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All Chapters of 妻の血、愛人の祝宴: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

今回、静奈は自ら押し入れから予備の布団と枕を取り出し、ソファへと運んだ。彰人が部屋に戻ると、静奈がすでにソファで寝入っているのが目に入った。手のひらほどの小さな顔が、柔らかい枕に埋もれている。布団は、体のラインが分からないほど、きっちりと掛けられていた。彰人はわずかに面食らった。これまでは、自分がどれほど遅く帰ろうと、彼女はベッドで彼を待っていた。今日のように、自ら距離を置くのは初めてのことだった。ふと、陸が送りつけてきたあの写真を思い出す。他の男ができたから、急に自分と距離を取り始めたというわけか?静奈は、シャワーの音で目を覚ました。ぼんやりと目を開けると、彰人がゆったりとしたバスローブを羽織って、バスルームから出てくるのが見えた。帯は無造作に腰で結ばれ、鍛えられた胸筋と腹筋が覗き、妙な色気を放っている。静奈は視線を逸らし、寝返りを打ってもう一度眠ろうとした。頭上から、低く冷たい声が降ってきた。「お前に最後のチャンスをやろう。四年間、俺に『仕えた』免じて、法外な望みでなければ、何でもくれてやる」彰人の言葉が、静奈の胸を突き刺した。彼が言う『仕えた』とは、夜の相手をしたことか。彼は自分を何だと思っているのか。この四年間は、金で清算できるものだというのか。「何も要らないわ」静奈の声は低かったが、迷いはなかった。静奈の「物分かりの悪さ」に、彰人は苛立ちを覚えた。四年前、彼は彼女を抱いた。あの夜の薬が彼女の策略だったかはともかく、翌朝のシーツに広がっていた血は嘘ではなかった。あれは、彼女の初めてだったのだ。結婚生活の間、操られたことへの不満から、寝室では彼女を酷く扱った自覚がある。そのすべてを、金で清算してやろうと思ったのだ。だが、彼女の拒絶は、逆に彼の中に奇妙な負い目を生じさせた。彰人は冷たく言い放った。「これが最後のチャンスだ。よく考えろ。後になって後悔しても、もう遅いぞ」「後悔しない」静奈の答えは、ただそれだけだった。その淡々とした、それでいて確固とした態度は、まるで暖簾に腕押しのような、手応えのない無力感を彼に与えた。「明日の朝九時、市役所だ。絶対に遅れるな。それから、一つ忠告しておく。俺たちが離婚届を出すその瞬間まで、お前は俺の妻だ。二
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第12話

大奥様は、静奈に車を差し向けた。「若奥様、どちらまで?」静奈は運転手に彰人と離婚することを知られたくなかった。彼女は市役所から七、八百メートルほど離れた、適当な場所を告げた。車を降りると、静奈は市役所に向かって歩き出した。昨夜、雨に濡れたせいだろうか、視界が暗くなり、頭もくらくらする。この機会を逃すわけにはいかないと、彼女は無意識に手のひらに爪を立て、必死に耐えていた。市役所。彰人は、苛立った様子で腕時計に目を落とした。九時まで、あと一分。だというのに、あの女は姿さえ見せない。陸と湊は彰人が離婚すると聞いて、野次馬根性で駆けつけていた。彼らは路肩に停めたスポーツカーの中から、こっそりと市役所の様子を窺っていた。陸が不可解といった表情で口を開いた。「今回の離婚、朝霧から言い出したんだってな。珍しい。どういう心境の変化だよ?まさか、マジで外に男ができたとか?」湊は手元の雑誌をめくりながら答えた。「どうせ、ただの駆け引きだろ」陸も頷き、同意した。「俺もそう思う。あの女が『長谷川夫人』の座を手放すわけない。彰人と沙彩さんが親密にしてるのを見て、自分の存在をアピールしたくなったんだろ。わざと離婚を切り出して、彰人に引き留めてほしかったんだ。残念だったな、その駆け引きは裏目に出たわけだ」湊が時計に目をやる。九時五分。彼の口元には、陸と同じ考えを反映した、冷ややかな笑みが浮かんでいた。あの女も、身の程知らずが過ぎる。綺麗な顔だけで彰人を手玉に取れるとでも思ったのか。彰人が、どれほど彼女との離婚を望んでいるかも知らずに。「見てろよ。あいつは、どうせ来ない」その頃。静奈は、市役所まであと二百メートルの地点にいた。日差しが降り注ぐ陽気だというのに、彼女は悪寒を繰り返し感じていた。背中は冷や汗でぐっしょりと濡れ、目の前の景色が歪み始める。横断歩道を渡ろうとした時、彼女はついに体を支えきれなくなり、よろめいて地面に倒れ込んだ。キキーッ!甲高いブレーキ音が、耳元で鳴り響いた。霞む視界の中、誰かが車から降りて、自分に近づいてくるのが見えた。「大丈夫か?」携帯の画面には、彰人からの着信が表示されていた。市役所。彰人は唇を固く引き結び、その表情は険しい。すでに
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第13話

静奈だ、間違いない!彼女は固く目を閉じ、顔は真っ白で、額には玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。昭彦が彼女の額に触れると、火傷しそうなほどの熱さだった。高熱だ!昭彦はためらうことなく彼女を横抱きにし、車に乗せて病院へと急いだ。受付、採血、点滴……彼女の容態がひとまず落ち着いたことを確認し、昭彦はようやく安堵のため息をついた。取引先から電話がかかってきた。「桐山社長、遅刻ですよ」「申し訳ありません。どうしても手が離せない急用でして。もし可能でしたら、日を改めて、必ずや埋め合わせをさせていただきます」市役所。彰人は立ち上がり、大股で出口へと向かった。革靴が大理石の床を叩く音は、彼の怒りを表しているかのようだった。三十分!自分をこれほど長く待たせた人間など、これまで一人もいなかった!もううんざりだ。彼女の口先だけの言葉も、裏表のある態度も!彰人が市役所から出てくるのを見て、陸はとっさに車の窓を閉め、気づかれないようにした。「彰人、めちゃくちゃ不機嫌そうだな。俺たちは触らぬ神に祟りなし、だ」本来なら、離婚が成立したら、独身に戻った彼を盛大に祝ってやろうと思っていた。どうやら、その望みは絶たれたようだ。この結果は、湊にとって完全に想定内だった。あの静奈という女は、そう簡単に離婚に応じるはずがない。ましてや、財産も何も要らず、身一つで出て行くだと?そんなうまい話があるものか。市役所を出た彰人は、そのまま長谷川グループへと向かった。彼の端正な顔は恐ろしいほどに曇っており、社員は皆、とばっちりを受けまいと息を潜めていた。会社全体が、低気圧に包まれていた。それから間もなく、沙彩がケーキの箱を手にやってきた。「彰人さん、オフィスにいる?」秘書は彼女の顔を見るや、慌てて愛想笑いを浮かべた。「はい、いらっしゃいます。沙彩様、こちらへどうぞ」沙彩と彰人の関係は、社内では周知の事実だった。沙彩さえいれば、あの時限爆弾のような社長を鎮めてくれるかもしれない。沙彩はオフィスに入り、彰人の顔色が優れないことに気づいた。彼女は陸から、今日、彰人と静奈が離婚届を出すと聞いていた。本来なら、それを祝うために、大喜びでケーキを買ってきたのだ。だが、この様子では……おそ
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第14話

湊は、わずかに眉をひそめた。なぜ彼女がここに?ちょうど看護師が点滴を交換し終えて、病室から出てきた。湊は看護師を呼び止めた。「あの人、いつからここに?」「お知り合いですか?一時間ほど前に運ばれてきたんですよ。なんでも、市役所の近辺で倒れていたのを、親切な方がここまで。四十度近い高熱だったのに、外をうろついていたみたいで。近頃の若い方は、本当にご自分の体を大事になさいませんね」看護師はそれだけ言うと、立ち去った。湊は、少し呆然としていた。彼女が市役所に現れなかったのは、離婚したくなかったからではなく、高熱で倒れて来られなかったから?まさか……自分たちは、彼女を誤解していたのか?湊はとっさに携帯で写真を一枚撮り、これを彰人に送るべきか迷った。まさにその時、209号室の家族が出てきた。「おや、湊君じゃないか。さあ、お入り」湊は持っていた花と果物のバスケットを手渡した。「叔父さんが入院されたと伺いましたので、お見舞いに」湊は病室で年長者としばらく談笑するうち、写真のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。その頃。昭彦は廊下で電話をかけ、会社の業務指示を出していた。彼はそのついでに人事部にも連絡を入れ、静奈の休暇を二日間申請した。人事部は、朝霧さんと社長はどういう関係なのだ、なぜ社長自らが彼女の休暇を?と奇妙に思ったが、上司の私生活に口を挟むわけにもいかず、指示通りに処理するしかなかった。電話を切ると、昭彦は病室へと戻った。昼近くなって、ようやく静奈は意識を取り戻した。目を開けると、視界は一面の白だった。「目が覚めた?まだどこか辛いところはあるかい?」優しく、穏やかな声が響いた。静奈が顔を上げると、そこにいたのは昭彦だった。「社長……」静奈が身を起こそうともがくと、昭彦が優しくそれを制した。「腕に点滴が繋がっている。まだ起き上がらない方がいい」静奈は状況が飲み込めなかった。「私、どうしてここに……?」「今朝、君が僕の車の前で倒れたんだ。一瞬、当たり屋かと思って肝を冷やしたよ」昭彦は努めて軽い口調でそう言った。意識のない人間が彼女だと気づいた時、彼がどれほど緊張したか、誰にも分かるまい。静奈は必死に記憶を辿り、ぼんやりと思い出した。あの時、車から降り
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第15話

子猫が彰人の袖口にじゃれついて噛んでいた。苛立っていた彼は、思わず子猫の首根っこを掴んで持ち上げた。そばにいた沙彩が慌てて子猫を受け取る。「彰人さん、優しくして!」媚びるような、甘えた女の声が受話器を通して静奈の耳に届いた。静奈は凍りつき、言葉が途切れる。沙彩だ。まだ日中だというのに、あの二人はそんなことを我慢できないというの?彰人と沙彩が一緒にいることには、もう冷静でいられると思っていた。しかし、二人が睦み合っているかのような声を聞いてしまうと、やはり心臓が鋭く痛み、爪が手のひらに食い込むのを止められなかった。彰人は静奈が黙り込んだままなのを受けて、不機嫌に眉をひそめた。「それで?」静奈は深く息を吸った。「……お取り込み中だったのね」彼女はそれだけ言い残し、一方的に電話を切った。ツーツーという無機質な音を聞き、彰人の顔はますます険しくなった。あの女、自分をすっぽかした上に、電話まで切りやがった!絶対に、離婚してやる!昭彦が戻ってくると、静奈の顔色が真っ白なのに気づいた。また熱が上がったのかと体温を測ってみたが、それほど高くはなかった。昭彦は買ってきた食事をテーブルに並べた。「医者が、体が弱っているから消化に良いものをと。」粥、魚の蒸し物、野菜炒め、冬瓜とスペアリブのスープ。量は多くないが、栄養バランスは考えられている。「ありがとうございます、社長」静奈はか細い声で礼を言った。「ですが、今はあまり食欲がなくて……」彰人が自分からの電話を受けながら、沙彩とあんな事をしていたのかと思うと、胸が悪くなり、吐き気さえ催した。昭彦も無理強いはしなかった。「分かった。なら、お腹が空いたら声をかけてくれ」病院で二日間過ごし、熱が完全に下がったところで、静奈は退院手続きをした。そして、再び会社へと復帰した。数日もすれば、静奈は新しい仕事にもすっかり慣れていた。その日の午前、彼女は一連の実験を終えたところだった。研究室から出ると、携帯に彰人の弁護士、英則からの不在着信があるのに気づいた。彼女が折り返し電話をかけると、英則の事務的で厳しい声が響いた。「朝霧様、長谷川様は、あなたが一方的に約束を破棄されたことに対し、大変お怒りです。彼は、法的
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第16話

「なんですって?」事の経緯を聞き終えると、雪乃は驚愕の表情を浮かべた。「あの長谷川、本当に最低の男ね!沙彩の居場所を作るために、あなたを訴えるなんて!」静奈は淡く笑った。「もう、どうでもいいの」「じゃあ、これからどうするつもり?」「弁護士を探して、離婚協議を任せるわ」雪乃は頷いた。「それもそうね。弁護士に直接やり取りしてもらえば、あなたが気分を害することもないし。あ、そうだ、静奈!」雪乃は、不意に何かを思い出したように言った。「うちにいとこがいて、弁護士をやってるの。この案件、彼に任せてみない?」「ええ、助かるわ」「じゃあ週末、会えるようにセッティングするわね!」「お願い」翌日の午前。明成バイオテクノロジーの会議室。プロジェクトチームのコアメンバーが長テーブルを囲んでいたが、その雰囲気は絞れば水が出そうなほど重苦しかった。「第四相臨床試験のデータがまた崩れた。標的性がまだ不十分だ。もう半年以上になるのに、プロジェクトは一切進展していない」プロジェクトの責任者は周防達也(すおう たつや)という、三十代の男だった。背が高く痩せており、眼鏡をかけている。彼はこの会社の創薬エンジニアだ。彼は眉間に深く皺を寄せている。会議室は沈黙に包まれ、誰も口を開こうとしない。この抗がん剤は、会社が未来を賭けた核心プロジェクトであり、巨額の資金と人員が投入されていた。しかし、土壇場で薬剤の送達効率、つまりドラッグ・デリバリー・システムの問題に突き当たり、薬効が予測を遥かに下回っていたのだ。静奈は深く息を吸い、口を開いた。「あの、もしかしたら、ナノキャリアの表面修飾を調整してみてはどうでしょうか」彼女の声は大きくはなかったが、その場にいた全員の視線を一瞬にして集めた。達也は眉をひそめた。「どういう意味だ?」静奈は勇気を出して立ち上がり、自らの考えを述べ始めた。「既存のキャリアは、αインテグリン標的を基に設計されていますが、腫瘍微小環境の酸性度が原因で、キャリアが早期に分解してしまっている可能性があります。もし、キャリアをpH応答性材料で被覆するように変更すれば……」「馬鹿馬鹿しい!」彼女が言い終わる前に、達也が冷笑して遮った。「そんな複合構造では、とても量産
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第17話

遠心分離機の唸り声の中、静奈はスクリーンに表示されるパラメーターを、固唾を飲んで見つめていた。これで、すでに七回目のプロセス検証である。これまでの試みは、全て乳化が不安定になり失敗に終わっていた。相次ぐ失敗に、チームの士気は著しく低下していた。もし今回も失敗すれば……このアプローチは、完全に破棄されることになる。「pH値、基準到達!」興奮した叫び声とともに、研究室は瞬く間に歓喜に包まれた。スクリーンに映し出された完璧なピーク形状を見て、達也は信じられないといった様子で眼鏡を押し上げた。「嘘だろ……薬剤担持率が、予測を5%も上回っている……」社長室。昭彦は実験成功の報を受け、思わず口元を緩めた。静奈、先生の見立て通りだ。彼女は、やはり天才だった。夜。静奈が会社を出て、家路につこうとした時だった。数歩も進まないうちに、横からクラクションが鳴った。振り返ると、そこには昭彦がいた。「乗ってくれ。送るよ」「いえ、社長。すぐそこの停留所からバスに乗れますので、お構いなく」「仕事の話だ。少し、君と話したいことがある」静奈は、ドアを開けて車に乗り込んだ。車内の冷房が少し効きすぎている。彼女は無意識に自分の腕をさすった。昭彦はその仕草に気づき、エアコンの設定温度を少し上げた。「朝霧の提案のおかげでプロジェクトは順調に進みそうだ。会社を代表して礼を言うよ」「いいえ、社長。こちらこそ、お礼を申し上げます。新人の案を採用するという、賭けに出てくださって」「賭けじゃない」昭彦は静奈を見つめ、その瞳には賞賛の色が浮かんでいた。「僕はちょうど、真の優秀な人材を見つけただけだ」彼女と少しでも長く二人きりの時間を過ごすため、昭彦は意図的に車の速度を落とした。「来週、恩師である高野教授に挨拶に行こうと企画しているんだが、君も一緒にどうかな?」昭彦からの突然の誘いに、静奈は一瞬戸惑った。自分が高野教授の学生だったことなど、一度も話したことはない。どうして社長が知っているのだろうか。もしかして、自分がこれほど順調に入社できたのは、教授の口利きがあったからなのだろうか。静奈の考えを見透かしたように、昭彦が説明を始めた。「以前、ある学術雑誌で君の論文を読んだことがある。指導教師が高野
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第18話

彼はパリッとしたスーツを身にまとい、鼻には金縁の眼鏡をかけている。ただ、その瞳の奥に宿る気だるげな雰囲気は、昔と少しも変わっていなかった。この強烈なギャップに、静奈はふとある言葉を思い出した。「インテリヤクザ」――まさに彼のことだ。静奈はこっそり雪乃に近づいた。「雪乃のお兄さん、本当に大丈夫なの?やっぱり、やめておこうか……」以前、雪乃から聞いたことがあった。謙がチンピラと喧嘩し、相手を血まみれにして土下座させるまで叩きのめした、と。その話は静奈の脳裏に焼き付き、軽いトラウマとなっていた。まさかとは思うが、法廷で話がこじれたら、この人、腕力で解決しようとするんじゃ……雪乃はウィンクし、声を潜めた。「大丈夫だって。謙兄は勝訴しまくってる、弁護士界隈じゃかなりの有名人なんだから。あなたの離婚訴訟くらい、お茶の子さいさいよ!」「謙兄、こっちが静奈、私の親友。じゃ、あとは二人でゆっくり。私、お邪魔みたいだから退散するね」雪乃はそう言うと、そそくさとバッグを持って席を立った。雪乃が去ってしまうと、静奈はますます居心地が悪くなった。「あ、浅野先生」彼女は意を決して、声をかけた。雪乃が言っていた弁護士のいとこが謙だと知っていたら、自分は代理人を頼まなかったかもしれない。謙は眼鏡の位置を直した。「雪乃から聞いたが、お前、財産放棄して、身一つで出て行くつもりなんだって?」静奈は頷いた。「はい」「なぜ放棄する?」「あれは、元々長谷川家のものですから」謙は腕を組んだ。「知っているとは思うが、婚姻期間中に夫が稼いだ金は、半分はお前のものだ」謙を前にすると、静奈はまるで尋問を受けている小学生のような気分になった。「存じています。ですが……」元はと言えば、彰人が結婚を望んでいないと知りながら、無理に嫁いだのは自分だった。結婚して四年。彰人は長谷川グループの規模を何倍にも拡大させ、その資産価値も跳ね上がったが、自分はその助けには一切なっていない。離婚することになって、彼が築いた富を分捕るような真似は、道理に反する気がした。静奈がためらうのを見て、謙は鼻で笑った。「そんな条件で、争う余地がどこにある?弁護士を立てる意味があるのか?」静奈は、彰人と直接対峙したくなかった。
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第19話

彰人はコーヒーを飲みながら、静奈が隣の男とぎこちなく話しているのを見ていた。わけもなく、胸の奥から怒りが込み上げてくる。静奈、何度も何度も、自分の我慢の限界を試している。「すみません、浅野先生。少し、お手洗いへ」静奈は席を立ち、洗面所へと向かった。彰人はコーヒーカップを置くと、同じく立ち上がった。静奈が洗面所から出た途端、抗うことのできない力で壁に押さえつけられた。冷たい壁に背中を押し付けられ、目の前には男の大きな影が落ちる。彼女は完全にその影に覆い尽くされた。静奈は息を呑み、危うく悲鳴を上げそうになった。男の指が彼女の顎を掴み、無理やり顔を上げさせて視線を合わせる。その時になって初めて、静奈は目の前の男が彰人であることに気づいた。「静奈、言ったはずだ。俺たちが離婚届を出すその日まで、お前は俺の女だ。俺の我慢を試すな」彰人の声は低く、危険な響きを帯びていた。その瞳は凄まじい怒りに燃え、まるで彼女を焼き尽くさんばかりだった。静奈の心臓は激しく高鳴ったが、彼女は必死でその底知れぬ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。「彰人。何を言っているのかわからないわ」「分からん、だと?」彰人は冷笑し、彼女の顎を掴む手に、骨が軋むほどの力を込めた。「離婚を引き延ばしておきながら、一方で見合いに精を出すか?静奈、お前には心底呆れさせられる!四年間も夫婦をやっておきながら、俺の妻がそこまで男に飢えていたとは、知らなかったな」彰人の軽薄で皮肉に満ちた言葉が、ナイフのように静奈の胸に突き刺さった。彼女はふっと笑い、囁いた。「やはり、心が汚れている人には、何もかもが汚れて見えるのね」次の瞬間、彼女は臆することなく、真っ直ぐに彼の瞳を見据えた。「婚姻関係中に不貞を働いたのはあなたでしょう。私は結婚生活を裏切るような行為は一切していない。あなたがいう『お見合い』など、全くの事実無根!」彰人の表情が一瞬固まったが、すぐに更に険しいものへと変わった。「お前の言うことを、俺が信じるとでも思ったか?」この前は、見知らぬ男の高級車に乗り込み、今度は、別の男とカフェで密会か。連日、違う男の間を渡り歩く。これが偶然であるはずがない。「彰人さん」まさにその時、廊下の向こうから甘ったるい女の声が聞こえて
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第20話

謙は顔を上げた。ちょうど、彰人と沙彩が、洗面所の方向から出てくるところだった。彰人が敵意をむき出しにした視線をこちらへ向けてくる。目が交差し、謙は瞬時に状況を理解した。あれが、彼女の夫、長谷川彰人か。公の場で堂々と愛人を連れ歩き、妻に恥をかかせる。そこまでされて、彼女はまだ耐えるというのか?何を考えているんだか。「ほら、飲みなよ」謙は静奈にコーヒーを差し出すふりをしながら、わざとそれをこぼした。濃いコーヒー液が、彼女の服に飛び散る。静奈は慌ててティッシュで拭おうとしたが、シミは全く取れそうになかった。「すまない」謙はごく自然に自分のジャケットを脱ぐと、それを優しく静奈の肩にかけた。「行こう。家まで送る」静奈は、男性の上着を羽織ることに抵抗があった。しかし、スカートには大きなシミができており、このまま外に出るのはさすがに恥ずかしかった。彼女は、謙が自分の肩を抱き寄せるのを、なすがままに受け入れた。二人はそのままカフェを出ていく。背後の彰人は、静奈と謙のその親密な様子を、燃え盛るような瞳で見つめていた。あの女、嘘を吐くのも大概にしろ!沙彩は彰人の怒りと不快感を敏感に察知した。彼女は、追い打ちをかけるように言った。「静奈って、本当に男運がいいのね。もう次の『騎士様』を見つけたなんて」カフェを出た後。謙は静奈を高級デパートへと連れて行った。「車で待っててくれ。すぐ戻る」謙はそう言うと、車を降りた。静奈は、彼に何か急用でもできたのかと思い、このまま立ち去るべきか迷った。しかし、ほどなくして謙が戻ってきた。その手には、ブランドの紙袋が提げられている。「弁償だ。着替えてくれ」袋の中の服を見て、静奈は戸惑った。「いえ、結構ですわ。ただの服ですのに、そんなお気遣いは……」謙は眉を吊り上げた。「もう買っちまったんだ。まさか、俺に着ろとでも?」静奈は仕方なく、その紙袋を受け取ると、後部座席に乗り込んだ。謙は、数メートル離れた場所で彼女に背を向け、手慣れた様子でタバコに火を点けた。静奈は濡れた服を脱ぎ、謙が買ってきた新しい服に着替えた。驚いたことに、サイズはぴったりだった。一本吸い終わった頃、謙が振り返り、車の窓をノックした。「終わった
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