LOGIN木の切れ間を抜けたところで、石の門が現れた。灯りがひとつ、風にゆれている。
男は歩幅を合わせたまま、門の前で片手を上げた。 「開けてくれ」 内側で足音。横板が外れる音。重い扉がすこしずつ開く。 「了解しました。……怪我はありませんか?」 低い声の男が現れた。鎧の肩に夜気が触れて、きい、と鳴る。 「大丈夫です。私は平気です」 思わず先に答えた。抱き寄せた腕の中で、蒼真の指が動く。 彼が、横目で蒼真を見た。 「子どもには、温かいものを」 門番の男が、視線だけ柔らいだ。 「すぐ用意します」 敷石に足を下ろす。 土の柔らかさが離れて、靴の底に冷たさが戻る。灯りが近づいて、息がひとつ深くなった。 玄関の扉が開き、黒いエプロンドレスの女性が膝をついた。目線が、こちらと同じ高さまで降りてくる。 「ようこそ。まずお湯です。毛布もすぐ。 話は、そのあとで」 「ありがとうございます……」 「うん、あったかい」 蒼真が毛布に頬をすり寄せる。彼女はほっと息をこぼした。 「かわいい声ね」 濡れた靴をそっと外してくれる。床は乾いて、木の香りがする。 「お名前を教えてもらえますか?」 「ミコトです。……この子はソウマです」 「ミコト様、ソウマくん。私はリネア。ここでは、休んでいい場所を先に作ります」 背後で、鎧の人が小声で言う。 「閣下、お湯の準備は?」 「ライゼル様」 リネアが呼んだ。男は、こちらを見ずに毛布をかけ直すだけだった。 廊下の先、小さな部屋に通される。壁に掛けられた灯りがやわらかい。木の机、低い寝椅子、暖かい空気。息がほどける。 「冷えてるね。まずは一口ゆっくり飲んで」 ハーブの盆を抱えた女性が入ってきた。カーキ色の作業着、三つ編みをぐるっと巻いている。湯気の向こうで笑う目。 「アメリアです。はい、一口どうぞ」 湯のみが手に押し当てられる。指先が、じんとする。 「……甘い」 蒼真がひと口。喉がごくりと動いた。 「うん、体がしっかりしてる」 「すみません、いろいろご迷惑を……」 「謝るのはあとでいいから。落ち着いて、休んで」 言い切らず、やさしく押し出す声。背筋の力が、ひとつ抜けた。 部屋の隅に立つ彼――ライゼルは、邪魔をしない。必要そうなものだけ先に置いていく。 乾いたタオル。もう一つの湯のカップ。毛布をもう一枚。 「夜は冷える。客間を準備してくれ」 「すでに準備してあります」 リネアの返事は短い。慣れたやりとり、という空気。 廊下の影から、丸い鼻先がのぞいた。 ちいさな――ほんとうにちいさな、龍。淡い蒼の産毛がふわふわと揺れている。 「……ちっちゃいドラゴン?」 蒼真が身を起こす。目が丸い。 「るぅ」 鳴き声も、ちいさい。 「おとなしい子ですよ」 リネアが小声で言う。 「なでてもいい?」 蒼真が指先をそっと差し出す。 「るぅ」 頬にすり、と寄ってくる。蒼真の肩から力が抜けて、笑い声がこぼれた。 「……かわいい」 私も、息をついた。胸の中の固いところが、すこしほどける。 毛布の端を握ったまま、迷いが口にのぼる。 「私たち……長居したらご迷惑ですよね」 「今夜は泊まってください。明日の心配は、明日に」 リネアは、当たり前みたいに言った。 「でも、お金とか……」 「大丈夫だ」 ライゼルが、間を置かずに。 「……どうしてですか」 「今は休むことが大事だ」 沈黙。湯の表面で、薄い湯気がゆれる。 「まずは、目を閉じる練習からね」 アメリアの声。蜂蜜の匂いが、かすかに鼻に残る。 蒼真がうとうと、頭をこてん、と毛布に預けた。 手を握る。三回、ぎゅ。 「三回だよ」 「だいじょうぶ……」 言い終わる前に、呼吸が寝息のリズムになる。 「灯り、消すぞ」 ライゼルが壁の灯を指で下げた。部屋に、やわらかい影が広がる。 扉のところで、彼が振り返る。 「ミコト。困ったら、俺の名前を呼んでくれ」 「……ありがとうございます。ライゼルさん」 「ああ」 わずかに目尻がほどけた気がした。扉が閉まる。 残された灯りは低く、雛龍が丸くなっている。小さな“るぅ”が、寝息と混ざって聞こえた。 廊下に出ると、空気がすこし冷たい。足音が静かに揃う。 「記録係の席を空けておけます」 リネアが低く言う。 「急がなくていい」 「はい。……いいお母さんですね」 「ああ」 鎧の男――門で迎えた人が、影から近づいた。眉に古い傷。背筋がまっすぐ。 「警備を増やします。森の道の点検も」 「頼んだ」 「はい」 短い返事。すぐに離れていく足音。 アメリアが盆を持って戻ってきた。湯気がやさしく上がる。 「蜂蜜ミルクを少し。よく眠れますよ」 「……もらうよ」 「ミコトさんの分も置いておきます」 「ありがとう。頼む」 三人の会話はそれだけ。廊下に並んだ灯りが、ゆっくり揺れる。 台所の匂いが胸に沈んだ。 夜の真ん中が過ぎた頃、ふと目が覚めた。 灯りはまだ低く、窓の外は暗い。蒼真は丸くなって眠っている。毛布の端を握ったまま、離さない。 小さく身を起こす。喉がすこし渇いていた。 机の上に、湯気の薄くなったカップが二つ。蜂蜜の膜が、すこしだけ固まっている。 ひと口。甘い。息がゆるむ。 扉の向こうで、気配がした。 開けると、廊下に彼がいた。壁にもたれず、まっすぐ立っている。眠っていないのだろうか、と一瞬思う。 「起こしたか?」 「大丈夫。……ちゃんと飲めたか?」 「はい。あの……さっきは、ありがとう」 「リネアの仕事だ。俺は灯を見てただけだ」 言い切らない。責任は人に渡さず、功は人に返す。 言葉が喉の奥で止まった。ありがとう、の続きが見つからない。 「明日、少し休んでからでいい。話はそのあとにしよう」 「……はい」 「ソウマは、よく眠るな」 「はい。……強い子なんです」 「強い人ほど、誰かに抱き上げられていい」 胸の奥が、ちいさく熱くなる。何も返せず、うなずいた。 部屋に戻ると、雛龍が顔だけ上げた。 「るぅ」 「しー。寝ようね」 足音は遠ざからない。廊下の灯だけが、静かに見ていた。 まるくなった二つと、もうひとつ。 まぶたを閉じる。甘い匂いが残って、すぐに沈んでいった。 朝。灯りの色が白に近づく。窓の布が薄く明るい。 扉をノックする音。 「失礼します」 リネアが顔をのぞかせた。 「朝のお湯をお持ちしました」 「ありがとうございます」 蒼真が目をこすって起き上がる。髪があっちこっちに跳ねている。 「おはよう。……ここ、ぼくたちのおうち?」 「今日のおうち。明日のことは、また考えようね」 自分で言って、すこし笑ってしまう。 「るぅ」 雛龍が蒼真の膝に乗った。蒼真の頬が緩む。 「朝食の用意ができています」 リネアが言い、すこしだけ迷ってから続けた。 「もし落ち着いたら、書類の手伝いをお願いできたらと思ってます。」 「書き仕事……」 胸の奥が、違う形でざわつく。できること。ここで。 すぐに答えを出せなくて、視線を落とす。 「急がなくて大丈夫です」 リネアは微笑んだ。 「まずは、ごはんをゆっくり食べてください」 「……はい」 靴ひもを結ぶ手が、すこし震えた。リネアがさりげなく手を添え、ほどけない結びに直してくれる。 「大丈夫。ほどけないよ」 廊下に出ると、温室の匂いが流れてきた。甘い葉と土の匂い。 アメリアがスープをよそっている。湯気の向こうで、誰かが笑っている声。 台所の奥で、パンを切る音もする。 「おはよう」 彼――ライゼルが、短く。朝の声は夜よりすこし高い。 「おはようございます。ライゼルさん」 「どうぞ、座って」 椅子を引かれ、素直に腰をおろす。蒼真は横で、スプーンを握って構えている。 椅子の木があたたかい。手のひらで分かった。 「いただきます」 一口。 温かい。味は素朴で、塩がやさしい。胃のあたりがほどけた。 「おいしい……」 自分の声が、すこし驚いている。アメリアがうなずいた。 「ゆっくり飲んで。はい、もう一口ね」 蒼真はスープの中の柔らかい野菜を追いかけて、「とれた」と笑った。 ルゥが椅子の足元で、尻尾をぱたぱたさせる。 食べ終わる頃、鎧の音が近づいた。カイムが入り口で立ち止まる。 「報告です。森道の点検を開始。見張りを二人増やしました」 「任せた」 「了解です」 短いやり取りで空気が締まり、それからまた、朝の気配に戻る。 家の中の音――スープをすする音、パンの切れ端が皿に落ちる音、誰かの小さな笑い。 「あの……」 言葉が、ようやく形になる。 「ここに、もう少しいさせてください」 ライゼルは、うなずいた。それだけ。 リネアが、目だけで「ようこそ」と言った。 「ソウマ」 呼ぶと、顔を上げる。 「三回だよ」 ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。 蒼真が笑う。ルゥが鳴く。「るぅ」 家の匂いが、胸にまっすぐ入ってきた。 朝の光が、窓の布の向こうで息をしている。 ここからでいい、と身体が先に決めた。朝の台所は、湯気が少なかった。温室の葉の匂いが、まだ少しだけ残っている。火の音も、控えめだった。美琴はパンの表面を見て、指先を止めた。「……パン、焦げてない?」焦げてはいない。でも、美琴の声は確認みたいに揺れた。「うん。今日は、いい色」「焦げる日は焦げるし、焦げない日は焦げないよ」アメリアが、鍋のふちを木べらで軽く叩く。その音が、妙に落ち着いた。「……そっか」言ってから、美琴は息を吐いた。自分の肩の力が、少しだけ抜けるのが分かった。蒼真は椅子の上で、背筋を伸ばしている。手のひらがテーブルの端をなぞる。見えない線を確かめるみたいだった。「ママ、今日は、どこ?」「えっと……書きもの」「門の近く、かな」美琴が言うと、蒼真は小さく頷いた。それから椅子を、とん、と叩いた。「じゃあ、ぼく、ここ」「そこ?」「うん。見えるから」蒼真の目は、窓のほうを見ている。門へ続く道が、角度によって少しだけ見える場所。美琴は笑いそうになって、笑えなかった。「……見えなくても、呼んでいいからね」「うん」「でも、見えるほうが、いい」蒼真の声は軽いのに、言い切りは固い。美琴は頷いて、皿を寄せた。「はい。蒼真の分」「カリカリある?」「あるよ。ちゃんと」蒼真は満足そうに頬を緩めた。その瞬間だけ、台所の空気が柔らかくなる。そこへ足音がした。大きいのに、乱暴じゃない音。扉が開く前に、気配で分かった。「おはよう」低い声。短い。それだけで、台所の音が整う。美琴は、目を上げるのが遅れた。礼儀じゃなくて、心が追いつかなかった。「……おはようございます」「おはよう、でいいよ」アメリアが何でもない顔で言う。美琴は小さく笑って、すぐに飲み込んだ。蒼真が、椅子の上で少し背伸びをする。「おはよう」「おはよう。ソウマ」呼ばれて、蒼真は嬉しそうに鼻を鳴らした。それだけで、美琴の胸が少し熱くなる。ライゼルは食卓を見て、言葉を選ばずに置いた。「今日は、門前が混む」美琴はパンに目を落としたまま頷く。「……昨日の続き、ですよね」「そう」それ以上、言わない。言わなくても、門の空気は想像できた。それが分かるようになった自分が、怖かった。リネアが入ってきて、カップを二つ置いた。湯気の細い音。香りが、鼻の奥に触れる
温室の湯気が低くゆれて、葉に小さな水が残っている。アメリアが火を見て、匙を一度だけ回した。「深呼吸して、少し飲んで。横になるのは……起きてからにしよう」「うん」私は帳の余白を指でそろえ、端に小さく印を足す。ソウマが袖を三回つまむ。「ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ」「聞こえてるよ」湯気の匂いは甘くて、胸の奥がふっとやわらぐ。門を叩く音が、木の方へ抜けた。アメリアが目で私を見る。私は頷いて、息をひとつだけ整えた。外の匂いが、扉の隙間から入ってくる。扉が開いて、粉のついた腕が見えた。リサナが三角布を押さえて、息を吐く。「ごめんね、朝から。橋の手前で荷車が詰まってて、粉が運べないの」「けがはないか?」背後からカイムの声。低くて短い。「ないよ。でも、人が集まってて……子どもが寒そうだった」カイムはすぐ外を見る。「門の前、間を空けろ。子どもを先に通せ」 庭の従者が走る。「わかりました」リネアが歩み寄り、リサナの手から小さな紙片を受け取る。「朝の焼く数、どうするか迷ってるのね」「うん。減らしたら、お昼が足りなくなるかもって」「迷ってるなら、こっちで火を増やそう」 背後から、ライゼルの声。静かで、届く。「焼くのは止めない。温室の粥を一つ増やせ。足りない分は俺が出す」リサナの肩が少し落ちた。「……助かります」通りがかった従者が当たり前のように頭を下げる。「閣下、門は少し開けておきますね」ライゼルは短く頷く。「寒い人を先に入れろ」リネアが私の方へ紙片を返した。「ミコト、門の前に掲示を出そう。配り方はここで決めよう」 喉が少し乾く。「……私が、書くの?」「任せてもいい?」リネアの目は静かで、急がせない。私は炭筆を握る。指先が細かく震える。「門のところまでなら……行ける」ソウマが青い糸を差し出した。「ほら、ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ」「うん。門前で、見える高さに結ぶね」一枚目の札に、丸を二つ。「子どもを優先」余白を残して、息を入れる。カイムが掲示の位置を下げてくれる。「この高さなら、子どもにも見えるね」「ありがとう」門の外は濡れている。靴の音が浅くなる。ここで火を一つ足せば、あちらの冷えが戻る。そんな感じがした。「鍋をもう一つ」アメリアが火加減を落とし、塩を指先で控える。「蜂蜜水も
天井のどこかで、ぽた、と音がした。 アメリアが無言で桶を置いて、布巾をしぼる。湿気の匂いがすこし濃い。 ソウマが指で三回、私の袖をつまんだ。 「ねぇ、水、落ちてる」 「うん。……すぐ直すね」 息を合わせるように答える。 扉口にライゼルが立って、短く言った。 「高い所は俺がやる。下は頼んだ」 「ここ、だいぶ漏れてるわね」 アメリアが天井の角を見上げる。 「布押さえて。ソウマ、足元見てて」 私が言うと、ソウマはうなずいて位置を変えた。 「脚立持ってくる」 ライゼルが脚立を引き寄せる。金具が静かに鳴った。 温室へ移る。 ガラスの継ぎ目から細い筋が落ちて、机の端にしみを作っていた。 テーブルをすこし動かして、養生布をかける。 ライゼルが脚立を立て、上から指で示す。私は紐の端を受けて、結び目を作る。 「もう一回、しっかり結んで」 「うん……ここで止めるね」 ソウマが手を伸ばした。 「僕、ここ持つ」 「いくよ。タイミング合わせて——せーの」 アメリアの声で、布のしわが伸びる。 ルゥは膝のそばで丸くなって、静かに見ていた。 私は小さな釘をひとつ、軽く打つ。 紐の角度が変わって、滴の落ちる位置がずれる。 自分でもほっとして、息がゆるむ。 「いまの音……すこし、軽い」 自分でもほっとして、息がゆるむ。 昔は——この音が、怖かった。 ひとりで暮らしていた頃、夜の屋根から落ちる雨の音は、 いつまでも止まらなくて。 桶を置いても、水は別の場所から落ちてきて、 “直らない音”が部屋の中に居座っていた。 あのとき、泣いても誰も気づかなくて、 誰かを呼ぶ声も、すぐ雨に消えた。 けれど今は違う。 音を聞く人がいて、息を合わせてくれる手がある。 結び目を引く力の向こうに、確かに“ここで生きる音”がある。 もう、雨の音は怖くない。 直せる音になった。 「雨の日の納品、順番が乱れてます」 帳を抱えたリネアが駆けてきた。肩に細い水滴が残っている。 私は机の端を拭いて、炭筆で臨時の小さな欄を作る。 「ここに“雨待ち”って書くね」 木札に小さな穴を開けて、青い糸を通す。青は遠くでも見える。 「渡すときは丸と青い糸をつけて、受け取ったら糸を外して、もう一個丸をつける」 リネアの目がやわらいだ。 「見やすいね。遠くか
夜明け前、台所の窓のほうで小さな鈴が鳴った。 荷車が遠くをゆっくり通る音が、まだ薄い。 布巾を絞る音と、湯気の匂い。 昨日、リネアに頼まれた。 「市場の帳簿、手伝ってくれませんか。最近、渡し間違いが多くて……」 ——この町の市場では、朝に品物を受け取る人の数が多すぎて、 誰に渡したのか、どの店がまだなのかがすぐ分からなくなるらしい。 手書きの帳簿はあるが、忙しさで印をつける余裕もない。 今日は、その整理を任された“記録係”の初日だった。 「どこか行くの?」 ソウマが袖をつまむ。 「うん。……市場。パン屋さんたちの記録を手伝うの」 「ちゃんと手、離さないでね」 「ゆっくりね。ふーってして」 アメリアが椀をそっと差し出す。 扉のところで、ライゼルが短く言う。 「準備ができたら出発する。帳簿も忘れるな」 靴。上着。帳簿と炭筆。小さな布袋。ソウマの手。 数えるたび、胸が落ち着く。 門を出ると、土の匂いが濃くなる。 草の先が濡れて、靴の底が少し吸いこまれる。 「今日は道がぬかるんでる。気をつけて」 カイムが前を見たまま言う。 「うん……ソウマ、手つないで」 手をにぎり直す。 「離れるなよ」 ライゼルの声は短くて、よく届く。 路地に入ると、人いきれが増えた。 見張りの男が合図だけで流れを整える。 パン屋の軒の前は、白い粉の匂い。 湯気が低く流れて、扉の内側で人の影が行き来する。 「いらっしゃい。……子どもの顔色、いいね」 粉のついた手で、リサナが笑った。 「おはようございます。今日、帳簿整理の手伝いに来ました。 順番の印をつけるだけですけど、許可をいただけますか?」 「もちろん。朝は混むから、助かるわ」 台の上に帳簿を開く。 欄はびっしり埋まっているのに、印が抜けている行が多い。 「これ、受け取った人に丸をつけていけば分かりやすいかもしれません。 受け取る前に一つ、渡したあとにもう一つ、二重丸にするんです」 「なるほどね……目で見てすぐに分かる」 リサナが感心したようにうなずいた。 客が次々と押し寄せる。 リサナが包みを渡すたび、私は帳簿の欄に小さな丸をつけていく。 「次の方、こちら。——はい、二つ目の印、完了です」 呼び声が重ならなくなり、包みの紙が擦れる音だけが続いた。……ところで、つ
朝の台所は、湯気とパンの匂いであたたかかった。 温室の窓がしっとり光って、テーブルの端に椅子がひとつ、空いている。 「熱いから、ふーしてね」 アメリアがお椀を置く。 「ふー……あつい……でも、おいしい」 ソウマが息を吐いて、顔をほころばせた。 「おはようございます。ここ、座りますか?」 リネアが椅子を引いてくれる。 「……はい。ありがとう」 座る前にちいさく会釈する。 「冷めないうちに、食べよう」 ライゼルが短く言って、鍋のふたをすこし持ち上げた。湯気がまた立つ。 器を手前に寄せてくれる。熱がすこしやわらいだ。 スプーンの音がそろって、朝が動きだした。 小客間。邸の静かな予備室。低い机に紙束と紐、木札が置いてある。リネアが薄い帳面を開いて見せた。 「昨日までの納品記録です。日付がずれてて……もう少し見やすくしたいんです」 「並べ替え……えっと、日付→品名→数量。渡すときは、ここに小さく丸をつけて」 欄の端を、とん、と指で示し、紙に小さなまるをひとつ描く。 「受け取ったら、もう一つ丸を。ひと目でわかります」 「丸印、いいですね。誰が見てもわかりやすいのが一番です」 「じゃあ、私でもちゃんとわかるようにしておきますね」 ふっと二人とも笑った。 紙を束ねる前に、順番を指でなぞる。ページの端をちょんと折って、目印をつける。 「これ、ママのお仕事?」 ソウマとルゥが覗き込む。ルゥの鼻先が紙に近づく。 「そう。ここで並べるだけだよ」 ルゥが紙をかじろうとして、 「こら、紙は食べません」 自分でもおかしくなって、肩の力が抜けた。 「ルゥ、こっちだよ。果物あるよ」 アメリアが皿を鳴らす。ルゥがすぐ移動して、ちいさく「るぅ」。 指先の紙の粉が、すこしだけ白い。並べるだけ。けれど、ここで役に立てる気がした。 胸の奥が、少し明るくなる。 中庭に出ると、空気がやわらかい。洗濯紐が風で揺れて、陽が低いベンチの背に落ちている。 「井戸、今日は深いから気をつけて」 見回りのついでに、カイムが足を止めた。 「はい」 「ママ、三回だよ」 ソウマが手を出す。 「うん。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」 「いい合図だな」 カイムの目がすこし和んだ。 「……そうでしょ」 私もつられて笑う。家のルールがすこしずつ身体に入っていく。 玄関
木の切れ間を抜けたところで、石の門が現れた。灯りがひとつ、風にゆれている。 男は歩幅を合わせたまま、門の前で片手を上げた。 「開けてくれ」 内側で足音。横板が外れる音。重い扉がすこしずつ開く。 「了解しました。……怪我はありませんか?」 低い声の男が現れた。鎧の肩に夜気が触れて、きい、と鳴る。 「大丈夫です。私は平気です」 思わず先に答えた。抱き寄せた腕の中で、蒼真の指が動く。 彼が、横目で蒼真を見た。 「子どもには、温かいものを」 門番の男が、視線だけ柔らいだ。 「すぐ用意します」 敷石に足を下ろす。 土の柔らかさが離れて、靴の底に冷たさが戻る。灯りが近づいて、息がひとつ深くなった。 玄関の扉が開き、黒いエプロンドレスの女性が膝をついた。目線が、こちらと同じ高さまで降りてくる。 「ようこそ。まずお湯です。毛布もすぐ。 話は、そのあとで」 「ありがとうございます……」 「うん、あったかい」 蒼真が毛布に頬をすり寄せる。彼女はほっと息をこぼした。 「かわいい声ね」 濡れた靴をそっと外してくれる。床は乾いて、木の香りがする。 「お名前を教えてもらえますか?」 「ミコトです。……この子はソウマです」 「ミコト様、ソウマくん。私はリネア。ここでは、休んでいい場所を先に作ります」 背後で、鎧の人が小声で言う。 「閣下、お湯の準備は?」 「ライゼル様」 リネアが呼んだ。男は、こちらを見ずに毛布をかけ直すだけだった。 廊下の先、小さな部屋に通される。壁に掛けられた灯りがやわらかい。木の机、低い寝椅子、暖かい空気。息がほどける。 「冷えてるね。まずは一口ゆっくり飲んで」 ハーブの盆を抱えた女性が入ってきた。カーキ色の作業着、三つ編みをぐるっと巻いている。湯気の向こうで笑う目。 「アメリアです。はい、一口どうぞ」 湯のみが手に押し当てられる。指先が、じんとする。 「……甘い」 蒼真がひと口。喉がごくりと動いた。 「うん、体がしっかりしてる」 「すみません、いろいろご迷惑を……」 「謝るのはあとでいいから。落ち着いて、休んで」 言い切らず、やさしく押し出す声。背筋の力が、ひとつ抜けた。 部屋の隅に立つ彼――ライゼルは、邪魔をしない。必要そうなものだけ先に置いていく。 乾いたタオル。もう一つの湯のカップ。毛