「おかえりなさい」その言葉を口にした瞬間、胸の奥に少し温かさが広がった。待っていた時間の長さや、心の中にあった小さな不安が、その一言で解けていくようだった。「ただいま。資料ありがとね」返ってきた声は柔らかく、労いを含んでいた。普段なら当然のやり取りなのに、今日は少し違って聞こえる。「あ、うん。全然」「今までこんなこと無かったのに、どうしたんだろう」湊さんが独り言のように呟いた。その声には、ほんの少しの驚きと戸惑いが混じっていた。彼は普段、几帳面で忘れ物など滅多にしない人だった。今も昔も。だからこそ、今日のように資料を置き忘れるなんて、自分でも信じられないのだろう。「そういうこともあるよ」軽く返した言葉は、安心させるためでもあり、自分を落ち着けるためでもあった。人は変わるものだ、と言い聞かせるように。けれどその裏には、変化の理由を知りたいという気持ちが隠れていた。「秘書と何の話をしたの」湊さんがそう問いかけた瞬間、私は胸の奥が少しざわついた。声は穏やかに聞こえるけれど、その裏に探るような響きがあるのを感じ取ってしまう。普段なら軽く流すはずの問いなのに、今は特別な意味を帯びているように思えた。私が秘書と交わした会話は本当に些細なものだったのに、もののはずなのに…。「…何も」短い返答は、少し間を置いて出た。顔色が悪く見えると言われたなんて言ったら、きっと心配させてしまう。だから黙っておくしかない。心の奥では、言葉を選ぶ自分に小さな罪悪感が芽生えていた。「今の間は何。何かされた?」あの一瞬の沈黙を、湊さんは見逃さなかった。私が答えをためらったことが、彼の心に小さな疑念を芽生えさせてしまったのだろう。「本当に何も無かったよ。忙しい人だからすぐに帰ったよ」必死に落ち着いた声で答える。事実を伝えることで安心させたい。けれど、疑われていること自
Last Updated : 2026-04-04 Read more