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第31話

桐山昭彦。海外帰りの薬学博士。明成バイオテクノロジーの創業者。静奈はまさにその会社に勤めている。彰人は冷笑した。あの女も、大したタマだ。明成バイオに入社して一月も経たないうちに、社長直々に庇わせるとは。その手腕、実に見事なものだ。研究室。静奈と研究開発チームが昼夜を分かたず改良を重ねた結果、彼らの抗がん剤は98%という驚異的な腫瘍抑制率を達成した。臨床チームから上がってきたデータも完璧で、患者の使用過程でいかなる事故も発生せず、有害事象もすべて制御可能な範囲内だった。昭彦は社内でシャンパンを開けた。「皆の尽力に感謝する。我々はがん治療の歴史を塗り替えた!すでに規制当局には実験データを提出済みだ。承認が下り次第、すぐにでも発売できる。これは我が社に計り知れない収益をもたらすだろう!」社内は興奮の渦に包まれた。抗がん剤の開発成功は彼らの会社が業界トップ企業へ躍り出ることを意味するだけでなく、無数のがん患者に治癒の希望をもたらすことをも意味していた。明成バイオが抗がん剤の開発に成功したというニュースは瞬く間に業界に広まり、大きなセンセーションを巻き起こした。多くの製薬企業が、提携を求めて接触してきた。明成バイオは設立してまだ数年の若い企業であり、医薬品の生産・販売網はまだ成熟していない。実力のある企業との提携は彼らにとっても必要不可欠だった。この期間、昭彦は押し寄せる訪問者との面会に追われ、文字通り猫の手も借りたいほどの忙しさだった。会社がまさに絶頂を迎えようとしていた、その矢先だった。突然、十数名に及ぶ患者の家族が、明成バイオの社内に雪崩れ込んできた。先頭に立つ女性が、息子の服の袖をまくり上げ、爛れた皮膚を露わにした。「この悪徳企業め!あんたたちの薬のせいで、うちの子はこんな姿にされたんだ!」他の患者の家族たちも、憤りを露わに叫んだ。「抗がん剤だと?真っ赤な嘘だ!臨床試験のデータは捏造されたものだ!」「明成バイオは患者をモルモット扱いしてるんだ!この薬を飲んだせいで、病状は好転するどころか、悪化してる!」「私たち、がん患者から金を巻き上げるためなら、どんな汚い手でも使うんだ!」報道陣も、その場に殺到していた。現場の様子を撮影し、リアルタイムで中継している。警備員が入り口で必死に制
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第32話

このような事態への対応が、いかに困難か、それは誰もが分かっていた。昭彦が今出ていけば、間違いなく集中砲火を浴びる。すべての非難の矛先が、彼一人に向けられるだろう。「構わん。僕はこの会社の責任者だ。問題が起きたのなら、責任を負うのは当然だ」昭彦が会社の入り口に差し掛かった、その時だった。報道陣が一斉に彼を取り囲んだ。「明成バイオテクノロジーの創業者、桐山昭彦氏ですね?」「御社が開発した抗がん剤が臨床試験において、患者に深刻な副作用をもたらしている件について、どのようにお考えですか?」「噂されている通り、金儲けのためなら、患者の健康など二の次だということでしょうか?」「……」あらゆる辛辣な質問が、昭彦の耳に飛び込んできた。彼は厳しい表情を浮かべながらも、冷静沈着だった。「弊社は創業以来、常に人間本位を理念とし、患者様の健康を第一に考えてまいりました。今回の抗がん剤開発においても、多くの技術的難関を突破し、正規のプロセスに厳格に従って操作しています。患者様の健康を無視するような行為は断じて存在しません。これまでの臨床試験は全てのフェーズで基準をクリアしています。データについては後ほど開示することも可能です。なぜ、突如としてこのような事態が発生したのかについては我々も現在、原因を調査中です。どうか、我々に少し時間をください。必ず、皆様にご納得いただける説明をいたします。万が一、我々に非があったと判明した場合は最後まで責任を取り、決して逃げることはありません」「嘘をつけ!責任逃れをする気だろう!」「そうだ!みんな、こんな悪徳企業、叩き潰してやれ!」患者の家族たちは完全に理性を失い、警備を突き破って社内に雪崩れ込み、手当たり次第に物を破壊し始めた。現場は阿鼻叫喚の地獄と化した。一人の男が、椅子を振り上げ、パソコンに叩きつけようとするのが見えた。あの端末には重要なデータが残っている。静奈はデータが破壊されることを恐れ、咄嗟に自身の体でパソコンを庇った。危機一髪。そこへ昭彦が飛び込み、男の手から椅子を奪い取ると、男を突き飛ばした。「大丈夫か?」静奈は首を振った。「はい、大丈夫です」昭彦は警察に通報するよう指示した。ほどなくして警察が到着し、秩序の回復に努め、興奮した一
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第33話

翌日の朝。静奈は会社へは向かわず、長谷川グループの本社ビルへと直行した。出勤ラッシュの時間帯。静奈は人混みに紛れてビルの中に入り、受付の目をごまかした。彼女は長谷川グループの社内には詳しくなかったが、社長室が最上階にあることだけは知っていた。結婚して間もない頃、何度かここを訪れたことがあった。彰人の好物ばかりを心を込めて作り、差し入れに来たのだ。だが、彼は「仕事の邪魔だ。無意味なことはするな」と冷たく自分を追い払った。自分が半日かけて作った料理はためらうことなくゴミ箱に捨てられた。その時、包丁でうっかり切ってしまった自分の指にはまだ包帯が巻かれていた。「チーン」という軽い到着音が、静奈を記憶の底から引き戻した。静奈はエレベーターを降りた。目の前にある社長室のドアを、彼女はそのまま押し開けて入った。中はがらんとしており、人影はない。ただ、一匹のオレンジ色の子猫が、ソファのカシミアブランケットを相手にじゃれついているだけだった。若い秘書が近づいてきた。「どちら様でしょうか?社長室に許可なく入ることはできません。すぐにお出ください」静奈は冷ややかな表情で答えた。「私は長谷川社長の妻、朝霧静奈よ」「社長の……奥様?」秘書は小声で呟いた。確かに、会社の先輩から聞いたことがあった。社長は既婚者で、家同士の取り決めで、やむを得ず結婚した妻がいる、と。だがこの数年間、その「奥様」はまるで存在しないかのように、一切その姿を見せなかった。彼女が突然現れなければ、社長に妻がいたことなど、忘れていたくらいだ。「では中で少々お待ちください。社長は会議が終わり次第、お戻りになります」秘書の態度は事務的だった。「あ、そこの子猫には触らないでください。朝霧沙彩様が拾ってこられた猫で、社長がとても可愛がっていらっしゃるので。万が一、病気にでもなったら、私たちが責任を取れませんから」秘書はそれだけ言うと、自分の仕事に戻っていった。静奈はわずかに呆然とした。彰人は潔癖症で、毛のある小動物を何よりも嫌っていたはずだ。それなのに、沙彩が拾ってきた野良猫を、これほどまでに可愛がり、社長室で自由に遊ばせている。どれほどの時間が経ったか、外から足音が聞こえてきた。社長室のドアが開かれ、彰人が大股で入って
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第34話

「法務部ですって?」静奈は皮肉っぽく口の端を吊り上げた。「なに、長谷川社長。弁護士を使って脅すとでも?」彰人の眼差しが険しくなり、歯を食いしばった。「この俺がお前を潰すのに、そんな汚い手段が必要だとでも思ったか?」「違うとでも?あなたが『後悔させてやる』と言ったその舌の根も乾かないうちに、明成バイオがあんな事になった。偶然にしては出来すぎているんじゃないかしら!それとも、やったくせに、認める勇気もないと?」立て続けに濡れ衣を着せ、彰人の胸の内に、得体の知れない怒りが込み上げてきた。彼はその怒りをどうにか抑え込み、言った。「お前に最後のチャンスをやろう。今すぐここから立ち去るなら、何も見なかったことにしてやる」静奈は冷笑した。「何、後ろめたいことでもあるの?それとも、これ以上証拠を掴まれるのが怖い?」彰人は突如、彼女の手首を掴んだ。骨が軋むほどの力だった。「静奈、俺の我慢を試すな」静奈は痛みに目を潤ませたが、それでも強がりに顔を上げた。「人を脅す以外に、何ができるの?」彰人の顔は怒りで黒ずみ、彼女の手首を掴む腕の筋肉が硬く強張った。白いシャツの上から、青筋が浮かび上がるのが見える。「静奈!でっち上げの中傷には代償が伴う!お前に払えるような代償じゃないぞ!」その声は低く嗄れており、濃密な危険を孕んでいた。「本気で明成バイオを潰す気なら、一週間以内に倒産させる方法など百通りはある。わざわざ、こんな回りくどく、下劣な手を使うものか」彼の指先から伝わる灼熱の温度は彼が抑え込んでいる怒りと同じ熱量だった。その瞬間、静奈はもしかしたら自分は彼を誤解しているのではないか、と一瞬だけ思った。静奈が何かを言いかけた時、カバンの中で携帯が鳴った。一触即発の空気の中で、その軽やかな着信音はひどく場違いに響いた。「出ろ」彰人は彼女の手を放し、半歩下がると、乱れたカフスを整えた。静奈が携帯を取り出すと、画面には「桐山昭彦」の文字が表示されていた。彼女は一瞬ためらったが、通話ボタンを押した。「朝霧君、今どこにいる?薬剤をすり替えた犯人が分かった。僕たちの競合相手、海星(かいせい)製薬だ。彼らも抗がん剤の研究開発に多額の資金と人員を投じていた。僕たちが一足先に成功したのを見て、僕たちの評
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第35話

静奈は本能的に後ずさろうとした。ハイヒールが、不意に何か毛むくじゃらのものに乗り上げ、彼女はバランスを崩して後ろへ倒れ込んだ。とっさに何かを掴もうと手を伸ばしたが、掴めたのは彰人のネクタイだけだった。「ニャーッ!」子猫が彼女の足元から飛びのいた。静奈は世界が反転するような感覚に襲われ、ソファの上に強く背中を打ち付けた。彰人の大きな体が、そのまま彼女の上に覆いかぶさってくる。二人の間にはもはや一筋の隙間もなかった。「離せ」彰人の低い声が、耳元で響いた。静奈は自分がまだ彼のネクタイを固く握りしめていることに気づき、慌てて手を離した。彼を突き飛ばそうとした、まさにその時。何かがおかしいことに気がついた。彰人の右手が、あろうことか、彼女の柔らかい胸の上に置かれていたのだ。二人同時に、動きが止まった。彰人は掌に伝わる異常なほどの柔らかさに、息を呑んだ。薄いシャツの生地越しに、彼女の速い鼓動さえもが伝わってくる。この不測の事態に、彼は一瞬、思考が停止した。その深い瞳に、わずかな戸惑いがよぎる。静奈は目を見開いた。「手をどけて」彰人が手を引こうとした、まさにその時。ドアが、不意に開かれた。「彰人、この前の提携の件……」陸の声が、途中で途切れた。三人が、その場で凍り付いた。陸の視線が、二人のあまりにも際どい体勢の上を滑る。その目は驚愕に染まっていた。「わ、悪い!お取り込み中だった!」彼は慌てて後ずさりした。「何も見てねえから、続けてくれ!」ドアが、バタン!と音を立てて閉まる。陸は信じられないという顔でドアの前に立ち尽くした。今、社長室にいた女、静奈か?彰人、あいつと離婚訴訟中じゃなかったか?なんで今さら、こんなとこで……静奈はありったけの力で彰人を突き飛ばし、慌てて起き上がると、乱れたシャツを整えた。突き飛ばされた彰人はわずかによろめいた。彼は嘲るように笑った。「何を今更。お前、以前はあんなに、俺に求めてきたじゃな――」その言葉に、静奈の顔からさっと血の気が引いた。彼女はシャツの襟を固く握りしめ、その指の関節が白くなった。「彰人!恥を知りなさい!」彼女の声は震えていた。彰人は乱れたネクタイをゆっくりと直しながら、皮肉な笑みを浮かべた。「何だ、違
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第36話

静奈は唇を固く噛み締め、声が漏れるのを必死に堪えた。そして、一度も振り返ることなく、その場を立ち去った。社長室の中。彰人の眼差しが暗く沈んだ。「俺はお前が思うほど卑劣じゃない。さっきのはただの事故だ」陸は肩をすくめた。「はいはい、事故って言うなら、それにしよう。でも、マジな話さ。静奈って、性格はともかく、スタイルとルックスは文句のつけようがねえよな」彰人の周りは沙彩にしろ静奈にしろ、揃いも揃って超一流の美人だ。そこらのインフルエンサーやモデル崩れとはモノが違う。彰人は窓のそばに立ち、階下で静奈がよろめきながら道端でタクシーを拾おうとしている姿を見下ろしていた。先ほど不意に触れてしまった柔らかな感触が、まだ指先に残っているかのようだ。その感触が、否応なく過去を思い出させた。静奈はいつも、おずおずと自分の機嫌を取っていた。自分が癇癪を起した時でさえ、彼女はただ目を赤くして黙って耐えるだけで、一言たりとも言い返すことはなかった。だが、今は――あいつはあんな憎悪に満ちた目で自分を睨みつけ、あまつさえ、他の男のために自分に真っ向から盾突く!胸の内に、得体の知れない不快感が渦巻いた。「パキッ」という音と共に、彰人の手の中の万年筆が折れた。インクが真っ白なカフスに飛び散り、暗い青色の染みとなって広がった。陸はその物音にぎょっとした。彼は眉を上げた。「なんだよ。昔の、お前にベタ惚れだった可愛い奥さんでも思い出して、イラついてんのか?」彰人の眼光が、途端に鋭くなった。「随分と暇だよな?」「へいへい、もう言わない」陸は口にチャックをする仕草をしたが、それでも付け加えずにはいられなかった。「でも、マジな話さ。今の彼女、昔よりよっぽどいい女だよな。昔はただのサンドバッグみたいだったけど、今は……」彼が言い終わる前に、彰人の氷のような視線が突き刺さった。「何だ。俺が離婚するのを待って、お前が横取りでもするつもりか?」「いやいやいや、まさか。そんな気は毛頭ないね」親友の女、たとえ元妻でも、手を出す勇気はない。後々、気まずくなるのはご免だった。明成バイオテクノロジー。静奈が会社に戻ると、昭彦はコアメンバー数名と会議室で打ち合わせをしている最中だった。彼女が入ってくるのを見て
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第37話

静奈は首を振った。「社長は会社に残ってください。このくらいのこと、私一人でできますから」会議が終わり、静奈は病院へ向かった。病院で、彼女は証言を承諾してくれた最初の患者家族、吉高希子(よしたか きこ)という女性に会った。希子の夫は末期の肺がん患者で、明成バイオの新薬臨床試験に参加して半月が経っていた。「朝霧先生、主人が貴社のお薬を使うようになって、本当によくなったんですよ!」希子は静奈の手を取り、その目には涙が浮かんでいた。「昨日なんて、ベッドから下りて歩けたんです。この半年で、初めてのことですよ!」静奈の胸が熱くなった。「吉高さん。今、インターネット上で、少し良くない噂が立っておりまして……」「ええ、見てますとも!」希子は憤然として言った。「あの人たち、デタラメばかり言って!私、今すぐにでも動画を撮って、本当のことを皆さんに伝えますよ!」静奈は休む間もなく、十数人の患者家族を訪ねて回った。彼女を喜ばせたことに、その半数以上が、明成バイオのために証言することを快諾してくれた。「私たちの家族はがんに蝕まれて見る影もなくなっていました。毎日、高額な治療費を払っても、ただ死に場所を変えるだけの日々でした。そんな時に、やっとこの薬が出て、生きる希望を与えてくれたんです。悪人たちの好き勝手な中傷で、この薬を潰させるわけにはいきません!」「そうです、朝霧先生。私たちにできることがあるなら、何でも協力します!」記者会見は翌日の午前十時に設定された。昭彦はほとんど一睡もせず、全ての証拠を繰り返し精査し、万全を期していた。翌日、静奈が社長室に入ると、彼が椅子の背にもたれて目を閉じている姿が見えた。目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。「先輩、少しお休みになった方が……」昭彦は目を開け、首を振った。「いや、大丈夫だ。もう一度流れを確認しておく。一点のミスも許されない」静奈は彼にホットコーヒーを差し出した。「ご安心ください。証拠は揃っています。今回は必ず、明成バイオの潔白を証明できますわ」昭彦はコーヒーを受け取り、胸が微かに温かくなるのを感じた。彼女と、こうして肩を並べて戦える。この感覚は悪くない。午前十時。明成バイオの記者会見が始まった。会場は満席で、各社の報道陣がすでにカメラを
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第38話

会場は騒然とし、ライブ配信のコメント欄は瞬く間に炎上した。【マジかよ!大逆転!?】【だよな、明成バイオの薬は効くって思ってたんだよ。急におかしくなるわけない!】【あの連中、悪質すぎる。患者の命をオモチャにしやがって!」昭彦は驚愕に目を見開く記者たちを見渡し、再びリモコンをクリックした。大画面に動画が再生された。臨床治験に参加した患者の家族たちが、自ら撮影した証言ビデオだった。【夫は明成バイオの薬を使って、腫瘍が明らかに小さくなりました!】【母が、やっと食事を摂れるようになったんです!気分もずっと良くなったみたいで!】【この薬は私たちの希望です。根も葉もない中傷で、この薬を潰させるわけにはいきません!】動画の再生が終わると、会場は静まり返った。突然、希子が立ち上がった。その声は涙で震えていたが、揺るぎないものだった。【うちの主人も、明成バイオの薬のおかげで、今ではベッドから下りて歩けるようになりました!デマを流した人たち、あなたたちに良心はないんですか!】彼女の言葉は火種となり、瞬く間に会場の空気に火をつけた。他の家族たちも次々と立ち上がり、デマを流した者たちの非道な行いを、怒りを込めて訴え始めた。記者たちはその光景を必死で記録し、ライブ配信のコメント欄は先ほどとは完全に逆転していた。【ヤバい、ご家族の話、胸が痛すぎる……】【明成バイオの薬、ガチで効くじゃん!デマ流した奴ら、逮捕されろ!】【明成バイオがんばれ!全力で支持する!】静奈は舞台袖で立ち尽くし、目頭が熱くなるのを感じた。患者やその家族たちが、これほどまでに強く、自分たちの側に立ってくれるとは思ってもみなかった。自分の信念は確か、誰かにとっての希望となっていたのだ。記者会見は大成功に終わった。世論は完全に反転した。ネット上に溢れていた誹謗中傷は謝罪と支持の声に変わり、かつて便乗して不買運動を煽っていた者たちは次々と投稿を削除した。有志のユーザーによる「明成バイオを支持」というハッシュタグまで立ち上がった。この劇的な逆転劇を見て、昭彦はようやく安堵のため息をついた。壇上から下りると、彼は静奈を力強く抱きしめた。「朝霧君、僕たちの勝ちだ!」昭彦からの突然の抱擁に、静奈は一瞬戸惑ったが、すぐにこれが勝利の喜びを
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第39話

「大奥様は若奥様がお忙しいことはご承知なのですが、ただ、ひたすらお会いしたがっておられまして。さあ、お入りください。大奥様は先ほどお薬を召し上がったところで、お気持ちも晴れておいでです」静奈が病室のドアを開けると、大奥様がベッドに背を預け、新聞を読んでいるところだった。物音に気づいた大奥様が顔を上げた。その瞳が、瞬く間に輝いた。「静奈!」「おばあさん」静奈は駆け寄り、老婦人が差し出した手を握った。「お加減は少しは良くなられましたか?ここ数日はいかがですか?」「静奈の顔を見たら、私の病気など、どこかへ飛んで行ってしまったよ」大奥様はにこやかに彼女の手を叩いた。「ずいぶん顔を見せないから、私のことなど、忘れてしまったのかと案じていたよ」「まさか、そんな」静奈は微笑みながら、バッグから小さな小箱を取り出した。「おばあさん。大好物だと仰っていた栗羊羹をお持ちしました。わざわざ、ある老舗まで買いに行ってまいりましたの。ですが、食べ過ぎはいけませんよ。二切れまで、ですからね」大奥様の目が輝いた。「やはり静奈は気が利くね。私の好物をよく分かっている。どこぞの馬鹿孫と違ってね。あの子は私を怒らせることしかしない!」彰人の名を出し、大奥様は心の中でため息をついた。これも皆、長谷川家に徳がなかったせいだ。静奈ほど素晴らしい娘が、なぜ、このまま長谷川家の嫁でいられないというのか。静奈の指先がわずかに止まったが、すぐに何事もなかったかのように話題を変えた。二人が談笑していると、突然、病室のドアが開け放たれた。静奈が振り返ると、その笑顔が瞬時に凍りついた。彰人がパリッとしたスーツ姿でドアの前に立ち、その腕には完璧な化粧を施した沙彩が絡みついていた。空気が、まるで凍てついたかのようだった。「おばあさん」彰人は淡々と挨拶をし、その視線は静奈の上を滑っていった。まるで、そこにいるのが赤の他人であるかのように。大奥様の顔色が、見る間に険しくなった。「その女を、何しに連れてきたんだね?」沙彩は彰人の腕から手を離し、甘く微笑んだ。「おばあさん。私、お体の様子を拝見しにまいりましたの。彰人さんから、最近、血圧が安定なさらないと伺いまして……」「必要ない!」大奥様が、鋭い声で彼女の
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第40話

「おばあさん、もうお怒りにならないでくださいまし」静奈は大奥様の背を優しくさすった。「お医者さんも、興奮しては駄目だと仰っていましたでしょう」大奥様は静奈の手を掴んだ。その目は赤く潤んでいる。「静奈や、私が、あなたに済まないことを……あんな時、私が無理に二人を一緒させなければ、あなたがこれほどの屈辱を受けることもなかったろうに」「おばあさん。どうかご自分を責めないでください」静奈は無理に笑みを作った。「私と彰人のご縁が、尽きただけのことですわ。それに、私はもう、吹っ切れましたから」静奈は辛抱強く大奥様をなだめ、スープを少し飲ませた。大奥様が寝入った後、静奈は抜き足差し足で病室を後にした。廊下。静奈がドアを閉めて振り返ると、沙彩が壁に寄りかかっていた。明らかに、彼女を待っていたのだ。「静奈、ちょっと話があるの」沙彩は髪をかき上げ、相も変わらず、人を見下したような表情を浮かべている。静奈は無表情で彼女を見つめた。「あなたと話すことなど何もない」静奈が歩き出そうとすると、沙彩が一歩前に出て、彼女の行く手を塞いだ。声を潜めて言う。「さっき、あなたも見たでしょ。彰人さんが、どれだけ私を庇ってくれたか。彼、おばあさんが私を受け入れないと知っていて、それでも私を連れてきたのよ」「だから、何?」「だから……物分かりが良ければ、さっさと彰人さんと離婚しなさいよ。引き延ばしたって、誰も得しないわ。特に……」沙彩は意味ありげに病室のドアを一瞥した。「おばあさんのお体に、これ以上の刺激は禁物よ。いっそ、早く現実を受け入れていただいた方が、あの方のためじゃない?」静奈は黙って彼女を見つめていたが、ふいに笑った。「そんなに『若奥様』の地位が欲しい?残念ね。私が一日彰人と離婚しないでいれば、あなたは永遠に、ただの厚顔無恥な愛人よ」沙彩の顔色が、瞬時に青黒くなった。「あんた……!」「そうだわ」静奈は一歩下がり、優雅に微笑んだ。「今度おばあさんにお会いする時は香水を変えてきたら?ご年配の方はああいうキツい匂いが一番お嫌いよ」そう言い残し、彼女はエレベーターへと向かった。沙彩はその場に立ち尽くしたまま、怒りでわなわなと震えていた。今回は彰人さんが庇ってくれるから、おばあさんも少しは手
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