LOGIN朝の台所は、湯気とパンの匂いであたたかかった。温室の窓がしっとり光って、テーブルの端に椅子がひとつ、空いている。
「熱いから、ふうして」 アメリアがお椀を置く。 「ふー……あつ……でも、すき」 ソウマが息を吐いて、顔をほころばせた。 「おはようございます。こちらでよろしいですか」 リネアが椅子を引いてくれる。 「……はい。ここ、空いてたから」 座る前にちいさく会釈する。 「座って」 ライゼルが短く言って、鍋のふたをすこし持ち上げた。湯気がまた立つ。 器を手前に寄せてくれる。熱がすこしやわらいだ。 スプーンの音がそろって、朝が動きだした。 ―― 小客間。邸の静かな予備室。低い机に紙束と紐、木札が置いてある。リネアが薄い帳面を開いて見せた。 「昨日までの納入記録。日付がずれていて……見やすく並べたいんです」 「並べ替え……えっと、日付→もの→量。渡すとき、ここに小さくまるを」 欄の端を、とん、と指で示し、紙に小さなまるをひとつ描く。 「受け取ったら、もうひとつ。見てすぐわかる」 「丸印、いいです。誰が見てもわかるのがいちばん」 「じゃあ、私にもわかるように」 ふっと二人とも笑った。 紙を束ねる前に、順番を指でなぞる。ページの端をちょんと折って、目印をつける。これで、ぱらっと探せる。 「これ、ママのおしごと?」 ソウマとルゥが覗き込む。ルゥの鼻先が紙に近づく。 「うん。ここで、並べるだけ」 ルゥが紙をかじろうとして、「紙は、食べない」。自分でもおかしくなって、肩の力が抜けた。 「ルゥ、こっち。干し果物」 アメリアが皿を鳴らす。ルゥがすぐ移動して、ちいさく「るぅ」。 指先の紙の粉が、すこしだけ白い。並べるだけ。けれど、ここで役に立てる気がした。 ―― 中庭に出ると、空気がやわらかい。洗濯紐が風で揺れて、陽が低いベンチの背に落ちている。 「井戸、今日は深い。気をつけて」 見回りのついでに、カイムが足を止めた。 「はい」 「ママ、三回」 ソウマが手を出す。 「うん。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」 カイムの目がすこし和んだ。「合図、いいな」 「……ね」 私もつられて笑う。家のルールがすこしずつ身体に入っていく。 ―― 玄関のほうから、声が重なった。近所の老女と、若い配達人。温室の炉(ろ)の順番で、声が速くぶつかった。 「順番、こっちが先で」 青年の声は急いている。 「子の分が冷めるんだよ」 老女の声は強いけれど、疲れている。 空気が張りそうになったところに、ライゼルが間に入った。声は低く、短い。 「毛布と水、先に」 「はい」 リネアがもう盆を持ってきている。湯と、薄い蜂蜜水。老女の手に毛布が渡され、青年の喉が一度動いた。 間ができた。そこで、口が勝手に動いた。 「帳に順番を書いて……渡すとき、ここに小さくまるを」 欄の端を、とん、と指で示し、指先で小さなまるを描いて見せた。 青年が眉を上げる。「印……」 「それなら、私もわかる」 老女が頷いた。 ライゼルはうなずいただけ。湯気が落ち着くあいだに、二人の肩の力が抜けた。胸より手前、喉の奥があたたかくなった。 ―― 午後。温室脇のベンチに、子どもが三人。従者の妹と、台所の子と、ソウマ。ルゥは足もとで丸い。 「ゆっくり、息してから。ここ、読める?」 指で示すと、ちいさな指が並んだ文字に触れる。 「……う」 子どもが息を溜めて、声を出した。 「う、だね。上手」 「ママの、つぎぼく」 ソウマが背筋を伸ばす。 「るぅ」 ルゥがページに鼻を押しつけて、みんなが笑った。 声を出すたび、空気がやわらいだ。守れる気がした。 ―― 夕方。執務の間。窓が薄く金色で、整えた紙束が机の端に積まれている。 「見やすい。助かります」 リネアが帳面をぱらりとめくる。 「森道、昼は問題なし。夜は見張り二人つけた」 カイムが手短に報告する。 「蜂蜜、今週ぶんは足りる」 アメリアが瓶を指で弾いた。 ライゼルがこちらを見る。「無理は、しないでいい」 「……並べるだけ、なら。できます」 「頼む」 たった一言。胸の奥で、居場所が静かに形になった。 ―― 灯りの下の廊下で、足音が静まる。ライゼルが立ち止まって、こちらを待った。 「……さっきの、印のこと。勝手に、口を出して」 「助かった」 「……よかった」 「ミコト」 「はい」 「困ったら、また呼べ」 「……はい。ライゼルさん」 視線が私の指先をかすめて、すぐ戻った。くせみたいに。 それ以上、何も言わなかった—— 息が合って、足音がまた並ぶ。 ―― 夜。台所の布巾を絞る音。鍋の余熱が、ふわっと手のひらに残る。窓の外に、薄い星。 「明日も、ここ?」 ソウマが袖をつまむ。 「明日も、ここ。たぶん」 言ってから、自分でも笑ってしまう。 「るぅ」 ルゥが椅子の脚にもたれて、尻尾をすこしだけ振った。 手のひらに残った木の温度が、寝室までついてくる。 窓のほうで小さな鈴。市場へ向かう荷車の音が、まだ遠い。 灯りを落として、息を合わせる。 ここで息をしていい、と身体が先に決めていた。朝の台所は、湯気とパンの匂いであたたかかった。温室の窓がしっとり光って、テーブルの端に椅子がひとつ、空いている。「熱いから、ふうして」アメリアがお椀を置く。「ふー……あつ……でも、すき」ソウマが息を吐いて、顔をほころばせた。「おはようございます。こちらでよろしいですか」リネアが椅子を引いてくれる。「……はい。ここ、空いてたから」座る前にちいさく会釈する。「座って」ライゼルが短く言って、鍋のふたをすこし持ち上げた。湯気がまた立つ。器を手前に寄せてくれる。熱がすこしやわらいだ。スプーンの音がそろって、朝が動きだした。――小客間。邸の静かな予備室。低い机に紙束と紐、木札が置いてある。リネアが薄い帳面を開いて見せた。「昨日までの納入記録。日付がずれていて……見やすく並べたいんです」「並べ替え……えっと、日付→もの→量。渡すとき、ここに小さくまるを」欄の端を、とん、と指で示し、紙に小さなまるをひとつ描く。「受け取ったら、もうひとつ。見てすぐわかる」「丸印、いいです。誰が見てもわかるのがいちばん」「じゃあ、私にもわかるように」ふっと二人とも笑った。紙を束ねる前に、順番を指でなぞる。ページの端をちょんと折って、目印をつける。これで、ぱらっと探せる。「これ、ママのおしごと?」ソウマとルゥが覗き込む。ルゥの鼻先が紙に近づく。「うん。ここで、並べるだけ」ルゥが紙をかじろうとして、「紙は、食べない」。自分でもおかしくなって、肩の力が抜けた。「ルゥ、こっち。干し果物」アメリアが皿を鳴らす。ルゥがすぐ移動して、ちいさく「るぅ」。指先の紙の粉が、すこしだけ白い。並べるだけ。けれど、ここで役に立てる気がした。――中庭に出ると、空気がやわらかい。洗濯紐が風で揺れて、陽が低いベンチの背に落ちている。「井戸、今日は深い。気をつけて」見回りのついでに、カイムが足を止めた。「はい」「ママ、三回」ソウマが手を出す。「うん。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ」カイムの目がすこし和んだ。「合図、いいな」「……ね」私もつられて笑う。家のルールがすこしずつ身体に入っていく。――玄関のほうから、声が重なった。近所の老女と、若い配達人。温室の炉(ろ)の順番で、声が速くぶつかった。「順番、こっちが先で」青年の声は急いている。「子の分が冷めるんだよ」
木の切れ間を抜けたところで、石の門が現れた。灯りがひとつ、風にゆれている。男は歩幅を合わせたまま、門の前で片手を上げた。「開けてくれ」内側で足音。横板が外れる音。重い扉がすこしずつ開く。「承知した。……怪我は」低い声の男が現れた。鎧の肩に夜気が触れて、きい、と鳴る。「大丈夫です、私は」思わず先に答えた。抱き寄せた腕の中で、蒼真の指が動く。彼が、横目で蒼真を見た。「子は、温かいものがいる」門番の男が、視線だけ柔らいだ。「すぐに」敷石に足を下ろす。土の柔らかさが離れて、靴の底に冷たさが戻る。灯りが近づいて、息がひとつ深くなった。玄関の扉が開き、黒いエプロンドレスの女性が膝をついた。目線が、こちらと同じ高さまで降りてくる。「ようこそ。まずお湯です。毛布もすぐ。話は、そのあとで」「……ありがとうございます」「うん。あったかい」蒼真が毛布に頬をすり寄せる。彼女はほっと息をこぼした。「いい声」濡れた靴をそっと外してくれる。床は乾いて、木の香りがする。「お名前をお聞きしても?」「みこと。……この子は、ソウマ」「ミコト様、ソウマくん。私はリネア。ここでは、休んでいい場所を先に作ります」背後で、鎧の人が小声で言う。「閣下、湯は」「ライゼル様」リネアが呼んだ。男は、こちらを見ずに毛布をかけ直すだけだった。廊下の先、小さな部屋に通される。壁に掛けられた灯りがやわらかい。木の机、低い寝椅子、暖かい空気。息がほどける。「手、出して。冷えてる。まず一口」ハーブの盆を抱えた女性が入ってきた。カーキ色の作業着、三つ編みをぐるっと巻いている。湯気の向こうで笑う目。「アメリアです。はい、一口」湯のみが手に押し当てられる。指先が、じんとする。「……あまい」蒼真がひと口。喉がごくりと動いた。「うん、強い」「すみません、いろいろ、その……」「謝るのは、あと。息して、飲んで、横になって」言い切らず、やさしく押し出す声。背筋の力が、ひとつ抜けた。部屋の隅に立つ彼――ライゼルは、邪魔をしない。必要そうなものだけ先に置いていく。乾いたタオル。もう一つの湯のカップ。毛布をもう一枚。「夜は冷える。客間を」「用意済みです」リネアの返事は短い。慣れたやりとり、という空気。廊下の影から、丸い鼻先がのぞいた。ちいさな――ほんとうにちいさな、龍。淡
霧が薄い。水面が、淡い金でゆっくり息をしていた。近くで龍の尾が輪を描く。波紋が寄って、離れて、また寄る。「私……一人で頑張らなきゃって……ずっと……」胸の奥がきしんで、言葉がほどける。「子どもにまで寂しい思いをさせて……」抱きとめる腕があった。ためらいのない、静かな力。「もう一人じゃない」「俺がいる」「俺たちが家族になるんだ」喉がつまる。息が熱い。「でも、私には子どもが……」間は、ほとんどなかった。「君“だけ”を望むと思ったか?」「俺は欲深い」「君も、君の子も、全部抱きしめていたい」水の音が近い。霧の粒が、まつ毛でひとつ光る。「……え?」頬のそばで、低い笑いがやわらぐ。「俺は幸せ者だ」「君の愛だけじゃない」「君の子の笑顔まで、俺にくれるのだから」力が抜けて、膝がほどける。泣き崩れた背に、小さな腕がまわる。ぐっと、強く。龍の尾が、ふわり。三人ごと包む。水が光を返す。朝が、生まれていく。光は、もうひとつの光を連れてきた。にじむ白。雨の中の信号機。まぶたの裏で切り替わる。――曇りの朝。湿気でカーテンがすこし重い。台所のフライパンが、ちいさく鳴いた。トーストは薄く、卵焼きはすこし焦げ。湯気が窓へ流れていく。「ママ、ここのカリカリ、すき」テーブルの向こうで、ちいさな人が角を指さす。「カリカリね。……はい、ソウマの分」皿を寄せると、鼻を近づけて吸い込む。「こうばしい匂いする。ママのがいちばん」「ありがと」「いってきますの、ぎゅ」「三回ね」手と手。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。「だいじょうぶの合図」「……うん。だいじょうぶ」保育園へ急ぐ。靴が水たまりを踏んで、ズボンの裾に丸い跡ができる。門の前で先生に頭を下げて、息を整える。胸の鼓動がまだ早い。事務所。蛍光灯の白。コピー機が紙を飲み込む音。席に座る前に呼ばれて、狭い会議室へ。上司が書類をめくる指先だけがよく見えた。「契約、今月で終わりにしようか」「……そう、ですか」「うん。人は足りてて」「わかりました」エレベーターの鏡に映る自分。口角を上げる練習。うまくいかない。首もとを押さえて、ひとつ息を吐く。外へ出ると、空気はぬるくて、雨がまた細かく降りはじめていた。階段を上るとき、足が笑った。息を止めて立ち止まると、胸がすこし痛かった。夜。部屋は







