LOGIN雨上がりの横断歩道で、母と息子は光に包まれ、気づけば“龍の国アウレリア”にいた。助けてくれたのは、静かに笑う龍の守護公ライゼル。最初にくれたのは剣でも命令でもなく、毛布と水。「君も、君の子も、まとめて守る」──その一言が、心の糸をほどいていく。 知らない世界で、もう一度“家族”を始める母と子。そして、彼らを見つめる寡黙な男。 これは、傷ついた親子が“誓い”でつながる、やわらかくて温かい異世界の恋と再生の物語。
View More子ども部屋の灯りは、低かった。壁の灯は少しだけ下げられていて、影がやわらかい。昼のざわめきが全部落ちたあとみたいに、家の中が静かだった。蒼真はもう横になっている。眠っているのに、眉の間がほんの少し寄っていた。毛布の端を握ったまま、離していない。雛龍のるぅも、枕の近くで丸くなっている。小さな息が、蒼真の寝息と混ざって聞こえた。美琴は戸口に立ったまま、しばらく動けなかった。呼吸を合わせるように息を吸って、吐いた。今日は門の前で、声を出した。名前も、呼んだ。それなのに。夜になると、また戻ってきてしまう。勝手に緊張する身体が、残っている。美琴はベッドの横へ近づく。蒼真の髪が少し乱れていて、指先で直した。額に触れる前に、一度だけ手を止めた。「一分だけのおはなし、する?」返事はない。でも、蒼真の指が毛布をきゅっと握った。起きてないふりの、合図みたいだった。「じゃあ、短いやつね」美琴は声を小さくして、息の間に言葉を置く。難しい話にしない。蒼真が安心できる音だけにする。「灯りがひとつ、ふわって浮かぶ夜があるの」「怖いときに、笑ったらね」蒼真のまつげが、一度だけ揺れた。美琴はそれを見て、続きを言うのをやめた。「……おやすみ」額をそっと寄せる。おでこを、こつん。蒼真は目を開けないまま、息を吐いた。「……ママ」寝言だった。呼んだのに、呼んでいない声。美琴は一瞬、返事をしそうになって止めた。起こしたくない。でも、胸の奥がじわっと熱くなる。「いるよ」声は、ほとんど息だった。蒼真の指が、少しだけゆるむ。美琴は毛布の端を整えて、手を引いた。るぅが小さく喉を鳴らして、また丸くなる。その音に背中を押されるみたいに、美琴は部屋を出た。廊下は、ひんやりしている。足音が響きやすい。昼間は気にならなかった灯りの間隔が、やけに遠い。美琴は自然に、屋敷の奥のほうを見た。いつもなら、どこかに気配がある。重たいわけじゃない。ただ、そこにいると分かる感じ。今夜は、それがない。立ち止まったところで、向こうから足音が来た。細くて、迷いのない音。リネアだった。手には盆。湯気が薄く揺れて、香りが鼻の奥に触れた。金木犀の小瓶と同じ匂いが、ほんの少し混ざっている。「起きてしまいましたか」「……はい」美琴は
朝の台所は、湯気が少なかった。温室の葉の匂いが、まだ少しだけ残っている。火の音も、控えめだった。美琴はパンの表面を見て、指先を止めた。「……パン、焦げてない?」焦げてはいない。でも、美琴の声は確認みたいに揺れた。「うん。今日は、いい色」「焦げる日は焦げるし、焦げない日は焦げないよ」アメリアが、鍋のふちを木べらで軽く叩く。その音が、妙に落ち着いた。「……そっか」言ってから、美琴は息を吐いた。自分の肩の力が、少しだけ抜けるのが分かった。蒼真は椅子の上で、背筋を伸ばしている。手のひらがテーブルの端をなぞる。見えない線を確かめるみたいだった。「ママ、今日は、どこ?」「えっと……書きもの」「門の近く、かな」美琴が言うと、蒼真は小さく頷いた。それから椅子を、とん、と叩いた。「じゃあ、ぼく、ここ」「そこ?」「うん。見えるから」蒼真の目は、窓のほうを見ている。門へ続く道が、角度によって少しだけ見える場所。美琴は笑いそうになって、笑えなかった。「……見えなくても、呼んでいいからね」「うん」「でも、見えるほうが、いい」蒼真の声は軽いのに、言い切りは固い。美琴は頷いて、皿を寄せた。「はい。蒼真の分」「カリカリある?」「あるよ。ちゃんと」蒼真は満足そうに頬を緩めた。その瞬間だけ、台所の空気が柔らかくなる。そこへ足音がした。大きいのに、乱暴じゃない音。扉が開く前に、気配で分かった。「おはよう」低い声。短い。それだけで、台所の音が整う。美琴は、目を上げるのが遅れた。礼儀じゃなくて、心が追いつかなかった。「……おはようございます」「おはよう、でいいよ」アメリアが何でもない顔で言う。美琴は小さく笑って、すぐに飲み込んだ。蒼真が、椅子の上で少し背伸びをする。「おはよう」「おはよう。ソウマ」呼ばれて、蒼真は嬉しそうに鼻を鳴らした。それだけで、美琴の胸が少し熱くなる。ライゼルは食卓を見て、言葉を選ばずに置いた。「今日は、門前が混む」美琴はパンに目を落としたまま頷く。「……昨日の続き、ですよね」「そう」それ以上、言わない。言わなくても、門の空気は想像できた。それが分かるようになった自分が、怖かった。リネアが入ってきて、カップを二つ置いた。湯気の細い音。香りが、鼻の奥に触れる
温室の湯気が低くゆれて、葉に小さな水が残っている。アメリアが火を見て、匙を一度だけ回した。「深呼吸して、少し飲んで。横になるのは……起きてからにしよう」「うん」私は帳の余白を指でそろえ、端に小さく印を足す。ソウマが袖を三回つまむ。「ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ」「聞こえてるよ」湯気の匂いは甘くて、胸の奥がふっとやわらぐ。門を叩く音が、木の方へ抜けた。アメリアが目で私を見る。私は頷いて、息をひとつだけ整えた。外の匂いが、扉の隙間から入ってくる。扉が開いて、粉のついた腕が見えた。リサナが三角布を押さえて、息を吐く。「ごめんね、朝から。橋の手前で荷車が詰まってて、粉が運べないの」「けがはないか?」背後からカイムの声。低くて短い。「ないよ。でも、人が集まってて……子どもが寒そうだった」カイムはすぐ外を見る。「門の前、間を空けろ。子どもを先に通せ」 庭の従者が走る。「わかりました」リネアが歩み寄り、リサナの手から小さな紙片を受け取る。「朝の焼く数、どうするか迷ってるのね」「うん。減らしたら、お昼が足りなくなるかもって」「迷ってるなら、こっちで火を増やそう」 背後から、ライゼルの声。静かで、届く。「焼くのは止めない。温室の粥を一つ増やせ。足りない分は俺が出す」リサナの肩が少し落ちた。「……助かります」通りがかった従者が当たり前のように頭を下げる。「閣下、門は少し開けておきますね」ライゼルは短く頷く。「寒い人を先に入れろ」リネアが私の方へ紙片を返した。「ミコト、門の前に掲示を出そう。配り方はここで決めよう」 喉が少し乾く。「……私が、書くの?」「任せてもいい?」リネアの目は静かで、急がせない。私は炭筆を握る。指先が細かく震える。「門のところまでなら……行ける」ソウマが青い糸を差し出した。「ほら、ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ」「うん。門前で、見える高さに結ぶね」一枚目の札に、丸を二つ。「子どもを優先」余白を残して、息を入れる。カイムが掲示の位置を下げてくれる。「この高さなら、子どもにも見えるね」「ありがとう」門の外は濡れている。靴の音が浅くなる。ここで火を一つ足せば、あちらの冷えが戻る。そんな感じがした。「鍋をもう一つ」アメリアが火加減を落とし、塩を指先で控える。「蜂蜜水も
天井のどこかで、ぽた、と音がした。 アメリアが無言で桶を置いて、布巾をしぼる。湿気の匂いがすこし濃い。 ソウマが指で三回、私の袖をつまんだ。 「ねぇ、水、落ちてる」 「うん。……すぐ直すね」 息を合わせるように答える。 扉口にライゼルが立って、短く言った。 「高い所は俺がやる。下は頼んだ」 「ここ、だいぶ漏れてるわね」 アメリアが天井の角を見上げる。 「布押さえて。ソウマ、足元見てて」 私が言うと、ソウマはうなずいて位置を変えた。 「脚立持ってくる」 ライゼルが脚立を引き寄せる。金具が静かに鳴った。 温室へ移る。 ガラスの継ぎ目から細い筋が落ちて、机の端にしみを作っていた。 テーブルをすこし動かして、養生布をかける。 ライゼルが脚立を立て、上から指で示す。私は紐の端を受けて、結び目を作る。 「もう一回、しっかり結んで」 「うん……ここで止めるね」 ソウマが手を伸ばした。 「僕、ここ持つ」 「いくよ。タイミング合わせて——せーの」 アメリアの声で、布のしわが伸びる。 ルゥは膝のそばで丸くなって、静かに見ていた。 私は小さな釘をひとつ、軽く打つ。 紐の角度が変わって、滴の落ちる位置がずれる。 自分でもほっとして、息がゆるむ。 「いまの音……すこし、軽い」 自分でもほっとして、息がゆるむ。 昔は——この音が、怖かった。 ひとりで暮らしていた頃、夜の屋根から落ちる雨の音は、 いつまでも止まらなくて。 桶を置いても、水は別の場所から落ちてきて、 “直らない音”が部屋の中に居座っていた。 あのとき、泣いても誰も気づかなくて、 誰かを呼ぶ声も、すぐ雨に消えた。 けれど今は違う。 音を聞く人がいて、息を合わせてくれる手がある。 結び目を引く力の向こうに、確かに“ここで生きる音”がある。 もう、雨の音は怖くない。 直せる音になった。 「雨の日の納品、順番が乱れてます」 帳を抱えたリネアが駆けてきた。肩に細い水滴が残っている。 私は机の端を拭いて、炭筆で臨時の小さな欄を作る。 「ここに“雨待ち”って書くね」 木札に小さな穴を開けて、青い糸を通す。青は遠くでも見える。 「渡すときは丸と青い糸をつけて、受け取ったら糸を外して、もう一個丸をつける」 リネアの目がやわらいだ。 「見やすいね。遠くか