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All Chapters of 妻の血、愛人の祝宴: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

写真には彰人の手が彼女の腹部に当てられている様子が写っていた。彼が伏せたその目元は暖かい光の下で、格別優しげに見える。静奈がナイトウェアに着替え、ベッドに入ろうとした、まさにその時だった。携帯が一度震えた。画面を開くと、そこには一枚の、見る者に二人の親密さを伝えるような写真が表示されていた。静奈の指が瞬時に空中で止まった。結婚して四年、あれほど尽くしても心を動かせなかった男が、沙彩にはこれほどまでに優しいのだ。すぐに二通目のメッセージがポップアップした。【ごめん、送る相手間違えちゃった〜】語尾の波線が、見え透いた嘘を物語っていた。静奈は深く息を吸い、携帯を置いた。視線がベッドサイドの軟膏に落ちる。彼女はためらうことなく、それをゴミ箱に投げ捨てた。これまで散々傷つけられてきたのだ。たまに差し出される優しさなど、偽善的で、吐き気を催させるだけだった。静奈はベッドサイドのランプを消し、布団の中に潜り込んだ。翌朝。静奈と昭彦がエレベーターホールで待っていた。チーンという音と共にドアが開くと、中には、彰人、沙彩、そして陸が立っていた。空気が瞬時に凍りついた。昭彦がそっと静奈の袖を引いた。「次のに乗ろう」沙彩は彰人の腕に絡みつき、意地の悪い笑みを浮かべた。「乗らないなら、先に行くわよ」静奈はバッグのストラップを固く握りしめ、エレベーターへと足を踏み入れた。やましいことなど何もないのに、なぜ自分が避けなければならないのか。昭彦もその様子を見て、すぐに彼女の後に続いた。閉鎖された空間。五人の距離は近い。静奈は彰人から香る、嗅ぎ慣れたシダーウッドの匂いを感じた。「彰人さん」沙彩が不意に口を開いた。「昨日は、夜遅くまで看病してくれてありがとう。おかげで、今日はすっかり良くなったわ」彰人は短く答えた。「ああ」静奈はエレベーターの階数表示を、無表情で見つめていた。昭彦がさりげなく彼女のそばに寄り、彼女を守るかのような立ち位置を取った。隅に立つ陸の視線が、四人の間を行ったり来たりする。どうにも、自分だけが場違いな部外者のように感じられた。ホテルのロビー。支配人が通りかかると、清掃ワゴンのゴミ箱に、新品の火傷薬が捨てられているのが目に入った。彼は眉をひそめ、それを拾い
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第52話

彰人の顎のラインが硬く強張、その眼差しには険しい光が宿っていた。「黙れ。いちいちうるさいぞ」午前の陽光が砂浜に降り注ぐ。同僚たちは、熱気に溢れた様子でビーチバレーの試合を始めていた。静奈は手首を負傷していたため、ホテルで休むことにした。昭彦は会社の責任者として、皆に担ぎ出されるようにしてコートへ向かった。彼は去り際に振り返り、念を押した。「朝霧君、何かあったら、いつでも僕に連絡してくれ」ホテルのカフェラウンジ。静奈は一人、窓際の席に座り、目の前のアイスコーヒーには手を付けず、外の海の景色をぼんやりと眺めていた。その時、長身の人影がドアを押して入ってきた。湊が電話をしながらバーカウンターへと向かう。受話器の向こうから、陸のからかうような声が聞こえる。「おい、湊。まだ着かねえのかよ。まさか、すっぽかす気じゃねえだろうな?」「あと五分だ。すぐ着く」湊の目の下には、うっすらと隈が浮かび、疲労の色が見て取れた。彼は昨夜、徹夜で仕事を片付け、今朝一番で、休む間もなくこちらへ向かっていたのだ。「お客様、ご注文は?」「アイスコーヒーを一つ。テイクアウトで」湊がスタッフからコーヒーを受け取り、踵を返そうとした。ちょうどその時、静奈が席を立ち、洗面所へ向かおうとした。二人が振り向いた。その瞬間、互いに、避けきれずにぶつかった。冷たいコーヒーが、彼の高価なスーツに余すところなくぶちまけられた。コーヒー液が、上質な生地に、見る間に染み込んでいく。湊はわずかに眉をひそめた。命綱のコーヒーを、一口も飲むことなく、全てスーツに飲ませてしまった。「ご、ごめんなさい!」静奈は慌ててティッシュを掴み、彼のスーツを拭おうとした。彼女が顔を近づけた時、湊は目の前の女性に見覚えがあることに気がついた。その肌は陽の光にかざすと透き通るように白く、狼狽したように微かに震える睫毛は、羽ばたこうとする蝶のようだった。静奈?なぜ彼女がここに?彰人は彼女と離婚すると言っていなかったか?なぜ、彼女まで、このリゾートに連れてきている?湊が状況を飲み込めずにいると、静奈が顔を上げた。「あの、ジャケットをお脱ぎください。私の方で、クリーニングの手配を……」彼女は、相手の顔をはっきりと認めた
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第53話

「湊、何をそんなに熱心に見てるんだ?」陸の声が不意に背後から聞こえた。湊が振り返ると、彰人たちがエレベーターから降りてきたところだった。「何でもない」湊は視線を外した。「さて、全員揃ったことだし、モーターボートでレースでもしないか?」陸が皆を見回し、面白そうに提案した。「負けた奴が、勝った奴の名前で、慈善団体に二千万円寄付するってことで」彰人は気のない返事をした。「いいだろう」湊は、スタッフが新しく持ってきたコーヒーを受け取った。「俺も構わん」沙彩の目が輝いたが、すぐさま、ためらうような表情を見せた。「私もやりたいわ。でも、あまり上手じゃなくて……」「俺が乗せてやる」彰人が言った。沙彩の胸が、喜びに弾んだ。「本当に?」陸が口笛を吹いた。「彰人は、俺たち三人の中で一番最初に免許を取ったんだ。腕はピカイチさ。沙彩さんを乗せたところで、負けはしないだろうよ」湊は一瞬ためらったが、口を開いた。「彰人、さっき、お前の奥さんを見かけた気がするが。彼女も誘うか?」「あいつは、彰人が連れてきたわけじゃねえよ」陸が、面白がるような口調で言った。「明成バイオの社員旅行で来てるんだとさ」湊の表情が、わずかに止まった。「彼女、明成バイオで働いているのか?」「そういうこった」陸は、意味ありげに彰人を見た。「入社するなり、そこの社長といい感じになってるらしいぜ。そりゃもう、親密にな」湊の視線が微かに動いたが、その話には乗らなかった。明成バイオ。まさしく、自分が来週、提携の交渉に向かう予定の会社だった。彼らが新しく開発したという抗がん剤。その独占契約を狙っていた。彰人は突然タバコの火を揉み消すと、ビーチの方へ向かって歩き出した。「レースはやるのか、やらないのか」「やる、やる!当たり前だろ!一行は彼の後を追った。三つのモーターボートが、海面で一列に並んだ。彰人、湊、陸がそれぞれ乗り込み、準備を整える。「正面の小島を一周して、一番早く戻った奴が勝ちだ!」ホイッスルの音が鳴り響く。三艘のボートが、矢のように海面を滑り出した。「しっかり掴まってろ」彰人の低い声が潮風にかき消された。沙彩は、恐る恐る彼の腰に腕を回し、その広い背中に頬を寄
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第54話

彰人は陸が指差す方へ目をやり、顔を険しくさせた。「彰人さん?」沙彩は、ここぞとばかりに彼の腕にきつく絡みついた。「私、少しお腹が空いちゃった。何か食べに行かない?」彰人は視線を戻し、沙彩の顔を見た。「ああ。何が食べたい?」「なんでもいいわ。彰人さんにお任せする」彰人は沙彩を連れ、バーベキューエリアへと向かった。夜の帳が下り始めた。潮の香りを孕んだ海風が、砂浜を撫でていく。「ドン」という轟音と共に、色鮮やかな花火が夜空に咲いた。静奈が部屋に戻って休もうとした時、同僚の小林桜(こばやし さくら)が彼女の手首を掴んだ。「朝霧さん!早く!花火!聞いた?あれ、長谷川社長が、彼女さんのために特別に用意した花火ショーなんですって。私たち、ラッキーよね!行きましょう、一緒に見ましょうよ!」静奈の表情が止まった。「いえ、皆さんで行ってきて。私は、少し疲れたから」「えー、せっかくの社員旅行なのに……」桜は有無を言わさず彼女の手を引いて歩き出した。「今回の花火、三十分も上がるんですって。すごく綺麗らしいですよ!」静奈はなすがままに砂浜へと連れて行かれた。壮麗な花火は、多くの観光客の足を止めていた。一輪の花火が咲き誇るその瞬間、少し離れた場所に立つ、彰人のすっとした横顔と、その隣で幸せそうに微笑む沙彩の顔が見えた。「本当にロマンチック……」桜が、うっとりと呟いた。「あの花火、全部特注品で、一発、何十万円もするらしいですよ」静奈は喉が締め付けられるようだった。本妻である自分が、夫が愛人のために打ち上げる花火を、ここで見せつけられている。これ以上の皮肉があるだろうか。「私、ちょっとお手洗いへ」桜は彼女の顔色が悪いのに気づき、心配そうに尋ねた。「朝霧さん、具合でも悪いんですか?」「ええ、少し熱中症気味かもしれません。皆さんは続けて見て。私は大丈夫ですから」静奈は早足で砂浜を離れた。背後で、歓声と花火の炸裂音が混じり合っている。その音は、彼女の耳には、ひどく突き刺さるように聞こえた。夜の十時過ぎ。静奈は、クリーニングを終えたスーツを手に、湊の部屋の前に立っていた。彰人の友人たちとはこれ以上、一切の関わりを持ちたくなかった。スーツをドアノブに掛けると、彼女は
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第55話

沙彩は痛いところを突かれた。「あなたねえ!」「黙りなさい!」静奈は冷たく遮り、はっきりと告げた。「昔の時代なら、あなたは側室にさえなれない身分よ。正室に朝の挨拶をし、跪くのが当然。私はただ、長谷川家の家風を正し、道理をわきまえない人間を躾けただけよ!」沙彩は怒りで全身をわなわなと震わせた。「あ、あなた!覚えてなさいよ!今すぐ彰人さんのところへ行って、あなたをきつく叱ってもらうから!」「どうぞ、ご勝手に」静奈は全く意に介さなかった。ここまでこじれた今、彰人が自分に難癖をつけてくることなど、恐れるに足らない。静奈は沙彩を一瞥だにせず、踵を返してエレベーターへと向かった。この一撃で、昨日の火傷の借りは返したつもりだった。沙彩は怒りに任せて彰人に言いつけに行こうとした。だが、彼の部屋のドアをノックしようとした瞬間、その手を止めた。だめ。彰人に静奈に殴られたなんて知られたら、自分が無能だと思われるだけ。それどころか、彰人には自分が大袈裟に騒いでいるように映るかもしれない。彼女は深く息を吸うと、自室へと戻った。その瞳の奥に、陰険な光が宿っていた。静奈、覚えてなさい。この借りは、必ず、きっちり返してあげるから!その時。湊の部屋のドアは、半開きになっていた。彼はドアに寄りかかり、その長い指はドアノブにかかったまま、なぜか部屋を開けずにいた。彼は聞いていた。あの乾いた平手打ちの音も、静奈の氷のように冷たく鋭い反撃も、そして、沙彩の甲高い脅し文句も。廊下が再び静寂を取り戻すまで待ってから、彼はゆっくりとドアを開けた。視線がドアノブに掛けられたスーツに落ちる。非の打ち所がないほど完璧にプレスされ、袖口の折り目までが、何事もなかったかのように整っていた。湊は、ふっと笑いを漏らし、そのスーツを手に取った。「面白い」かつて彰人の背後に立ち、従順で、物静かで、まるで置物のように美しくはあっても、生気のかけらも感じさせなかった、あの女。今は、その全く別の顔を露わにした。あの平手打ちは、実に見事なまでに鮮やかで、沙彩を罵倒する言葉は全部急所を突いていた。翌朝。静奈は、同僚たちと共にホテルのロビーでチェックアウトの手続きをしていた。彰人たちも、エレベーターで降りてきた。沙
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第56話

湊は答えなかった。指先でハンドルを軽く叩きながら、その視線は、どこかぼんやりとバックミラーに向けられていた。静奈が彼の車に向かって歩いてくる。彼女は今日、シンプルな白いシャツと淡い色のジーンズを身につけていた。潮風が、彼女の髪をふわりと巻き上げる。陽の光の下、彼女は清潔感がありながらも、どこか人を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。湊の口元が気づかぬほど微かに上がった。彼は何食わぬ顔で、車のロックを解除した。彼女が乗り込んでくるのを、彼は意外にも少し期待していた。しかし、静奈が車のドアノブに手をかけようとした、まさにその瞬間。彰人の車が、突如として割り込み、静奈のすぐ横に、すれすれで停車した。「沙彩、湊の車に乗れ」沙彩は、信じられないというように目を見開いた。「どうして?」「おばあさんが退院された。あいつに会うと仰せだ」沙彩は心が乱れたが、相手は大奥様だ。逆らうことはできず、歯を食いしばって車を降りた。去り際に、彼女は憎々しげに静奈を睨みつけた。静奈は終始無表情だった。彰人の車を回り込み、後部座席のドアを開けて乗り込んだ。彼女は一言も発さず、窓に寄りかかり、目を閉じて寝たふりを始めた。彰人はバックミラー越しに、冷ややかに彼女を一瞥した。その人を拒絶するような態度に、わけのわからない怒りが込み上げてきた。「俺はお前の運転手だと思うか?」その低い声には、あからさまな不快感が滲んでいた。静奈はゆっくりと目を開け、平坦な口調で答えた。「助手席は香水の匂いがキツすぎるの。私、苦手だから」彼女は、一拍置いて付け加えた。「もし、運転手役がお嫌なら、今ここで降ろしてくださっても構わないわ」彰人は言葉に詰まり、ハンドルを握る手に、ぐっと力が入った。これまでの人生で、これほどあからさまに拒絶されたことはなかった。よりによって、相手は自分が常に見下してきた静奈なのだ。最終的に、彼は歯の間から、一言だけを絞り出した。「……出すぞ」車は静かにホテルを滑り出し、車内は死んだような沈黙に包まれた。静奈は本当に眠かった。今朝は、早くから波の音で起こされていたのだ。瞼がどんどん重くなっていく。彼女は楽な姿勢を探すと、ほどなくして、本当に眠りに落ちた。彰人はバックミラー越しに
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第57話

木漏れ日が、二人の上に降り注いでいた。その光景はまるで絵画のように温かい。彰人はふと足を止めた。その光景がなぜかひどく目に刺さるように感じた。昼食が終わると、大奥様は疲れが出たのか、明子に付き添われて自室へと戻った。リビングには、彰人と静奈だけが残された。静奈はさっきまでの笑みを消し、平坦な口調に戻った。「おばあさんもご退院されたし、お体も大事には至っていない。離婚の手続きを、進めていただけるのでは?」彰人は、手元の玉細工を弄んでいたが、その指がぴたりと止まった。彼は顔を上げ、静奈を見た。「何だ、そんなに急ぐのか?さっさと離婚して、例の『先輩』のために席を空けたい、とでも?」その瞳には、隠そうともしない侮蔑の色が浮かんでいた。静奈は眉をひそめ、その声が、わずかに冷たくなった。「私と桐山先輩とは、何もない、純潔な関係よ」彼女は彼を見つめ、はっきりと言った。「それよりも、あなたの沙彩。あの方こそ、一刻も早く『長谷川夫人』の席に座りたくて、待ち焦がれているのでは?」彰人は、その感情の読めない静奈の顔を見ていると、またしてもあの苛立ちが込み上げ、口調が鋭くなった。「お前の言う通りだ。その席は、確かに、沙彩に譲るべきものだ」静奈はその言葉に灼かれたかのように、指先をわずかに丸めた。だが、彼女はすぐに平静さを取り戻し、口の端を吊り上げ、まるで吹っ切れたかのような笑みさえ浮かべた。「ええ、結構よ。異論はないわ」そう言うと、彼女は踵を返し、一切の未練も見せずに立ち去った。彰人はその真っ直ぐに伸びた背中が、階段の角に消えていくのを見送った。あまりにも「従順な態度」はどんな激しい反論よりも、彼の胸を詰まらせた。あれほどあっさりと離婚に同意するのを聞けば、安堵するはずだった。それがずっと、自分の目的だったのだから。それなのに、今、胸の奥底から込み上げてくる苛立ちは、まるで潮のように、どうやっても抑え込むことができなかった。あいつは、もう……少しも、未練がないというのか?それとも、あの桐山と結ばれるために、この日を待ち望んでいたとでもいうのか?彰人は苛立たしげにネクタイを引き緩めると、書斎に閉じこもり、一晩中出てこなかった。翌朝。彰人は重いオーラを纏って出社した。オフィスに入
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第58話

彰人の顔が険しくなった。彼は常々、迅速に行動することを信条としており、このように足枷をはめられる感覚を何よりも嫌った。「解決までに、どれくらいかかる」「控えめに見積もっても、最低三ヶ月です」英則は溜息をつき、重々しい口調で続けた。「向こうは明らかに準備周到です。この時期に提訴してきたのも、こちらの不意を突くのが目的でしょう」彰人は書類をデスクに叩きつけた。三ヶ月?それは、自分と静奈の、とっくに形骸化した婚姻関係が、さらに最低三ヶ月は続くことを意味していた。そして、あれほど離婚したそうにしていたあの女は、この報せを聞いて、一体どんな反応をするだろうか。昨夜、静奈が一切のためらいも見せずに立ち去った後ろ姿を思い出し、彰人の胸の内の苛立ちが、再び込み上げてきた。「背後で糸を引いている人間を洗い出せ」彼は冷たく命じた。「それと、静奈に伝えろ。離婚は一時保留だ」「かしこまりました」英則はそれ以上何も言えず、静かに退室した。社長室に一人残された彰人は、椅子の背にもたれかかり、目を閉じた。だが、脳裏に制御しようもなく、静奈の顔が浮かんでくる……このままならない感覚が、彼をいらつかせた。英則が彰人の指示通りに静奈に連絡を入れると、受話器の向こうの声は、驚くほど平坦で、何の感情も揺らいでいなかった。「朝霧様。長谷川社長との離婚の件ですが、恐れながら、しばらくの間、見合わせる必要が生じました」静奈は、実験データを整理している最中だった。その言葉に、ペン先がわずかに止まっただけだった。彼女はすぐに淡々と答えた。「私の代理人弁護士がおりますので、そちらへご連絡いただけますか。具体的な事案につきましては、彼を通してお願いいたします」そう言うと、英則が何かを言い足す前に、一方的に電話を切った。彼女は携帯を引き出しに仕舞うと、再びパソコンの画面に映し出された無数の数式とグラフに、視線を戻した。翌日。湊が、提携交渉のために明成バイオを訪れた。明成バイオが開発した抗がん剤は臨床試験で画期的な成果を上げており、多くの大手企業が、その利益にあやかろうと躍起になっていた。神崎グループ傘下の医療部門も、例外ではなかった。会議室。昭彦が明成バイオの責任者として、湊と交渉に当たっていた。当初、神崎グループ
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第59話

湊は眉を上げた。彼女がどんな理屈を並べるのか、聞いてやろうじゃないか。静奈は、理路整然と話し始めた。言葉に迷いはなかった。「明成バイオが提携相手を選ぶ基準は、常に三点のみ。第一に、双方の戦略目標が一致しているか。神崎グループは、近頃は美容医療分野に重点を置かれているが、それは我々のがん治療薬に関する長期的な普及計画とは合致しない。第二に、提携の形態が対等であるか。神崎グループが要求されている独占販売権は、将来的な薬剤の応用範囲を著しく制限する。それは、私どもの研究開発の理念に反する。第三に、技術的な機密保持体制が万全であるか。御社は昨年、研究データの漏洩事件を起こしている。現時点でのリスク管理評価は、私どもの提携基準を満たしていない。加えて」静奈は続けた。「神崎グループからご提示いただいた条件は、業界の平均水準よりも15%も低いにも関わらず、より高いマージンを要求するものでね。このような不平等な条件は、確かな実力を持つ企業であれば、どこも受け入れないでしょう」その言葉は、ロジックが緻密で、的確に核心を突き、すべてがプロジェクトそのものに基づいた専門的な分析だった。私情が入り込む隙など、どこにもなかった。湊はそれを聞き終え、完全に呆然としていた。彼は、感情論を交えた反論が返ってくるものとばかり思っていた。だが、彼女が突きつけてきたのは、ことごとくが論理的根拠に基づいたビジネス分析であり、そのどれもが痛いところを突いていた。彼は口を開きかけたが、反論の言葉が何一つ見つからなかった。ただ、愕然とした表情で、静奈を見つめることしかできなかった。まさにその時、昭彦がオフィスビルから出てきて、その光景を目にした。彼は静奈のそばに歩み寄ると、まだ衝撃から覚めやらぬ湊に向き直った。その口調には、彼女を庇響きと、当然だと言わんばかりの誇りが滲んでいた。「神崎社長。どうやら、まだ朝霧君のことを、ご存じないようですね。彼女が、明成バイオでただ籍を置いているだけの研究員だと?それどころか、僕のコネで会社にいる、ただの飾りだとでも?」昭彦はふっと笑い、真剣な口調で続けた。「彼女こそ、僕たちの会社の、まさに中核を成す人物です。二十歳にもなる前に、難病の特効薬を開発し、何万人もの命を救ったのです。今回のがん治
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第60話

彰人の印象では、静奈は顔つきが整っているというだけで、他に何の取り柄もないはずだった。湊は数秒黙り込み、ゆっくりと口を開いた。「今日、明成バイオに提携の話をしに行ったんだが、断られた。理由は、明成バイオのコア研究員が、神崎グループは提携基準に満たないと判断したからだそうだ」「それで?」彰人は椅子の背にもたれかかり、指先で肘掛けを軽く叩いた。「それが、静奈と何の関係がある」「そのコア研究員というのが、朝霧だ」湊は、はっきりと言った。「桐山が言ったんだ。明成バイオが開発した、あの業界を震撼させた抗がん剤に、朝霧が極めて重要な役割を果たした、と」その言葉が終わらないうちに、社長室のドアが開けられた。沙彩がスープジャーを手に、甘い笑みを浮かべて入ってきた。「彰人さん、残業なさってると聞いて、夜食を持っていたわ」彼女はスープジャーをデスクに置くと、振り返りざま、足元で丸くなっていた子猫を抱き上げた。しばらく会っていなかったせいか、子猫は沙彩に懐こうとせず、彼女の腕の中でジタバタと暴れた。その爪先が、不意に彼女の手腕を引っ掻き、瞬く間に一本の赤い筋が浮かび上がった。「きゃっ」沙彩は小さく叫んだ。その声には、わざとらしいほどの哀れさが含まれていた。彼女は傷口に目を落とし、眉をひそめる。「私、この子のお世話を疎かにしすぎていたかしら。私のこと、忘れちゃったみたい」彰人は、血が滲むその傷口に視線を落とした。「何を不注意な」彼は立ち上がりながら、電話に向かって言葉を濁した。「こっちで、少し用事ができた。先に切るぞ」湊が何かを言いかけたが、彰人はすでに電話を切っていた。ツーツーという無機質な音が、唐突に響いた。受話器から聞こえる音に、湊は仕方なさそうに口の端を吊り上げた。彰人に教えてやろうと思っていたのだ。彼が心底から見下しているあの妻が、実は、医学界に隠れた大物なのだと。だが、どうやら、今はその時ではなかったらしい。まあいい。いくつかの真実は、他人の口から聞かされるよりも、自分自身で目の当たりにする方がよほど衝撃的なものだ。社長室。彰人はすでに車のキーを手に取り、沙彩を病院へ連れて行って傷の手当てをさせようとしていた。湊からの途切れた電話のことなど、彼の頭からはとっく
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