All Chapters of 再婚したら、元夫と息子が泣いてるんですが?: Chapter 671 - Chapter 680

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第671話

まだあんなに若いのに、彼女の心が枯れ果ててほしくなかった。誰かを愛する力まで、あの男への絶望と一緒に失ってほしくなかった。だが彼女は、北川翔吾という男と出会えた。この時期にあの男が現れたことは、彩葉にとって単なる頼もしい支えになっただけでなく、人生そのものの救いになったのだと、樹は確信していた。「先輩、理屈は全部、痛いほど分かってるの。こんなに長い間、自分に何度も言い聞かせ続けてきたわ。会社のトップとして現実を冷酷に受け入れよう、情に流されず大局のために考えようって」彩葉はカップを両手でぎゅっと包み込みながら、胸が張り裂けそうな表情を浮かべた。「でも、やっぱり心が痛むの。今の世の中がこんなに厳しいのに、ターナルテックを去っていく人たちのその先の人生は、一体どうなってしまうんだろうって……先輩、もし母がまだ生きていたら、誰も切り捨てずに、もっとうまく全員を守り抜く方法を見つけてくれたと思うわ。やっぱり私は、どこまでいっても母の足元にも及ばないな……」「そんなことはないよ。彩葉と志乃さんは、生きている時代も、会社を取り巻く環境もまるで違う。単純に比べるものじゃない。君はきっと、これからいろんな痛みを乗り越えて、志乃さんよりもずっと大きくて強い人間になる」樹は、自分を責める彼女を根気よく、優しく慰め続けた。「会社が無事に立て直せて業績が上向けば、今回退職してもらった人たちの中で、どうしてもここへ戻りたいと思っている人がいれば、その時にまた君から声をかけてあげればいいじゃないか」先輩の温かく前向きな言葉に、彩葉の胸の中で固く結ばれていたわだかまりが、少しずつゆっくりとほぐれていった。一緒に短い昼食を取った後、病院にいる夢から彩葉に電話が入った。「夢ちゃん、瑠璃子さんの様子はどう?少しでも目を覚ました!?」彩葉はすがるように聞いた。「いいえ、まだです……でも代表、どうかあまりご心配なさらないでください。先ほど森田先生が直接数値を診てくださいましたが、身体的な回復はとても順調だそうです」「森田先生は、いつ頃目が覚めるか、何かおっしゃっていた?」「それが、先生にもこればかりは何とも言えないそうで……」彩葉は不安げに樹と目を合わせて、深くため息をついた。「分かったわ。今夜、仕事が終わったら私も病院へ行くから」……一
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第672話

「何だと?佐久間家の娘の方からお前に近づいてきたというのか!?」隆彦は、老いてからようやく授かったこの一人息子を誰よりも溺愛してはいたが、その頭脳は常に冷徹だった。この箸にも棒にもかからない出来損ないが、オリエント・ユニオンの御曹司という金看板をぶら下げていなければ、まともな女が振り向くはずもない。隆彦は鼻でせせら笑った。「どの口がそんな寝言をほざく。俺の前で見え透いた嘘をついて、恥ずかしくないのか。この俺がお前を叩き直せないとでも思っているのか!」「本当なんだってば!」晟がこの世で唯一恐れているのは、この冷酷な父親だけだった。またあの硬いステッキで打ち据えられてはたまらない。父親の手元をがっちりと押さえ込みながら、必死に言い募った。「あの夜……俺はナイトシェードでいつもの仲間と飲んでたんだ。そしたらそこに、あの女が突然一人で現れてさ……俺に『取引をしたい』って持ちかけてきたんだよ」隆彦は、単なる夜遊びでは済まないキナ臭さを感じ取り、厳しく先を促した。「どんな取引だ?隠さず早く言え!」「あいつは、俺の素性を知ってた。佐久間光一と深い因縁があることまでな……それで、佐久間にデカいお返しができる絶好のチャンスをやる、って言ってきたんだ」晟は恐怖でごくりと唾を飲んだ。「あの女は言ったんだ。佐久間には致命的な弱点があるって。長年、自分のすぐそばに置いている女護衛だ。そいつを潰すだけで、佐久間に痛烈な一撃を食らわせられる、ってな。だから俺はあの夜、あいつと組んで一芝居打ったんだ。佐久間をわざと店に誘い込み、あの生意気な女護衛を人質に取って、自分の妹と交換させるようにうまく仕向けたのさ……」隆彦は、この愚かな息子の底の浅さを知り尽くしていた。呆れたように冷笑する。「たったそれだけの理由で、大人しく罠に乗ったのか?裏でまだ何か、都合のいい条件を約束されたんだろう」晟は気まずそうに顔を伏せた。「それと……作戦がうまくいったら、報酬として六億払うって。オーシティのカジノの借金に充てていいって言われて……」それを聞いた瞬間、隆彦はカッと熱くなった額に手を当て、目の前が真っ暗になる思いだった。オリエント・ユニオンが国内で抱えていたシノギは、ここ数年の警察の執拗な摘発によってほぼ壊滅状態に追い込まれていた。海外事業のお
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第673話

激昂していた隆彦はふと足を止め、わずかに張り詰めた表情を和らげた。「……まあいい。これだけの日数が経っても向こうに動きがないということは、佐久間光一もあの女のことを、そこまで本気で囲っていたわけではないのだろう。だがお前、よく聞いておけ。こんな馬鹿な真似はこれが最後だ。これ以降、佐久間に関わることには一切首を突っ込むな!今の組織は警察にマークされ、シノギのクラブも賭場も立て続けに潰された。存亡の正念場なんだ。お前が余計な火種を持ち込めば、この苦しい状況がさらに悪化するんだぞ!」晟は腹の中では納得していなかったが、今は父親の怒りを鎮めるために、おとなしくうなずくしかなかった。そのとき、隆彦の秘書が血相を変えて部屋へ飛び込んできた。「た、大変です!お客様が……!」隆彦は苛立たしげに一蹴した。「今日は誰の相手をする気分でもない。適当にあしらって帰らせろ!」秘書は滝のような冷や汗を流しながら絞り出した。「そ、それが……追い返せるような相手では……佐久間グループの社長、佐久間光一様です!」それを聞いた瞬間、隆彦父子は揃って顔面からさあっと血の気を失った。「何だと!?」オリエント・ユニオンと佐久間グループの間で、最も激しく血で血を洗う抗争が起きていた時期でさえ、光一が単身でこちらの本拠地に乗り込んでくるような真似は一度たりともなかった。佐久間家は表の世界の絶対的な権力者。こちらは日陰を歩く裏社会の人間だ。光一のような誇り高い男が、そんな薄汚れた自分たちとまともに向き合うはずがない――隆彦はずっとそう高を括っていた。隆彦の老獪な顔が、複雑な緊張でピシリと張り詰めた。「あの佐久間が、わざわざ自分から俺たちのシマにやって来るとはな。ちょうど俺も、溜まった怒りのぶつけどころがなくてイラついていたところだ!」晟は今にも飛び出していきそうな勢いで息巻いたが、父親に強引に止められた。「お前は大人しく引っ込んでいろ!俺が戻るまでここに黙って座っていろ!」隆彦は鋭く目を細めた。「俺が一人で出ていく」高城家の本拠地である屋敷の、豪奢を極めた応接室。光一は冷厳な漆黒のスーツを纏い、ゆったりと長い脚を組み、深紅のビロードソファに深く腰掛けていた。伏せられた長い睫毛の下、その端整な表情からは一切の感情が読み取れない。その両脇には
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第674話

息子の名前を出された隆彦は、ついに堪忍袋の緒が切れた。怒りのあまり、ステッキを大理石の床に激しく叩きつける。「いくらあなたでも、言葉を慎んでいただきたい。あれは俺の息子だ!」「まともな人間もいれば、人の皮を被った畜生以下のクズもいる」「貴様……っ!」「あの日からこれだけの日数が経った。お前ほどの男なら、事の経緯はすでに把握しているはずだ」光一は無表情のまま、指を一本立てた。控えていた木原がすかさず歩み寄り、光一が咥えたタバコに恭しく火を点ける。光一は紫煙を深く吸い込むと、その灰を、高城家が自慢する高価なペルシャ絨毯の上に、躊躇いもなく無造作に弾き落とした。隆彦の怒りは沸点に達していたが、必死に声を押し殺して凄んだ。「回りくどい言い方はやめて、単刀直入に仰ってください、佐久間社長!」「俺の子供が死んだ」光一の声は、業火で喉を焼かれたように、ひどく嗄れていた。その目は暗く、底知れぬ絶望と悲しみの淵に沈んでいる。「俺と瑠璃子の子だ」「瑠璃子?……一体どなたのことですかな」「ずっと俺のそばにいた女護衛だ。お前の愚かな息子が一番よく知っているはずだ」光一は細く白い煙を吐き出し、地を這うような低い声で続けた。「だが今は、ただの護衛ではない。俺の妻だ」隆彦の瞳孔が、驚愕に激しく揺れ動いた。抑えきれない本能的な恐怖が、裏社会のドンの呼吸を止めた。「お前の息子が俺の妻に手を出さなければ、俺たちの子供が死ぬことはなかった」光一は一言ずつ、血を吐くように重く、確かな殺意を込めて言った。「俺たちの子供は逝った。奪われた命は、命で購わせる。誰かにきっちり落とし前をつけてもらう。流された血の代償は、血で洗うしかないのだ」隆彦の顔から、辛うじて取り繕っていた笑みが完全に消え失せた。「佐久間社長、何か重大な誤解があるのでは。息子は、あなたの奥様には一切手を触れていないし、ましてやお腹の子に危害を加えたなど……」「それでも、俺の子供は死んだ。あいつのせいでな」光一は吸いかけのタバコを高級絨毯に直接押し付け、革靴で力を込めて無惨に踏み消した。「不毛な言い訳を聞いている暇はない。あいつをここへ出せ。俺はあいつとだけ話をつける。終わったら、すぐに病院へ戻って妻のそばにいてやらなきゃならないんだ。大人しく息子を渡せば、オ
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第675話

地を震わせるような捨て台詞を残し、光一は手下を引き連れて堂々と屋敷を後にした。その背中が見えなくなってようやく、隆彦は全身から力が抜け、よろめいた。秘書に支えられなければ、床に崩れ落ちていただろう。「終わりだ……晟の奴め、とんでもないことをしでかしてくれた!」隆彦は焦燥に顔を歪め、ステッキを激しく床へ叩きつけた。「あの女はただの護衛ではない。今や佐久間の妻だ。その上、腹には子まで宿していたというのに……その子が死んだ今、あいつは間違いなく晟の命を奪いにくるぞ!」秘書もまた、全身を小刻みに震わせながら応じた。「で、では一体どうすれば……今のうちの力では、佐久間家には到底太刀打ちできません!若様を引き渡さなければ、オリエント・ユニオンごと地獄に道連れにされてしまいます!」「晟はたった一人の息子だぞ!高城の血を絶やせと言うのか!」隆彦は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、悲壮な覚悟を決めた。「何があろうと……晟だけは生かさねばならん。絶対に死なせるわけにはいかないのだ!今頃、空港も駅も港も、佐久間の網がかかっているはずだ。晟が身を潜められるのは、もはや南都の隠れ家しか残されていない。すぐに晟をそこへ移せ。オリエント・ユニオンで最も腕の立つ者たちを護衛につけろ。武器弾薬も掻き集め、何としてでもあの子を守り抜くのだ!」一方、高城邸を後にした光一の車は、病院へは戻らず、捕らえてある晟の部下のもとへと向かっていた。車内では、木原が拳を握り締めながら吐き捨てた。「まったく、あの老いぼれときたら、一目見ただけで食えない狸だと分かりましたよ。まともな話など、ひとつもありやしない!」光一はただ真っ直ぐに前を見据えていた。その漆黒の瞳の奥には、底なしの冷気が渦巻いている。「高城晟の居場所なら見当がついている。もう隠れ家へ移された頃だろうな。だが、構わない。あの男が我々を案内してくれるさ」木原は深く頷き、強張った声で尋ねた。「社長……もし高城晟を捕らえた暁には、どうなさるおつもりで?」光一は、血走った両目をゆっくりと閉じた。そして、これ以上ないほど静かな声で、これ以上ないほど冷酷な宣告を口にした。「子供の命は、奴の命で贖ってもらう。それだけではない――瑠璃子が受けた痛みの分、何倍にもして奴の肉体に刻み込んでやる」……慌ただしく
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第676話

瑠璃子は真っ白なシーツの海に沈むように横たわり、穏やかな寝顔を見せていた。夢は食事と手洗い以外、丸一日たりともその場を離れず、ベッドの傍らに張り付いて瑠璃子が目を覚ますのを待ち続けていた。だが、疲労はとうに限界を超え、重力に逆らえずまぶたがしきりに落ちてくる。そのとき、静寂が支配する廊下に、不審な足音が響いた。白衣に身を包み、大きなマスクで顔の半分を覆い隠した男が、医療カートを押しながらゆっくりと歩みを進めてくる。男は瑠璃子の病室の前で、ふと足を止めた。その目に、どす黒い光が宿る。ドアを押し開けようとした刹那、中からかすかに人が動く気配が漏れ聞こえた。ほんの少し逡巡した後、男は短くノックをしてから静かに入室した。病室内では、ちょうど洗面所から出てきた夢が、その男と鉢合わせになった。「あの……どちら様でしょうか?」男はマスク越しに愛想よく目を細める。「小山瑠璃子さんの処置に参りました」「あ……そうですか。よろしくお願いします」夢は道を譲りつつも、ふと心に引っかかった疑問を口にした。「あれ?いつも処置をしてくださるのは、女性の看護師さんではありませんでしたっけ……?」「ええ、彼女は急用で休みをいただいておりまして。今夜は私が代わりを務めさせていただきます」男の口調はあまりにも自然で、嘘をついている気配など微塵も感じさせない。「そうなのですね、分かりました」そのとき、夢のスマホが震えた。画面には彩葉の名前がある。通話ボタンを押しながら廊下へ出ようとしたその時、ふと彼女の視線が男の足元へと落ちた。――次の瞬間、夢は全身の血が凍りつくような悪寒に襲われた。白衣を着た男の足元にあったのは、医療スタッフが履くようなナースシューズではない。鈍い光を放つ、硬い黒の革靴だった。脳内でけたたましい警報が鳴り響く。夢は鋭い声を張り上げた。「あなた、病院の人じゃないわね!一体何者――むっ!」言い終えるより早く、男は凶暴な目つきで一瞬にして距離を詰めてきた。刺激臭を放つエーテルが染み込んだ布が、容赦なく夢の口と鼻を塞ぐ。夢の全身から急速に力が抜け落ち、そのまま意識を刈り取られるように床へと崩れ落ちた。「ふん、なかなかの観察眼だな。だが、気づいたところで手遅れだ」男は喉の奥で低く笑い、素早く懐から一本の注
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第677話

目の前に広がる光景は、まるで幻のように非現実的でいて、紛れもない現実であった。紙のように蒼白な顔をした瑠璃子が、いつの間にかベッドから身を起こし、刃物を振り下ろそうとした男の手首を、たった片手でがっしりと捕らえていたのだ。かすかに荒い息を吐き、その額には薄っすらと冷や汗が浮かんでいる。だが、彼女の瞳に宿る光は猛禽類のように鋭く、込められた握力は微塵も衰えていなかった。男が力任せに振り解こうともがいても、びくともしない。「お、お前……なぜ……!」男は、瑠璃子の恐ろしいほどに美しく、そして氷のように冷たい横顔をただ呆然と見つめた。「せっかくいい夢を見ていたのに、あんたが騒がしく起こしてくれたのよ」瑠璃子はふあぁと小さくあくびを一つこぼし、聞いているこちらの背筋が凍るような、ひどく気だるげな口調で言い放った。「正直、感謝しないといけないわね。あんたがいなかったら、私、いつまで寝惚けていたか分からなかったし……お礼に、腕の一本くらい外してあげるわ。冥土の土産にでも持っていきなさい」言い終えるが早いか、鈍い音が響き渡り――男が喉を裂かんばかりの絶叫を上げた。人の関節を外すことなど、彼女にとっては児戯に等しい。男がナイフを構えた姿勢を見ただけで、圧倒的に格下であると即座に判断していた。いかに自分が重傷を負い、半死半生の身であろうとも、この程度の三下を仕留めることなど、今の彼女には造作もないことだった。次の瞬間、瑠璃子は男の手から零れ落ちたナイフを空中で鮮やかに掴み取り、その冷たい刃先を寸分の狂いもなく男の頸動脈へと突きつけた。反撃の隙など、一秒たりとも与えない。床にへたり込んだ蒼唯は、目の前に立つ女性の姿を、ただじっと見上げていた。息を呑むほど華やかな顔立ちでありながら、死神のような凄絶なオーラを放つ女性を。普段は波一つない湖面のように静かなはずの心臓が、かつてないほど激しく鼓動している。言葉では到底形容しがたい強烈な熱が、胸の奥底で爆発的に膨れ上がっていくのを感じた。頬も一気に火がついたように熱くなり、まるで高熱に浮かされているかのようだ。生まれてこの方、二十八年間一度も彼女を作ったことのない彼は、まだ知らない。この、まるで太陽に少しずつ近づいていくかのような――温かくて、それでいて灼けるような感覚の正体
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第678話

男は全身を苛む激痛に荒い息を吐きながらも、口を固く引き結んだまま、一言も情報を漏らそうとはしなかった。樹は、ぞっとするほど冷ややかな笑みを浮かべた。「黙っていれば助かるとでも思っているのか?僕が誰か、少しは知っているはずだ。危険な劇薬の所持に、森田先生への傷害……それに殺人未遂が加わる。僕がその気になれば、お前が刑務所の中で一生朽ち果てるまで、シャバに出られないようにすることだってできるんだぞ」弁護士・西園寺樹の名を、北都で知らない者はいない。しかし、その凄みのある脅しを受けても、男は頑なに口を割らなかった。標的の女は死んでいない。このまま歯を食いしばってやり過ごせば、たとえ刑務所に入れられたとしても、十年もすれば出られる。だが、もし背後で糸を引く人物の名前を口に出したが最後、自分を待っているのは確実な「死」だけなのだ。「先輩、もういいわ。これ以上どう追い詰めても、この男は絶対に口を割らない」彩葉は男の肚の内を正確に読み切り、その目を氷のように細めた。「あれだけのリスクを冒して病院へ乗り込み、殺しまで請け負った男よ。相応の覚悟はとっくにできているはず。警察に引き渡しましょう。この先は専門家に任せた方がいいわ。このまま最後まで、せいぜい強情を張り続けてくれればいいと思うわよ」まもなくして警察が到着し、男は連行されていった。蒼唯は被害者兼目撃者として事情聴取に同行することになり、樹もまた有能な弁護士として付き添った。蒼唯に一切の不利益が生じないよう、万全の態勢で側につくためだ。残った二名の警察官が病室に留まり、死の淵から生還したばかりの瑠璃子に、事件の詳しい経緯を尋ねようとした。しかし、先ほどの格闘は彼女が最後の気力を振り絞った結果だった。今の瑠璃子には、たった三つの質問に答えることすら精一杯で、蒼白な額にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。「私の友人は重傷からようやく目を覚ましたばかりなんです。今夜のところは、これくらいにしていただけませんか。体力が回復し次第、改めてこちらからご連絡いたしますから」彩葉は瑠璃子の冷たい手を両手でぎゅっと包み込んだ。骨が浮き出るほどに痩せ細ったその体に触れ、先ほどの激闘がいかに命懸けであったかを痛感し、胸が張り裂けそうだった。「承知いたしました。では、ご回復されましたら改めてご
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第679話

声がひどく詰まり、瑠璃子の言葉はほとんど聞き取れないほどに震えていた。「だから……いなくなっても、良かったのよ。この残酷な世界で、あの子が苦しまずに済んだんだから」「るりちゃん、あなたが意識を失っていたこの何日間、光一はずっと……」「その人の話は、しないで」瑠璃子は両手で掛け布団をきつく握り締め、胸の奥から込み上げる激しい感情をぐっと押さえ込んだ。「あの人には、二度と会いたくない。名前を聞くのすら……嫌なの」「……分かった。もう言わない」「いろはっち」「うん、ここにいるよ」瑠璃子の長い睫毛が微かに震え、涙で濡れて束になっていた。「この傷が治ったら、あたし、北都を出るつもり……」「えっ……どこへ行くの?」瑠璃子の声には、過去への未練など一欠片も残っていない、決然とした意志が宿っていた。「北都を離れたとしても、この国のどこかにいる限り、あの人はどんな手を使ってでもきっとあたしを見つけ出してくる。だから海外へ行くわ。どこにいても、永遠にあたしを見つけられないくらい……遠くへ」……一方その頃、隆彦は息子の晟を入念に変装させ、腕の立つ部下たちを護衛につけて、夜の闇に紛れて北都から脱出させていた。行き先は、遠く離れた南都。用意された隠れ家は、南都の滝山の麓にひっそりと建てられた別荘だった。だが、その構造は一線を画している。壁の内側には銀行の巨大金庫室に匹敵する分厚い鋼鉄の装甲板が張り巡らされ、窓も必要最小限。窓はすべて、外からは中が見えないマジックミラー仕様の防弾ガラスで固められていた。設備の堅牢さは言うまでもなく、建物の周囲にはオリエント・ユニオンの精鋭たちが配置され、アリの一匹も通さない鉄壁の要塞と化していた。だが、どれほど難攻不落の要塞を築き上げようとも、必ず弱点は存在する。そこを守り、そこに籠もるのは、結局のところ脆い「人間」なのだから。隠れ家に到着した初日の夜から、晟の忍耐はすでに限界を迎えていた。ここに閉じ込められている状況は、刑務所の独房に入れられているのと変わりない。何より彼を狂わせたのは、薬が切れたことで襲い来る禁断症状だった。骨の髄を蟲が這い回るような、一分一秒が永遠に感じられる地獄の苦しみ。「もう無理だ!ここから出してくれ!外に出せ!」晟は隠れ家の中で獣のように叫び続け
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第680話

「……何だと!?」晟は心臓が飛び出るほど驚愕したが、すぐに「この要塞は大砲でも撃ち込まない限り絶対に落ちない」という事実を思い出し、無理やり気を取り直すとソファに寝転がり、ズルズルと鼻をすすった。「来るなら来い!向こうから死にに来てくれたんだ、いい気味じゃないか。蜂の巣にして、ミンチにして豚の餌にでもしてやれ!」秘書はガタガタと奥歯を鳴らして震えていた。強大な権力を持つ隆彦でさえ、今の光一の狂気には迂闊に手が出せない。それなのに、この愚かな御曹司は己の立場も弁えず「殺せ殺せ」と喚き散らしている。真っ先にミンチにされるのは、間違いなく自分たちの方だ。「と、とにかく若様は奥の部屋に隠れていてください!私がなんとか対処しますから!」秘書が言い終わるより早く、今度は別の部下が、顔中を滝のような汗で濡らし、半狂乱になりながら飛び込んできた。「大変です!!佐久間が、すでに敷地内に乗り込んできました!!」その報告に、晟の顔面から一瞬にして血の気が引き、紙のように蒼白になった。秘書もまた、腰を抜かさんばかりに震え上がった。「あんな鉄壁の要塞に……一体どうやって侵入したんだ!?」「奴ら、重火器を持ち込んできたんです!あの佐久間の社長、完全に頭がいかれています!動くものがあればネズミ一匹逃さず撃ちまくって……!うちの若い衆が、すでに何人も血祭りに上げられています!」「お前たちは撃ち返さなかったのか!なぜ殺さない!」晟が金切り声で怒鳴り散らした。部下は恐怖に震え、泣き出しそうな声で答えた。「さ、佐久間グループのトップを……もし俺たちが殺しでもしたら、うちの組は完全に社会から抹殺されて……」「この大間抜けが!向こうが本気でこっちの命を取りに来てるってのに、まだそんな後先を考えてるのか!!」晟の目に、追い詰められた獣のような凶悪な光が走った。「撃ち殺せ!今すぐ全員ぶっ殺せ!女一人のために発狂した狂人なんか、死ねばいいんだ!!」……一方、その頃。隠れ家の外には濃密な殺気が充満し、むせ返るような生臭い血の匂いが夜風に乗って漂っていた。南都へと向かう道すがら、殺戮の戦場へ赴こうとする車内で、光一は何度も迷った末に深く息を吸い込み、最も信頼する友・蒼真の番号へと発信していた。数回のコールの後、電話は繋がった。スピーカー越しに、い
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