君と、君の子を愛せるのなら──龍公の誓い──

君と、君の子を愛せるのなら──龍公の誓い──

last updateÚltima actualización : 2025-11-07
Por:  吟色En curso
Idioma: Japanese
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Sinopsis

転移

家族愛

純愛

賢い子ども

ドラゴン

OL

年の差

転生

新しい恋

雨上がりの横断歩道で、母と息子は光に包まれ、気づけば“龍の国アウレリア”にいた。助けてくれたのは、静かに笑う龍の守護公ライゼル。最初にくれたのは剣でも命令でもなく、毛布と水。「君も、君の子も、まとめて守る」──その一言が、心の糸をほどいていく。 知らない世界で、もう一度“家族”を始める母と子。そして、彼らを見つめる寡黙な男。 これは、傷ついた親子が“誓い”でつながる、やわらかくて温かい異世界の恋と再生の物語。

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Capítulo 1

君も、君の子も

霧が薄い。

水面が、淡い金でゆっくり息をしていた。近くで龍の尾が輪を描く。波紋が寄って、離れて、また寄る。

「私……一人で頑張らなきゃって……ずっと……」

胸の奥がきしんで、言葉がほどける。

「子どもにまで寂しい思いをさせて……」

抱きとめる腕があった。ためらいのない、静かな力。

「もう一人じゃない」

「俺がいる」

「俺たちが家族になるんだ」

喉がつまる。息が熱い。

「でも、私には子どもが……」

間は、ほとんどなかった。

「君“だけ”を望むと思ったか?」

「俺は欲深い」

「君も、君の子も、全部抱きしめていたい」

水の音が近い。霧の粒が、まつ毛でひとつ光る。

「……え?」

頬のそばで、低い笑いがやわらぐ。

「俺は幸せ者だ」

「君の愛だけじゃない」

「君の子の笑顔まで、俺にくれるのだから」

力が抜けて、膝がほどける。泣き崩れた背に、小さな腕がまわる。ぐっと、強く。

龍の尾が、ふわり。三人ごと包む。

水が光を返す。朝が、生まれていく。

光は、もうひとつの光を連れてきた。にじむ白。雨の中の信号機。まぶたの裏で切り替わる。

曇りの朝。湿気でカーテンがすこし重い。台所のフライパンが、ちいさく鳴いた。

トーストは薄く、卵焼きはすこし焦げ。湯気が窓へ流れていく。

「ママ、ここのカリカリ、すき」

テーブルの向こうで、ちいさな人が角を指さす。

「カリカリね。……はい、ソウマの分」

皿を寄せると、鼻を近づけて吸い込む。

「こうばしい匂いする。ママのがいちばん」

「ありがと」

「いってきますの、ぎゅ」

「三回ね」

手と手。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。

「だいじょうぶの合図」

「……うん。だいじょうぶ」

保育園へ急ぐ。靴が水たまりを踏んで、ズボンの裾に丸い跡ができる。

門の前で先生に頭を下げて、息を整える。胸の鼓動がまだ早い。

事務所。蛍光灯の白。

コピー機が紙を飲み込む音。

席に座る前に呼ばれて、狭い会議室へ。

上司が書類をめくる指先だけがよく見えた。

「契約、今月で終わりにしようか」

「……そう、ですか」

「うん。人は足りてて」

「わかりました」

エレベーターの鏡に映る自分。口角を上げる練習。うまくいかない。

首もとを押さえて、ひとつ息を吐く。

外へ出ると、空気はぬるくて、雨がまた細かく降りはじめていた。

階段を上るとき、足が笑った。

息を止めて立ち止まると、胸がすこし痛かった。

夜。部屋は暗い。蒼真の寝息が、布団の端から聞こえる。

テーブルには電卓とメモ。数字はすぐ消して、また書く。

右手にすこしだけ、金木犀の香り。たぶん、昼に塗ったハンドクリームがまだ残ってる。

「来月……どうしよ」

声に出すと、現実になる気がして、すぐ小さく飲み込む。

「……大丈夫」

小さな寝息が聞こえる。その音だけで、まだ生きていける気がした。

窓を打つ雨が、すこし強くなった。

翌朝。雨は上がって、路面だけがまだ濡れている。

登園の道。信号が白く点滅して、風がふっと頬を掠めた。

「ママ、ひかり」

隣で、ちいさな指が上をさす。

右手から、水を切る音。タイヤが滑る、いやな音。

「ソウマ、下がって!」

反射で抱き寄せる。腕の中に体温。

信号の光が金に変わった。

耳の奥の音が、いちど全部消えて、すぐに別の音になった。

光。

風。

土の感触。

遅れて、金木犀の匂いが追いつく。

足の裏に、湿った土。

葉の先から、冷たい雫が落ちて頬に触れた。

「夢じゃない……の?」

空気が湿って、風が匂うのに、どこにもアスファルトの匂いがしない。

「……ここ、森?」

「手、離さないで」

「うん。三回、ぎゅ」

ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。

木の葉が揺れる音。遠くで、水の落ちる音。

息を合わせるように繰り返すと、鼓動がすこし落ち着いた。

一瞬、音がなくなった。風の葉擦れも、息の音も。

息の音だけが、ゆっくり戻ってきた。

草の向こうに、外套の影。

近づく足音は大きくない。こちらを驚かせない歩幅。

男は目の前で膝をついて、視線を合わせた。土の匂いと、冷たくない水の匂いが混じる。

「……近づかないで。子どもに触らないで」

自分でも驚くくらい、声は震えなかった。腕だけが強くなる。

「大丈夫だ、落ち着け」

短い言葉のあと、手のひらに木の杯。

「水だ。飲めるか?」

ソウマの口へ、そっと添える。ひと口。喉が、ごくりと動いた。

「……あったかい」

男の目尻が、わずかにやわらぐ。

「……大丈夫だ。怖くない」

風が、彼の髪をすこし揺らした。

杯の水面が、かすかに光る。錯覚じゃない気がした。

指先の力を、少しずつ戻していく。

「あなたは……」

続きは出てこない。質問でも感謝でもなくて、ただ確かめたい声。

「まずは、安全な場所まで案内する」

言い切る声。約束みたいに揺れない。

見上げると、木の間を淡い蒼の影が一度だけ横切った。

鳴かない。風だけがすこし動く。守られている、と身体が先に理解した。

男が立ち上がる。歩幅は短い。こちらの速さに合わせているのが分かる。

ついていく。手はまだ繋いだまま。三回の合図を、もういちど確かめるみたいに。

光が近づくたび、息があたたかくなった。

木々の間に、はっきりした灯りが見えた。

乾いた薪の匂いが、風に混じった。

小さく煙がのぼって、人の気配がする。

「すぐに着く。温かい食事も用意させよう」

「……助かります」

「おうち、あるの?」

「ああ。すぐに着くからな」

灯りに向かって、影が伸びる。二つと、もうひとつ。

足の裏の土が、すこしずつ固くなっていく。

この世界で、また誰かを信じられたら――

そのとき、何かが変わる気がした。

あの灯りは、人がいる灯りだと分かった。

胸の奥で、ずっと張っていた糸が、ぷつりと切れた。

ざわめきが、ゆるくほどけていく。

そのまま、光のほうへ歩いた。

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君も、君の子も
霧が薄い。 水面が、淡い金でゆっくり息をしていた。近くで龍の尾が輪を描く。波紋が寄って、離れて、また寄る。 「私……一人で頑張らなきゃって……ずっと……」 胸の奥がきしんで、言葉がほどける。 「子どもにまで寂しい思いをさせて……」 抱きとめる腕があった。ためらいのない、静かな力。 「もう一人じゃない」 「俺がいる」 「俺たちが家族になるんだ」 喉がつまる。息が熱い。 「でも、私には子どもが……」 間は、ほとんどなかった。 「君“だけ”を望むと思ったか?」 「俺は欲深い」 「君も、君の子も、全部抱きしめていたい」 水の音が近い。霧の粒が、まつ毛でひとつ光る。 「……え?」 頬のそばで、低い笑いがやわらぐ。 「俺は幸せ者だ」 「君の愛だけじゃない」 「君の子の笑顔まで、俺にくれるのだから」 力が抜けて、膝がほどける。泣き崩れた背に、小さな腕がまわる。ぐっと、強く。 龍の尾が、ふわり。三人ごと包む。 水が光を返す。朝が、生まれていく。 光は、もうひとつの光を連れてきた。にじむ白。雨の中の信号機。まぶたの裏で切り替わる。 曇りの朝。湿気でカーテンがすこし重い。台所のフライパンが、ちいさく鳴いた。 トーストは薄く、卵焼きはすこし焦げ。湯気が窓へ流れていく。 「ママ、ここのカリカリ、すき」 テーブルの向こうで、ちいさな人が角を指さす。 「カリカリね。……はい、ソウマの分」 皿を寄せると、鼻を近づけて吸い込む。 「こうばしい匂いする。ママのがいちばん」 「ありがと」 「いってきますの、ぎゅ」 「三回ね」 手と手。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。 「だいじょうぶの合図」 「……うん。だいじょうぶ」 保育園へ急ぐ。靴が水たまりを踏んで、ズボンの裾に丸い跡ができる。 門の前で先生に頭を下げて、息を整える。胸の鼓動がまだ早い。 事務所。蛍光灯の白。 コピー機が紙を飲み込む音。 席に座る前に呼ばれて、狭い会議室へ。 上司が書類をめくる指先だけがよく見えた。 「契約、今月で終わりにしようか」 「……そう、ですか」 「うん。人は足りてて」 「わかりました」 エレベーターの鏡に映る自分。口角を上げる練習。うまくいかない。 首もとを押さえて、ひとつ息を吐く。 外へ出ると、空気はぬるくて、雨がまた細かく降りはじめて
last updateÚltima actualización : 2025-10-22
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邸のあかり
木の切れ間を抜けたところで、石の門が現れた。灯りがひとつ、風にゆれている。 男は歩幅を合わせたまま、門の前で片手を上げた。 「開けてくれ」 内側で足音。横板が外れる音。重い扉がすこしずつ開く。 「了解しました。……怪我はありませんか?」 低い声の男が現れた。鎧の肩に夜気が触れて、きい、と鳴る。 「大丈夫です。私は平気です」 思わず先に答えた。抱き寄せた腕の中で、蒼真の指が動く。 彼が、横目で蒼真を見た。 「子どもには、温かいものを」 門番の男が、視線だけ柔らいだ。 「すぐ用意します」 敷石に足を下ろす。 土の柔らかさが離れて、靴の底に冷たさが戻る。灯りが近づいて、息がひとつ深くなった。 玄関の扉が開き、黒いエプロンドレスの女性が膝をついた。目線が、こちらと同じ高さまで降りてくる。 「ようこそ。まずお湯です。毛布もすぐ。 話は、そのあとで」 「ありがとうございます……」 「うん、あったかい」 蒼真が毛布に頬をすり寄せる。彼女はほっと息をこぼした。 「かわいい声ね」 濡れた靴をそっと外してくれる。床は乾いて、木の香りがする。 「お名前を教えてもらえますか?」 「ミコトです。……この子はソウマです」 「ミコト様、ソウマくん。私はリネア。ここでは、休んでいい場所を先に作ります」 背後で、鎧の人が小声で言う。 「閣下、お湯の準備は?」 「ライゼル様」 リネアが呼んだ。男は、こちらを見ずに毛布をかけ直すだけだった。 廊下の先、小さな部屋に通される。壁に掛けられた灯りがやわらかい。木の机、低い寝椅子、暖かい空気。息がほどける。 「冷えてるね。まずは一口ゆっくり飲んで」 ハーブの盆を抱えた女性が入ってきた。カーキ色の作業着、三つ編みをぐるっと巻いている。湯気の向こうで笑う目。 「アメリアです。はい、一口どうぞ」 湯のみが手に押し当てられる。指先が、じんとする。 「……甘い」 蒼真がひと口。喉がごくりと動いた。 「うん、体がしっかりしてる」 「すみません、いろいろご迷惑を……」 「謝るのはあとでいいから。落ち着いて、休んで」 言い切らず、やさしく押し出す声。背筋の力が、ひとつ抜けた。 部屋の隅に立つ彼――ライゼルは、邪魔をしない。必要そうなものだけ先に置いていく。 乾いたタオル。もう一つの湯のカップ。毛
last updateÚltima actualización : 2025-10-22
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小さな席
朝の台所は、湯気とパンの匂いであたたかかった。 温室の窓がしっとり光って、テーブルの端に椅子がひとつ、空いている。 「熱いから、ふーしてね」 アメリアがお椀を置く。 「ふー……あつい……でも、おいしい」 ソウマが息を吐いて、顔をほころばせた。 「おはようございます。ここ、座りますか?」 リネアが椅子を引いてくれる。 「……はい。ありがとう」 座る前にちいさく会釈する。 「冷めないうちに、食べよう」 ライゼルが短く言って、鍋のふたをすこし持ち上げた。湯気がまた立つ。 器を手前に寄せてくれる。熱がすこしやわらいだ。 スプーンの音がそろって、朝が動きだした。 小客間。邸の静かな予備室。低い机に紙束と紐、木札が置いてある。リネアが薄い帳面を開いて見せた。 「昨日までの納品記録です。日付がずれてて……もう少し見やすくしたいんです」 「並べ替え……えっと、日付→品名→数量。渡すときは、ここに小さく丸をつけて」 欄の端を、とん、と指で示し、紙に小さなまるをひとつ描く。 「受け取ったら、もう一つ丸を。ひと目でわかります」 「丸印、いいですね。誰が見てもわかりやすいのが一番です」 「じゃあ、私でもちゃんとわかるようにしておきますね」 ふっと二人とも笑った。 紙を束ねる前に、順番を指でなぞる。ページの端をちょんと折って、目印をつける。 「これ、ママのお仕事?」 ソウマとルゥが覗き込む。ルゥの鼻先が紙に近づく。 「そう。ここで並べるだけだよ」 ルゥが紙をかじろうとして、 「こら、紙は食べません」 自分でもおかしくなって、肩の力が抜けた。 「ルゥ、こっちだよ。果物あるよ」 アメリアが皿を鳴らす。ルゥがすぐ移動して、ちいさく「るぅ」。 指先の紙の粉が、すこしだけ白い。並べるだけ。けれど、ここで役に立てる気がした。 胸の奥が、少し明るくなる。 中庭に出ると、空気がやわらかい。洗濯紐が風で揺れて、陽が低いベンチの背に落ちている。 「井戸、今日は深いから気をつけて」 見回りのついでに、カイムが足を止めた。 「はい」 「ママ、三回だよ」 ソウマが手を出す。 「うん。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」 「いい合図だな」 カイムの目がすこし和んだ。 「……そうでしょ」 私もつられて笑う。家のルールがすこしずつ身体に入っていく。 玄関
last updateÚltima actualización : 2025-10-23
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市場の朝
夜明け前、台所の窓のほうで小さな鈴が鳴った。 荷車が遠くをゆっくり通る音が、まだ薄い。 布巾を絞る音と、湯気の匂い。 昨日、リネアに頼まれた。 「市場の帳簿、手伝ってくれませんか。最近、渡し間違いが多くて……」 ——この町の市場では、朝に品物を受け取る人の数が多すぎて、 誰に渡したのか、どの店がまだなのかがすぐ分からなくなるらしい。 手書きの帳簿はあるが、忙しさで印をつける余裕もない。 今日は、その整理を任された“記録係”の初日だった。 「どこか行くの?」 ソウマが袖をつまむ。 「うん。……市場。パン屋さんたちの記録を手伝うの」 「ちゃんと手、離さないでね」 「ゆっくりね。ふーってして」 アメリアが椀をそっと差し出す。 扉のところで、ライゼルが短く言う。 「準備ができたら出発する。帳簿も忘れるな」 靴。上着。帳簿と炭筆。小さな布袋。ソウマの手。 数えるたび、胸が落ち着く。 門を出ると、土の匂いが濃くなる。 草の先が濡れて、靴の底が少し吸いこまれる。 「今日は道がぬかるんでる。気をつけて」 カイムが前を見たまま言う。 「うん……ソウマ、手つないで」 手をにぎり直す。 「離れるなよ」 ライゼルの声は短くて、よく届く。 路地に入ると、人いきれが増えた。 見張りの男が合図だけで流れを整える。 パン屋の軒の前は、白い粉の匂い。 湯気が低く流れて、扉の内側で人の影が行き来する。 「いらっしゃい。……子どもの顔色、いいね」 粉のついた手で、リサナが笑った。 「おはようございます。今日、帳簿整理の手伝いに来ました。 順番の印をつけるだけですけど、許可をいただけますか?」 「もちろん。朝は混むから、助かるわ」 台の上に帳簿を開く。 欄はびっしり埋まっているのに、印が抜けている行が多い。 「これ、受け取った人に丸をつけていけば分かりやすいかもしれません。 受け取る前に一つ、渡したあとにもう一つ、二重丸にするんです」 「なるほどね……目で見てすぐに分かる」 リサナが感心したようにうなずいた。 客が次々と押し寄せる。 リサナが包みを渡すたび、私は帳簿の欄に小さな丸をつけていく。 「次の方、こちら。——はい、二つ目の印、完了です」 呼び声が重ならなくなり、包みの紙が擦れる音だけが続いた。……ところで、つ
last updateÚltima actualización : 2025-10-28
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雨の修繕
天井のどこかで、ぽた、と音がした。 アメリアが無言で桶を置いて、布巾をしぼる。湿気の匂いがすこし濃い。 ソウマが指で三回、私の袖をつまんだ。 「ねぇ、水、落ちてる」 「うん。……すぐ直すね」 息を合わせるように答える。 扉口にライゼルが立って、短く言った。 「高い所は俺がやる。下は頼んだ」 「ここ、だいぶ漏れてるわね」 アメリアが天井の角を見上げる。 「布押さえて。ソウマ、足元見てて」 私が言うと、ソウマはうなずいて位置を変えた。 「脚立持ってくる」 ライゼルが脚立を引き寄せる。金具が静かに鳴った。 温室へ移る。 ガラスの継ぎ目から細い筋が落ちて、机の端にしみを作っていた。 テーブルをすこし動かして、養生布をかける。 ライゼルが脚立を立て、上から指で示す。私は紐の端を受けて、結び目を作る。 「もう一回、しっかり結んで」 「うん……ここで止めるね」 ソウマが手を伸ばした。 「僕、ここ持つ」 「いくよ。タイミング合わせて——せーの」 アメリアの声で、布のしわが伸びる。 ルゥは膝のそばで丸くなって、静かに見ていた。 私は小さな釘をひとつ、軽く打つ。 紐の角度が変わって、滴の落ちる位置がずれる。 自分でもほっとして、息がゆるむ。 「いまの音……すこし、軽い」 自分でもほっとして、息がゆるむ。 昔は——この音が、怖かった。 ひとりで暮らしていた頃、夜の屋根から落ちる雨の音は、 いつまでも止まらなくて。 桶を置いても、水は別の場所から落ちてきて、 “直らない音”が部屋の中に居座っていた。 あのとき、泣いても誰も気づかなくて、 誰かを呼ぶ声も、すぐ雨に消えた。 けれど今は違う。 音を聞く人がいて、息を合わせてくれる手がある。 結び目を引く力の向こうに、確かに“ここで生きる音”がある。 もう、雨の音は怖くない。 直せる音になった。 「雨の日の納品、順番が乱れてます」 帳を抱えたリネアが駆けてきた。肩に細い水滴が残っている。 私は机の端を拭いて、炭筆で臨時の小さな欄を作る。 「ここに“雨待ち”って書くね」 木札に小さな穴を開けて、青い糸を通す。青は遠くでも見える。 「渡すときは丸と青い糸をつけて、受け取ったら糸を外して、もう一個丸をつける」 リネアの目がやわらいだ。 「見やすいね。遠くか
last updateÚltima actualización : 2025-11-01
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外の匂いを入れる日
温室の湯気が低くゆれて、葉に小さな水が残っている。アメリアが火を見て、匙を一度だけ回した。「深呼吸して、少し飲んで。横になるのは……起きてからにしよう」「うん」私は帳の余白を指でそろえ、端に小さく印を足す。ソウマが袖を三回つまむ。「ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ」「聞こえてるよ」湯気の匂いは甘くて、胸の奥がふっとやわらぐ。門を叩く音が、木の方へ抜けた。アメリアが目で私を見る。私は頷いて、息をひとつだけ整えた。外の匂いが、扉の隙間から入ってくる。扉が開いて、粉のついた腕が見えた。リサナが三角布を押さえて、息を吐く。「ごめんね、朝から。橋の手前で荷車が詰まってて、粉が運べないの」「けがはないか?」背後からカイムの声。低くて短い。「ないよ。でも、人が集まってて……子どもが寒そうだった」カイムはすぐ外を見る。「門の前、間を空けろ。子どもを先に通せ」 庭の従者が走る。「わかりました」リネアが歩み寄り、リサナの手から小さな紙片を受け取る。「朝の焼く数、どうするか迷ってるのね」「うん。減らしたら、お昼が足りなくなるかもって」「迷ってるなら、こっちで火を増やそう」 背後から、ライゼルの声。静かで、届く。「焼くのは止めない。温室の粥を一つ増やせ。足りない分は俺が出す」リサナの肩が少し落ちた。「……助かります」通りがかった従者が当たり前のように頭を下げる。「閣下、門は少し開けておきますね」ライゼルは短く頷く。「寒い人を先に入れろ」リネアが私の方へ紙片を返した。「ミコト、門の前に掲示を出そう。配り方はここで決めよう」 喉が少し乾く。「……私が、書くの?」「任せてもいい?」リネアの目は静かで、急がせない。私は炭筆を握る。指先が細かく震える。「門のところまでなら……行ける」ソウマが青い糸を差し出した。「ほら、ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ」「うん。門前で、見える高さに結ぶね」一枚目の札に、丸を二つ。「子どもを優先」余白を残して、息を入れる。カイムが掲示の位置を下げてくれる。「この高さなら、子どもにも見えるね」「ありがとう」門の外は濡れている。靴の音が浅くなる。ここで火を一つ足せば、あちらの冷えが戻る。そんな感じがした。「鍋をもう一つ」アメリアが火加減を落とし、塩を指先で控える。「蜂蜜水も
last updateÚltima actualización : 2025-11-07
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