LOGIN朝の台所は、湯気が少なかった。
温室の葉の匂いが、まだ少しだけ残っている。 火の音も、控えめだった。 美琴はパンの表面を見て、指先を止めた。 「……パン、焦げてない?」 焦げてはいない。 でも、美琴の声は確認みたいに揺れた。 「うん。今日は、いい色」 「焦げる日は焦げるし、焦げない日は焦げないよ」 アメリアが、鍋のふちを木べらで軽く叩く。 その音が、妙に落ち着いた。 「……そっか」 言ってから、美琴は息を吐いた。 自分の肩の力が、少しだけ抜けるのが分かった。 蒼真は椅子の上で、背筋を伸ばしている。 手のひらがテーブルの端をなぞる。 見えない線を確かめるみたいだった。 「ママ、今日は、どこ?」 「えっと……書きもの」 「門の近く、かな」 美琴が言うと、蒼真は小さく頷いた。 それから椅子を、とん、と叩いた。 「じゃあ、ぼく、ここ」 「そこ?」 「うん。見えるから」 蒼真の目は、窓のほうを見ている。 門へ続く道が、角度によって少しだけ見える場所。 美琴は笑いそうになって、笑えなかった。 「……見えなくても、呼んでいいからね」 「うん」 「でも、見えるほうが、いい」 蒼真の声は軽いのに、言い切りは固い。 美琴は頷いて、皿を寄せた。 「はい。蒼真の分」 「カリカリある?」 「あるよ。ちゃんと」 蒼真は満足そうに頬を緩めた。 その瞬間だけ、台所の空気が柔らかくなる。 そこへ足音がした。 大きいのに、乱暴じゃない音。 扉が開く前に、気配で分かった。 「おはよう」 低い声。 短い。 それだけで、台所の音が整う。 美琴は、目を上げるのが遅れた。 礼儀じゃなくて、心が追いつかなかった。 「……おはようございます」 「おはよう、でいいよ」 アメリアが何でもない顔で言う。 美琴は小さく笑って、すぐに飲み込んだ。 蒼真が、椅子の上で少し背伸びをする。 「おはよう」 「おはよう。ソウマ」 呼ばれて、蒼真は嬉しそうに鼻を鳴らした。 それだけで、美琴の胸が少し熱くなる。 ライゼルは食卓を見て、言葉を選ばずに置いた。 「今日は、門前が混む」 美琴はパンに目を落としたまま頷く。 「……昨日の続き、ですよね」 「そう」 それ以上、言わない。 言わなくても、門の空気は想像できた。 それが分かるようになった自分が、怖かった。 リネアが入ってきて、カップを二つ置いた。 湯気の細い音。 香りが、鼻の奥に触れる。 「まずお茶です」 「……ありがとうございます」 「手が冷たいですよ」 そう言われて、美琴は自分の指先を見た。 冷たいのに、気づいていなかった。 「今、温まります」 リネアは頷いて、蒼真の前にも小さなカップを置いた。 中身は薄い。 蒼真は匂いだけ嗅いで、ちょっと顔をしかめた。 「これ、にがい?」 「にがくないようにしたわ」 「でも、にがい顔をするのは、かわいいですね」 「かわいくない」 蒼真は即答した。 その強さに、美琴が少し笑う。 笑ったあとに、喉が詰まって、すぐに息を吸い直した。 ライゼルが、テーブルの端に指先を置く。 ほんの少しだけ。 置いただけなのに、美琴の肩の内側が緩んだ。 「門へ行くなら、上着」 「……はい」 言われて、ようやく自分が薄い服のままだと気づく。 美琴は上着を掴んだ。 指がもたついた。 蒼真が、ちょっとだけ顔を上げた。 「ママ、ぎゅ、して」 「うん。三回ね」 ぎゅ。 ぎゅ。 ぎゅ。 美琴の胸が、少し落ち着く。 蒼真の指は小さいのに、力がある。 子どもの力じゃないみたいに、真面目だった。 外へ出ると、空気は冷たくなかった。 湿度が、肌に薄く貼りつく。 湖のほうから風が来る匂いがした。 門へ向かう道は、すでに人の足音が重なっている。 門前には掲示札が立っていた。 青い糸で留められた札。 丸印が、いくつか並んでいる。 美琴はその前に立ち、紙束を抱え直した。 「……これ、丸、二つでいいの?」 女の人が、札を指さす。 声は強くない。 でも、背中には焦りがある。 「はい。二つ」 「今は、それで中に入れます」 美琴が言うと、女の人は肩を落とした。 「よかった……昨日、聞きそびれたの」 別の男の声が混ざる。 「昨日は、一つでよかっただろ」 声が少し尖っていた。 尖っているのに、怒りというより不安だった。 美琴は目を上げて、その人を見る。 視線が合う。 一瞬だけ、息が止まる。 「……昨日は、昨日でした」 言い切ったあと、空気が止まった。 ほんの短い沈黙なのに、門前の音が遠くなる。 蒼真が、美琴の袖を引いた。 「ママ……」 美琴は袖を引かれたところに手を置く。 力を入れすぎないように、気をつける。 「大丈夫」 三回、ぎゅ。 ぎゅ。 ぎゅ。 ぎゅ。 蒼真の指の温度が、美琴の掌に残った。 列は進む。 人は動く。 でも、ひとつだけ動かない人がいた。 門の横。 掲示札から少し外れた場所で。 立ち止まっている。 声がない。 視線だけが、札に刺さっている。 肩が、少しだけ落ちている。 カイムが、前に出た。 一歩だけ。 それだけで、門前の空気が締まる。 美琴は、その変化に気づいて、喉が乾いた。 「……どうした」 男は、答えるのが遅れた。 遅れたまま、口を開く。 「……いや」 「呼ばれてない、気がして」 その言葉が落ちる。 拒まれた怒りじゃない。 置いていかれたみたいな声だった。 美琴は、紙束を抱え直す。 指先が少し震えた。 見ないふりをしたら、楽だった。 でも、目が逸れなかった。 「……名前、聞いてもいいですか」 男は一度、目を伏せた。 それから、短く言った。 「……ロアン」 「ロアンさん」 「今は……少し、待ってもらえますか」 美琴は言いながら、怖くなった。 自分が勝手に約束している感じがした。 勝手に。 でも、口は止まらなかった。 「……うん」 ロアンは頷いた。 頷いたのに、息が浅い。 胸のあたりが落ち着いていないのが見える。 カイムは何も言わない。 ただ、立っている。 それが、圧に見えた。 美琴は一歩、引きたくなった。 そのとき、門の内側から足音がした。 こちらへ向かってくる音。 急がない。 乱さない。 けれど、確実に近づいてくる。 ライゼルが現れた。 外套の裾が、風で少し動く。 門前の人たちの視線が、一斉に寄った。 ざわめきは増えない。 ただ、呼吸が揃う。 ライゼルはロアンを見て、声を置いた。 「ロアン」 ロアンの肩が、少しだけ跳ねる。 名前を呼ばれた音に、身体が先に反応した。 「……はい」 「中へ」 「順番は、あとで」 ロアンは口を開く。 でも、言葉が迷った。 「でも……」 「呼んだ」 「それでいい」 ライゼルの声は低い。 短い。 揺れない。 ロアンは、息を止めた。 止めたまま、目が濡れそうになる。 それを隠すみたいに、顎を引いた。 「……はい」 ロアンは門をくぐる。 その背中が、少し軽く見えた。 列が動き出す。 止まっていた空気が、流れ直す。 誰も何も言わない。 でも、誰もが少しだけ息を吐いた。 美琴は、その横顔を見た。 見てしまった。 見てしまって、胸が痛い。 痛いのに、嫌じゃない。 カイムが半歩下がる。 それだけで、門前の圧が薄くなる。 蒼真が、小さく息を吐いた。 その息が、美琴の袖を揺らす。 門の中へ入ると、音が少し遠のいた。 門の外の話し声は、まだ聞こえる。 でも、ここには壁がある。 それだけで、胸の奥が少し落ち着く。 美琴は立ち止まって、紙束を抱えたまま言った。 「……勝手に、口を出してしまって」 言ったあと、すぐに後悔が来る。 今さら謝るのも変なのに、口が勝手に動く。 ライゼルは美琴を見た。 見下ろすのに、目線は怖くない。 「出していい」 短い。 でも、拒まれない。 美琴は笑えなくなる。 胸の奥が、少しだけ荒れる。 「……でも、判断を」 ライゼルは間を置かずに言った。 「俺が引き取る」 その言葉が、美琴の背中を押した。 押されたのに、前に進めない。 足が、床に貼りつく。 美琴は唇を噛みそうになって、噛まなかった。 代わりに、息を吸って、吐いた。 「……それ、ずるいです」 言った瞬間、目が熱くなる。 ずるい。 ずるいのに、ありがたい。 ライゼルは眉を動かさない。 でも、声が少しだけ柔らかくなる。 「そうか」 美琴は喉の奥で音が詰まった。 詰まったまま、言葉を探す。 「……守られてる、って」 「後から分かるの、ずるい」 言い切れない。 最後が薄くなる。 美琴は自分の声が震えるのを、止められなかった。 沈黙が落ちる。 風が門の上を通って、布を揺らした。 その音だけが、少し大きい。 ライゼルは美琴の手元を見る。 紙束を抱える指先。 白くなっている。 「……名前を呼んだだけだ」 美琴はその言葉に、息が止まる。 名前。 それだけ。 それだけなのに。 「……それが、いちばん、怖いです」 言った瞬間、喉が痛くなった。 泣きたいわけじゃない。 でも、身体が勝手に反応しそうになる。 蒼真が二人を見上げた。 いつもの明るさが、少しだけ静か。 「……ねえ」 「なに?」 美琴が返すと、蒼真は一度だけ瞬きをした。 それから、ゆっくり言う。 「こわいときは、名前、呼ぶんでしょ」 美琴は返事が遅れる。 遅れたまま、頷いた。 「……うん」 蒼真は、少しだけ口を尖らせる。 考えている顔。 大人みたいに、考えている。 「ママも、呼んでいい?」 「……え」 蒼真は指を伸ばす。 迷いがない指。 その指が指したのは、ライゼルだった。 「この人の」 美琴は息を吸って、止める。 止めたまま、ライゼルを見る。 ライゼルは少しだけ目を伏せた。 ほんの一瞬。 それだけで、胸の奥がきゅっとなる。 蒼真の声は続く。 子どもの声なのに、まっすぐ。 「だって、さっき」 「ロアンさん、来たもん」 言い終えたあと、蒼真は口を閉じた。 閉じたまま、美琴の顔を見上げる。 待っている。 急がせない。 その待ち方が、胸に刺さる。 美琴は唇を開く。 でも、声が出ない。 息だけが出る。 自分の中で、何かが揺れる。 ここで呼んだら。 何かが変わる。 変わるのが怖い。 でも、変わらないのも怖い。 美琴は息を吸う。 吸って、止める。 止めて、ようやく声にする。 「……ライゼルさん」 自分の声が、少しだけ震えた。 震えたのに、逃げなかった。 ライゼルはゆっくり頷く。 声を低く置く。 「……ああ」 それだけ。 それ以上、言わない。 でも、そこにいた。 蒼真が、ふっと息を吐いた。 肩が落ちる。 その落ち方が、安心の形だった。 「……よかった」 蒼真は美琴の手を取る。 三回、ぎゅ。 ぎゅ。 ぎゅ。 ぎゅ。 美琴は、その合図に返すように、同じ力で握り返した。 握り返した瞬間、胸の奥が少し温かくなる。 温かいのに、泣けない。 泣けないまま、呼吸が整っていく。 門の外の声は、まだ聞こえる。 混んでいる。 ざわついている。 でも、今は少し遠い。 美琴は小さく笑いそうになった。 笑いそうになって、息を吸い直す。 「……呼んで、いいんですね」 言葉が出た。 出たのに、終わりが弱い。 でも、それでいい気がした。 ライゼルは美琴の横に立つ。 近いのに、押してこない距離。 「怖いときは」 「呼べ」 短い。 やさしい。 命令じゃない。 約束みたいに、置かれる。 美琴は頷いた。 頷きながら、喉の奥が詰まった。 詰まったまま、目を伏せる。 蒼真が、急に元の声に戻る。 「じゃあ、ぼくも、呼ぶ」 「うん」 美琴が言うと、蒼真は得意そうに胸を張った。 「ぼく、つよいから」 その言い方が、少しだけ違った。 強がりじゃなくて、確認みたいだった。 美琴は蒼真の頭を撫でる。 撫でた指先に、髪の温度が残る。 「強いよ」 「でも、強い子も、呼んでいいよ」 蒼真は目を丸くして、すぐに笑った。 「うん」 笑い声が、門の中に少し広がる。 広がって、消えない。 美琴はもう一度、ライゼルを見る。 見たまま、言葉が出ない。 でも、視線を逸らさない。 名前を呼んだ。 それだけ。 近づいたわけでも、触れたわけでもない。 ただ、逃げ道がひとつ、同じ方向になった気がした。 その感覚が残っているあいだだけ、胸の奥が少し温かかった。朝の台所は、湯気が少なかった。温室の葉の匂いが、まだ少しだけ残っている。火の音も、控えめだった。美琴はパンの表面を見て、指先を止めた。「……パン、焦げてない?」焦げてはいない。でも、美琴の声は確認みたいに揺れた。「うん。今日は、いい色」「焦げる日は焦げるし、焦げない日は焦げないよ」アメリアが、鍋のふちを木べらで軽く叩く。その音が、妙に落ち着いた。「……そっか」言ってから、美琴は息を吐いた。自分の肩の力が、少しだけ抜けるのが分かった。蒼真は椅子の上で、背筋を伸ばしている。手のひらがテーブルの端をなぞる。見えない線を確かめるみたいだった。「ママ、今日は、どこ?」「えっと……書きもの」「門の近く、かな」美琴が言うと、蒼真は小さく頷いた。それから椅子を、とん、と叩いた。「じゃあ、ぼく、ここ」「そこ?」「うん。見えるから」蒼真の目は、窓のほうを見ている。門へ続く道が、角度によって少しだけ見える場所。美琴は笑いそうになって、笑えなかった。「……見えなくても、呼んでいいからね」「うん」「でも、見えるほうが、いい」蒼真の声は軽いのに、言い切りは固い。美琴は頷いて、皿を寄せた。「はい。蒼真の分」「カリカリある?」「あるよ。ちゃんと」蒼真は満足そうに頬を緩めた。その瞬間だけ、台所の空気が柔らかくなる。そこへ足音がした。大きいのに、乱暴じゃない音。扉が開く前に、気配で分かった。「おはよう」低い声。短い。それだけで、台所の音が整う。美琴は、目を上げるのが遅れた。礼儀じゃなくて、心が追いつかなかった。「……おはようございます」「おはよう、でいいよ」アメリアが何でもない顔で言う。美琴は小さく笑って、すぐに飲み込んだ。蒼真が、椅子の上で少し背伸びをする。「おはよう」「おはよう。ソウマ」呼ばれて、蒼真は嬉しそうに鼻を鳴らした。それだけで、美琴の胸が少し熱くなる。ライゼルは食卓を見て、言葉を選ばずに置いた。「今日は、門前が混む」美琴はパンに目を落としたまま頷く。「……昨日の続き、ですよね」「そう」それ以上、言わない。言わなくても、門の空気は想像できた。それが分かるようになった自分が、怖かった。リネアが入ってきて、カップを二つ置いた。湯気の細い音。香りが、鼻の奥に触れる
温室の湯気が低くゆれて、葉に小さな水が残っている。アメリアが火を見て、匙を一度だけ回した。「深呼吸して、少し飲んで。横になるのは……起きてからにしよう」「うん」私は帳の余白を指でそろえ、端に小さく印を足す。ソウマが袖を三回つまむ。「ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ」「聞こえてるよ」湯気の匂いは甘くて、胸の奥がふっとやわらぐ。門を叩く音が、木の方へ抜けた。アメリアが目で私を見る。私は頷いて、息をひとつだけ整えた。外の匂いが、扉の隙間から入ってくる。扉が開いて、粉のついた腕が見えた。リサナが三角布を押さえて、息を吐く。「ごめんね、朝から。橋の手前で荷車が詰まってて、粉が運べないの」「けがはないか?」背後からカイムの声。低くて短い。「ないよ。でも、人が集まってて……子どもが寒そうだった」カイムはすぐ外を見る。「門の前、間を空けろ。子どもを先に通せ」 庭の従者が走る。「わかりました」リネアが歩み寄り、リサナの手から小さな紙片を受け取る。「朝の焼く数、どうするか迷ってるのね」「うん。減らしたら、お昼が足りなくなるかもって」「迷ってるなら、こっちで火を増やそう」 背後から、ライゼルの声。静かで、届く。「焼くのは止めない。温室の粥を一つ増やせ。足りない分は俺が出す」リサナの肩が少し落ちた。「……助かります」通りがかった従者が当たり前のように頭を下げる。「閣下、門は少し開けておきますね」ライゼルは短く頷く。「寒い人を先に入れろ」リネアが私の方へ紙片を返した。「ミコト、門の前に掲示を出そう。配り方はここで決めよう」 喉が少し乾く。「……私が、書くの?」「任せてもいい?」リネアの目は静かで、急がせない。私は炭筆を握る。指先が細かく震える。「門のところまでなら……行ける」ソウマが青い糸を差し出した。「ほら、ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ」「うん。門前で、見える高さに結ぶね」一枚目の札に、丸を二つ。「子どもを優先」余白を残して、息を入れる。カイムが掲示の位置を下げてくれる。「この高さなら、子どもにも見えるね」「ありがとう」門の外は濡れている。靴の音が浅くなる。ここで火を一つ足せば、あちらの冷えが戻る。そんな感じがした。「鍋をもう一つ」アメリアが火加減を落とし、塩を指先で控える。「蜂蜜水も
天井のどこかで、ぽた、と音がした。 アメリアが無言で桶を置いて、布巾をしぼる。湿気の匂いがすこし濃い。 ソウマが指で三回、私の袖をつまんだ。 「ねぇ、水、落ちてる」 「うん。……すぐ直すね」 息を合わせるように答える。 扉口にライゼルが立って、短く言った。 「高い所は俺がやる。下は頼んだ」 「ここ、だいぶ漏れてるわね」 アメリアが天井の角を見上げる。 「布押さえて。ソウマ、足元見てて」 私が言うと、ソウマはうなずいて位置を変えた。 「脚立持ってくる」 ライゼルが脚立を引き寄せる。金具が静かに鳴った。 温室へ移る。 ガラスの継ぎ目から細い筋が落ちて、机の端にしみを作っていた。 テーブルをすこし動かして、養生布をかける。 ライゼルが脚立を立て、上から指で示す。私は紐の端を受けて、結び目を作る。 「もう一回、しっかり結んで」 「うん……ここで止めるね」 ソウマが手を伸ばした。 「僕、ここ持つ」 「いくよ。タイミング合わせて——せーの」 アメリアの声で、布のしわが伸びる。 ルゥは膝のそばで丸くなって、静かに見ていた。 私は小さな釘をひとつ、軽く打つ。 紐の角度が変わって、滴の落ちる位置がずれる。 自分でもほっとして、息がゆるむ。 「いまの音……すこし、軽い」 自分でもほっとして、息がゆるむ。 昔は——この音が、怖かった。 ひとりで暮らしていた頃、夜の屋根から落ちる雨の音は、 いつまでも止まらなくて。 桶を置いても、水は別の場所から落ちてきて、 “直らない音”が部屋の中に居座っていた。 あのとき、泣いても誰も気づかなくて、 誰かを呼ぶ声も、すぐ雨に消えた。 けれど今は違う。 音を聞く人がいて、息を合わせてくれる手がある。 結び目を引く力の向こうに、確かに“ここで生きる音”がある。 もう、雨の音は怖くない。 直せる音になった。 「雨の日の納品、順番が乱れてます」 帳を抱えたリネアが駆けてきた。肩に細い水滴が残っている。 私は机の端を拭いて、炭筆で臨時の小さな欄を作る。 「ここに“雨待ち”って書くね」 木札に小さな穴を開けて、青い糸を通す。青は遠くでも見える。 「渡すときは丸と青い糸をつけて、受け取ったら糸を外して、もう一個丸をつける」 リネアの目がやわらいだ。 「見やすいね。遠くか
夜明け前、台所の窓のほうで小さな鈴が鳴った。 荷車が遠くをゆっくり通る音が、まだ薄い。 布巾を絞る音と、湯気の匂い。 昨日、リネアに頼まれた。 「市場の帳簿、手伝ってくれませんか。最近、渡し間違いが多くて……」 ——この町の市場では、朝に品物を受け取る人の数が多すぎて、 誰に渡したのか、どの店がまだなのかがすぐ分からなくなるらしい。 手書きの帳簿はあるが、忙しさで印をつける余裕もない。 今日は、その整理を任された“記録係”の初日だった。 「どこか行くの?」 ソウマが袖をつまむ。 「うん。……市場。パン屋さんたちの記録を手伝うの」 「ちゃんと手、離さないでね」 「ゆっくりね。ふーってして」 アメリアが椀をそっと差し出す。 扉のところで、ライゼルが短く言う。 「準備ができたら出発する。帳簿も忘れるな」 靴。上着。帳簿と炭筆。小さな布袋。ソウマの手。 数えるたび、胸が落ち着く。 門を出ると、土の匂いが濃くなる。 草の先が濡れて、靴の底が少し吸いこまれる。 「今日は道がぬかるんでる。気をつけて」 カイムが前を見たまま言う。 「うん……ソウマ、手つないで」 手をにぎり直す。 「離れるなよ」 ライゼルの声は短くて、よく届く。 路地に入ると、人いきれが増えた。 見張りの男が合図だけで流れを整える。 パン屋の軒の前は、白い粉の匂い。 湯気が低く流れて、扉の内側で人の影が行き来する。 「いらっしゃい。……子どもの顔色、いいね」 粉のついた手で、リサナが笑った。 「おはようございます。今日、帳簿整理の手伝いに来ました。 順番の印をつけるだけですけど、許可をいただけますか?」 「もちろん。朝は混むから、助かるわ」 台の上に帳簿を開く。 欄はびっしり埋まっているのに、印が抜けている行が多い。 「これ、受け取った人に丸をつけていけば分かりやすいかもしれません。 受け取る前に一つ、渡したあとにもう一つ、二重丸にするんです」 「なるほどね……目で見てすぐに分かる」 リサナが感心したようにうなずいた。 客が次々と押し寄せる。 リサナが包みを渡すたび、私は帳簿の欄に小さな丸をつけていく。 「次の方、こちら。——はい、二つ目の印、完了です」 呼び声が重ならなくなり、包みの紙が擦れる音だけが続いた。……ところで、つ
朝の台所は、湯気とパンの匂いであたたかかった。 温室の窓がしっとり光って、テーブルの端に椅子がひとつ、空いている。 「熱いから、ふーしてね」 アメリアがお椀を置く。 「ふー……あつい……でも、おいしい」 ソウマが息を吐いて、顔をほころばせた。 「おはようございます。ここ、座りますか?」 リネアが椅子を引いてくれる。 「……はい。ありがとう」 座る前にちいさく会釈する。 「冷めないうちに、食べよう」 ライゼルが短く言って、鍋のふたをすこし持ち上げた。湯気がまた立つ。 器を手前に寄せてくれる。熱がすこしやわらいだ。 スプーンの音がそろって、朝が動きだした。 小客間。邸の静かな予備室。低い机に紙束と紐、木札が置いてある。リネアが薄い帳面を開いて見せた。 「昨日までの納品記録です。日付がずれてて……もう少し見やすくしたいんです」 「並べ替え……えっと、日付→品名→数量。渡すときは、ここに小さく丸をつけて」 欄の端を、とん、と指で示し、紙に小さなまるをひとつ描く。 「受け取ったら、もう一つ丸を。ひと目でわかります」 「丸印、いいですね。誰が見てもわかりやすいのが一番です」 「じゃあ、私でもちゃんとわかるようにしておきますね」 ふっと二人とも笑った。 紙を束ねる前に、順番を指でなぞる。ページの端をちょんと折って、目印をつける。 「これ、ママのお仕事?」 ソウマとルゥが覗き込む。ルゥの鼻先が紙に近づく。 「そう。ここで並べるだけだよ」 ルゥが紙をかじろうとして、 「こら、紙は食べません」 自分でもおかしくなって、肩の力が抜けた。 「ルゥ、こっちだよ。果物あるよ」 アメリアが皿を鳴らす。ルゥがすぐ移動して、ちいさく「るぅ」。 指先の紙の粉が、すこしだけ白い。並べるだけ。けれど、ここで役に立てる気がした。 胸の奥が、少し明るくなる。 中庭に出ると、空気がやわらかい。洗濯紐が風で揺れて、陽が低いベンチの背に落ちている。 「井戸、今日は深いから気をつけて」 見回りのついでに、カイムが足を止めた。 「はい」 「ママ、三回だよ」 ソウマが手を出す。 「うん。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」 「いい合図だな」 カイムの目がすこし和んだ。 「……そうでしょ」 私もつられて笑う。家のルールがすこしずつ身体に入っていく。 玄関
木の切れ間を抜けたところで、石の門が現れた。灯りがひとつ、風にゆれている。 男は歩幅を合わせたまま、門の前で片手を上げた。 「開けてくれ」 内側で足音。横板が外れる音。重い扉がすこしずつ開く。 「了解しました。……怪我はありませんか?」 低い声の男が現れた。鎧の肩に夜気が触れて、きい、と鳴る。 「大丈夫です。私は平気です」 思わず先に答えた。抱き寄せた腕の中で、蒼真の指が動く。 彼が、横目で蒼真を見た。 「子どもには、温かいものを」 門番の男が、視線だけ柔らいだ。 「すぐ用意します」 敷石に足を下ろす。 土の柔らかさが離れて、靴の底に冷たさが戻る。灯りが近づいて、息がひとつ深くなった。 玄関の扉が開き、黒いエプロンドレスの女性が膝をついた。目線が、こちらと同じ高さまで降りてくる。 「ようこそ。まずお湯です。毛布もすぐ。 話は、そのあとで」 「ありがとうございます……」 「うん、あったかい」 蒼真が毛布に頬をすり寄せる。彼女はほっと息をこぼした。 「かわいい声ね」 濡れた靴をそっと外してくれる。床は乾いて、木の香りがする。 「お名前を教えてもらえますか?」 「ミコトです。……この子はソウマです」 「ミコト様、ソウマくん。私はリネア。ここでは、休んでいい場所を先に作ります」 背後で、鎧の人が小声で言う。 「閣下、お湯の準備は?」 「ライゼル様」 リネアが呼んだ。男は、こちらを見ずに毛布をかけ直すだけだった。 廊下の先、小さな部屋に通される。壁に掛けられた灯りがやわらかい。木の机、低い寝椅子、暖かい空気。息がほどける。 「冷えてるね。まずは一口ゆっくり飲んで」 ハーブの盆を抱えた女性が入ってきた。カーキ色の作業着、三つ編みをぐるっと巻いている。湯気の向こうで笑う目。 「アメリアです。はい、一口どうぞ」 湯のみが手に押し当てられる。指先が、じんとする。 「……甘い」 蒼真がひと口。喉がごくりと動いた。 「うん、体がしっかりしてる」 「すみません、いろいろご迷惑を……」 「謝るのはあとでいいから。落ち着いて、休んで」 言い切らず、やさしく押し出す声。背筋の力が、ひとつ抜けた。 部屋の隅に立つ彼――ライゼルは、邪魔をしない。必要そうなものだけ先に置いていく。 乾いたタオル。もう一つの湯のカップ。毛







