど気にする様子もなく、優雅に踵を返した。一颯の眉間に、深い皺が刻まれた。ということは、全ては紬が離婚に応じない、ということか…………一方、紬は昨夜のうちに、凛太の次回の検査予約を病院に入れていた。前夜の暴露騒動がネットニュースになっていることを知ったのは、翌日、会社へ出社してからのことだ。帰宅後は深夜まで技術方針の修正作業に没頭しており、ゴシップを気にかける余裕など微塵もなかったのだ。オフィスに足を踏み入れるなり、笑美が小走りで駆け寄ってきた。その顔は、隠しきれない笑みがこぼれていた。「天罰だよ!昨日の夜、園部を叩いてるネットの掲示板を深夜の一時頃まで読み漁ってたんだけど、もう身元が特定されて、晒されてたよ
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第446話

紬は少し面食らった。胸の奥で、失笑を禁じ得なかった。自分が寧音のために弁明をしろと?紗代も、紬の冷ややかな反応を正確に読み取っていた。それでも落ち着き払って言葉を続ける。「勘違いしないで。寧音のためじゃない、慎の体面を守るためよ。彼は、あなたの夫でしょう?多くの人間が寧音さんを非難していても、一部には慎に対して疑いの目を向ける者もいる。あなたも広報の実務経験があるのなら、この騒ぎを最小限の痛手で収拾する方法は分かるはずよ」たとえわずかな疑いであっても、彼の名誉を傷つけることに変わりはない。紗代は、愛息子である慎が影響を受けることだけは避けたかったのだ。それに、紬は長谷川夫人として、慎の側に立って考える義務があるはずだ。大局的な視点を持つことが、何故悪いのか。紬は、目の前に座る義母を静かな眼差しで見つめ返した。利益だけで動く人間の浅ましさを突きつけられた。そしてその利益を守るために要求されているのは、自分自身の犠牲だ。この女は、それがどれほど理不尽な要求であるかを知り尽くしながら平然と言っているのだ。紬はゆっくりと息を吐き出し、静かに、しかし氷のように冷たい声で告げた。「長谷川家の名声の問題も、慎の名誉に関わる問題も、引き起こしたのは私ではありません。ご本人に解決させるべきでしょう。あるいは、今後そういうことをしないよう、注意すべき相手に言い聞かせるべきです。この件の私に強いるのは、お門違いというものです」一切の装飾を削ぎ落とした言葉だった。その拒絶はあまりにも鋭角的で、問題の核心をまっすぐに突いた。以前の紬であれば、義母だからという理由で事を荒立てまいと我慢したかもしれない。だが今となっては、そんな理由が何の意味を持つというのか。反省すべきは、長谷川家の方ではないか。紗代も、まさかこれほど明確に跳ね除けられるとは思わず、言葉を失った。眉をひそめ、感情の起伏を一切見せない紬の華奢な横顔を凝視した。目の前で起きているこの変貌は、かつての従順な印象とはあまりにもかけ離れていた。紬はそれ以上何も言わず、静かに立ち上がった。礼儀だけは保った冷淡な声で言い放った。「お茶が入りましたので、どうぞ召し上がってからお帰りください」紗代の反応など気にする素振りも見せず、紬は自分のデスクへと戻っていった。
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第447話

適当に言いくるめてしまえばよかっただけではないか。あの騒動の後、紗代と紫乃の二人は美智子の居室には向かわず、玄関ホールに留まっていた。紬に関する不毛な諍いを美智子に聞かれないよう、意図的に避けたのだ。夜の七時を少し回った頃、ようやく慎が帰宅した。紗代はソファに優雅に腰を下ろしたまま、香江支社の四半期報告書に目を通していた。顔を上げて息子を一瞥し、静かに口を開いた。「食事は済ませてきたの?何か作らせましょうか」だが、紫乃は気持ちを押さえきれず、すぐに慎のそばへと走り寄ってその袖を引いた。「お兄ちゃん!あれ、どういうことなの?寧音さんが世間の笑い者にされているじゃない。広報部に手を回して、彼女の汚名を晴らすくらいできるでしょう?」「あっちに座っていなさい」慎は妹をちらりと見下ろすと、袖を引く手を振り払って冷たくあしらった。紫乃は納得いかない顔をしながらも、口を尖らせてぶつぶつと文句を続ける。「お兄ちゃんが外に向けて『離婚する』とか『すでに離婚した』って言えば済む話じゃない?どうせ紬はどうとも思わないわよ。彼女が気にしなければ、寧音さんも世間から批判されないし、一石二鳥じゃないの……」紬は兄にあれだけ尽くしてきたのだ。文句一つ言わず、いつも陰で我慢してきたではないか。今回もそうさせればいい。「紫乃、余計なことを言うものではないわ」紗代がぴたりとレポートを閉じ、眉をひそめた。子どもがこんな複雑な事情に首を突っ込んでどうする気か。紫乃はしぶしぶ口をつぐんだが、内心は焦りでいっぱいだった。もうすぐ大学受験だというのに、優秀な寧音に勉強を見てもらおうと当てにしていたのだ。こんなゴシップが重なってしまっては、それどころではなくなってしまう。慎はネクタイをゆっくりと緩めながら、漆黒の瞳を母親へと向けた。「……母さん。今日、紬のところへ行かれましたか?」紗代は慎を見返す。「何?告げ口でもされたの?」「あいつの性格を知らないはずがないでしょう」慎の声に感情の波はなかったが、眼差しの奥には静かで深い怒りが沈んでいた。わざわざ紬から泣きついてくるはずがないことなど、紗代も分かっているはずだ。紗代は、慎が自分のやり方に明確に反対しているのだと悟った。確かに。紬はこれまで、どこから見ても気が利く、礼儀正しい嫁
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第448話

寧音はアロー・フロンティアでの業務を、三日ほどリモートワークに切り替えた。世間の嵐が少し落ち着くのを待つためだ。毎日どこかで新しいスキャンダルが起きているこの世界では、時間を置けば人はすぐに忘れる。今回も、慎が目の前の厄介な問題を綺麗に片付けてくれた。ネット上の寧音を中傷する問題のある投稿はほとんどが削除処理され、彼女はようやく人心地がついた。あのような悪意ある投稿は自分を攻撃すると同時に、慎自身の名誉をも傷つけ、彼を悩ませている――寧音はそう解釈していた。どんな問題が起きても、慎はいつも最後には解決してくれる。私を傷つけるような真似を、彼が許すはずがないのだ。そのうち、世間の誰もが気づくはずだ。紬という女が、慎の目にどれほど映っていないかという真実に。自然と、誰がどちらの側に立つべきかも見えてくるだろう。木曜日。寧音は久しぶりに会社へ顔を出した。先週から予定されていた、重要な取引先との面会があったからだ。午後三時過ぎ、先方のオフィスへと到着し応接室に通された。ところが、現れた担当秘書は、慇懃無礼な微笑を貼り付けてこう言った。「園部様、誠に申し訳ありませんが、弊社の社長より、ご提出いただいた企画書には看過できない不備があるとの指摘がありまして。お互い、無駄な時間を費やすのは避けたいものです。どうか貴社にて、より『丁寧な』ご対応をいただけますようお願い申し上げます」寧音はピクリと眉をひそめた。以前なら、こんな細部で難癖をつけられることもなく、いつもスムーズに話が進んでいたはずなのに。「前回のお打ち合わせで、すでに確認いただいた内容のはずですが」寧音は沸き上がる不満をどうにか内に押し込んだ。だが、秘書は冷ややかな態度のまま動じない。「前回は前回でございます。問題があればその都度申し上げます。もし迅速にご対応いただけないようであれば、今後の取引関係につきましても、弊社として再検討させていただくことになるかもしれません」寧音はきつく唇を引き結んだ。先方が明らかに意図的な難癖をつけてきているのが分かった。それでも、プライドにかけて表情だけは崩さない。「……分かりました。持ち帰って修正させていただきます」「では、修正が完璧に整いましたら、またお越しくださいませ」怒りで表情を強張らせたまま、寧音はオフィス
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第449話

茜のその言葉に、寧音の張り詰めていた気持ちが少しだけ楽になった。「ありがとう」茜は悪戯っぽくウィンクをした。「いっそ私みたいに、先に作っちゃってから結婚するっていう手もありかもしれないわよ?」寧音は少し驚き、まだ平らな茜のお腹へ視線を落とした。茜はお腹を愛おしそうに撫でながら、何かを思い返すように笑った。「柊さんとは長い付き合いだったけど……もしこの子ができなかったら、もう少し先まで結婚の決断は引き伸ばされてたと思うわ。子どもって、男を落ち着かせるには一番いい方法よね」この子の存在がなければ、あの柊がすぐに結婚に頷いたことなどなかっただろう。そして今――紬と慎がすでに婚姻関係にあるという事実が公になったことで、茜の胸の中では何かが緩んでいた。せめて……茜は瞳の奥に計算高い光をよぎらせ、それ以上の深入りは避けた。寧音はふと、フロアの向こう側で談笑している柊の方へ視線を向けた。彼のような縛られることを嫌う男が落ち着くこと自体、誰もが不可能だと思っていた。それを可能にしたのが子どもという存在なら――確かに、一つの有効な手段かもしれない。「何を内緒話してるんですか?」ドリンクを持った陸がやってきて、寧音がグラスを見つめたまま物思いに沈んでいるのに気づいた。茜はくすっと笑う。「女の子だけの内緒話よ」寧音も顔を上げ、現実へと意識を引き戻した。「慎、何時頃に来るって?」陸は軽く肩をすくめた。「相変わらず忙しい人ですからね。でも見たところ、ネットの騒ぎもだいぶ落ち着いてきたみたいじゃないですか。そこまで気に病むことはないですよ」寧音は黙っていた。ネット上の火消しは済んだとはいえ、今日のような取引先での冷遇や軋轢は、これからも静かに続くだろう。しかし、他人の前で弱音を吐くつもりはない。どう効率よくこの逆境を覆すべきかを考える方が、彼女の性に合っていた。他人の評価など、ゆっくりと実力で変えていけばいい。慎の心の中における自分の絶対的な位置づけが、いずれ世間にも分かってもらえればいいのだ。「それに、論文の発表も近いんじゃないですか?あの笠井教授がアロー・フロンティアの技術指導に入ってくれているし、しばらくして新しい大型プロジェクトが発表されれば、今回のスキャンダルによるイメージダウンなんてすぐ
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第450話

慎はそれ以上、柊との不毛な会話を続ける気はなかった。立ち尽くす茜の姿を確認してから、ゆっくりと歩みを進め、個室の中へと入っていった。残された柊は視線を茜へと向ける。「どうして出てきたんだ?」茜は強張った顔で歩み寄り、すがるように柊の腰に腕を回した。「……何を話してたの?」柊は視線を落とすと、感情の読めない声で問い返した。「本当に知りたいか?」茜は、柊が自分に対して何も隠し立てする気がない――言い換えれば、配慮するつもりなど毛頭ないことに気づき、口元の笑みが完全に引きつって固まった。柊はそれ以上何も言うつもりはないようで、茜の背中を軽く叩いた。「タバコ、吸ってくる」茜は、腕の中からするりと抜け出した彼が、遠ざかっていく背中を見つめながら、結局一番聞きたかった問いを喉の奥へと飲み込んだ。……慎が個室に入ってくると、寧音はすぐに気づき、嬉しそうに手を振った。「慎、こっちよ」目が合うと、慎は静かに歩み寄った。傍らで寧音と話していた陸が、慎を見るなり呆れたように言った。「なかなか顔を出してくれませんでしたね。ところで、温井紬とは話はついたんですか?外で誰かと話すとき、園部さんにとって不都合になるようなことは言わないよう、釘を刺しておくくらいはできるでしょう?」関係が公になってしまった以上、多くの人間が興味本位で紬に事実確認を取ったり、探りを入れたりするのは避けられない。慎はソファに腰を下ろし、淡々と言い捨てた。「しない」寧音は慎を見つめ、申し訳なさと感謝の入り混じった色を瞳に浮かべた。「慎……ご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」突き詰めれば、あの緊迫した場で自分から「プロポーズ」という言葉を持ち出したせいで、余計に事態が大きくなってしまったのだ。「気にするな」慎の声は穏やかだった。「ここ数日、大丈夫だったか?何か困ったことはあったか?」寧音は少し迷ってから、気丈に首を振った。「大したことないわ。心配しないで」見えない障壁はいくつもあった。だが、ここで弱みを見せるつもりはない。圧倒的な実力で外野を黙らせれば、それで済む話だ。「そうか」慎はそれ以上、深くは追及しなかった。周囲がグラスの音で騒がしい中、寧音は慎のそばへ少しだけ距離を詰め、上目遣いに話しかけた。「ね
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