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邸のあかり

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-22 14:45:57

木の切れ間を抜けたところで、石の門が現れた。灯りがひとつ、風にゆれている。

男は歩幅を合わせたまま、門の前で片手を上げた。

「開けてくれ」

内側で足音。横板が外れる音。重い扉がすこしずつ開く。

「承知した。……怪我は」

低い声の男が現れた。鎧の肩に夜気が触れて、きい、と鳴る。

「大丈夫です、私は」

思わず先に答えた。抱き寄せた腕の中で、蒼真の指が動く。

彼が、横目で蒼真を見た。「子は、温かいものがいる」

門番の男が、視線だけ柔らいだ。「すぐに」

敷石に足を下ろす。土の柔らかさが離れて、靴の底に冷たさが戻る。灯りが近づいて、息がひとつ深くなった。

玄関の扉が開き、黒いエプロンドレスの女性が膝をついた。目線が、こちらと同じ高さまで降りてくる。

「ようこそ。まずお湯です。毛布もすぐ。話は、そのあとで」

「……ありがとうございます」

「うん。あったかい」

蒼真が毛布に頬をすり寄せる。彼女はほっと息をこぼした。

「いい声」

濡れた靴をそっと外してくれる。床は乾いて、木の香りがする。

「お名前をお聞きしても?」

「みこと。……この子は、ソウマ」

「ミコト様、ソウマくん。私はリネア。ここでは、休んでいい場所を先に作ります」

背後で、鎧の人が小声で言う。「閣下、湯は」

「ライゼル様」

リネアが呼んだ。男は、こちらを見ずに毛布をかけ直すだけだった。

廊下の先、小さな部屋に通される。壁に掛けられた灯りがやわらかい。木の机、低い寝椅子、暖かい空気。息がほどける。

「手、出して。冷えてる。まず一口」

ハーブの盆を抱えた女性が入ってきた。カーキ色の作業着、三つ編みをぐるっと巻いている。湯気の向こうで笑う目。

「アメリアです。はい、一口」

湯のみが手に押し当てられる。指先が、じんとする。

「……あまい」

蒼真がひと口。喉がごくりと動いた。

「うん、強い」

「すみません、いろいろ、その……」

「謝るのは、あと。息して、飲んで、横になって」

言い切らず、やさしく押し出す声。背筋の力が、ひとつ抜けた。

部屋の隅に立つ彼――ライゼルは、邪魔をしない。必要そうなものだけ先に置いていく。乾いたタオル。もう一つの湯のカップ。毛布をもう一枚。

「夜は冷える。客間を」

「用意済みです」

リネアの返事は短い。慣れたやりとり、という空気。

廊下の影から、丸い鼻先がのぞいた。

ちいさな――ほんとうにちいさな、龍。淡い蒼の産毛がふわふわと揺れている。

「……ちいさいドラゴン?」

蒼真が身を起こす。目が丸い。

「るぅ」

鳴き声も、ちいさい。

「怖くない子です」リネアが小声で言う。

「なでても、いい?」

蒼真が指先をそっと差し出す。

「るぅ」

頬にすり、と寄ってくる。蒼真の肩から力が抜けて、笑い声がこぼれた。

「……よかった」

私も、息をついた。胸の中の固いところが、すこしほどける。

毛布の端を握ったまま、迷いが口にのぼる。

「私たち……長くは、迷惑になるだけで」

「今夜は泊まってください。明日の心配は、明日」

リネアは、当たり前みたいに言った。

「でも、支払いとか……」

「いらない」

ライゼルが、間を置かずに。

「……どうして」

「今は、休むことだ」

沈黙。湯の表面で、薄い湯気がゆれる。

「目を閉じる練習からでいい」

アメリアの声。蜂蜜の匂いが、かすかに鼻に残る。

蒼真がうとうと、頭をこてん、と毛布に預けた。

手を握る。三回、ぎゅ。

「三回、ね」

「だいじょうぶ……」

言い終わる前に、呼吸が寝息のリズムになる。

「灯り、落とす」

ライゼルが壁の灯を指で下げた。部屋に、やわらかい影が広がる。

扉のところで、彼が振り返る。

「ミコト。困ったら、名を呼べ」

「……ありがとうございます。ライゼルさん」

「……ああ」

わずかに目尻がほどけた気がした。扉が閉まる。

残された灯りは低く、雛龍が丸くなっている。小さな“るぅ”が、寝息と混ざって聞こえた。

廊下に出ると、空気がすこし冷たい。足音が静かに揃う。

「記録係の席、空けられます」

リネアが低く言う。

「急がなくていい」

「はい。……いい母です」

「ああ」

鎧の男――門で迎えた人が、影から近づいた。眉に古い傷。背筋がまっすぐ。

「警備は増やす。森道の点検も」

「頼む」

「承知した」

短い返事。すぐに離れていく足音。

アメリアが盆を持って戻ってきた。湯気がやさしく上がる。

「蜂蜜ミルク、少し。眠りに効く」

「……もらう」

「もう一杯、置いておくね。目が覚めたら、ミコトさんの分」

「頼む」

三人の会話はそれだけ。廊下に並んだ灯りが、ゆっくり揺れる。

台所の匂いが胸に沈んだ。

——

夜の真ん中が過ぎた頃、ふと目が覚めた。

灯りはまだ低く、窓の外は暗い。蒼真は丸くなって眠っている。毛布の端を握ったまま、離さない。

小さく身を起こす。喉がすこし渇いていた。

机の上に、湯気の薄くなったカップが二つ。蜂蜜の膜が、すこしだけ固まっている。

ひと口。甘い。息がゆるむ。

扉の向こうで、気配がした。

開けると、廊下に彼がいた。壁にもたれず、まっすぐ立っている。眠っていないのだろうか、と一瞬思う。

「起こした?」

「いい。……飲めたか」

「はい。あの……さっきは、ありがとう」

「リネアの仕事だ。俺は、灯を」

言い切らない。責任は人に渡さず、功は人に返す。

言葉が喉の奥で止まった。ありがとう、の続きが見つからない。

「明日、少し眠ってからでいい。話は」

「……はい」

「ソウマは、よく眠る」

「はい。……強い子です」

「強い者ほど、抱き上げられていい」

胸の奥が、ちいさく熱くなる。何も返せず、うなずいた。

部屋に戻ると、雛龍が顔だけ上げた。

「るぅ」

「しー。寝るよ」

足音は遠ざからない。廊下の灯だけが、静かに見ていた。

まるくなった二つと、もうひとつ。

まぶたを閉じる。甘い匂いが残って、すぐに沈んでいった。

——

朝。灯りの色が白に近づく。窓の布が薄く明るい。

扉をノックする音。

「失礼します」

リネアが顔をのぞかせた。「朝の湯を」

「ありがとうございます」

蒼真が目をこすって起き上がる。髪があっちこっちに跳ねている。

「おはよう。……ここ、おうち?」

「今日は、おうち。明日は、また考える」

自分で言って、すこし笑ってしまう。

「るぅ」

雛龍が蒼真の膝に乗った。蒼真の頬が緩む。

「朝食の用意ができています」

リネアが言い、すこしだけ迷ってから続けた。「もし……すこし落ち着いたら、書きものを手伝っていただけると。空けられる席が、あります」

「書きもの……」

胸の奥が、違う形でざわつく。できること。ここで。

すぐに答えを出せなくて、視線を落とす。

「急ぎません」

リネアは微笑んだ。「まずは、食べて、息をして」

「……はい」

靴ひもを結ぶ手が、すこし震えた。リネアがさりげなく手を添え、ほどけない結びに直してくれる。

「大丈夫。ほどけません」

廊下に出ると、温室の匂いが流れてきた。甘い葉と土の匂い。

アメリアがスープをよそっている。湯気の向こうで、誰かが笑っている声。

台所の奥で、パンを切る音もする。

「おはよう」

彼――ライゼルが、短く。朝の声は夜よりすこし高い。

「おはようございます。ライゼルさん」

「座って」

椅子を引かれ、素直に腰をおろす。蒼真は横で、スプーンを握って構えている。

椅子の木があたたかい。手のひらで分かった。

「いただきます」

一口。

温かい。味は素朴で、塩がやさしい。胃のあたりがほどけた。

「おいしい」

自分の声が、すこし驚いている。アメリアがうなずいた。

「息して、飲んで。はい、もう一口」

蒼真はスープの中の柔らかい野菜を追いかけて、「とれた」と笑った。

ルゥが椅子の足元で、尻尾をぱたぱたさせる。

食べ終わる頃、鎧の音が近づいた。カイムが入り口で立ち止まる。

「報告。森道の点検を開始。見張りを二人増やす」

「頼む」

「承知した」

短いやり取りで空気が締まり、それからまた、朝の気配に戻る。

家の中の音――スープをすする音、パンの切れ端が皿に落ちる音、誰かの小さな笑い。

「……あの」

言葉が、ようやく形になる。「ここに、少し。いさせてください」

ライゼルは、うなずいた。それだけ。

リネアが、目だけで「ようこそ」と言った。

「ソウマ」

呼ぶと、顔を上げる。

「三回、ね」

ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。

蒼真が笑う。ルゥが鳴く。「るぅ」

家の匂いが、胸にまっすぐ入ってきた。

朝の光が、窓の布の向こうで息をしている。

ここからでいい、と身体が先に決めた。

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