霧が薄い。 水面が、淡い金でゆっくり息をしていた。近くで龍の尾が輪を描く。波紋が寄って、離れて、また寄る。 「私……一人で頑張らなきゃって……ずっと……」 胸の奥がきしんで、言葉がほどける。 「子どもにまで寂しい思いをさせて……」 抱きとめる腕があった。ためらいのない、静かな力。 「もう一人じゃない」 「俺がいる」 「俺たちが家族になるんだ」 喉がつまる。息が熱い。 「でも、私には子どもが……」 間は、ほとんどなかった。 「君“だけ”を望むと思ったか?」 「俺は欲深い」 「君も、君の子も、全部抱きしめていたい」 水の音が近い。霧の粒が、まつ毛でひとつ光る。 「……え?」 頬のそばで、低い笑いがやわらぐ。 「俺は幸せ者だ」 「君の愛だけじゃない」 「君の子の笑顔まで、俺にくれるのだから」 力が抜けて、膝がほどける。泣き崩れた背に、小さな腕がまわる。ぐっと、強く。 龍の尾が、ふわり。三人ごと包む。 水が光を返す。朝が、生まれていく。 光は、もうひとつの光を連れてきた。にじむ白。雨の中の信号機。まぶたの裏で切り替わる。 曇りの朝。湿気でカーテンがすこし重い。台所のフライパンが、ちいさく鳴いた。 トーストは薄く、卵焼きはすこし焦げ。湯気が窓へ流れていく。 「ママ、ここのカリカリ、すき」 テーブルの向こうで、ちいさな人が角を指さす。 「カリカリね。……はい、ソウマの分」 皿を寄せると、鼻を近づけて吸い込む。 「こうばしい匂いする。ママのがいちばん」 「ありがと」 「いってきますの、ぎゅ」 「三回ね」 手と手。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。 「だいじょうぶの合図」 「……うん。だいじょうぶ」 保育園へ急ぐ。靴が水たまりを踏んで、ズボンの裾に丸い跡ができる。 門の前で先生に頭を下げて、息を整える。胸の鼓動がまだ早い。 事務所。蛍光灯の白。 コピー機が紙を飲み込む音。 席に座る前に呼ばれて、狭い会議室へ。 上司が書類をめくる指先だけがよく見えた。 「契約、今月で終わりにしようか」 「……そう、ですか」 「うん。人は足りてて」 「わかりました」 エレベーターの鏡に映る自分。口角を上げる練習。うまくいかない。 首もとを押さえて、ひとつ息を吐く。 外へ出ると、空気はぬるくて、雨がまた細かく降りはじめて
Last Updated : 2025-10-22 Read more