All Chapters of 再婚したら、元夫と息子が泣いてるんですが?: Chapter 451 - Chapter 460

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第451話

「高橋秘書。先ほどの女性についてですが――彼女と瀬川社長がどのようなご関係であろうと、今日中に私のスタッフへ謝罪していただきます」彩葉の声はひどく静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。高橋は張り付いたような作り笑いを浮かべた。「ご安心ください、氷室代表。後ほど社長にもそのようにお伝えいたします。それよりも今は、会議室へお移りいただけますでしょうか。まもなく役員会が始まりますので」夢は痛いほど分かっていた。これは単なる体裁のいい先送りに過ぎず、あの件がまともに収拾される見込みなど皆無に等しいということを。――けれど、まあいい。これ以上、彩葉に迷惑をかけたくなかったのだ。「夢。私、先に会議に出てくるから、オフィスで待っていてね」「はい、彩葉さん」夢は素直にこくりと頷いた。彩葉は静かな瞳のまま高橋の後に続き、その場を後にした。……会議室にはすでに役員たちが勢ぞろいしており、最後に入室したのが彩葉だった。彼女が姿を見せると、一同は立ち上がり、深々と頭を下げる。彩葉は軽く微笑んで応じると、迷うことなく自身の席へ向かい、孝俊の左隣に腰を落ち着けた。「さて、ご紹介しよう」孝俊は如才ない営業スマイルを浮かべ、よく通る声で言った。「こちらは俺の姪であり、本日付でターナルテックの新代表に就任した、氷室彩葉さんだ。皆さん、盛大な拍手を!」室内を拍手が包み込む。とはいえ、彩葉に向けられた役員たちの視線には、誰もが隠しきれない侮蔑の色がにじんでいた。この場にいる誰一人として、この美しい「お飾り」ごときが、転落の一途を辿るターナルテックを救えるなどとは、一人として信じていなかった。どこをどう見ても、会社を救う実力者には見えなかったのだ。仮に多少の才覚があったとしても、会社の口座はとっくに底をついている。無い袖は振れない――彼女に一体何ができるというのか。弛緩した空気の中、役員たちはとうに気力を失い、表面上は仕事をこなすふりをしながら、陰ではすでに泥舟を降りる準備を始めている者さえいる始末だった。彩葉はゆっくりと室内を見渡し、一人ひとりの顔に視線を留めながら、静かに口を開いた。「この度、ターナルテックの代表を拝命いたしました。大変光栄に思っております。こうして皆様と共に働けることを、心から嬉しく思います。どう
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第452話

彩葉の口元に、薄い嘲笑が浮かぶ。声こそ静かだったが、その言葉は音もなく急所をえぐる鋭い刃のようだった。「これが、瀬川社長のおっしゃる『豊富な管理業務の経験を持つ優秀な人材』ということでしょうか」室内が凍りつき、次の瞬間、大きなどよめきが沸き起こった。早月は全身を震わせ、怒りに歯を食いしばったが、罵ることも、手を出すことも、言い訳をすることもできなかった。動かぬ証拠が白日の下に晒されている以上、彼女にできるのは、胸の内で逆恨みの炎を燃やすことだけだった。孝俊は怒りで肩を震わせたが、彩葉の静かな横顔を睨みつけた。「誰がこんなものを映せと言った!消せ!今すぐ消せ!」高橋が慌ててリモコンを手に取るものの、どのボタンを押そうと画面は一切切り替わらない。彩葉は、ほんのわずかに口角を上げた。鋭い知性を帯びた冷ややかな笑みが、その口元にかすかに宿っていた。この場にいる誰一人として、知る由もない。昨夜、彩葉がひそかに会社へ足を運んでいたことなど、その事実を、居合わせた者たちは知る由もなかった。あのスクリーンに細工を施すことなど、彼女の卓越した頭脳と技術をもってすれば造作もなかった。だが、そのかすかな表情の変化を、孝俊は見逃さなかった。瞬時に全てを悟り、カッと頭に血が上る。このくそ生意気な小娘……!俺を罠にはめたというのか。覚えていろ、絶対にただではおかん!「瀬川社長。もし振りかざし、どうしても彼女を残すとおっしゃるなら、私には止める術はございません。ただ――ここ最近、この会社がどれほどの混乱を招き、皆様にどれほどの迷惑をかけてきたか、社長もご存知のはずですし、ここにいる皆さんも目の当たりにされてきたはずです」彩葉は孝俊の憎悪に満ちた視線を真正面から受け止め、一語一語に静かな重みを込めて言い放った。「どうかこれ以上、社員を失望させるような真似はなさらないでください」どちらに転んでも、孝俊の負けだった。強引に早月を昇進させれば、会社や従業員を私物化したと見なされる。だが退けてしまえば、今回もまた彩葉に一本取られたことになってしまう。「ならば秘書部部長は空席のままになるが、お前に代案があるとでもいうのか!」孝俊は喉の奥から込み上げる怒りを抑えきれず、憎々しげに絞り出した。彩葉は涼しい顔で高橋からリモコンを受け取ると、スクリーン
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第453話

氷室グループで働きながら、世界トップクラスのデザイナーと直接やり取りを任されていたということは、彼女の事務処理能力が並大抵ではないことの何よりの証明である。これほどの人材がターナルテックに来てくれるというのなら、会社にとってどう考えても莫大なプラスになる。そんな逸材を孝俊が門前払いにでもしようものなら、さすがに無能の極みだろう。……ノラって、誰のこと?早月は一人、ぼんやりと画面を眺めていた。なぜその名前を聞いただけで、居並ぶ役員たちがこれほどまでに色めき立つのか、彼女にはまるで見当もつかない。彼女の生きる世界は、あまりにも狭すぎたのだ。孝俊の引き立てがなければ、入社すら叶わなかった女なのだから。孝俊も内心では舌を巻いていた。確かに、非の打ち所がない優秀な人材だ。だが、彩葉に引けを取りたくない一心で、ムキになって難癖をつける。「これほど優秀な人材なら、なぜ氷室グループに残らなかったんだ?わざわざうちのような沈みかけの会社に来るなんて、向こうで何か取り返しのつかないミスをやらかして、居づらくなったんじゃないのか?」役員たちが顔を見合わせる。孝俊は、誰もが心の奥底に抱いていた純粋な疑問を、そのまま口にしただけだった。彩葉が沈黙しているのを見て、孝俊は勝ち誇ったようにふんぞり返り、足を組んだ。「彩葉よ、叔父として忠告してやるがな。後ろ暗いところのある人間を雇い入れれば、今でさえ苦しい会社の状況をさらに悪化させることになるぞ。この北都において、氷室グループは北都に君臨する不動の覇者だ。もし氷室の逆鱗に触れでもしたら、どんな報復を受けるか分かったものではない。代表たる者、常に会社の利益を最優先に考えなければならないんだぞ」「報復、ですか」彩葉はたまらず、ふっと笑い声を漏らした。その笑い声は冷徹なまでに美しく、底知れぬ凄みを帯びていた。「脅迫など通用しませんよ。誰を怒らせようと、たとえ相手があの氷室蒼真であろうと、恐れたことなど一度もありません。そもそも、一人の社員の移籍といった些細なことで報復に動くようなら、そんな狭量な人間は氷室グループのトップどころか、男としても失格です」室内が水を打ったように静まり返り、全員が信じられないものを見るように目を丸くした。北都に君臨する氷室グループのトップを、これほど堂々と名指しで
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第454話

提示された額は、氷室グループ時代の実に二倍に上った。決して、単なる気前良さからではない。長く共に働いてきた彩葉には、夢の本当の実力が痛いほどよく分かっていたのだ。氷室にいた頃は、嫉妬深い亜里沙に不当に押さえつけられ、後から入ってきた雫にも理不尽に苦しめられ、その類まれなる才能を十分に発揮できなかっただけのことである。続けて彩葉は、会議の最後に孝俊が結局早月を手放そうとしなかった経緯を夢に説明した。「彩葉さんは、これからどうされるおつもりですか?」「あの女を、ターナルテックに置いておくわけにはいかないわ。いくら叔父のそばであっても、絶対にダメよ」彩葉は夢が淹れてくれたコーヒーを優雅に受け取り、静かな声で続けた。「孝俊が誰をベッドを共にしようと、私には知ったことではないわ。でも、その相手を会社に持ち込まれるのは全くの別の話。あの女は存在しているだけで会社のイメージを著しく傷つけるし、やがては重大な損失を招く恐れすらある。だからこそ、災いの芽は早いうちに摘み取らなければならないの」「でも……瀬川社長という強力な後ろ盾がいる限り、そう簡単には……?」「大丈夫。私に考えがあるから」彩葉はふわりと微笑み、薫り高いコーヒーを一口含んだ。夢はじっと彩葉を見つめながら、己の胸が期待に高鳴るのを感じていた。目の前に座るこの人は、かつての彼女ではない。氷室グループの研究開発部で、理不尽に耐えながら黙々と頭を下げて働いていた、あの影の薄かった頃の面影など、もはや微塵も残っていなかった。今の彩葉は、直視できないほど眩しいくらいに輝き、誰もが思わず目を奪われるような圧倒的なオーラを放つ存在になっていた。彼女は今、少しずつ、かつて失ってしまった「本当の自分」を取り戻していっているのだ。……彩葉たちが見事な初陣の余韻に浸っている頃、社長室の方はといえば、まるで猛烈な嵐が通り過ぎた直後のような有様だった。物が壁に激突する音が廊下にまで響き渡り、室内は散乱した高級な調度品の残骸で埋め尽くされている。孝俊は赤ら顔で強い酒をあおりながら口汚く怒鳴り散らし、高橋は怯えたように腰を低くして、せっせと床の破片を拾い集めていた。「あのクソ生意気な小娘が……!俺の人間を体よく利用しやがって、役員全員の前でこの俺に泥を塗りやがって!絶対に、絶対に許さ
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第455話

退勤の時間が迫った頃、彩葉のもとに高橋から一通の招待状が届けられた。彩葉はおくびにも出さず、にこやかにそれを受け取った。バタン、と社長室のドアが閉まるや否や、高橋はドアの向こうで冷ややかな笑みを浮かべた。「身の程知らずの小娘め。どうせ何も分かりはしないのだから、あの場で見事にアホ面を晒してくればいい」一方、オフィスでは、夢がその招待状を手にして、パッと花が咲いたように顔をほころばせた。「彩葉さん!この大会って、業界ではものすごく有名なイベントなんですよ!各界の大物やトップ企業が集まる場ですから、もしかしたらターナルテックの強力な提携相手が見つかるかもしれません!」「ええ、知っているわ。母も、昔は毎年欠かさず出席していたから」亡き母のことを口にすると、一瞬、声が詰まった。それでも、淡く優しい微笑みを浮かべて続ける。「母の死後、叔父が会社を引き継いでからは、あそこへ行く人間が変わってしまったけれど」夢が、ふと核心をついた。「でも、瀬川社長ってああいう華やかな人前でいい顔したがるタイプなのに、どうして今回だけは、そんな大事な見せ場を彩葉さんに譲ったんでしょう?絶対、何か裏があるんじゃないですか?」彩葉は夢の真剣な顔を見て、おかしそうにフッと微笑んだ。「工藤秘書、相変わらず勘が鋭いわね。その通りよ。世の中に、そんなに都合の良い美味しい話なんてそうそう転がっているものじゃないわ」「やっぱり、そうなんですか!」「でも、大した企みじゃないわよ。あの叔父は、所詮は欲望のままに動く男だもの。高橋秘書みたいな腹黒い手下に入れ知恵でもしてもらわなければ、複雑な策略なんて思いつける頭はないはずよ」彩葉は涼しい顔で淡々と続けた。「きっと叔父は、私が最先端の技術のことなんて何一つ知らないし、学歴も低いから、あの場へ行っても無知を晒して恥をかくだけだと踏んだんでしょうね。だから、わざわざ『代理』の機会を与えてくれたのよ」夢は怒りをこらえきれずに声を上げた。「最低なジジイ!身内に対して、ひどすぎます!」勢いよく言い終えてから、ハッとして慌てて両手で口を塞ぎ、目を丸くした。そのコロコロと変わる表情は、小動物のように可愛らしかった。「ふふっ、気にしないで。あなたの言う通りだと思うわ。あいつはただの『ジジイ』じゃなく、正真正銘の『救いようの
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第456話

「お客様、大変失礼ですが……今晩は当店を特別なお客様の貸し切りとさせていただいておりまして、他のお客様はご案内できかねます」店長が彩葉の全身を上から下まで値踏みするようにちらりと眺めた。顔の造作は驚くほど整っているが、着ているものは、どこにでもある吊るしの服だ。この高級店で惜しげもなく散財するような、VIPの客には到底見えない。そう瞬時に判断すると、店長は視線を戻し、背後に控える若手の店員を小声で咎めた。「今夜は林様だけを特別にお迎えするようにと、ちゃんと伝えてあったはずでしょう。どうして入口に鍵をかけておかなかったの?なんで無関係な方を中へ通したのよ」こうして彩葉は、店員たちのヒソヒソ話の中で、あっという間に『場違いな余計なお客』へと格下げされた。しかし彼女は、そんな侮蔑の視線など微塵も気に留めなかった。その時、雫が鏡に映る自分の姿からようやく目を離し、「どうしたの?」とのんびりとした動作で振り返った。「構わないわよ、店長さん。私もだいたい選び終えたところだし、その貧相な方には……」言いかけた次の瞬間。雫の余裕ぶった笑みが、ピシリとひび割れて凍りついた。彩葉が、数歩離れた場所から静かに雫と目を合わせた。火花が散るような、一触即発の、肌を刺すような緊張感が店内に漂う。……因縁とは、本当に恐ろしいものね。道向かいに蒼真の車を見かけた時点で、この店の中に雫がいることなど、とうに気づいてはいた。だからこそ、夢を巻き込まないように外に待たせ、一人で足を踏み入れたのだ。それでも。実際に着飾った雫の姿を目にした瞬間、彩葉の胸の中に、ドロドロとした複雑な感情が激しく渦巻いた。胃の奥から込み上げてくる強烈な嫌悪感を、完全には消し去ることができなかった。蒼真は、自分の「本命」である雫の前では、まるで別人のように変わる。よく笑い、よく話し、どれだけ待たされても怒らない底知れない忍耐力と、甘やかすような優しさを見せるのだ。それに対して、過去の五年間、彼が正妻である彩葉に与えてくれたものといえば……ほんのわずかな形ばかりの温もりと、心をすり減らすような無限の切なさだけだった。思い出す――三年前、和枝の誕生日の前夜。彩葉はカタログで、プラチナ・オークションに出品される見事なアンティークの指輪を見つけ、蒼真に「明日、一緒にオークションへ行
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第457話

「あれだけ大勢いた店員の中に、腰回りの縫い目がはち切れそうになっていることを教えてくれる人は、ただの一人もいなかったの?」彩葉は、どこまでも穏やかな、慈悲深い声で言った。雫は血相を変えて慌てて鏡の前へ走り、無理な体勢で首をひねって、自分の背中側を確認した。見ると、案の定、息もできないほどぴったりと締めつけられたドレスの後ろ腰の部分に、無惨にもビリッと小さな裂け目が入っていた。「……ッ、最低!」雫は悔しそうにギリッと歯を食いしばった。最近の雫は、氷室グループの命運を懸けた新型電気自動車の発表業務に追われながら、氷室の屋敷で瞳真の面倒まで押しつけられていた。自分でお腹を痛めて産んだ子供でもなければ、蒼真から「妻」としての正式な立場もまだ得られていないというのに、すでに結婚後のまるで無給の通い家政婦のごとく、こき使われているような、そんなひどい疲労感があった。鏡を見るたび、肌の艶も悪くなり、顔色までくすんでいる気がする。慣れない他人の子の育児に疲れたら、自然と痩せるだろうと思っていたのに。ストレスが溜まると甘いものを食べずにはいられず、仕事で疲れた時もしっかりと食べなければ体力が持たない。こうして、今夜やっとの思いで息を止めて体を押し込んだ細身のドレス。店員たちにさんざん「細い」「美しい」と持ち上げられて有頂天になっていたのに、彼女たちはただ機嫌を取るために、前からの姿しか褒めていなかったというわけだ。しかもよりによって、一番見下している彩葉の目の前で、こんな滑稽な醜態を晒してしまった。雫は、彩葉のほっそりとした端正な顔立ちを、殺してやりたいほどの憎悪の目で見つめ返した。以前氷室家で会った時よりも、さらに無駄な肉が削ぎ落とされてスマートに見える。それだけではない。今日の彩葉は、自分の体にぴったりとフィットした上質なパンツスーツに身を包み、洗練されたキャリアウーマン特有の、凛として自立した女性ならではの雰囲気を漂わせている。さらには、かつてはすっぴんばかりだった顔に珍しく丁寧なメイクを施し、鮮やかな赤いリップが白い肌にひどく映えていて――同性である女が、思わずハッとして二度見してしまうほどの、芳醇なまでの華やかさがあった。蒼真から離れて、今頃惨めな貧乏生活を送っているだろうと嘲笑っていたのに。目の前に立つ彩葉は、過
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第458話

「蒼真さん……!」雫の瞳から陰鬱な光がすっと消え失せ、瞬時に可憐で弱々しい女の顔へとすり替わった。目元をほんのりと赤らめ、暗い面持ちの蒼真をひたむきに見上げる。「彩葉さん、あの……」夢はおずおずと後ずさりし、彩葉の背中に隠れるように歩み寄った。夢の後ろに立つ蒼真は、全身から凍てつくような冷気を放ち、ただ黙然と佇んでいる。まるで、氷塊のように冷ややかだった。夢は大学を卒業してすぐに氷室グループへ入社したが、グループの社長である彼とこれほど至近距離で相対するのは初めてのことだ。これまでは、遠巻きにその姿をちらりと見かける程度だった。この男が醸し出す圧倒的な気迫と威圧感に、心臓が握り潰されそうになる。いっそ、怯えた子犬のように彩葉に泣きついてしまいたかった。「大丈夫よ、落ち着いて。上の階で服を買ったら、すぐに帰りましょう」彩葉は穏やかな声で夢を宥め、背後の蒼真を完全に存在しないものとして扱った。そのひどく素っ気ない態度に、蒼真の瞳の奥で一瞬、苛立ちの炎が揺れた。彼は長い脚を踏み出して雫の前に立つと、その潤んだ瞳をじっと見下ろした。「雫、目が赤いぞ。どうしたんだ?」「蒼真さん、私……」雫は小さく鼻をすすり、意味ありげな視線を彩葉へとちらりと投げてから、ひどく傷ついたように首を横に振ってみせた。「いいえ、大丈夫よ。どうせ全部、私が悪いんだもの……」彩葉は遠慮することなく、ふっと冷たく鼻で笑った。――またあの小芝居だ。本当に、懲りない女である。呆れ果てて夢を連れて上の階へ向かおうとした、蒼真の低く響く声が背中に投げかけられた。「お前は、工藤夢か?」二人は同時にピタリと足を止めた。彩葉が黙り込む横で、夢は信じられないものを見るように目を丸くして蒼真を見上げた。「氷室社長……なぜ、私の名前を?」蒼真は少しも表情を変えずに答える。「以前、研究開発部でノラとの窓口を務めていたな。開発部の会議で見かけたことがある」彩葉はそっと唇を引き結んだ。この男は、自分以外の事柄――とりわけ会社のこととなると、並外れた目配りを見せる。立派な肩書きにあぐらをかくような凡庸な経営者ではないのだ。一度でも顔を見て名前を聞いた相手なら、たとえ末端の小さな役職の社員であろうと、その記憶の底に正確に刻み込んでいる。夢はさらなる驚きに目
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第459話

「氷室グループの社内環境が、ひどく劣悪だったからよ。派閥争いに私欲、賄賂の横行、上の者が下の者を踏みにじることが当たり前になっていて、ほんの少しの権限を手にしただけで、全能感に酔いしれる人間がいる」ずっと沈黙を保っていた彩葉が、氷のように冷ややかな声で口を開いた。「あんな澱みきった泥沼に、真っ当な人間が長くいられるはずがないでしょう」雫の背筋を、ぞっとするような冷や汗が駆け下りた。夢は心の中で、激しく何度も頷いていた。今すぐ彩葉に抱きついて、その背中を称賛したいくらいだった。蒼真は、彩葉のどこまでも澄んだ、それでいて鋭利な刃のような瞳をじっと見つめ返し、静かに胸を上下させた。「誰が同僚を虐めたっていうのよ!でたらめを言わないでちょうだい!」雫はついにこらえきれなくなり、怒りをあからさまにして叫んだ。彩葉はゆっくりと目を細め、底冷えのする笑みを浮かべて眉を跳ね上げた。「私がいつ、あなたの名前を出しました?あなたの名前を呼びましたか?それとも、ご自分に何か後ろめたいことでもあるの?夢は氷室グループで二年以上も働いて、柳亜里沙の下でも『辛くて辞めたい』とこぼしながら必死に頑張って続けていた。それが林雫、あなたの部下になった途端に辞めたわ。夢の退職は、あなたに関係があるんじゃないの?だからこそ、今こうして真っ先にムキになって否定したんじゃないの?」「氷室彩葉っ……!」雫は屈辱と怒りで全身を震わせた。――そこで、彼女はようやく悟った。この女は、最初から狡猾な罠を張っていたのだ。少し考えればすぐに気づけたはずなのに、隣に蒼真がいることで気が張り詰めすぎていて、まんまと挑発に乗ってしまった。「それは……雫が工藤に職場でハラスメントをした、ということか?」蒼真はそう問いかけながらも、すぐに自分でその可能性を打ち消すように首を振った。「いや、それはあり得ない。二人に直接的な接点などなかったはずだ。雫が彼女を苦しめる理由がない。それに彩葉、あの拉致事件のことで、お前がずっと雫に対して感情的になっているのは分かっている。あのときの雫の対応が適切でなかったことは俺も認める。だが最終的に、あの事件は雫とは無関係だったと警察の捜査でも証明されているんだ。……だからもう、事あるごとに雫へ八つ当たりするのはやめてくれ」彩葉の体側に
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第460話

その短く甘やかな言葉の裏には、いくつもの狡猾な罠が仕掛けられていた。もし夢がこの誘いを断れば、「身の程知らずにも、天下の氷室グループを見下している」という構図になり、氷室を見下すことはすなわち、蒼真の顔に泥を塗ることと同義になる。かといって復帰を受け入れた上で「研究開発部は嫌だ」と答えれば、今度は蒼真の目の前で雫の顔を潰すことになる。そうなれば、たとえ会社に戻れたとしても、裏でどんな陰湿な報復に遭うか目に見えている。雫は内心で、毒を含んだ冷笑を浮かべた。彼女はすでに方々へと手を回し、氷室グループに歯向かって辞めた夢が、この北都の街でまともな職に就けないよう徹底的に道を塞いでいた。今さら自分がこうして情けをかけてやっているというのに、この蜘蛛の糸にすがりついてこないようなら、それこそ正真正銘、救いようのない馬鹿である。「林さんにそこまでご心配いただかなくても結構です。私は絶対に、氷室グループには戻りません」夢は怒りに燃える瞳で、白々しい雫の顔を真っ直ぐに射抜いた。「たとえこの北都で生きていけなくなったとしても、数千万の年収を積まれて頭を下げられたとしても、あの場所に戻ることだけはあり得ません」その瞳の奥で燃え盛る激しい恨みは、まるで氷室グループという企業が、人を骨まで食い尽くす魔物の巣窟であると告発しているかのようだった。そして夢は、隣に立つ彩葉の横顔をじっと見つめ、胸を張って誇らしげに宣言した。「それに、私にはもう新しい仕事が見つかっています。確かに辛くて苦しい日々もありましたが、今はとても充実していますから」雫の表情が、ピクリと不自然に強張った。この小娘が仕事を見つけただと?自分の封じ手が効かなかったというのか――と、内心で舌打ちをした一体どこのどいつが、林家に、そして氷室グループに堂々と歯向かうような真似をしたというのだ。蒼真はわずかに眉を曇らせ、あくまでさりげない口調を装って尋ねた。「今どちらの企業に?」彼の心の中には確信があった。この街で氷室グループに勝る場所など存在しない。あるとすれば、唯一対抗できる北川グループくらいのものだろう。夢は、勝利を宣言するように高く顎を上げた。「ターナルテックに入社いたしました!」彩葉は、夢のその迷いのない晴れやかな横顔を見て、氷のように冷え切っていた目の奥が
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