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第11話 もう戻らない

Penulis: 花柳響
last update Tanggal publikasi: 2025-10-30 21:20:10
 中に広がっていたのは、光と影がまだらに混じり合う異質な空間だった。屋根裏部屋特有の傾斜した天井。唯一の明かりは、壁際の丸窓から差し込む午後の光だけ。その光さえも、床から天井まで無秩序に積み上げられた夥しい量の本や資料の山に阻まれ、部屋の奥までは届いていない。

 古い紙が酸化した甘く乾いた匂い。その奥に、壁へ沁み込んだ湿気がある。机までの狭い通路だけが空けられ、床に平積みされた本の脇には、紙片で包んだ欠片や、小さな木箱が並んでいた。

 その部屋の中心に、一人の男がいた。

 窓からの光を背に、古びた木製の机に向かい、分厚い和綴じの本を広げている。

 色素の薄い焦茶色の長髪を、首筋の位置で革紐で無造作に一つに束ねている。静が扉を開けた物音にも、彼は一切反応を示さない。その背中は、まるで周囲の書物の山と同化した石像のように微動だにしなかった。

 男は紙の一箇所に定規を当て、傍らの帳面へ何かを書き写していた。静が入っても手を止めない。その間だけ、こちらから何か言わなくてよいのが、奇妙にありがたかった。

 生きた人間のそばに立っている時の、ざらつく不快感が薄い。ただ、燈のそばにいる時
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     時計は、午前二時三分を示していた。  喉が、狭くなった。  オレンジ色の髪が、小さな丸い画像の中に見えた。以前使われていたものに似ている。似ている、としか言えなかった。顔の向きも、背景の色も、見つめようとすると曖昧になる。  燈からの連絡を、あれほど待っていた。  待ち続けた指が、今も画面の方へ動こうとしていた。  静はベッドから足を下ろした。  床が冷たい。  靴下越しに、板の継ぎ目が分かった。  画面に触れると、通知が開いた。 『み つ け た』  それだけだった。  上へ動かしても、以前の会話は現れなかった。貸したDVDの話も、講義の時間も、静が最後に送った問いかけもない。名前の部分を押してみたが、連絡先を確かめるための表示へは進まなかった。  ただ、そこに燈の名前があった。  誰が送ったのかを知るためのものではなく、静に見せるために貼りつけたような名前だった。  息が速くなる。  帰ってきたのだと思いたい自分がいた。助けられなかったのではなく、少し遅れて、ようやく声が届いたのだと。  その思いに触れた途端、右手の指先が冷えた。  地下で聞いた声も、自分の名前を知っていた。  静は返事の欄に触れなかった。  机の明かりをつける。  部屋の隅が浮かび上がり、椅子の脚から濃い影が伸びた。静の足元にも影があった。立ち上がると、それは同じ速さで動いた。  足首を引くものはない。  あの時切られた場所に、何かが繋がっている感触もない。  それでも、画面の黒い余白へ映った自分の顔が、ほんの少し遅れてこちらを向いたように見えた。  静はスマートフォンを落としそうになった。  両手で握り込みかけ、左腕の痛みに息を呑む。その痛みで、どうにか指を開いた。  電話を机へ置いた。  画面を上にしたまま、距離を取った。  布袋から覗いた鍵が、明かりを反射していた。静はそれを握り締めようとして、やめた。鍵は扉を開けるためのものだ。持っているだけで、部屋を守ってくれるものではない。  連絡先から、斎の番号を選んだ。  通知に表示された名前ではなく、自分で確かめて登録した相手へ。  呼び出し音が鳴った。  一回ごとに、暗がりが深くなるような気がした。  三回目の途中で、音が切れた。 「どうした」  掠れた声だった。  

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    「頼まれたら、必ず行かなきゃいけないんですか」 「断っていい」 「途中でも?」 「戻れるうちならな。戻れなくなる条件が分かっている時は、先に伝える」  静はすぐに頷かなかった。  分かっていない時がある。それを、分かっているように言わない人でいてほしかった。 「分からないなら、分からないって言ってください。危ないことも、先に。私に見せてから、そういうものだったって説明しないでください」  斎は静を見た。 「分かった」 「何をするか、私にも決めさせてください。触るかどうかも、行くかどうかも」  彼は頷いた。  静は膝の上の缶を握り直した。 「授業もあります。友達と、普通にご飯を食べたい日もあります」  口にすると、それがひどく小さな望みのように聞こえた。  けれど、その小さなものを諦めたところから、自分の輪郭が削れていく気がした。 「知らないまま、使われるのは嫌です」  斎は鍵を置く場所を探すように、ベンチの間を見た。  それから、自分の掌を開いたままにした。  静はその鍵を、自分で取った。  金属は、冷たかった。  燈を取り戻せる鍵ではない。失った時間の埋め合わせにもならない。それでも、次に分からないものへ触れる時、訊ける相手と、読むことのできる記録がある。  掌を閉じると、鍵の歯が少しだけ皮膚に食い込んだ。  遠くで、講義の終わりを知らせる音が鳴った。  静は携帯電話を出し、深琴から届いていたメッセージを開いた。帰りにパン屋へ寄るかと訊かれていた。 『行く。少し待ってて』  そう打ってから、温くなりかけたコーヒーを飲んだ。◇ 鍵は、机の上へ置いた。  学生証の入ったケースの隣だった。どちらも明日持って出るつもりだったが、同じ輪にはつけなかった。少し迷ってから、鍵だけを小さな布の袋へ入れた。  夜になると、窓ガラスは部屋の中を映した。  静はカーテンを閉めた。  今日のノートを開く。講義の途中で書き損ねたところがあった。次の時間までに深琴へ訊こうと思い、余白に小さな印をつけた。  机の端には、燈のことを書いた別のノートがある。  今日は、ひとつだけ書き足した。 『笑う時、右の眉が先に動く。いつもだったかは、分からない』  書いてから、しばらく眺めた。  いつもだった、と断言できないのが寂しかった

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     静は頷き、鞄の持ち手を自分の側へ引いた。  机の上へ、小さな紙袋が置かれた。 「食べられそうだったら。前に、好きって言ってたから」  パンだった。  袋の内側に、まだ少し曇りが残っていた。深琴がここへ来る前に買ったのだと分かった。 「ありがとう」  静は袋へ触れた。  二人の間に、短い沈黙が落ちた。  言わなければいけないことがある。けれど、言った後に深琴がどんな顔をするのか、見るのが怖かった。  燈へ何も言えなかった金曜日と、同じ後悔へまとめたくなった。自分はいつも間違えるのだと決めてしまえば、どちらにも向き合わずに済む。けれど今、深琴は隣にいる。机の端へ置かれた手を見て、静は、地下から帰ったら言おうとした言葉を探した。 「この前、腕、強く掴んでごめん」  深琴の視線が、静の手へ落ちた。 「うん。びっくりした」  その言葉に、静は俯いた。 「覚えてって、無理に言って、ごめん」  深琴はすぐには答えなかった。机の縁を指先で撫で、それから、静の方へ顔を向けた。 「私、あの人のこと、やっぱり思い出せない」  静は頷いた。 「でも、静がいない間、心配だった。それは覚えてるから」  喉の奥が熱くなった。  静は何か言おうとして、一度口を閉じた。思い出せないことを責める言葉は、もう出なかった。出ない代わりに、簡単に大丈夫とも言えなかった。 「また、一緒に食べてもいい?」  紙袋を見て言うと、深琴は小さく笑った。 「今はだめ。もう始まる」  教壇から、出席を取る声がした。  静は自分の名前が呼ばれるのを待った。  返事は、ちゃんと届いた。  昼休み、慧から連絡があった。  しばらく仕事を減らし、体調を見ながら記録を整理するという。五年前の記事についても、当時の資料をもう一度読み直しているらしい。 『分からない部分を、都合のいい説明で繋がないようにします。観月さんに確認したいことは、まだあります』  静はその一文を二度読んだ。  疑問がなくなったわけではないことに、少し安心した。地下から帰ってきた人たちが、皆、同じことだけを信じるようになったのではなかった。 『私のことを書く時は、先に読ませてください』  そう返した。  しばらくして、『約束します』と届いた。◇ 午後の講義の後、静は校舎裏のベンチへ向かった

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     静はしばらく、それを膝の上に置いていた。  返さなければ、と何度も思っていた。次に会う日に鞄へ入れようとして、忘れたこともあった。その時には、次がなくなるなんて考えもしなかった。  借りたものだけが、返す場所を失って残っている。  静はケースを閉じ、棚の見えるところへ置いた。  日記は、テーブルで開いた。  紙の色も、角の折れも変わっていなかった。筆圧の強い部分を撫でると、裏側まで凹んでいる。けれど、名前が書かれていた場所には、意味の取れない線が残っていた。文章の途中にも、読み返すたびに目が滑る箇所がある。  事故という言葉は読めた。  行かなかった、とも。  その前後から、一人の人間へたどり着く道だけが、抜き取られたようだった。  その事故で足を傷めた人の顔を、静は知らない。  泥から離れた今も、その人は、静の知らない場所で、その人自身の時間を生きている。  静には、その人の言葉を知ることができなかった。許すとも、許さないとも言えなかった。自分の胸に流れてきた痛みだけで、その人の人生まで分かったつもりにはなれなかった。  静はページの上へ手を置いた。  ここを最初に読んだ夜、知らない燈がいることを恐れた。今は、知っていると思っていた燈まで、この紙から遠ざかっていくのが怖かった。  新しいノートを出した。  最初のページに、今日の日付を書いた。その下へ、朱鷺燈、と書いた。  インクは紙に染み込み、乾いた。  消えないかどうか、しばらく待った。  消えなかった。明日も読めるかどうかは、まだ分からない。  静は次の行に、冷たいコーヒーのことを書いた。右の眉のこと。深琴と三人で食べたケーキのこと。自分が見たものと、後から日記で読んだものを、同じ文章にしないように気をつけた。  地下で聞いた言葉を書く時、ペンが止まった。 『ありがと、と聞こえた気がする。燈の声だったかどうかは、分からない』  そこまで書いた。  その後へ、許された、と続けることはできなかった。  涙が落ちた。  紙が小さく膨らんだ。慌てて拭こうとして、まだ乾いていなかった句点を擦ってしまった。  汚れたままにした。  綺麗な記録にはできなかった。綺麗にすれば、そこからまた何かが抜けてしまう気がした。  携帯電話に、母からのメッセージが残っていた。

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第52話 借りたものだけがある

     斎は目を伏せ、それから携帯電話を出した。  大学へ問い合わせるため、静は自分の名前と学籍番号を告げた。燈の名前を一字ずつ説明した。前に相談した日のことも話した。  待つ間、保留音が繰り返された。  その短い旋律を、静はもう覚えていた。  戻ってきた声は申し訳なさそうだった。静が相談に来たことを示す記録は残っている。だが、その相手として伝えた名前と、在籍者の情報が結びつかない。もう一度、表記を確かめてもらえないか。  静は同じ字を、もう一度言った。  斎は横から電話を取らなかった。  説明し終えた時、紙の上には燈の名前が残っていた。静が今、自分で書いた字だった。  古い記録へは届かない。  それでも、今ここで、その名前を口にしたことまで、なかったことにはならなかった。  窓の外で、雨が降り始めた。  細い筋がガラスを伝い、途中で別の筋へ合流した。どこから来た水なのか分からなくなっても、流れた跡だけが、しばらく白く残っていた。◇ 部屋へ戻ったのは、土曜日の昼過ぎだった。  鍵を差し込む前に、静は一度、深く息を吸った。廊下には、どこかの家の洗濯物の匂いがしていた。階下で食器が触れ合い、窓の外では自転車のベルが短く鳴った。  どれも、自分とは関係のない音だった。  そのことが、ありがたかった。  斎が先に中を確かめた。今、入り口に異常はないと言った後で、すべてを見つけられるわけではない、と付け足した。  静は頷き、自分で扉を開けた。  床に落ちた衣類は、そのままだった。  急いで部屋を出た時に踏んだのだろう、袖口に靴の跡がついていた。テーブルの上には、飲みかけのペットボトルがある。キャップを閉めた覚えはなかったが、きちんと閉まっていた。  そんな小さなことのひとつひとつに、怖さが紛れ込んでいた。  斎は玄関のそばに紙袋を置いた。  中には、研究室で預かってもらっていた燈の日記があった。 「照合は済んだ。手元に置くなら、持っていていい」  静は袋の縁に触れた。 「読めますか」 「残ったところは」  それ以上は、尋ねなかった。  斎は電話が通じることを確かめ、何かあれば場所と時刻から話すように言った。静は、分かりました、と答えた後で彼の右手を見た。白い包帯の下で、指が少しだけ曲がっていた。 「観月さんも、休んでくださ

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第51話 もう一度その名を

     地面は、硬かった。  それまで当たり前だったことを、静は座り込んで初めて知った。尻の下に小さな石がある。避けようとして体をずらすと、今度は別の場所が痛んだ。湿った土は衣服に染み込み、容赦なく体温を奪っていった。  沈まない。  掌をついても、指の形に少し窪むだけだった。  静はその窪みを見つめた。自分が離れた後も、しばらく残るだろう。そのことが、不思議だった。 「そこでは冷える」  宗司が言って、上着を肩に掛けてくれた。  彼は閉じたばかりの地下への扉へ戻り、金具が掛かっているのを二度確かめた。扉が閉まった途端に空気が澄む、ということはなかった。古い建物は相変わらず湿気を含み、窓の内側には、埃が白く積もっていた。  宗司はそこから少し離れた場所で電話をかけた。  声が、朝の空気の中を通ってくる。転倒したこと。地下にいたこと。歩けるが、立ち上がるのが難しい者がいること。分かる範囲の説明を、ひとつずつしていた。  静は、自分の腕を見た。  包帯が汚れていた。血は新しいものと古いものが混ざり、端だけが乾いて固くなっている。痛みを感じなくなっていた時間があったことを思うと、急に怖くなった。  慧は少し離れた縁石に腰を下ろしていた。  ライトをまだ握っている。消していいのだと宗司が声をかけても、指がスイッチを探すまでに時間がかかった。 「廻さん」  静が呼ぶと、顔が上がった。 「はい」  それだけの返事だった。  名前が通じたことに安心してから、静は次の言葉を失った。大丈夫ですか、と訊くのは違う気がした。見れば、大丈夫でないことは分かる。けれど、その隣に座り直せるほどの力もなかった。 「灯り、ありがとうございました」  慧は手の中のライトを見た。  一度だけ頷いて、ようやくスイッチを切った。  斎は車のそばで、鏡を布に包んでいた。  布の内側で破片が擦れるような音がした。全部が割れたのではないらしい。彼は鏡面へ触れないように縁を寄せ、何重にも巻いた後、膝の上に置いた。  その手が、途中で止まった。  自分の掌を眺め、何かを思い出そうとするように目を細めた。 「観月さん」  静が呼ぶと、彼はすぐに顔を向けた。 「まだ、分からなくなりますか」 「少しな」  それ以上は言わなかった。  静も、聞き直さなかった。何を失っ

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     大学の正門が見えてきたところで、霧の壁から不意に人影が滲み出した。心臓が喉元まで跳ね上がる。だが、その輪郭が色を得るにつれて、安堵が恐怖を上書きしていった。最初に視界に飛び込んできたのは、この白の世界で唯一彩度を許されたような、オレンジブラウンの髪だった。「よお、しずく。遅かったじゃん」 朱鷺燈が、ポケットに手を突っ込んだまま立っていた。彼がそこにいるだけで、濃霧が作り出した非日常の風景に、無理やり日常のラベルが貼り付けられる。まとわりつくような土の匂いが、少しだけ薄れた気がした。「……待っててくれたの」「んー、まあな。こんな日に一人だと、どっかに連れてかれそ

  • 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~   第四話:咎凪の霧①

     その朝、咎凪市は乳白色の息を吐いていた。 静がアパートの窓を開けると、粘り気のある冷気が奔流のように流れ込んできて、肌を粟立たせる。外の世界は、完全に「白」に塗り潰されていた。隣の建物の輪郭も、電線の黒い線も、すべてが曖昧なグラデーションの中に溶け落ちている。季節外れの、濃すぎる朝霧。この街では、珍しくもない光景だった。 だが静にとって、この霧は単なる気象現象ではなかった。「……土の匂い」 乾いた唇から、吐息と共に言葉が漏れる。 それは、湿った腐葉土の匂いだ。黴の胞子と、掘り起こされたばかりの古い土が混じり合ったような、生命の循環

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