All Chapters of 君を消して、君に出逢う: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

詩帆の目には、あくまで無邪気な色が浮かんでいたとは裏腹に、口から紡がれるのは、この世で最も残酷な言葉だった。「そうよ?二人の子供が、いなくなっちゃったよ?私を抱えて病院へ行ったその頃、愛さんは三階から飛び降りて、地面に落ちて全身傷だらけ。湊さんが私に付き添っている間、彼女はずっと一人で、あのダンス教室の外の地面に横たわって。ただ、しずかーに死を待ってたの!」ガタン、と音を立てて湊が椅子から立ち上がった。真っ赤に充血した瞳は激怒に燃え、その手は鉄格子を掴んで捻じ曲げんばかりだ。歯を食いしばり、呻く。「荻原詩帆……っ、お前、何だと!?」詩帆は頬杖をつき、指先を軽く弄びながら、まるで面白い世間話でもするように続けた。「それと七年前、彼女はあのダンスオーディションで一位を取ったわ。でも、留学を諦めた。私が喉から手が出るほど欲しかったものを、彼女はあっさりに踏みにじって、全く大切にしなかったの」湊が冷たく言い放つ。「あのダンスコンクールで、愛は二位だった。留学のチャンスなど、なかったはずだ」詩帆は、可笑しそうにクスクスと笑った。「あら?彼女、そう言ったの?ふふ。そうよね、櫻井家に来た最初の年で、ちょうど二人が付き合い始めた頃だもの。あの時の彼女、湊さんのために留学なんて端から考えてもいなかった。……私は馬鹿みたいに彼女のトウシューズに画鋲なんて仕込んでたけど、私の足掻きなんて全部、小林愛にとっては笑い話だったのね」湊の瞳が暗く深く曇った。七年前を思い返す。愛が、コンクールに出ると言っていた。自分は付き添おうとしたが、運悪くレースの開催日と彼女のコンクールが重なってしまった。すると、愛は言った。「付き添わなくていい。このコンクールは大事じゃないから。参加することに意義があるだけ」と。だが、後で知った。あれはバレエ界最高峰の「白鳥オーディション」だったと。そして愛は、一位と僅差で落選したのだと。今、その真実を知らされた。愛は、本当は一位だった。彼女は自分のために、M市行きを諦めた。最高峰の白鳥バレエ団をあっさりと捨てた。湊の心臓が張り裂けるように痛んだ。どうして、こんなことに……!愛と一緒になってから、ずっと。自分が彼女から奪っていることは知っていた。彼女が自分と共にいるのは、家同士が決めた婚約の
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第12話

この異様な結婚式は一日中続いた。最後の舞台は墓地だった。湊は自らの手で「小林愛」を葬った。そこへ、隼人が引きずられてきて、激しく墓前に投げつけられた。隼人の端正な顔は、恐怖で青ざめている。その表情のまま、隼人はすぐに慌てて命乞いを始めた。「なあ、信じてくれ!あんたの子供を殺すつもりなんてなかった!本当だ!あいつがあまりにも気が強くて、ちょっと触っただけで、三階から飛び降りたんだ!」湊の冷たい瞳には、何の感情も宿っていない彼は隼人の手を無言で踏みつけた。そして、靴の踵で力任せに押し潰す。瞬間、隼人の顔が苦痛に歪んだ。骨が軋む音と共に、悲鳴が上がる。「ぎゃあああ……!全部、荻原詩帆の仕業だ!全部あいつがやらせたんだ!あいつはダンススタジオでわざと自分で転んで、あんたに小林愛が突き落としたと思わせた!俺にもわざと小林愛の前で、あんたが詩帆を愛してるって嘘を並べさせたんだ!彼女を妊娠させたのも、荻原詩帆が『バレエのためにスタイルを崩したくない』からだって!生まれてくるのはあんたと詩帆の子供だ、なんて、全部あいつに言わされたんだ!」湊の瞳が氷のように冷たくなった。そして彼は言い放つ。「そんな荒唐無稽な戯言をよくも言えたな。隼人、お前は本当に死ぬべきだ」湊は隼人の胸を激しく蹴り上げた。瞬間、隼人が大量の血を吐く。その顔は真っ青になった。そして、湊の氷のような声が再び聞こえた。「……どの手で、愛に触れた?」隼人は怯え、後ずさろうとしたが、湊の足が容赦なくその喉を押さえつけた。湊がわずかに力を込めれば、隼人の喉笛は砕け散るだろう。湊の目には、純粋な殺意しかない。隼人は必死にどもりながら言った。「み、湊!俺は、もうあんたにとって要らないかと思ったから、だから触ったんだ!あの頃、あんたは詩帆ちゃんにものすごく優しくて、俺たちみんな、ああ心変わりしたんだと思ってた!」だが、今回の結婚式と、今まさに自分を殺そうとしている湊の行動が、愛への執着を何よりも証明していた。湊の手が隼人を地面から引きずり上げ、その拳を顔面に叩き込んだ。どれだけ殴ったか分からない。湊がようやく手を止めた時、隼人はすでに地面に倒れ、血を吐き、半殺しの状態だった。だが、湊の胸は激しく痛んだ。その深い瞳に、苦痛が満ちる。――みんな、自分
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第13話

タトゥーショップでは――店主が店を閉めようとした時、入口に白いタキシード姿の男が、堂々とした姿勢で立っているのが見えた。その瞳には、どうしようもない苦痛の色が満ちている。店主は冷ややかに言った。「世間に見せつけるための愛は、本物の愛じゃありません。櫻井さん、お帰りください」湊の声は、深く沈んでいた。「調べさせてもらった。愛が病院で、最後に会ったのは、お前だよな」店主は頷いた。「あれほど痛みに耐えられる人、見たことがありません。本来、七回は必要なタトゥーの除去を、彼女は無理やり、三回だけで済ませていきました」湊の瞳が、瞬時に激しい痛みで見開かれた。「愛のタトゥーは……消えた、のか?」あれは、自分が愛に彫ったものだ。自分が彼女を愛している証だった。振り返ると、骨の髄からの独占欲は、最初からあった。彼女の体に、すべて自分の痕跡を残したかった。その肌の隅々まで、自分の刻印を。だというのに。彼女は死ぬ間際まで、自分が残したその刻印を、体から取り除きたいと願っていた。店主は湊の苦痛に満ちた様子を見て、淡々と言った。「とても綺麗に消えました。小林さんの腰には、酷い火傷の跡が残っているだけ……櫻井さんの言った痕跡は、もう一切ありません。それが、彼女の望みでしたから。最後に鏡を見て、彼女、こう言いました。「『いっそ、この皮膚ごと剥がせたら、どんなにいいか』って」湊は、絶望に後ずさった。顔から血の気が引いていく。皮膚ごと、剥がしたかった?それほどまでに、自分を憎んでいたのか。湊のかすれた声が、重く沈んだ。「彼女は……他に、何か言ったか?」店主は言った。「何も。あなたについては、一言も」湊は耐えきれず手で顔を覆った。端正な顔から、涙が指の隙間を伝って流れ落ちる。店主が突き刺すように言った。「彼女が初めて店に来た時、今のあなたと同じ顔をしていました。苦痛に満ちて、絶望して……一生愛し続ける覚悟もないのなら、どうして彼女の体に、自分の刻印なんて残す必要があったんですか!」湊の声が氷のように、固く響いた。「俺は、愛を愛している!一生、愛する!」店主は静かに言った。「あなたの愛は、別の女のために、彼女を踏みにじることでした。彼女は死にましたよ。恵川市中のニュースになっていますし。そして、櫻井さん。彼女への最高の愛は、
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第14話

信広とは、ここ境見市を拠点とする松浦家、その九番目の若旦那・松浦信広(まつうら のぶひろ)のことだ。愛は豪華な個室へ通された。薄暗い照明の下、一人の男が座っている。その男が放つ雰囲気は、湊とはまるで正反対だった。湊が表面上は穏やかで理性的、内側押し隠しているタイプだとすれば、目の前の信広は、すべてが剥き出しだ。鋭い顔立ち、すべてを見透かすような鷹の瞳。全身から、危険な男性フェロモンが溢れ出ている。傲慢かつ奔放、そして横暴さを隠そうともしない。信広の深みのある声が響いた。「こっちへ来い。酒の相手をしろ」愛が近づくと、男の力強い大きな手が、寸分の迷いもなく彼女の細い腰を掴んだ。まるで、少しでも逆らえば、その腰が目の前の男に折られてしまいそうなほどの力だった。信広の大きな体が、覆いかぶさってくる。鷹のような鋭い目が品定めするように愛を見つめ、セクシーな唇が、かすかな笑みを刻んだ。「……紅?」愛は、この男の目には、人を射竦めるような毒があると感じた。よほど強い心を持たなければ、彼の目を直視することすらできない。必死で感情を落ち着かせ、愛は言った。「はい」「いい名前だ。芯が強そうな女は、俺は好きだ」信広の声は、タバコの吸いすぎで潰れたかのような、低く掠れた声だ。大きな手がドレスの上から愛の腰を這い回る。初対面の女の腰を触ることに、何の罪悪感も抱いていない。愛の体が強張った。だが、意を決してテーブルの上の強い酒を手に取ると、それを信広の唇元へ差し出した。できるだけ、妖艶な声色を作って。「信広さん……一杯、いかがです?」信広は、その大きな手でグラスを受け取ると、一気に中身を煽った。だが、次の瞬間。彼の手のひらが愛の後頭部を掴み、抵抗を許さぬまま、激しく深いキスを落としてきた。――ゴポリ、と音がして、すべての強い酒が、信広の口から愛の口へと流し込まれた。「ッ、ゴホッ、ゴホゴホ……ッ!」濃い化粧で彩られた愛の顔が、一瞬で真っ赤に染まり、激しく咳き込む。信広が鷹の目を細め、唇を歪めた。「ほう。酒が飲めないのか」愛はしばらく咳き込んでから、ようやく呼吸を整えた。スモーキーなアイメイクを施した瞳が、生理的な涙で濡れている。その落ちそうで落ちない涙の粒が、かえって妖艶さを醸し出していた。愛は心を鎮
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第15話

愛の体が瞬時に強張った。信広のまるで鷹のように鋭い瞳に、遊び心がさらに増し、悪そうな光が滲んだ。「もし本当に、湊と何の関係もないというのなら、俺に証明してみせろ。うまくやれたら、お前を『手に入れて』やる」最後の言葉を聞いて、愛の不安定だった心が、逆に落ち着いた。そもそも彼女の任務は、信広のそばに潜入すること。誰であろうと、それを邪魔することは許されない。……その情報を受け取った時、湊がまったく信じられなかった。愛は、この手で葬ったのだから。だが、「紅」という女が踊る動画が送られてきた時、その中の女が、記憶の中の愛と寸分違わず重なった。あの妖艶な姿は、寝室で自分だけに見せていた、愛の姿。湊は狂ったように飛行機に飛び乗り、境見市へ飛んだ。一刻も休まず、松浦家へと向かう。そして、屋敷に入った彼が見たものは。愛が真っ赤なロングドレスを纏っている姿だった。長く巻いた髪、真っ赤なルージュ。それは、彼がよく知る姿。寝室での戯れで、愛はいつもこんな姿をしていた。――だが今、その愛は、そんな姿で信広の太腿の上に跨っている。室内に満ちていた艶めかしい空気が、慌ただしい足音によって中断された。愛が、ゆっくりと振り返る。ついに、湊と再会してしまった。たった一ヶ月、会わなかっただけ。それなのに、まるで一生分のように遠い。彼女はもう昔の彼女ではない。彼は、相変わらず彼のままだ。信広の鷹の目が、二人の間を面白そうに行き来する。二人の表情のすべてを、その目に収めながら、傲慢に唇を歪めた。「湊。どうやら、俺たち兄弟は、女の趣味が同じらしいな」湊の深い瞳に、激しい苦痛が満ちる。喉から、絞り出すように声が漏れた。「……信広、兄さん」愛は、胸を打たれたような衝撃を受けた。兄さん?信広は、湊の兄?信広が低い声で説明した。「俺の母と、湊の母は、幼馴染の従姉妹でな。若い頃は、俺と湊もよく会っていた。後に、湊の母さんが櫻井家を去ってから、会うこともなくなったが」湊の深い瞳はただ一点、愛だけを見つめていた。その目には、焦がれるような渇望が満ちている。だが、それ以上に、絶望的な痛みが滲んでいた。再会した愛は、まるで妖精のように美しく、そして、別の男の懐に寄り添っている。彼の心が、無理やりに引き裂かれていく。
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第16話

どれほどの時間が経ったか分からないが、信広はやっと起き上がり、部屋を出て行った。愛は黒いシーツの上に、抜け殻のように横たわっていた。こらえていた涙が、ついに流れ落ちた。数分で感情を押し殺すと、ベッドから這い上がり、バルコニーへと向かった。隣の部屋のバルコニーと、ここは繋がっている。愛がバルコニーに出ると、案の定、湊がそこにいた。彼の瞳は赤く充血し、苦痛と絶望に満ちていた。愛の赤いドレスは、別の男によって無残に破られている。体には、生々しい別の男のキスマークが残り、目尻には、情事の後のような色っぽさが浮かんでいる。その姿が、湊を生き地獄へと突き落とした。「愛……っ!」愛の冷たい瞳が湊を見た。その態度は、他人に対するようによそよそしい。「今回境見市に来たのは、私が『小林愛』だと確認したかったのね。これからどうするつもり?」湊の震える手が、愛の顔に触れようとした。しかし愛は、それを拒絶するように、すぐに後ずさった。二人の間に、明確な距離が生まれる。湊が苦痛に満ちた声で言った。「すまない、愛。俺が、詩帆の世話をしたことで、お前をそこまで傷つけていたなんて、知らなかったんだ……」愛の冷たい顔には、何の感動も浮かばない。口調も、淡々としたものだった。「もう、どうでもいいよ」彼女と湊のすべては、あの恵川市に置いてきた。湊とはとっくに終わったはず。しかし湊は必死に説明を続けた。「詩帆はもう拘留された。彼女がしたことは、すべて法律が裁く」愛はただ赤い唇を歪めた。「彼女なんて、私にとってもうどうでもいい。だって、最初から最後まで、本当に私を傷つけたのは、いつだってあなただったわ」湊は苦痛の極みに達していた。たまらず、愛の体を強く抱きしめた。彼の馴染みのある匂いが、再び愛の鼻をくすぐる。それにしても、愛の目からは、涙は消えていた。きっぱりと彼女は言った。「湊、もう去って……これからの私は、信広さんと一緒よ」湊が怒りを押し殺した声で言った。「あいつは、お前を愛していない!」「じゃあなたは、私を愛してた?」愛が嘲るように、軽く笑って言った。湊が固く言った。「ああ。愛している」愛の目に笑みが濃くなった。「でも、残念ね……私はもう、あなたを愛していない」その言葉を聞いて、愛は湊の体が硬直するのを感じた
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第17話

愛の目に、強い決意が宿った。「信広さん。恋愛に、私は未練を残さない」遠くで、湊は信広と愛が自分の目の前でキスを始めるのを見た。馬上で、二人が夢中になって激しくキスを交わしている。湊の目が、真っ赤に充血した。ゴフッ、と音を立てて血を吐き、その体は力なく後ろへ激しく倒れた。湊が地面に倒れるのを目の当たりにしても、愛の心は微動だにしなかった。信広が馬から降り、冷ややかに言った。「病院に送る」湊が病院で目を覚ましたのは、一日後のことだった。病室に愛の姿はなかった。この時湊は、かつて自分が愛を一人病院に残し、詩帆のために駆けずり回っていた時のことを思った。――目覚めた時に最愛の人間がそばにいないというのは、こういう感覚なのか。信広が傍らに立っていた。「目が覚めたか」「……愛は?」湊が、かすれた声で尋ねた。信広は、皮肉げに唇を歪めた。「来たがらないな。まあ、お前が会いたければ呼んでやってもいい」湊の長い指が、苦悶に眉間を押さえる。声が、暗く沈んだ。「信広。愛のこと、本当は愛してないだろう」信広の目に、笑みが浮かんだ。その声に、遊び心が滲む。「ほう?誰が言った?」湊がカッと目を開けた。その瞳が深く、暗く沈んでいる。信広は、手の中のライターを弄びながら、その鷹のような視線を上げた。底知れぬ瞳が、今、わずかに感情を露わにする。「湊。覚えているか。俺が昔、一人の少女に出会って。彼女に救われたと、話したのを」湊の心臓が、激しく高鳴った。声が、震える。「まさか、愛に?」信広は頷き、重々しく言った。「ああ」湊はベッドから跳ね起きると、その手で信広の首を激しく掴み、ヒステリックに怒鳴った。「愛は俺のものだ!信広、彼女は、お前を愛していない!」信広の瞳に、傲慢な光が溢れた。「以前なら心配したかもしれんが、今はまったく心配していない。あの子は強く、そして冷淡だ。湊、お前は彼女を手放したんだ」松浦邸。愛は階下の物音を聞いて、書斎から出てきた。ちょうど、信広が階段を上ってきたところだった。書斎から出てきた愛を見て、彼が低い声で尋ねる。「……何か用か?」愛は平静な口調で答えた。「退屈で、本を探してた」信広が、唇を歪めた。「俺の書斎のパスワード、どうして知ってた?」愛は眉をわずかに寄せ、その
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第18話

湊の瞳が、瞬時に赤く染まった。何しろ、「子供」に関しては、愛と最も話したくないタブーだった。声がわずかに震える。「愛、俺は知らなかったんだ!」愛は言った。「知らなかったから、罪じゃないとは言えない。知らなかったからって、許さなきゃいけない理由にもならないわ。あなたが私を拉致犯に渡し、鷹野に残した時、彼らに触れられた時の、あの悍ましい嫌悪感が、あなたに分かる?」湊の瞳がさらに赤く充血する。震える手が、愛の肩を掴んだ。「すまない!でも信じてくれ、お前への愛は本当なんだ!あの時は焦っていたんだ。死んだ哲朗への恩返しを……そう焦って、詩帆に優しくしすぎた……」一方、愛の目は平静なままだ。「恩返しね。あなたが私に負っている『恩』は、詩帆に負っているものより、少ないとでも?」ただ、時間の中で、その罪悪感はとっくに消え失せていただけ。新しい罪悪感が現れれば、古いものは埋もれていく。誰も古傷のことなど見ない。新しくできた傷が、どれだけ血塗れかしか、見ないのだ。愛の冷たい瞳が湊を見た。最後に、強調するように言った。「私たちは、とっくに終わったの。もう二度と、私の前に現れないで。あなたを、憎みたくない」愛がなければ、憎しみも生まれない。湊はいっそ愛に憎まれた方が、まだましだった。彼は壊れ物に触れるように、恐る恐る愛を抱きしめた。だが、感じたのは、愛の体が骨の芯まで冷え切っているということだけだった。もう二度と、その熱を取り戻せない。湊の瞳に絶望が満ちた。かすれた、痛む声で言った。「……わかった。空港まで、送ってくれ。俺はここを離れる」愛は小さく言った。「わかった」空港への道は、三人だった。愛、湊、そして信広。道中、一言も話さなかった。しかし、空港に着く、まさにその直前。一台のワゴン車が、猛スピードで激しく突っ込んできた。湊が咄嗟に身を乗り出して愛を守ろうとした。それよりも早く、信広が愛の体を強く抱きしめて庇っていた。愛はその行動に瞬間的に驚愕した。車が激しく衝突した。愛は、信広の大きな懐で、しっかりと守られているのを感じた。車が横転し、止まるまで。彼女を抱きしめていた信広は、額から血を流し、全身血塗れだったが、愛は無傷だった。信広が素手で歪んだ車のドアをこじ開けた。無理やり愛を抱きし
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第19話

しかしこの時の愛は、すでに空港の入口の人混みの中へと消えていた。湊は最後に、セキュリティチェックの入口で、意識を失った。チケットを買う時も、二人分を買っていたのに。最後の瞬間、結局、彼は彼女を飛行機に乗せることはできなかった。愛はタクシーに乗り、さっきの事故現場へと向かった。一台の救急車が、彼女の前を猛スピードで通り過ぎていく。ただ、彼女は予想だにしていなかった。目の前を通り過ぎたその救急車の中に、湊が乗っているとは……救急車の医療スタッフが、必死の救命を始めていた。すると、医師が叫ぶ。「患者の血圧が下がり続けている!出血が止まらない。傷が深い。急いで患者の家族に連絡を!」看護師が湊のスマホを手に取った。連絡先の一番上には、「愛」という名前があった。看護師はその番号に電話をかけたが、「現在使われておりません」という無機質な音声が返ってきただけだった。愛が事故現場に駆けつけた時には、凄惨な痕跡が残るだけで、もう誰もいなかった。信広に電話をかける。電話に出たのは、彼のボディガードだった。「松浦さんが怪我をされ、すでに病院に搬送されました。病院の住所をお送りします」愛は、再び病院へと急いだ。術室の前に来た時、ボディガードが報告した。「紅さん。松浦さんは重傷です。特にあなたを庇った際、背中に無数のガラス片が突き刺さり……」その時、遠く離れた別の手術室に、湊が運び込まれていった。愛は、ただ信広の手術室の入口で、彼が出てくるのを待った。すぐ隣の手術室に誰が運ばれたかなど、気にも留めなかった。信広の手術は、三時間後にようやく終わった。信広は意識を失ってはいなかった。愛の姿を見て、尋ねる。「なぜ、湊と行かなかった?」愛の冷たい瞳が、すべての感情を押し隠す。「あなたが、私を守ってくれたから」信広が皮肉げに唇を歪めた。「……それだけか?」愛が「うん」とだけ答えた。そして、信広と共に病室へ向かった。その頃、別の手術室の前では、正雄が、慌てた様子で境見市に駆けつけてきていた。医師が危篤通知書を正雄に渡す。「櫻井様の傷は深く、すでに腎臓を損傷しています。今すぐ、損傷した腎臓を摘出しなければ、出血を止めることができません」正雄の老いた瞳が暗く沈んだ。重々しい声で、絞り出すように言った。「わかった
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第20話

「荻原詩帆の判決が下った」正雄は、静かに告げた。「兄殺し並びに、お前への拉致教唆。死刑判決だ。執行猶予二年、減刑は認められん」愛は、ただ静かにそれを聞いていた。「おじいさん。湊が目覚めたら、彼を連れて恵川市へお帰りください。彼と詩帆のあの一年が、どのような事情であれ、私につけられた傷は本物です。終わったことは、終わり。もう、やり直すことなどあり得ません」愛はそう言い残し、背を向けて去った。正雄は、愛がためらいなくある男の懐に飛び込むのを、遠くから見ていた。瞬間、長く深いため息をついた。彼なりに止めようとしたものの、結局は間に合わなかったのだ。信広の鋭い顔に、傲慢な光が溢れている。彼は唇を歪めた。「湊がどうなろうと、それほど悲しくもない、か。本気で愛していなかったと?」愛は、自分が聞きたいことだけを尋ねた。「なぜ、私を救ったの?」その澄んだ瞳が、信広をまっすぐに見つめる。まるで、彼の心の奥底まで見透かそうとするかのように。目の前の信広の大きな体が、覆いかぶさってきた。鷹のような鋭い目線が、愛を射抜く。「お前の『田原さん』という知り合いに、お前の世話を頼まれた。それだけだ」愛の指が震えた。田原に確認を入れると、信広は本当にこっち側の仲間だった。退院して最初にしたことは、愛と信広が、松浦家の本邸へ向かうことだった。ここで、彼女は信広の異母兄・松浦政広(まつうら まさひろ)に会った。愛の、家族全員を殺した仇敵に。信広は、愛の纏う空気が一瞬で変わったのを感じ取った。彼は、そんな愛を強く抱きしめ、熱いキスをその耳元に落とした。その口調には、少し気怠げな色が滲んでいる。「兄貴。今回本邸に戻ったのは、結婚式の準備を頼むためだ。俺は、結婚する」政広は四十代の男で、その凶暴な瞳が二人を見据えていた。落ち着き払った声で、尋ねる。「この女と、か?」信広の目に笑みが浮かんだ。「ああ。何と言っても、兄貴は俺の兄だ。結婚するなら、兄貴に主催してもらわねえと、筋が通らんだろ?」政広は底知れぬ無表情さで、言った。「よかろう。本邸に泊まれ」信広は畳み掛けるように言った。「結婚式は、七日後に決めた。兄貴、俺の結婚式には、松浦家の客人を、全員招待してくれ」政広が冷ややかに笑った。「もちろんだ。これは、親父の臨終の際の遺
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