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小さな席

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-23 06:27:19

朝の台所は、湯気とパンの匂いであたたかかった。温室の窓がしっとり光って、テーブルの端に椅子がひとつ、空いている。

「熱いから、ふうして」

アメリアがお椀を置く。

「ふー……あつ……でも、すき」

ソウマが息を吐いて、顔をほころばせた。

「おはようございます。こちらでよろしいですか」

リネアが椅子を引いてくれる。

「……はい。ここ、空いてたから」

座る前にちいさく会釈する。

「座って」

ライゼルが短く言って、鍋のふたをすこし持ち上げた。湯気がまた立つ。

器を手前に寄せてくれる。熱がすこしやわらいだ。

スプーンの音がそろって、朝が動きだした。

――

小客間。邸の静かな予備室。低い机に紙束と紐、木札が置いてある。リネアが薄い帳面を開いて見せた。

「昨日までの納入記録。日付がずれていて……見やすく並べたいんです」

「並べ替え……えっと、日付→もの→量。渡すとき、ここに小さくまるを」

欄の端を、とん、と指で示し、紙に小さなまるをひとつ描く。

「受け取ったら、もうひとつ。見てすぐわかる」

「丸印、いいです。誰が見てもわかるのがいちばん」

「じゃあ、私にもわかるように」

ふっと二人とも笑った。

紙を束ねる前に、順番を指でなぞる。ページの端をちょんと折って、目印をつける。これで、ぱらっと探せる。

「これ、ママのおしごと?」

ソウマとルゥが覗き込む。ルゥの鼻先が紙に近づく。

「うん。ここで、並べるだけ」

ルゥが紙をかじろうとして、「紙は、食べない」。自分でもおかしくなって、肩の力が抜けた。

「ルゥ、こっち。干し果物」

アメリアが皿を鳴らす。ルゥがすぐ移動して、ちいさく「るぅ」。

指先の紙の粉が、すこしだけ白い。並べるだけ。けれど、ここで役に立てる気がした。

――

中庭に出ると、空気がやわらかい。洗濯紐が風で揺れて、陽が低いベンチの背に落ちている。

「井戸、今日は深い。気をつけて」

見回りのついでに、カイムが足を止めた。

「はい」

「ママ、三回」

ソウマが手を出す。

「うん。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」

カイムの目がすこし和んだ。「合図、いいな」

「……ね」

私もつられて笑う。家のルールがすこしずつ身体に入っていく。

――

玄関のほうから、声が重なった。近所の老女と、若い配達人。温室の炉(ろ)の順番で、声が速くぶつかった。

「順番、こっちが先で」

青年の声は急いている。

「子の分が冷めるんだよ」

老女の声は強いけれど、疲れている。

空気が張りそうになったところに、ライゼルが間に入った。声は低く、短い。

「毛布と水、先に」

「はい」

リネアがもう盆を持ってきている。湯と、薄い蜂蜜水。老女の手に毛布が渡され、青年の喉が一度動いた。

間ができた。そこで、口が勝手に動いた。

「帳に順番を書いて……渡すとき、ここに小さくまるを」

欄の端を、とん、と指で示し、指先で小さなまるを描いて見せた。

青年が眉を上げる。「印……」

「それなら、私もわかる」

老女が頷いた。

ライゼルはうなずいただけ。湯気が落ち着くあいだに、二人の肩の力が抜けた。胸より手前、喉の奥があたたかくなった。

――

午後。温室脇のベンチに、子どもが三人。従者の妹と、台所の子と、ソウマ。ルゥは足もとで丸い。

「ゆっくり、息してから。ここ、読める?」

指で示すと、ちいさな指が並んだ文字に触れる。

「……う」

子どもが息を溜めて、声を出した。

「う、だね。上手」

「ママの、つぎぼく」

ソウマが背筋を伸ばす。

「るぅ」

ルゥがページに鼻を押しつけて、みんなが笑った。

声を出すたび、空気がやわらいだ。守れる気がした。

――

夕方。執務の間。窓が薄く金色で、整えた紙束が机の端に積まれている。

「見やすい。助かります」

リネアが帳面をぱらりとめくる。

「森道、昼は問題なし。夜は見張り二人つけた」

カイムが手短に報告する。

「蜂蜜、今週ぶんは足りる」

アメリアが瓶を指で弾いた。

ライゼルがこちらを見る。「無理は、しないでいい」

「……並べるだけ、なら。できます」

「頼む」

たった一言。胸の奥で、居場所が静かに形になった。

――

灯りの下の廊下で、足音が静まる。ライゼルが立ち止まって、こちらを待った。

「……さっきの、印のこと。勝手に、口を出して」

「助かった」

「……よかった」

「ミコト」

「はい」

「困ったら、また呼べ」

「……はい。ライゼルさん」

視線が私の指先をかすめて、すぐ戻った。くせみたいに。

それ以上、何も言わなかった——

息が合って、足音がまた並ぶ。

――

夜。台所の布巾を絞る音。鍋の余熱が、ふわっと手のひらに残る。窓の外に、薄い星。

「明日も、ここ?」

ソウマが袖をつまむ。

「明日も、ここ。たぶん」

言ってから、自分でも笑ってしまう。

「るぅ」

ルゥが椅子の脚にもたれて、尻尾をすこしだけ振った。

手のひらに残った木の温度が、寝室までついてくる。

窓のほうで小さな鈴。市場へ向かう荷車の音が、まだ遠い。

灯りを落として、息を合わせる。

ここで息をしていい、と身体が先に決めていた。

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