All Chapters of 君を消して、君に出逢う: Chapter 1 - Chapter 10

23 Chapters

第1話

「小林さん、本当に消してしまうんですか?その『愛』のタトゥー」施術者の問いかけに、小林愛(こばやし あい)はしばし黙し、やがてゆっくりと頷いた。「はい……ちなみに、何回かかりますか?」「詰めて通っていただいて、計七回ですね」七回――その響きが、胸の奥を冷たく疼かせた。櫻井湊(さくらい みなと)と過ごした七年間と、奇しくも同じ数。振り返ってみると、この七年、肌を重ねるたび、湊は必ず彼女の腰に顔を埋め、そのタトゥーに唇を這わせながら囁いた。「愛……愛、大好きだ」だが今、愛は自らの手でそれを消し去ろうとしている。スマホで決済を済ませると、施術者である店主がレーザーを腰に当て始めた。「七回終わったら……完全に消えますか?」「いえ。火傷の痕は残りますよ。まあ、時間が経てば薄くはなりますけど」本当に薄れてくれるというのだろうか。流れ去ってしまった、この七年という――あまりにも甘ったるい月日が。脳裏を、湊との七年間が、まるで走馬灯のように駆け巡っていく。一年目。櫻井家に身を寄せた最初の夜、湊が彼女の部屋を訪れた。目尻に艶っぽい笑みを浮かべ、「試してみる?」と誘うように囁かれた。幼馴染だった二人。思春期の衝動。実はずっと前から彼に恋をしていた。でも怖くて、どうしていいか分からない。湊が耳たぶに唇を寄せた瞬間、体が痺れるように震えた。そして唇を奪われ、身を焦がすほどの熱で求められた。あの日から、絡み合った後、湊は彼女の腰に自らの手で「愛」のタトゥーを彫った。「お前は、俺のものだ」そう、刻みつけるように。二年目。湊が恵川大学を卒業し、離れていった時、二人の関係はてっきり冷めていくと思っていた。だが湊は大学の向かいにマンションを買い、「毎晩来い」と命じた。三年目。そのマンションで、我を忘れて溺れあった。湊の求めは常軌を逸し、場所を選ばなかった。学校で、車の中で、マンションで、彼の部屋で、彼女の部屋で……四年目。湊の仕事が多忙を極めても、彼は彼女が自分から一秒たりとも離れることを許さなかった。ビデオ通話の最高記録は、実に二十三時間に及んだ。五年目。湊が二人の結婚準備を始めた。十六億円のウェディングドレスをオーダーメイドし、すべて手作業で、六百日以上かけて完成させた。六年目。彼女が緑色を好きだから、結婚指輪のために、湊は
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第2話

愛は湊の手を見つめた。昨夜、この手が振り上げられ、詩帆の誕生日に二億円の花火が夜空を埋め尽くした。七年間共に過ごして、どんな高価な贈り物も、どんなロマンチックな演出も、湊は愛にしてくれた。ただし、花火だけは違った。「確かに綺麗だけど、俺は好きじゃない」そう、彼は言っていた。愛は知っている。湊が花火を嫌うのは、幼い彼が母親と花火を見た直後、その母親が櫻井家を去ったからだということを。その心の傷を、湊は別の女のためにあっさりと捨て去り、盛大な祝福を贈ったのだ。愛は視線を落とし、努めて平静に言った。「古い服を整理してるだけ」湊が近づき、愛の体を軽々と抱き上げると、そのままクローゼットに押し付けた。熱いキスが、有無を言わさず唇に落ちてくる。愛の脳裏に浮かぶのは、湊が詩帆の額に触れた、あの優しいキスだけだった。壊れ物を扱うように、大事な宝物のように。だというのに、今、自分に向けられるのは、苛立ちをぶつけるような荒々しい所有欲だけだ。愛は、衝動的に湊を押しのけた。湊の表情が、ガッと険しくゆがんだ。次の瞬間、伸びてきた彼の人差し指と親指が、ギリ、と痛いほど強く愛のあごを掴む。そのままグイ、と力任せに顔を上向かされた。金縁のメガネの奥にある瞳は冷たい。その姿は、それでもなお圧倒的な威圧感と強さを放っていた。「お前、怒ってるのか?」低い声が問う。愛は、自分の感情が常に淡白だと思っていた。それでも、この男には見抜かれる。「ううん。もっとセクシーなのを買ったよ。だって好きでしょう?」必死で、誘うような声を絞り出す。湊の濃い眉がすぐに緩んだ。「ああ。今夜はここにいる」その声は限りなく甘く、機嫌を取るように響く。しかし、続く言葉は刃のように突き刺さった。「そうだ。恵川市バレエ団の首席、明日付けで辞退しろ」無情に告げられた言葉に、愛の指先が、ぷるぷると小刻みに震えだした。その震えを、まるで確かめるかのように。湊の手が、ぴたりと愛の下腹部に当てられる。「子供が欲しいって言ってたよな?早速明日から、妊活しよう」愛の顔から血の気が引いた。「どうして、急に……」「詩帆が、今回俺と一緒に帰ってきた。だが足を怪我していてな。この一年、ずっと海外でリハビリしてたんだ。ようやく普通に動けるようになった。
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第3話

翌朝、愛が目を覚ました時、すでに世界はひっくり返っていた。恵川市中のありとあらゆるマスコミが、一斉に彼女のスキャンダラスな写真で溢れかえっていたのだ。画像の中では、薄暗いダンススタジオで、愛のダンス衣装が男によって無残に引き裂かれている。涙を流しながら、男に組み敷かれ、求められている。男の背中は、意図的にぼかされている。だとしても――彼女の腰に食い込むように置かれたその手は。あまりにも見覚えのある、あの強い力に満ちた感触を思い出させた。写真の下のコメント欄には、ネット民の悪意に満ちたコメントが殺到していた。【へぇ〜首席ダンサーの小林愛じゃん。クールな女神とか言われてたさ、裏じゃこんなことしてたんだな】【ヤバすぎ。こんな女だと思わなかったぜ。学生時代に知ってたら、金払ってでもヤってたのに】【小林愛のスタイルと顔はガチで極上品だろ。億単位の資産がなきゃ手も出せねえよ】【まあ、小林愛みたいな女は、嫁には向かないよな。愛人には最高だけど……】愛は震える手で、湊に電話をかけた。昨夜、彼女が従わなかったことに怒り、湊は家を出て行った。彼女はただ、確かめたかった。これが彼の仕業なのかを。コール音の末、電話が繋がった。だが、愛が何かを問いかけるより早く。「もしもし?あ〜愛さん?」詩帆の、甘ったるい声が聞こえてきた。「ごめんなさいね〜湊さんなら今シャワー浴びてるの。さっき、すごく汗かいちゃってね……スマホ、持って行ってあげようか?」詩帆の、勝ち誇ったような優しい声が、研ぎ澄まされたナイフのように愛の心臓を突き刺した。愛の頬を静かに涙が伝う。必死に声を平静に保って、絞り出した。「……いえ、結構です」通話を切り、愛は湊にメッセージを送った。【わかった。すべて、あなたの望む通りに】恵川市バレエ団の首席の座も湊も、もう手放す。一時間後。愛は私物をまとめるため、バレエ団を訪れた。入ってすぐ、純白の白鳥の衣装をまとった詩帆と出くわした。彼女は、まるで本物の白鳥のように誇らしげに、ステージの中央に立っている。愛の姿を見つけた瞬間、電話口の猫なで声は消え失せた。冷たく傲慢な口調で、詩帆は言い放つ。「ふん。本当に使えないわね。二人のベッド写真をちょーっとだけネットに流しただけで、もう
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第4話

愛は、湊が事実確認すらしようとせず、一方的に自分を断罪したことに愕然とした。「私が詩帆を突き落としたと、本気で思ってるの?」「詩帆の足は、元々怪我をしていたんだ」湊は冷たく言い放つ。「首席の座を一つ譲るのも嫌で、譲った挙句、今度は彼女を直接傷つけるのか」愛は、湊が詩帆を心底心配そうに見つめる横顔を、ただ見つめていた。湊が痛みに呻く詩帆を抱き上げる姿をも。詩帆は、か弱く湊の腕の中に寄りかかり、涙でぐしゃぐしゃになって泣きじゃくっている。「湊さん、私の足……また、折れちゃったかも……」詩帆の涙は、常に湊の理性を奪う。その引き金に引かれるように、彼の深い瞳が、剥き出しの憎悪を込めて愛を睨みつけた。「詩帆を傷つけた償いはしてもらう」そして湊は、傍らに控えていた親友に命じた。「隼人、こいつの両足を折れ」愛は衝撃に息を呑んだ。何の反応もできないうちに、鷹野隼人(たかの はやと)と呼ばれた男に無慈悲に地面に押し倒された。頭上から、湊の低く、温度のない声が降ってくる。「加減はしろ。再起不能にはするな」その言葉が許可証だった。次の瞬間、隼人の手が愛の足首を掴み、ありえない方向へと激しく捻った。ゴキリ、と鈍い音が響き、足首に想像を絶する激痛が走った。愛の顔から、瞬時に血の気が失せる。その声も上げずに涙を堪える表情に、湊の胸がわずかに痛んだ。口を開き、愛への罰は詩帆への見せしめ程度で止めさせようと――本気で愛のキャリアを奪うつもりは、なかったのだ。しかし、湊が動こうとした瞬間、詩帆が泣きながら彼の腕を強く掴んだ。「湊さん、やっぱり痛いの……!早く、病院に……っ」湊の端正な顔が、ふっと和らぐ。「待たせてすまない。すぐ連れて行く」湊はもう、床に倒れる愛を一瞥することもなく、詩帆を抱いて足早に立ち去った。愛は、遠ざかっていく二人の背中を見つめながら、こらえていた涙を流した。足首が焼けるように痛い。この二十年間、どれだけこの足首を大切にケアしてきたか、自分だけが知っている。バレエを踊り続けて、一度だって足首を本格的に怪我したことなどなかった。だが今、湊が彼女のキャリアを、完全に破壊した。その時だった。湊が去っていくと、隼人の態度が豹変した。さっきまでの忠実な友達の仮面が剥がれ落ち、欲望
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第5話

七年間、共に歩んできた。湊がどれほど自分を愛していたか、愛は誰よりも分かっているつもりだった。たとえ二人の関係がここまでこじれても、湊がこんな仕打ちを許すなんて信じられなかった。隼人に服を引き裂かれても、愛はもう何も感じなかった。ただ、胸が引き裂かれるように痛かった。確かめなければならない。湊の口から、直接。愛は突如、隼人を突き飛ばし、狂ったように外へ走り出した。後ろから隼人が下卑た大笑いをしながら、追いかけてくる。「逃げろよ、逃げれば逃げるほど燃えるぜ。あんたとはずっとヤりたかったんだ。ようやく湊も飽きて、お払い箱になったしな!」そう言いながら、隼人は愛の目の前で、スーツのベルトに手をかけた。バルコニーに追い詰められた愛は、一瞬の躊躇もなく身を投げた。三階から、コンクリートの地面へ。ドン!という鈍い音が、バレエ団の建物に響いた。隼人は驚愕に目を見開いた。「マジかよ、本当に飛びやがった……」慌てて電話をかける。声がどもっていた。「し、詩帆ちゃん!ヤバい、飛び降りたぞ!クソ、あんたの言う通り、湊との嘘を適当に並べただけなのに、本気で死ぬ気になりやがった!どうすんだよ、さっき湊の子、妊娠してるって……!さ、三階から飛んで、死んだりしねえよな……?わ、わかった、すぐ消える!」痛みが全身を貫いた。愛は、全身の骨が砕け散ったように感じた。涙で濡れた瞳で空を見上げる。どこまでも澄んだ青い。昨夜、湊が詩帆のために打ち上げた、あの花火の色にそっくりだ。下腹部に、灼けるような激痛が走る。温かい液体が、止めどなく体から流れ出していく。それが何なのか、愛は理解していた――赤ちゃんが、失われていく。体の血液がすべて流れ出していくようだった。愛は、冷たい地面にどれだけ横たわっていたか分からない。すると、遠くで悲鳴が聞こえた。「大変!誰か飛び降りたわ!」愛はすぐさま病院に運ばれた。体の痛みは、意識が途切れるほど激しかった。しかし、手術室のベッドに寝かされても、医者は誰も来なかった。二人の若い看護師だけが、ひそひそと噂話をしていた。「どうしよう?今重症患者が入ってきたのに、先生たちが全員、櫻井グループの社長に呼ばれちゃって」「全員?何があったの?」「櫻井社長の婚約者さんが足を骨折したらしくて。社長
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第6話

新居は、湊が長い時間をかけて設計したものだった。あの時、「この家の女主人は、お前だけだ」と、彼は確かに言った。だというのに。今、三階を詩帆に使わせると言う。別荘は三階建てだ。一階はリビングとキッチン。二階は主寝室。三階はゲストルームで、将来は子供部屋にする予定だった。今、その場所を、詩帆が占領する。この別荘の名前は、すべて湊が愛のために付けたものだった。愛の口元に、乾いた嘲笑が浮かんだ。腰の奥がズキリと痛む。タトゥーショップへ二回目のレーザーを当てに行かなければ。そうすれば、すぐに彼女と湊は終わる。「……わかった」この言葉以外、愛に返せるものはなかった。すべて、彼の望む通りに。その後、愛は適当な理由をつけて別荘を出て、すぐさまタトゥーショップへと向かう。そしてベッドに横たわり、上着を脱ぐと、三階から飛び降りた際にできた無数の痛々しい傷痕、そして青あざが背中や体中に広がっていた。それを見た女性店主が息を呑んだ。「これは……!昨日来なかったのは、こんなひどい怪我を……?」愛の瞳は虚ろで、生気がなかった。か細い声で、彼女は言った。「構いません。今日は強めにお願いします。昨日、来れなかった分も……全部」店主の瞳に痛みが走る。「できなくはないけど、ものすごく痛みますよ」「耐えきれます」レーザーの針が、一本一本肌を焼いていく。愛は痛みで涙を流したが、一度も声を上げなかった。体から湊の痕跡を、すべて消し去らなければならない。その時、スマホにニュース通知が来た。ピン、と軽い音が鳴る。彼女は画面を見た。【名門・荻原家の令嬢が電撃帰国、恵川市バレエ団の新首席に!前首席・小林愛の行方は?】誰がこのニュースを流したのか、考えるまでもなかった。湊は、もうこれっぽっちも待てないのだ。スマホが再び鳴った。湊からの電話だ。優しく、どこか懐かしむような口調。「愛、おじいさんが今夜、家族で食事会を開くそうだ。俺は詩帆を先に連れて帰る。後で家で会おう。詩帆のことは、おじいさんに俺からきちんと説明する。余計なこと言うなよ」愛は、最後の望みをかけて言った。「湊。詩帆を櫻井家に連れて行くの、あと五日だけ待ってもらっていい?」もうすぐ、自分はここから去る。五日後には、彼の世界から完全に消える。その時にな
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第7話

愛の肩甲骨が、軋むように痛んだ。それでも、必死に落ち着こうとする。震える声で絞り出した。「告げ口なんて、してないわ」しかし湊の目に、怒りが満ちている。フッと彼は鼻で笑った。「フン。おじいさんの前で俺と詩帆のことを話せる人間なんて、お前以外にいない。誰もが恐れて口をつぐむ。だが、お前は違う。冷静で、決断力がある。報復する時には、容赦ない」湊は一言一句、愛を追い詰めるように告げた。「大学一年の時、誰かに『孤児』と罵られて、絵の具のボトルを丸ごとそいつの頭にぶちまけたな。三年の時は、両親のことを言われて、ダンススタジオのドアを閉め、監視カメラを切り、その女の手を折れるまで殴った……」愛の瞳に驚愕が走った。すべて、知っていたのか。湊の薄い唇が、愛の耳元に触れる。「愛、他人への報復なら、俺が後始末してやる。詩帆だけは別だ。今、おじいさんが荻原家に、詩帆をB市に送れと命じてる」ベッドに押し倒され、脅しつけられる。「今すぐおじいさんに電話しろ。詩帆をここに残させろ。お前には豊市の療養施設に、おばあさんがいたよな。毎月、会いに行ってるだろう?」愛の顔が、真っ青になった。信じられないという涙の瞳で、湊を見つめる。初めて祖母のことを話した時、湊は愛を優しく抱きしめ、熱いキスで体中を覆った。共に祖母に会いに行き、大金を払い、海外の医療チームを雇い、豊市の療養施設にずっと付き添わせた。祖母は意識不明のままだったが、湊の尽力のおかげで七年も長く生きられたのだ。「今自分が何を言っているか、本当に分かってるの?」愛の震える手が、湊の白いシャツを強く掴んだ。彼は愛のすべてを、一つ一つ破壊していく。彼が自分にしてくれた、すべての愛を引き裂いていく。正雄への電話をかける、その寸前。湊のスマホに、拉致犯からビデオ通話がかかってきた。「櫻井さん、荻原詩帆は預かってますぜ。身代金は六百億円。この金がなけりゃ、俺たちで散々楽しんだ後、殺すことになりますね」湊の顔が冷たく凍りつく。「お前らは誰だ!」拉致犯が下卑た笑いを浮かべた。「ははは、小物ですよ。金が欲しいだけ。あ、そうだ。傍らにいる小林愛も連れてきてください。小林愛を楽しめるなら、荻原詩帆みてえな水臭い女には興味なくなるんでね」画面の向こうには、ボロボロの倉庫が映っていた。
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第8話

愛は、湊の車で拉致犯が指定した場所まで連れて行かれた。車中で、湊は警察に通報し、友人にも電話をかけた。櫻井家の勢力もすでに動いているという。大橋まで来た時――湊は、手を縛られたままの愛を見つめた。その指が、愛の唇に触れる。目には、深い愛情が宿っている。限りなく優しく、彼は告げた。「愛。戻ったら、すぐ結婚しよう。詩帆は、俺たちの間の障害じゃない。愛してる」愛は最後の告白を聞き、ただ乾いた笑みを浮かべた。愛してる、と?今さらなんて、とんだ笑い話だ。本当に愛している人間が、別の女のために自分を差し出すはずがない。もう、信じなかった。愛は拉致犯に連れ去られた。車の中で、拉致犯が待ちきれずに、彼女の体にベタベタと触り始めた。「ふぅ〜さすが恵川市の白鳥、肌が最高だぜ」「この荻原という女が仕組んだ拉致は、俺たちにこいつを壊させるためだ。俺が……」愛は、「荻原」という言葉を聞いた。拉致犯が、愛の服を引き裂いている。愛は尋ねた。「その荻原って、荻原詩帆なの……?」拉致犯が大笑いした。「そうだ!俺たちに六億円くれた!しかも櫻井湊の女を楽しめるなんて、こんなにいい仕事、滅多にねえぜ!」そう言いながら、拉致犯は興奮に顔を歪めた。愛の服を引き裂こうとしたその時。前で運転している男が、鋭く叫んだ。「兄貴、警察だ!後ろにも!」この時、車はすでに大橋の真ん中にいた。拉致犯のボスが、愛の頬を容赦なく平手打ちした。愛の顔が瞬時に腫れ上がる。ボスが怒りに声を荒げた。「お前の男が、罠を仕掛けやがったな!」遠くからスピーカーの声が聞こえてきた。「愛を放せ!そうすれば、お前たちは生き延びられる!」湊の声が聞こえて、愛の手が震えた。しかしその時、詩帆の泣き叫ぶ声も聞こえてきた。「湊さーん!私は船の上!助けて……っ!」拉致犯は、愛の体を車から引きずり下ろした。湊は愛のスカートが拉致犯に破られているのを見た瞬間、その目に殺意が満ちた。冷たく彼は言い放った。「彼女に、手を出したな!」拉致犯が嘲笑うように笑った。「でも、櫻井社長が自分で女を俺たちに送ってきたんだぜ?車の中で手を出さないわけないだろ。一分あれば、こいつを頂ける」湊が激怒し、拉致犯に向かって突進しようとした。ところで同時に、大橋の下の
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第9話

湊の深い瞳に、激しい苦痛が満ちる。声を押し殺し、信じられないという様子で彼は呟いた。「何だと……?愛が、死んだ……?きっと間違えたんだ!水から救い上げられたはずだ!俺が病院を出た時は、まだ無事だったくせに!」医者は答えた。「櫻井様はすでに四十八時間、病院を離れておられました。小林様の危篤の際もご不在でして……」激しい炎が、なおも燃え盛っている。だが、それは湊が狂ったように愛の部屋に駆け込むのを、止めることはできなかった。消防士が駆けつけ、すぐに湊の腕を掴む。湊は激怒して振りほどいた。端正な顔に青筋が浮き、全身が絶望と不信に満ちている。「妻がまだ中に……!お前ら、離せ……っ!」それでも、消防士が頑として阻止する。「櫻井様、火勢が強すぎます!患者の遺体は、すでに焼けて原型をとどめておりません!」湊が瞬時に血を吐いた。赤く充血した瞳に、激痛が満ちる。「そんなはずがない……っ!愛、あいぃいいい……っ!!」湊は絶望の極みで叫んだ。「ちょっと離れただけなのに!愛のことが、すごく心配だったのに!ずっと、心配してたんだ、愛……っ!」だが彼の叫び声は、もう愛を取り戻せない。湊は消防士に無理やり階下へ連れ下ろされた。「離せ!妻を助けなきゃ、ああ……っ!」この時、病院の人々はすでに散っていた。正雄も現場に駆けつけていた。湊を見て、正雄は手を振り上げ、湊の顔を激しく平手打ちした。一枚の婚姻届が、湊の前に投げつけられた。重厚な声が怒りに満ちている。「愛は最後の瞬間、わしにメッセージを送ってきた……死んでも、この婚姻届を取り戻したい、とな!」湊の苦痛に満ちた瞳に、絶望が溢れる。彼は叫んだ。「おじいさん、どうして!?愛は、大橋から落ちても死ななかった!救い上げられたんだ!少し水を飲んだだけで、どうして命に関わるんだ!」正雄は怒りに震えながら言った。「お前が自分の手で彼女を拉致犯に渡したんだ!彼女が川に飛び込んだ瞬間、お前はより遠くにいたあの女を救うことを選んだ!わしはお前のような畜生の孫を持つとはな!」正雄の手にある杖が、湊の背中を容赦なく打った。湊はすべての痛みに耐えながら、何度も血を吐きながら、それでも上の階に駆け上がって確かめようとした。愛が死んだなんて、信じられない。しかし病院のロビーで、ニュ
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第10話

「愛は死んだ。彼女の死が自殺か他殺か、まだ調査が必要だ。湊、言っただろう。愛の一家は櫻井家の恩人だと。それなのにお前は、恩を仇で返した」湊はずっと、小林家が櫻井家に恩があることは知っていたが、具体的な経緯なんか知らなかった。正雄は深いため息をつき、十数年前の出来事を思い返した。「お前が拉致された時、お前の両親がお前を救うために危険に陥った。その時、小林家の人間が、お前たち家族三人を救ったのだ。だがその代償は、愛の両親がその場で命を落としたことだ。お前の父は、そのことに自責の念に駆られていた。お前の母が去ったのも、お前の父と不仲だったからではない。愛と、彼女の兄たちを守るために去ったのだ。お前と愛の婚約は、わしと彼女の祖父が決めたことだ。お前の両親の遺志でもあった」正雄の言葉が、一つ一つ湊の心臓に突き刺さった。長年埋もれていた真実が今、白日の下に晒される。湊は十数年前の拉致事件で、自分と両親が救われたことまでは知っていたが、愛の両親がその大火の中で死んだことなど、想像だにしていなかった。あの時、彼はまだ十三歳だった。誰も彼に、自分が救われるために、どれほどの代償が払われたかなど、教えなかった。湊が膝から崩れ落ち、地面にひれ伏した。頭の中は、愛の両親がすべてを懸けて自分を救った光景ばかりだ。あの凶悪犯たちは、彼を人質にして恵川市を脱出する機会を得ようとしただけ。彼は自分の耳で聞いたのだ。あの連中は最初から彼を解放するつもりなどなかった、と。愛の両親がいなければ、自分はとっくに、十三歳のあの年に死んでいた。湊は後悔の涙を流した。自分は一体愛に何をしたというのか!湊は葬儀場で無言に座っていた。目の前には、黒く焼け焦げた遺体が横たわっている。かすれた声が、喉から漏れた。「……愛してる。本当に、愛してる……みんな、お前が俺に失望して自殺したって言う……信じない。お前がそんなことするはずない。お前の心は冷たかった。六年かけて、やっとこじ開けて、やっとお前が心を開いてくれたんだ。俺がお前を傷つけたからって、自殺するはずが……!」湊は愛に初めて会った時を思い出した。少年は心を奪われたのだ。少女は十九歳で、白いワンピースを着て、白いスニーカーを履いていた。妖艶な顔立ちなのに、顔は清潔で、精緻な五官は人形
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