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君と、君の子を愛せるのなら──龍公の誓い──
君と、君の子を愛せるのなら──龍公の誓い──
Author: 吟色

君も、君の子も

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-22 14:45:33

霧が薄い。

水面が、淡い金でゆっくり息をしていた。近くで龍の尾が輪を描く。波紋が寄って、離れて、また寄る。

「私……一人で頑張らなきゃって……ずっと……」

胸の奥がきしんで、言葉がほどける。

「子どもにまで寂しい思いをさせて……」

抱きとめる腕があった。ためらいのない、静かな力。

「もう一人じゃない」

「俺がいる」

「俺たちが家族になるんだ」

喉がつまる。息が熱い。

「でも、私には子どもが……」

間は、ほとんどなかった。

「君“だけ”を望むと思ったか?」

「俺は欲深い」

「君も、君の子も、全部抱きしめていたい」

水の音が近い。霧の粒が、まつ毛でひとつ光る。

「……え?」

頬のそばで、低い笑いがやわらぐ。

「俺は幸せ者だ」

「君の愛だけじゃない」

「君の子の笑顔まで、俺にくれるのだから」

力が抜けて、膝がほどける。泣き崩れた背に、小さな腕がまわる。ぐっと、強く。

龍の尾が、ふわり。三人ごと包む。

水が光を返す。朝が、生まれていく。

光は、もうひとつの光を連れてきた。にじむ白。雨の中の信号機。まぶたの裏で切り替わる。

――

曇りの朝。湿気でカーテンがすこし重い。台所のフライパンが、ちいさく鳴いた。

トーストは薄く、卵焼きはすこし焦げ。湯気が窓へ流れていく。

「ママ、ここのカリカリ、すき」

テーブルの向こうで、ちいさな人が角を指さす。

「カリカリね。……はい、ソウマの分」

皿を寄せると、鼻を近づけて吸い込む。

「こうばしい匂いする。ママのがいちばん」

「ありがと」

「いってきますの、ぎゅ」

「三回ね」

手と手。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。

「だいじょうぶの合図」

「……うん。だいじょうぶ」

保育園へ急ぐ。靴が水たまりを踏んで、ズボンの裾に丸い跡ができる。

門の前で先生に頭を下げて、息を整える。胸の鼓動がまだ早い。

事務所。蛍光灯の白。コピー機が紙を飲み込む音。

席に座る前に呼ばれて、狭い会議室へ。

上司が書類をめくる指先だけがよく見えた。

「契約、今月で終わりにしようか」

「……そう、ですか」

「うん。人は足りてて」

「わかりました」

エレベーターの鏡に映る自分。口角を上げる練習。うまくいかない。

首もとを押さえて、ひとつ息を吐く。

外へ出ると、空気はぬるくて、雨がまた細かく降りはじめていた。

階段を上るとき、足が笑った。

息を止めて立ち止まると、胸がすこし痛かった。

夜。部屋は暗い。蒼真の寝息が、布団の端から聞こえる。

テーブルには電卓とメモ。数字はすぐ消して、また書く。

右手にすこしだけ、金木犀の香り。たぶん、昼に塗ったハンドクリームがまだ残ってる。

「来月……どうしよ」

声に出すと、現実になる気がして、すぐ小さく飲み込む。

「……大丈夫」

小さな寝息が聞こえる。その音だけで、まだ生きていける気がした。

窓を打つ雨が、すこし強くなった。

翌朝。雨は上がって、路面だけがまだ濡れている。

登園の道。信号が白く点滅して、風がふっと頬を掠めた。

「ママ、ひかり」

隣で、ちいさな指が上をさす。

右手から、水を切る音。タイヤが滑る、いやな音。

「ソウマ、下がって!」

反射で抱き寄せる。腕の中に体温。

信号の白が金に滲んだ。

耳の奥の音が、いちど全部消えて、すぐに別の音になった。

光。

風。

土の感触。

遅れて、金木犀の匂いが追いつく。

足の裏に、湿った土。

葉の先から、冷たい雫が落ちて頬に触れた。

「夢じゃない……の?」

空気が湿って、風が匂うのに、どこにもアスファルトの匂いがしない。

「……ここ、森?」

「手、離さないで」

「うん。三回、ぎゅ」

ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。

木の葉が揺れる音。遠くで、水の落ちる音。

息を合わせるように繰り返すと、鼓動がすこし落ち着いた。

一瞬、音がなくなった。風の葉擦れも、息の音も。

息の音だけが、ゆっくり戻ってきた。

草の向こうに、外套の影。

近づく足音は大きくない。こちらを驚かせない歩幅。

男は目の前で膝をついて、視線を合わせた。土の匂いと、冷たくない水の匂いが混じる。

「……近づかないで。子どもに触らないで」

自分でも驚くくらい、声は震えなかった。腕だけが強くなる。

「触らない」

短い言葉のあと、手のひらに木の杯。

「水だ。飲める」

ソウマの口へ、そっと添える。ひと口。喉が、ごくりと動いた。

「……あったかい」

男の目尻が、わずかにやわらぐ。

「……大丈夫だ。怖くない」

風が、彼の髪をすこし揺らした。

吸う。吐く。吸う。吐く。

杯の水面が、かすかに光る。錯覚じゃない気がした。

指先の力を、少しずつ戻していく。

「あなたは……」

続きは出てこない。質問でも感謝でもなくて、ただ確かめたい声。

「案内する。灯りのある場所へ」

言い切る声。約束みたいに揺れない。

見上げると、木の間を淡い蒼の影が一度だけ横切った。

鳴かない。風だけがすこし動く。守られている、と身体が先に理解した。

男が立ち上がる。歩幅は短い。こちらの速さに合わせているのが分かる。

ついていく。手はまだ繋いだまま。三回の合図を、もういちど確かめるみたいに。

光が近づくたび、息があたたかくなった。

木々の間に、はっきりした灯りが見えた。

乾いた薪の匂いが、風に混じった。

小さく煙がのぼって、人の気配がする。

「すぐ着く。温かい食事がある」

「……助かります」

「おうち、あるの?」

「ある」

灯りに向かって、影が伸びる。二つと、もうひとつ。

足の裏の土が、すこしずつ固くなっていく。

この世界で、また誰かを信じられたら――

そのとき、何かが変わる気がした。

あの灯りは、人がいる灯りだと分かった。

胸の奥で、ずっと張っていた糸が、ぷつりと切れた。

ざわめきが、ゆるくほどけていく。

そのまま、光のほうへ歩いた。

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