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第8話

Author: 黙璃
愛は、湊の車で拉致犯が指定した場所まで連れて行かれた。

車中で、湊は警察に通報し、友人にも電話をかけた。櫻井家の勢力もすでに動いているという。

大橋まで来た時――

湊は、手を縛られたままの愛を見つめた。

その指が、愛の唇に触れる。目には、深い愛情が宿っている。

限りなく優しく、彼は告げた。「愛。戻ったら、すぐ結婚しよう。詩帆は、俺たちの間の障害じゃない。愛してる」

愛は最後の告白を聞き、ただ乾いた笑みを浮かべた。

愛してる、と?今さらなんて、とんだ笑い話だ。

本当に愛している人間が、別の女のために自分を差し出すはずがない。もう、信じなかった。

愛は拉致犯に連れ去られた。

車の中で、拉致犯が待ちきれずに、彼女の体にベタベタと触り始めた。

「ふぅ〜さすが恵川市の白鳥、肌が最高だぜ」

「この荻原という女が仕組んだ拉致は、俺たちにこいつを壊させるためだ。俺が……」

愛は、「荻原」という言葉を聞いた。

拉致犯が、愛の服を引き裂いている。

愛は尋ねた。「その荻原って、荻原詩帆なの……?」

拉致犯が大笑いした。「そうだ!俺たちに六億円くれた!しかも櫻井湊の女を楽しめるなんて、こんなにいい仕事、滅多にねえぜ!」

そう言いながら、拉致犯は興奮に顔を歪めた。

愛の服を引き裂こうとしたその時。

前で運転している男が、鋭く叫んだ。「兄貴、警察だ!後ろにも!」

この時、車はすでに大橋の真ん中にいた。

拉致犯のボスが、愛の頬を容赦なく平手打ちした。愛の顔が瞬時に腫れ上がる。

ボスが怒りに声を荒げた。「お前の男が、罠を仕掛けやがったな!」

遠くからスピーカーの声が聞こえてきた。「愛を放せ!そうすれば、お前たちは生き延びられる!」

湊の声が聞こえて、愛の手が震えた。

しかしその時、詩帆の泣き叫ぶ声も聞こえてきた。「湊さーん!私は船の上!助けて……っ!」

拉致犯は、愛の体を車から引きずり下ろした。

湊は愛のスカートが拉致犯に破られているのを見た瞬間、その目に殺意が満ちた。

冷たく彼は言い放った。「彼女に、手を出したな!」

拉致犯が嘲笑うように笑った。「でも、櫻井社長が自分で女を俺たちに送ってきたんだぜ?車の中で手を出さないわけないだろ。一分あれば、こいつを頂ける」

湊が激怒し、拉致犯に向かって突進しようとした。

ところで同時に、大橋の下の船から、詩帆の泣き声がさらに大きくなった。

「湊さん!助けてぇええー!」

拉致犯が愛の首にナイフを突きつけ、脅迫した。「俺たちを逃がせ!でなきゃ、荻原詩帆は死ぬ!」

すると、彼は愛の体を大橋の欄干から放り出した。

愛が宙に浮く。

拉致犯が手を放せば、百メートルの高さの橋から、濁流に落ちる。

彼女は泳げない。水が怖い。湊は、そのすべてを知っているはずだ。

しかし愛は湊がはっきりと叫ぶのを聞いた。

「詩帆を放せ!愛は、連れて行け!」

愛はこの瞬間、遠くに見える湊の姿を見た。

そして、自らの手で拉致犯の手を振りほどき、そのまま落ちていった。

橋の上の人々の悲鳴。遠くの道端に立つ人々の悲鳴。どれも、愛の心を凍らせた。

見知らぬ人でさえ、自分の安否を心配しているというのに。七年間、共にいた湊はなぜ詩帆のために、自分の命を顧みないのか。

冷たい水が、愛の体を侵食する。

腰の「愛」のタトゥーが、焼けるように痛む。この傷だらけの体も、愛の心の痛みには及ばない。

湊の叫び声が聞こえた。その直後、湊が叫んだ別の声も。

「……詩帆……っ!」

もう一度水に落ちる音が響いた。詩帆も水に落ちたのだ。

その後、愛は湊がどちらを先に救ったのか、知る由もなかった。

愛は病院のベッドに横たわっていた。何日経ったのか、分からない。

目を覚ました時、部屋に湊はいなかった。

田原が、傍らに座っていた。

愛が目覚めるのを見て、彼は言った。「愛ちゃん、やっと目が覚めたな」

愛の声は、かすれていた。「田原さん……今日は……何日ですか?」

「ちょうど君と約束した、境見市へ出発する日だ。まさか、地方から急いで戻ってきたら、君が重傷で入院したって知らせを受けるとは……」

愛の体は、もはや痛みを感じなくなっていた。

彼女は言った。「でしたら、今夜出発しましょう」

愛は窓の外を見た。太陽はすでに沈み、真夜中まであと三、四時間しかない。

「わかった。他にやり残したことは?」

愛は答えた。「南のほうにタトゥーショップがあるんです。店主を呼んでもらって、タトゥーを消してもらいたいんです」

店主が来た時、手にケースを持っていた。

愛の体の傷がさらにひどくなっているのを見て、彼女の瞳に痛みが走る。「三回目のレーザーですね……七回目まで待てないでしょう。今回は、もっと強めの薬を使って、この部分の肌を、跡形もなく消してあげますよ。いい?」

愛は店主の瞳をまっすぐ見つめて頷いた。「はい。お願いします」

この三回目の痛みは、本来の四回、五回、六回、そして七回目を、すべて兼ねるほどの激痛だった。

店主の手は躊躇なく重い。まるでこの一寸の肌を、無理やり剥ぎ取るかのように。

最後の瞬間まで、愛は痛みで震える手でシーツをぎゅっと掴んでいた。

ついに、最後の赤い「愛」の文字が消えた。肌には、もはや何も痕跡がない。

愛は鏡の中の自分を見た。

腰には、凄惨な火傷の跡が残っているだけ。

もう、そこには彼女と湊の痕跡は何もない。

店主はケースを持って去った。田原が愛を病院の屋上へ連れて行った。ヘリコプターが飛び立った、その瞬間。

病院の最上階、愛が入院していた部屋が爆発を起こった。

同時に愛はスマホを取り出し、拉致された全過程をツイートに書いて送信した。

湊。私とあなた、これでついにきれいに終わった!

これからは他人同士。二度と振り返らない!

湊が病院に戻ると、愛が死んだという知らせを受けた。

医者が青ざめた顔で告げる。「櫻井様、最上階VIP病室の小林様は今夜、息を引き取られました。遺体を収容しようとした際、最上階の病室で爆発が発生し、小林様の遺体は焼失してしまいました……!」
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