Mag-log in雨上がりの横断歩道で、母と息子は光に包まれ、気づけば“龍の国アウレリア”にいた。助けてくれたのは、静かに笑う龍の守護公ライゼル。最初にくれたのは剣でも命令でもなく、毛布と水。「君も、君の子も、まとめて守る」──その一言が、心の糸をほどいていく。 知らない世界で、もう一度“家族”を始める母と子。そして、彼らを見つめる寡黙な男。 これは、傷ついた親子が“誓い”でつながる、やわらかくて温かい異世界の恋と再生の物語。
view more霧が薄い。
水面が、淡い金でゆっくり息をしていた。近くで龍の尾が輪を描く。波紋が寄って、離れて、また寄る。 「私……一人で頑張らなきゃって……ずっと……」 胸の奥がきしんで、言葉がほどける。 「子どもにまで寂しい思いをさせて……」 抱きとめる腕があった。ためらいのない、静かな力。 「もう一人じゃない」 「俺がいる」 「俺たちが家族になるんだ」 喉がつまる。息が熱い。 「でも、私には子どもが……」 間は、ほとんどなかった。 「君“だけ”を望むと思ったか?」 「俺は欲深い」 「君も、君の子も、全部抱きしめていたい」 水の音が近い。霧の粒が、まつ毛でひとつ光る。 「……え?」 頬のそばで、低い笑いがやわらぐ。 「俺は幸せ者だ」 「君の愛だけじゃない」 「君の子の笑顔まで、俺にくれるのだから」 力が抜けて、膝がほどける。泣き崩れた背に、小さな腕がまわる。ぐっと、強く。 龍の尾が、ふわり。三人ごと包む。 水が光を返す。朝が、生まれていく。 光は、もうひとつの光を連れてきた。にじむ白。雨の中の信号機。まぶたの裏で切り替わる。 ―― 曇りの朝。湿気でカーテンがすこし重い。台所のフライパンが、ちいさく鳴いた。 トーストは薄く、卵焼きはすこし焦げ。湯気が窓へ流れていく。 「ママ、ここのカリカリ、すき」 テーブルの向こうで、ちいさな人が角を指さす。 「カリカリね。……はい、ソウマの分」 皿を寄せると、鼻を近づけて吸い込む。 「こうばしい匂いする。ママのがいちばん」 「ありがと」 「いってきますの、ぎゅ」 「三回ね」 手と手。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。 「だいじょうぶの合図」 「……うん。だいじょうぶ」 保育園へ急ぐ。靴が水たまりを踏んで、ズボンの裾に丸い跡ができる。 門の前で先生に頭を下げて、息を整える。胸の鼓動がまだ早い。 事務所。蛍光灯の白。コピー機が紙を飲み込む音。 席に座る前に呼ばれて、狭い会議室へ。 上司が書類をめくる指先だけがよく見えた。 「契約、今月で終わりにしようか」 「……そう、ですか」 「うん。人は足りてて」 「わかりました」 エレベーターの鏡に映る自分。口角を上げる練習。うまくいかない。 首もとを押さえて、ひとつ息を吐く。 外へ出ると、空気はぬるくて、雨がまた細かく降りはじめていた。 階段を上るとき、足が笑った。 息を止めて立ち止まると、胸がすこし痛かった。 夜。部屋は暗い。蒼真の寝息が、布団の端から聞こえる。 テーブルには電卓とメモ。数字はすぐ消して、また書く。 右手にすこしだけ、金木犀の香り。たぶん、昼に塗ったハンドクリームがまだ残ってる。 「来月……どうしよ」 声に出すと、現実になる気がして、すぐ小さく飲み込む。 「……大丈夫」 小さな寝息が聞こえる。その音だけで、まだ生きていける気がした。 窓を打つ雨が、すこし強くなった。 翌朝。雨は上がって、路面だけがまだ濡れている。 登園の道。信号が白く点滅して、風がふっと頬を掠めた。 「ママ、ひかり」 隣で、ちいさな指が上をさす。 右手から、水を切る音。タイヤが滑る、いやな音。 「ソウマ、下がって!」 反射で抱き寄せる。腕の中に体温。 信号の白が金に滲んだ。 耳の奥の音が、いちど全部消えて、すぐに別の音になった。 光。 風。 土の感触。 遅れて、金木犀の匂いが追いつく。 足の裏に、湿った土。 葉の先から、冷たい雫が落ちて頬に触れた。 「夢じゃない……の?」 空気が湿って、風が匂うのに、どこにもアスファルトの匂いがしない。 「……ここ、森?」 「手、離さないで」 「うん。三回、ぎゅ」 ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。 木の葉が揺れる音。遠くで、水の落ちる音。 息を合わせるように繰り返すと、鼓動がすこし落ち着いた。 一瞬、音がなくなった。風の葉擦れも、息の音も。 息の音だけが、ゆっくり戻ってきた。 草の向こうに、外套の影。 近づく足音は大きくない。こちらを驚かせない歩幅。 男は目の前で膝をついて、視線を合わせた。土の匂いと、冷たくない水の匂いが混じる。 「……近づかないで。子どもに触らないで」 自分でも驚くくらい、声は震えなかった。腕だけが強くなる。 「触らない」 短い言葉のあと、手のひらに木の杯。 「水だ。飲める」 ソウマの口へ、そっと添える。ひと口。喉が、ごくりと動いた。 「……あったかい」 男の目尻が、わずかにやわらぐ。 「……大丈夫だ。怖くない」 風が、彼の髪をすこし揺らした。 吸う。吐く。吸う。吐く。 杯の水面が、かすかに光る。錯覚じゃない気がした。 指先の力を、少しずつ戻していく。 「あなたは……」 続きは出てこない。質問でも感謝でもなくて、ただ確かめたい声。 「案内する。灯りのある場所へ」 言い切る声。約束みたいに揺れない。 見上げると、木の間を淡い蒼の影が一度だけ横切った。 鳴かない。風だけがすこし動く。守られている、と身体が先に理解した。 男が立ち上がる。歩幅は短い。こちらの速さに合わせているのが分かる。 ついていく。手はまだ繋いだまま。三回の合図を、もういちど確かめるみたいに。 光が近づくたび、息があたたかくなった。 木々の間に、はっきりした灯りが見えた。 乾いた薪の匂いが、風に混じった。 小さく煙がのぼって、人の気配がする。 「すぐ着く。温かい食事がある」 「……助かります」 「おうち、あるの?」 「ある」 灯りに向かって、影が伸びる。二つと、もうひとつ。 足の裏の土が、すこしずつ固くなっていく。 この世界で、また誰かを信じられたら―― そのとき、何かが変わる気がした。 あの灯りは、人がいる灯りだと分かった。 胸の奥で、ずっと張っていた糸が、ぷつりと切れた。 ざわめきが、ゆるくほどけていく。 そのまま、光のほうへ歩いた。朝の台所は、湯気とパンの匂いであたたかかった。温室の窓がしっとり光って、テーブルの端に椅子がひとつ、空いている。「熱いから、ふうして」アメリアがお椀を置く。「ふー……あつ……でも、すき」ソウマが息を吐いて、顔をほころばせた。「おはようございます。こちらでよろしいですか」リネアが椅子を引いてくれる。「……はい。ここ、空いてたから」座る前にちいさく会釈する。「座って」ライゼルが短く言って、鍋のふたをすこし持ち上げた。湯気がまた立つ。器を手前に寄せてくれる。熱がすこしやわらいだ。スプーンの音がそろって、朝が動きだした。――小客間。邸の静かな予備室。低い机に紙束と紐、木札が置いてある。リネアが薄い帳面を開いて見せた。「昨日までの納入記録。日付がずれていて……見やすく並べたいんです」「並べ替え……えっと、日付→もの→量。渡すとき、ここに小さくまるを」欄の端を、とん、と指で示し、紙に小さなまるをひとつ描く。「受け取ったら、もうひとつ。見てすぐわかる」「丸印、いいです。誰が見てもわかるのがいちばん」「じゃあ、私にもわかるように」ふっと二人とも笑った。紙を束ねる前に、順番を指でなぞる。ページの端をちょんと折って、目印をつける。これで、ぱらっと探せる。「これ、ママのおしごと?」ソウマとルゥが覗き込む。ルゥの鼻先が紙に近づく。「うん。ここで、並べるだけ」ルゥが紙をかじろうとして、「紙は、食べない」。自分でもおかしくなって、肩の力が抜けた。「ルゥ、こっち。干し果物」アメリアが皿を鳴らす。ルゥがすぐ移動して、ちいさく「るぅ」。指先の紙の粉が、すこしだけ白い。並べるだけ。けれど、ここで役に立てる気がした。――中庭に出ると、空気がやわらかい。洗濯紐が風で揺れて、陽が低いベンチの背に落ちている。「井戸、今日は深い。気をつけて」見回りのついでに、カイムが足を止めた。「はい」「ママ、三回」ソウマが手を出す。「うん。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」カイムの目がすこし和んだ。「合図、いいな」「……ね」私もつられて笑う。家のルールがすこしずつ身体に入っていく。――玄関のほうから、声が重なった。近所の老女と、若い配達人。温室の炉(ろ)の順番で、声が速くぶつかった。「順番、こっちが先で」青年の声は急いている。「子の分が冷めるんだよ」
木の切れ間を抜けたところで、石の門が現れた。灯りがひとつ、風にゆれている。男は歩幅を合わせたまま、門の前で片手を上げた。「開けてくれ」内側で足音。横板が外れる音。重い扉がすこしずつ開く。「承知した。……怪我は」低い声の男が現れた。鎧の肩に夜気が触れて、きい、と鳴る。「大丈夫です、私は」思わず先に答えた。抱き寄せた腕の中で、蒼真の指が動く。彼が、横目で蒼真を見た。「子は、温かいものがいる」門番の男が、視線だけ柔らいだ。「すぐに」敷石に足を下ろす。土の柔らかさが離れて、靴の底に冷たさが戻る。灯りが近づいて、息がひとつ深くなった。玄関の扉が開き、黒いエプロンドレスの女性が膝をついた。目線が、こちらと同じ高さまで降りてくる。「ようこそ。まずお湯です。毛布もすぐ。話は、そのあとで」「……ありがとうございます」「うん。あったかい」蒼真が毛布に頬をすり寄せる。彼女はほっと息をこぼした。「いい声」濡れた靴をそっと外してくれる。床は乾いて、木の香りがする。「お名前をお聞きしても?」「みこと。……この子は、ソウマ」「ミコト様、ソウマくん。私はリネア。ここでは、休んでいい場所を先に作ります」背後で、鎧の人が小声で言う。「閣下、湯は」「ライゼル様」リネアが呼んだ。男は、こちらを見ずに毛布をかけ直すだけだった。廊下の先、小さな部屋に通される。壁に掛けられた灯りがやわらかい。木の机、低い寝椅子、暖かい空気。息がほどける。「手、出して。冷えてる。まず一口」ハーブの盆を抱えた女性が入ってきた。カーキ色の作業着、三つ編みをぐるっと巻いている。湯気の向こうで笑う目。「アメリアです。はい、一口」湯のみが手に押し当てられる。指先が、じんとする。「……あまい」蒼真がひと口。喉がごくりと動いた。「うん、強い」「すみません、いろいろ、その……」「謝るのは、あと。息して、飲んで、横になって」言い切らず、やさしく押し出す声。背筋の力が、ひとつ抜けた。部屋の隅に立つ彼――ライゼルは、邪魔をしない。必要そうなものだけ先に置いていく。乾いたタオル。もう一つの湯のカップ。毛布をもう一枚。「夜は冷える。客間を」「用意済みです」リネアの返事は短い。慣れたやりとり、という空気。廊下の影から、丸い鼻先がのぞいた。ちいさな――ほんとうにちいさな、龍。淡
霧が薄い。水面が、淡い金でゆっくり息をしていた。近くで龍の尾が輪を描く。波紋が寄って、離れて、また寄る。「私……一人で頑張らなきゃって……ずっと……」胸の奥がきしんで、言葉がほどける。「子どもにまで寂しい思いをさせて……」抱きとめる腕があった。ためらいのない、静かな力。「もう一人じゃない」「俺がいる」「俺たちが家族になるんだ」喉がつまる。息が熱い。「でも、私には子どもが……」間は、ほとんどなかった。「君“だけ”を望むと思ったか?」「俺は欲深い」「君も、君の子も、全部抱きしめていたい」水の音が近い。霧の粒が、まつ毛でひとつ光る。「……え?」頬のそばで、低い笑いがやわらぐ。「俺は幸せ者だ」「君の愛だけじゃない」「君の子の笑顔まで、俺にくれるのだから」力が抜けて、膝がほどける。泣き崩れた背に、小さな腕がまわる。ぐっと、強く。龍の尾が、ふわり。三人ごと包む。水が光を返す。朝が、生まれていく。光は、もうひとつの光を連れてきた。にじむ白。雨の中の信号機。まぶたの裏で切り替わる。――曇りの朝。湿気でカーテンがすこし重い。台所のフライパンが、ちいさく鳴いた。トーストは薄く、卵焼きはすこし焦げ。湯気が窓へ流れていく。「ママ、ここのカリカリ、すき」テーブルの向こうで、ちいさな人が角を指さす。「カリカリね。……はい、ソウマの分」皿を寄せると、鼻を近づけて吸い込む。「こうばしい匂いする。ママのがいちばん」「ありがと」「いってきますの、ぎゅ」「三回ね」手と手。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。「だいじょうぶの合図」「……うん。だいじょうぶ」保育園へ急ぐ。靴が水たまりを踏んで、ズボンの裾に丸い跡ができる。門の前で先生に頭を下げて、息を整える。胸の鼓動がまだ早い。事務所。蛍光灯の白。コピー機が紙を飲み込む音。席に座る前に呼ばれて、狭い会議室へ。上司が書類をめくる指先だけがよく見えた。「契約、今月で終わりにしようか」「……そう、ですか」「うん。人は足りてて」「わかりました」エレベーターの鏡に映る自分。口角を上げる練習。うまくいかない。首もとを押さえて、ひとつ息を吐く。外へ出ると、空気はぬるくて、雨がまた細かく降りはじめていた。階段を上るとき、足が笑った。息を止めて立ち止まると、胸がすこし痛かった。夜。部屋は
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