Home / BL / 白い檻 / Chapter 31 - Chapter 40

All Chapters of 白い檻: Chapter 31 - Chapter 40

66 Chapters

31話

淡々とした〝先生〟の声が、まるで暗い波のように、胸の中へじわじわと迫ってくる。「激情を感じる心そのものがなければ、彼はもう怒りに囚われることなく、穏やかに過ごせる。それが、本人にとっても一番の幸せなんだ」ふっと大きくため息を吐き、〝先生〟は自らのこめかみを押さえた。「今の彼を見てごらん。疲弊し、絶望しきっている。荒れ狂う自分の心と戦うことに。今はただ、君を守るためにギリギリのラインを保っているようだけど、それがいつまで続くかわからない」彼は、ついっと視線を上げた。 その瞳には、慈悲ともいえる色が宿っている。「だから、君から言ってあげるんだ。もう、楽になっていいんだと。君が〝王様〟を解放してあげなさい、その身に荒れ狂う狂気から」私には、何も言い返すことができなかった。 昨日の〝王様〟の様子を見れば、〝先生〟の話も、あながち嘘だとは言い切れない。〝王様〟は気づいていたのだ。 遠からず、自らが狂気の嵐に飲み込まれてしまうことに。だから、逃げない。 あんなにも私には『逃げろ』と言っておきながら。(……もしかしたら、〝王様〟もそれを望んでいるのだろうか?)〝先生〟が与えてくれる何もない、真っ白な平穏を。──いや、違う。強い否定が、身体の奥底からせり上がってきた。昨日、暗い病室の中で、〝王様〟は言ったのだ。 自分自身を見失うなと。今なら、わかる。 きっとあれは、自分にも言い聞かせていた言葉だったのだ。私は、ギッと 〝先生〟を睨み付けた。「お願いだっ! 治療を中止してくれっ……! こんなの、あまりにも酷すぎるっ……!」 「酷すぎる? 君が言うのかい?」心外だと言わんばかりに 、〝先生〟は両手を肩の高さで広げた。「言っておくけど、ここに〝王様〟を連れてきたのは誰だ? 彼が服用していた薬を作ったのは? 電気治療を始めたのは? 一体、誰だと思う?」〝先生〟のひとさし指が、告発するようにこちらを指し示
last updateLast Updated : 2026-01-02
Read more

32話

私の頭の中で、〝先生〟の声が反響する。「ただ一つ、頭の良い君にも計算できなかったことがあった。それは──剥き出しになった〝王様〟の心を見て、君自身が彼に引きつけられてしまったことだ」ふっと、〝先生〟は子どもを見る父親のような微笑みを浮かべる。「でもね。僕は良かったと思っているよ。〝王様〟に感謝したいくらいだ。何をしても動かなかった〝人形〟の心を、彼は動かしてくれた。」コツコツと〝先生〟がモルタルの床を歩く音が近づいてくる。「おかげでようやく、僕は本命の研究を進めることができる。君の心の研究がね。〝王様〟のおかげで開き始めた君の心を、これからは僕がこじあけてあげよう」〝先生〟は私の前に立つと、指先で私の前髪をそっとかき分けた。そのまま、額に優しくキスを落とす。「さぁ〝人形〟。〝王様〟のところに行っておいで」驚愕に目を見開く私の瞳をのぞき込むように〝先生〟は言った。「僕は君と違って、心ある人間だ。今夜一晩は、君たちを二人きりにしてあげよう。最後の夜を、共に過ごすといい。その代わり、明日になったら──」間近にある〝先生〟の目が、緩やかな弧を描いた。「二人とも、お互いのことは忘れる。君は〝人形〟に戻り、〝王様〟は廃人になる。……これですべて一件落着だ」ようやく面倒なことが処理できると言わんばかりに〝先生〟はため息をつき、後ろの〝笑い犬〟に頷いてみせた。「連れていきなさい」「はい」やってきた〝笑い犬〟が、私の手をグンと引く。ガチャリと冷たい手錠が両手首にかけられた。私はされるがまま、大人しく従った。抵抗など、出来なかった。そんな力、もうどこにも残っていなかった。身体の中は空っぽで、さっきまで聞かされていた〝先生〟の言葉が、亡霊の囁きのようにひゅうひゅうと吹き抜けていく。(私が〝王様〟を……みんなを、ここに閉じ込めたのだ……)そのまま私は〝笑い
last updateLast Updated : 2026-01-03
Read more

33話

保護棟は、コンクリート造りの建物の中に小部屋が三、四室並んでいるだけの、質素な空間だった。天井から吊るされた裸電球が、殺風景な部屋を冷たく照らし出している。「中へ」〝笑い犬〟が、小部屋の一つを指差した。 入れ、という意味らしい。 私は従うふりをしながらも、目の端で周囲を素早く確認した。「心配せずとも、〝王様〟はすぐ近くにいますよ──さぁ」後ろからドンと肩を押される。 私はよろけるように中へ入り、すぐに背後でガチャンとドアが閉まった。慌てて振り返り、拳でドアを叩く。「〝笑い犬〟! 〝王様〟はっ!? 〝王様〟はどこにいるんだっ!?」はめ殺しの小さな覗き窓が開き、そこから〝笑い犬〟の薄ら笑いが覗いた。「昔とは、まるで正反対ですね。貴方が〝人形〟で、私がただの患者だった時とは」その声音には、遠い昔を振り返るような響きがあった。「その頃、貴方は〝先生〟の助手として、類まれな手腕を発揮していた。一方で変わらず、〝先生〟の研究対象でもあった」覗き窓にかけられた〝笑い犬〟の指が、ぎゅっと握られる。「覚えていないでしょうが、最初の実験が失敗した後も、〝先生〟は貴方への実験を細々と続けていたんです。私は偶然にも、その一部始終を目撃してしまった」語尾に、うっとりとした熱が混じる。「確かその時は『痛み』に関する実験だったかな。どんな痛みを与えれば、貴方の心が動くか。〝先生〟は診察室で、いろいろと試していました。……その腕の傷も、その時に出来たものです」 「え……これは自分でつけたものじゃ……」私は、自分の腕に目を落とした。 そこには深いものから浅いものまで、さまざまな傷痕が刻まれている。「えぇ。でも、中には〝先生〟がつけたものもありますよ。丁寧に手当てもされていたので、痕にはなっていないと思いますが」そう言ったあと、彼は陶酔したように深いため息をつく。「……あの時の、貴方の顔。苦痛で歪んでいて、とても美しかった。それを見た瞬間、私は気づ
last updateLast Updated : 2026-01-04
Read more

34話

私は後ろを振り向く。「一体、〝王様〟に何をしたんだっ……!?」 「鎮静剤ですよ」動揺した私の様子が気に入ったのか、ドア越しから、口笛でも吹きそうなご機嫌な声が響いた。「ここに来るなりまた暴れ出したので、いつもより強めのものを打ったんです。たぶん、朝までこの状態でしょうね」その言葉で、ようやく私は気づいた。〝先生〟は、〝王様〟がこの状態だからこそ、一緒にいることを許したのだ。 話などできないことを、最初からわかっていた。これが、〝先生〟のやり口だ。すべてを許し、与えているようでいて、本当は何もかも禁じている。 餌のように希望を見せては、寸前でそれを取り上げる。それが人間を最も絶望させると、あの人は知り尽くしているのだ。(……もしかしたら、この中で一番に歪んでいるのは〝先生〟なのかもしれない)グッと唇を噛みしめると、主人に媚びを売る犬のように〝笑い犬〟が声をかけてきた。「良かったですね。最後に〝王様〟と一緒にいられて。いい予行練習になるんじゃないですか?」皮肉がこびれついた声が、独房の中にこだまする。「明日から、〝王様〟は永遠にこの状態になる。それを看るのは主治医の貴方なんですから、今のうちに慣れておいた方が楽ですよ」怒りが腹の底から湧き上がってきた。 マグマのようにグツグツと煮えたぎり、喉、胸、腹を熱くしていく。「悪趣味だっ……! 〝先生〟だけじゃない、ここの連中はみんなおかしい……! みんな、狂ってるっ!」〝笑い犬〟が鼻で笑う。「何を言っているんですか? 貴方だって、そのうちの一人なんですよ。もしかして、自分だけはまともだと思っていたんですか?」その声は、ねっとりとした悪意に満ちていた。「〝人形〟だった頃の貴方の実験によって、一体どれだけの人間が狂気に陥れられたと思います? 貴方と関わると、みんな狂ってしまう。〝王様〟だってそうだ」独房の奥の〝王様〟を窺い見ているのか、〝笑い犬〟は一拍おいた。
last updateLast Updated : 2026-01-06
Read more

35話

私は、微動だにしない〝王様〟の姿を、絶望的な思いで見つめる。(本当に……明日から彼はずっと、このままなのだろうか?)全身が震えた。 気がつけば、私は〝王様〟の前に膝をつき、その肩を強く揺さぶっていた。「……〝王様〟、私だ。お願いだから……気が付いてくれ!」何度呼びかけても、〝王様〟の視線がこちらに向くことはなかった。 呼ぶ声だけが、分厚い壁に反射してむなしく跳ね返る。部屋の中は、闇と沈黙しかなかった。唐突に、思い知らされる。 今まで〝王様〟は、こんな場所で、どんな気持ちで過ごしてきたのだろうか。誰もいない、光もない空間で。 一人、自ら発した声と、徐々に狂っていく己と、ただ向き合い続ける日々を。普通の人間なら、耐えられるはずがない。……でも、〝王様〟は耐えてきた。 他の誰でもない、この私のために。「〝王様〟っ! 私だっ! お願いだから、目を覚ましてくれっ!」肩口に顔を埋め、乞うように叫んだ。 その時だった。ぴくり。 〝王様〟の身体が、小さく反応した。「……〝王様〟っ!?」だが、喜んだのも束の間──「う……うがぁぁぁぁあああっ……!」〝王様〟は突然、咆哮を上げると、狂ったように両手で頭を掻きむしり始めた。「〝王様〟っ!? どうし──うッ!」止めようと伸ばした腕が、思いきりはね除けられる。 あまりの力の強さに、私はその場に尻餅をつき、呆然と〝王様〟を見つめた。獣のように歯をむき出し、手枷を引きちぎろうとする姿。──これは、発作だ。何度も見てきた光景だからわかる。(……でもなぜ?)〝笑い犬〟は、鎮静剤は朝まで保つと言っていたはずだ。「がぁぁぁっ……!」手枷に焦れたのか、〝王様〟はそれを壁に何度も叩きつけ始める。 骨と肉の鈍い音が、狭い室内に響き渡る。「駄目だ、〝王様〟っ…
last updateLast Updated : 2026-01-08
Read more

36話

「…………」どのくらい時間が経っただろう。 気がつくと、〝王様〟の拳が宙で止まっていた。それはゆっくりと力を失い、やがて身体の両脇へとだらりと垂れ下がる。「〝王様〟……?」私はそっと身体を離し、その顔をのぞき込んだ。〝王様〟と目が合う。 焦点の合っていなかった黒い瞳に、ほんのかすかだが、光が戻りはじめていた。「お前……どうして、こんなところに……?」永遠にも思える沈黙ののち、〝王様〟がゆるゆると顔を上げた。 まるで幻でも見ているかのような目で、私を見つめてくる。その声はかさついていたが、意外なほどしっかりしていた。私は胸を撫でおろし、安堵の息をついた。 〝王様〟の眉根が、さらに険しく寄る。「一体、どういうことなんだ? なぜ俺の名を……?」 「カルテで見たんだ。ま、そのせいで……ここに来る羽目にもなったけどね」冗談めかして言うと、〝王様〟の声が怒気を含んで跳ね上がった。「何で、そんな──」その言葉を、私は手で制した。 そして、まっすぐ彼の目を見つめる。「知りたかったから。自分のこと……それに、貴方のことも」 「俺のこと……? どうして、俺のことを?」 「それが、自分を知る一番の手がかりだと思ったから」しばらく呆けたような顔をしていた〝王様〟だったが突然、ぎくりと肩を揺らし、身を引いた。 壁際へ、数歩よろけるように後ずさる。「それ以上、俺に近づくな」 「〝王様〟? 急にどうし──」 「また……いつ発作が起こるかわからない。さっきみたいに、お前のことを──」彼は私の腕についた青あざと、泥に汚れた上着に目を落とした。「すまない」とかすれた声で呟き、まるで自分を封じ込めるように、体をぎゅっと縮める。私は一歩だけ近づいた。 その気配に〝王様〟が顔を上げ、ぴくりと肩を震わせる。その瞳は、痛みと恐怖で縁取られていた。
last updateLast Updated : 2026-01-10
Read more

37話

しばらくの間、私たちは無言で抱き締め合っていた。 そうしていると、まるで世界には二人しかいないような錯覚を覚えた。先ほどまで冷たく拒絶していた檻は、今や私たちの世界を守る唯一の城となった。ひどく満たされた気分だった。 〝王様〟も同じ気持ちだったのか、ふうっと長いため息をつく。「……なんか思い出す。前もこうして、お前が抱きしめてくれていた。その時だけ、俺は正気になれたんだ」 「それは……私が〝人形〟の時?」 「あぁ」私は身体を少し離し、半信半疑で尋ねる。「どうしても、信じられない。貴方が言う〝人形〟は、他の人が言う〝人形〟と全然違う。他の人はみんな、〝人形〟は冷酷無比な奴だったって……まさか別人ってことは……?」 「まさか」〝王様〟が喉を震わせて笑った。 その自然な笑みに、私は迷ったすえ、思い切って切り出す。「……話してくれないか? 貴方と〝人形〟のこと」〝王様〟はしばらく考え、頷いた。「あぁ。今のお前になら、話してもいいだろう」そう言って私の手を引き、壁に寄りかかった。 私は彼の首筋にもたれかかり、深い香りと、トクトクと規則正しく鳴る心音に身を預けた。「警察での精神鑑定のすえ、ここに収容されることになった俺は、主治医と名乗る一人の男に出会った。それがお前だ。あの時のことは、今でも鮮明に覚えている」〝王様〟は、ふっと深い息を吐いた。「お前は染み一つないシャツに、真っ白な白衣を羽織っていた。俺は初め、なんて綺麗な男なんだと思った」〝王様〟の笑みには、照れと苦さが入り混じっていた。「こんなこと言うと笑われるかもしれないけど、小さい頃、家に飾ってあった絵に出てくる神の御使いみたいに見えたんだ。もしかしてお前なら、俺のこのやっかいな病も治せるんじゃないかと期待すらした」ふっと長い睫毛が影を落とし、口元がわずかに歪んだ。「でも違った。お前は何て言うか……最悪だったな。まるでモルモットを見るような目でしか、患者たちを見ていなかった。俺にも
last updateLast Updated : 2026-01-11
Read more

38話

私は小さく首を横に振る。「いや……ただ、今までの話を聞いていて、何となく想像しただけだ。〝人形〟なら、きっとそう答えるだろうって」 「そうか……」〝王様〟は落胆したように肩を落とした。 その素直な仕草が妙に可笑しくて、私は思わずくすりと笑ってしまう。愛おしい。 もしそんな感情に形があるとすれば、こんなふうに胸の奥を温かく満たしてくれるものかもしれない。「……で? そのあと〝王様〟は何て答えたんだ?」 「俺か? 確か──」『そんなはずはない。痛いのは哀しいことだ』〝王様〟の低く響く声が、静かな独房に染み渡るように広がった。私は目を閉じた。 その一言に続く情景が、ありありと想像できる。きっと〝王様〟は哀しそうな、苦しそうな顔をしていただろう。 そして、それを見た〝人形〟は──。「……それが、お前と俺の初めての会話だったな」〝王様〟の声に、私はふっと現実に戻る。「そのあと、俺はしつこいくらいに、お前に話しかけるようになった」〝王様〟は自分の手元をじっと見やる。「たぶん不安だったんだろうな。一人でいると、どうしても考えてしまう。ここからいつ出られるのか、自分の正気がいつまで保つのか……そんなことばかり」〝王様〟は、苦笑を含ませながら続けた。「だから、顔を合わせられる唯一の相手だったお前に、無意識にすがっていた」一拍。 沈黙が、その場を満たす。「はじめは利用していたんだ、お前のことを。自分の正気を保つための道具として。だけど、お前は俺を拒絶するでも、特別扱いするでもなく、ただ淡々と接してきた。俺のくだらない質問にも律儀に答えてくれてさ……」細められた〝王様〟の瞳には、淡い光が反射していた。「そして、次第に思い始めたんだ。こいつ、そんなに冷たい奴じゃないのかもしれないって。お前は恐ろしいほど頭が切れるくせに、変に抜けてるところがあって、ちょっと子どもみたいでさ」続く〝王様〟の声は、これまで
last updateLast Updated : 2026-01-13
Read more

39話

「!?」〝王様〟の目が驚愕に見開かれる。 しばらく私をじっと見つめていたかと思うと、その顔が突然、泣き出す寸前のように歪んだ。「……お願いだっ! お前だけでも逃げてくれ!」まるで血を吐くような、痛切な声音だった。 〝王様〟は私の肩を掴み、思いきり抱き締めてくる。「もう嫌なんだ。お前を失うのは……。前に一度、二人で逃げようとしたことがあった。俺が『外』のことを話したせいで」〝王様〟の顔が暗い影に沈む。「でも失敗した。〝先生〟に捕まって、俺たちは引き離された。そのすぐあとだ……お前が自殺したと聞かされたのは」ブルリと〝王様〟の身体が大きく震える。「それを聞いた時、俺がどんな気持ちになったかわかるか? 未遂に終わったと知って、どれだけ安堵したか、わかるか?」責めるように肩にかかる手に、力がこもる。「……愛している。お前を。お前だけが、俺の希望なんだ」その声音に、私の胸の奥が、息もできないほど締めつけられた。「だから、お前がここを出て幸せになれるなら、俺は何もいらない。記憶も、正気も……全部、いらない」〝王様〟は、伏せていた顔をゆっくりと上げる。「お前が俺の腕の中にいなくても、構わない。それくらい、愛してる。だから──」その瞳は、これまで以上に強く、赤々と意志の炎をたたえていた。「逃げてくれ……お願いだからっ……!」悲鳴にも似た声が、独房の壁に反響する。私はしばらく圧倒され、身動きが取れなかった。 やっとのことで口を開いた声は、掠れてかすかに震えていた。「……なら、一緒に逃げよう。今度こそ、うまく──」 「駄目だ。俺はもう、手遅れなんだ」〝王様〟の声は冷静だった。だからこそ、なおさら重く響いた。「発作の頻度がどんどん増えてる。正気でいられる時間は、もうほとんどない。ここを出たって、それは変わらない。一緒に逃げても、お前の足を引っ張るだけだ」憔悴しきった顔が、引きつるように
last updateLast Updated : 2026-01-15
Read more

40話

(本当に……? 本当に、選択肢はないのか……)いくつもの考えが頭をよぎっては、泡沫のように儚く消えていく。 今やすべての扉は閉じられ、すべての光は絶たれていた。絶望が、私の身体を黒く塗りつぶしていく。 だけれど──それでも諦めることだけは、したくなかった。ほんの少しでも希望が残っているのなら……。「もう、いいんだ。いいんだよ」私の心を読んだかのように、〝王様〟がそっと抱きしめ、背中をぽんぽんと叩いてくる。「もういいんだ。それよりも……今はこうしていてくれないか。今夜だけでいい。最後の夜だけは正気でいたいんだ」それは、冷たい壁に吸い込まれてしまいそうなほど、か細い声だった。——どうして、今まで気づかなかったのだろう。〝王様〟は、怖いのだ。 明日、自分が自分でなくなってしまうことが。(……当たり前だ。それが、怖くない人間なんて……どこにもいない)「〝王様〟……」私は考えるのをやめ、彼を抱きしめた。〝王様〟は、ここにいる。 今は、そのことだけを考えよう。「大丈夫。そばにいる。こうしているから」抱きしめた〝王様〟の身体は、思っていたよりもずっと小さく、弱く感じた。 私は精一杯の笑顔を作り、そっとその顔を下から覗き込む。「……他にない? 私にしてほしいこと。何だってする。だって、貴方をここに連れてきて、こんな目に遭わせたのは私なんだからっ……」たった一言を口にするのが、血を吐くよりもつらかった。 けれど、黙ったままでいることはできなかった。「……知っていたさ」〝王様〟は静かに頷いた。「〝人形〟だった頃、お前が話してくれた。その時も、俺はお前を憎いとも恨めしいとも思わなかった。お前だって 〝先生〟の言いつけに従ってやっただけだ」「でも、私がやったことには変わりない。他人に言われたからって……そんなの、言い訳にもならない。私が他の患者にしてきたことも、償いきれるものじゃない」〝王様〟の背中に回した腕が、無意識に強張る。「今ならわかるんだ。そうされた側の痛みが、苦しみが……〝王様〟だって、私がいなければ、今みたいに不安定な状態にはならなかったはずだっ……!」喉の奥から、苦いものがあふれ出る。 嗚咽を押し殺すので精一杯だった。「償いなんか、いらない」震える私の背中を、〝王様〟が宥めるように、受け入れるよう
last updateLast Updated : 2026-01-18
Read more
PREV
1234567
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status