LOGIN保護棟は、コンクリート造りの建物の中に小部屋が三、四室並んでいるだけの、質素な空間だった。
天井から吊るされた裸電球が、殺風景な部屋を冷たく照らし出している。
「中へ」
〝笑い犬〟が、小部屋の一つを指差した。
入れ、という意味らしい。 私は従うふりをしながらも、目の端で周囲を素早く確認した。「心配せずとも、〝王様〟はすぐ近くにいますよ──さぁ」
後ろからドンと肩を押される。
私はよろけるように中へ入り、すぐに背後でガチャンとドアが閉まった。慌てて振り返り、拳でドアを叩く。
「〝笑い犬〟! 〝王様〟はっ!? 〝王様〟はどこにいるんだっ!?」
はめ殺しの小さな覗き窓が開き、そこから〝笑い犬〟の薄ら笑いが覗いた。
「昔とは、まるで正反対ですね。貴方が〝人形〟で、私がただの患者だった時とは」
その声音には、遠い昔を振り返るような響きがあった。
「その頃、貴方は〝先生〟の助手として、類まれな手腕を発揮していた。一方で変わらず、〝先生〟の研究対象でもあった」
覗き窓にかけられた〝笑い犬〟の指が、ぎゅっと握られる。
「覚えていないでしょうが、最初の実験が失敗した後も、〝先生〟は貴方への実験を細々と続けていたんです。私は偶然にも、その一部始終を目撃してしまった」
語尾に、うっとりとした熱が混じる。
「確かその時は『痛み』に関する実験だったかな。どんな痛みを与えれば、貴方の心が動くか。〝先生〟は診察室で、いろいろと試していました。……その腕の傷も、その時に出来たものです」
「え……これは自分でつけたものじゃ……」私は、自分の腕に目を落とした。
そこには深いものから浅いものまで、さまざまな傷痕が刻まれている。「えぇ。でも、中には〝先生〟がつけたものもありますよ。丁寧に手当てもされていたので、痕にはなっていないと思いますが」
そう言ったあと、彼は陶酔したように深いため息をつく。
「……あの時の、貴方の顔。苦痛で歪んでいて、とても美しかった。それを見た瞬間、私は気づ
私は後ろを振り向く。「一体、〝王様〟に何をしたんだっ……!?」 「鎮静剤ですよ」動揺した私の様子が気に入ったのか、ドア越しから、口笛でも吹きそうなご機嫌な声が響いた。「ここに来るなりまた暴れ出したので、いつもより強めのものを打ったんです。たぶん、朝までこの状態でしょうね」その言葉で、ようやく私は気づいた。〝先生〟は、〝王様〟がこの状態だからこそ、一緒にいることを許したのだ。 話などできないことを、最初からわかっていた。これが、〝先生〟のやり口だ。すべてを許し、与えているようでいて、本当は何もかも禁じている。 餌のように希望を見せては、寸前でそれを取り上げる。それが人間を最も絶望させると、あの人は知り尽くしているのだ。(……もしかしたら、この中で一番に歪んでいるのは〝先生〟なのかもしれない)グッと唇を噛みしめると、主人に媚びを売る犬のように〝笑い犬〟が声をかけてきた。「良かったですね。最後に〝王様〟と一緒にいられて。いい予行練習になるんじゃないですか?」皮肉がこびれついた声が、独房の中にこだまする。「明日から、〝王様〟は永遠にこの状態になる。それを看るのは主治医の貴方なんですから、今のうちに慣れておいた方が楽ですよ」怒りが腹の底から湧き上がってきた。 マグマのようにグツグツと煮えたぎり、喉、胸、腹を熱くしていく。「悪趣味だっ……! 〝先生〟だけじゃない、ここの連中はみんなおかしい……! みんな、狂ってるっ!」〝笑い犬〟が鼻で笑う。「何を言っているんですか? 貴方だって、そのうちの一人なんですよ。もしかして、自分だけはまともだと思っていたんですか?」その声は、ねっとりとした悪意に満ちていた。「〝人形〟だった頃の貴方の実験によって、一体どれだけの人間が狂気に陥れられたと思います? 貴方と関わると、みんな狂ってしまう。〝王様〟だってそうだ」独房の奥の〝王様〟を窺い見ているのか、〝笑い犬〟は一拍おいた。
保護棟は、コンクリート造りの建物の中に小部屋が三、四室並んでいるだけの、質素な空間だった。天井から吊るされた裸電球が、殺風景な部屋を冷たく照らし出している。「中へ」〝笑い犬〟が、小部屋の一つを指差した。 入れ、という意味らしい。 私は従うふりをしながらも、目の端で周囲を素早く確認した。「心配せずとも、〝王様〟はすぐ近くにいますよ──さぁ」後ろからドンと肩を押される。 私はよろけるように中へ入り、すぐに背後でガチャンとドアが閉まった。慌てて振り返り、拳でドアを叩く。「〝笑い犬〟! 〝王様〟はっ!? 〝王様〟はどこにいるんだっ!?」はめ殺しの小さな覗き窓が開き、そこから〝笑い犬〟の薄ら笑いが覗いた。「昔とは、まるで正反対ですね。貴方が〝人形〟で、私がただの患者だった時とは」その声音には、遠い昔を振り返るような響きがあった。「その頃、貴方は〝先生〟の助手として、類まれな手腕を発揮していた。一方で変わらず、〝先生〟の研究対象でもあった」覗き窓にかけられた〝笑い犬〟の指が、ぎゅっと握られる。「覚えていないでしょうが、最初の実験が失敗した後も、〝先生〟は貴方への実験を細々と続けていたんです。私は偶然にも、その一部始終を目撃してしまった」語尾に、うっとりとした熱が混じる。「確かその時は『痛み』に関する実験だったかな。どんな痛みを与えれば、貴方の心が動くか。〝先生〟は診察室で、いろいろと試していました。……その腕の傷も、その時に出来たものです」 「え……これは自分でつけたものじゃ……」私は、自分の腕に目を落とした。 そこには深いものから浅いものまで、さまざまな傷痕が刻まれている。「えぇ。でも、中には〝先生〟がつけたものもありますよ。丁寧に手当てもされていたので、痕にはなっていないと思いますが」そう言ったあと、彼は陶酔したように深いため息をつく。「……あの時の、貴方の顔。苦痛で歪んでいて、とても美しかった。それを見た瞬間、私は気づ
私の頭の中で、〝先生〟の声が反響する。「ただ一つ、頭の良い君にも計算できなかったことがあった。それは──剥き出しになった〝王様〟の心を見て、君自身が彼に引きつけられてしまったことだ」ふっと、〝先生〟は子どもを見る父親のような微笑みを浮かべる。「でもね。僕は良かったと思っているよ。〝王様〟に感謝したいくらいだ。何をしても動かなかった〝人形〟の心を、彼は動かしてくれた。」コツコツと〝先生〟がモルタルの床を歩く音が近づいてくる。「おかげでようやく、僕は本命の研究を進めることができる。君の心の研究がね。〝王様〟のおかげで開き始めた君の心を、これからは僕がこじあけてあげよう」〝先生〟は私の前に立つと、指先で私の前髪をそっとかき分けた。そのまま、額に優しくキスを落とす。「さぁ〝人形〟。〝王様〟のところに行っておいで」驚愕に目を見開く私の瞳をのぞき込むように〝先生〟は言った。「僕は君と違って、心ある人間だ。今夜一晩は、君たちを二人きりにしてあげよう。最後の夜を、共に過ごすといい。その代わり、明日になったら──」間近にある〝先生〟の目が、緩やかな弧を描いた。「二人とも、お互いのことは忘れる。君は〝人形〟に戻り、〝王様〟は廃人になる。……これですべて一件落着だ」ようやく面倒なことが処理できると言わんばかりに〝先生〟はため息をつき、後ろの〝笑い犬〟に頷いてみせた。「連れていきなさい」「はい」やってきた〝笑い犬〟が、私の手をグンと引く。ガチャリと冷たい手錠が両手首にかけられた。私はされるがまま、大人しく従った。抵抗など、出来なかった。そんな力、もうどこにも残っていなかった。身体の中は空っぽで、さっきまで聞かされていた〝先生〟の言葉が、亡霊の囁きのようにひゅうひゅうと吹き抜けていく。(私が〝王様〟を……みんなを、ここに閉じ込めたのだ……)そのまま私は〝笑い
淡々とした〝先生〟の声が、まるで暗い波のように、胸の中へじわじわと迫ってくる。「激情を感じる心そのものがなければ、彼はもう怒りに囚われることなく、穏やかに過ごせる。それが、本人にとっても一番の幸せなんだ」ふっと大きくため息を吐き、〝先生〟は自らのこめかみを押さえた。「今の彼を見てごらん。疲弊し、絶望しきっている。荒れ狂う自分の心と戦うことに。今はただ、君を守るためにギリギリのラインを保っているようだけど、それがいつまで続くかわからない」彼は、ついっと視線を上げた。 その瞳には、慈悲ともいえる色が宿っている。「だから、君から言ってあげるんだ。もう、楽になっていいんだと。君が〝王様〟を解放してあげなさい、その身に荒れ狂う狂気から」私には、何も言い返すことができなかった。 昨日の〝王様〟の様子を見れば、〝先生〟の話も、あながち嘘だとは言い切れない。〝王様〟は気づいていたのだ。 遠からず、自らが狂気の嵐に飲み込まれてしまうことに。だから、逃げない。 あんなにも私には『逃げろ』と言っておきながら。(……もしかしたら、〝王様〟もそれを望んでいるのだろうか?)〝先生〟が与えてくれる何もない、真っ白な平穏を。──いや、違う。強い否定が、身体の奥底からせり上がってきた。昨日、暗い病室の中で、〝王様〟は言ったのだ。 自分自身を見失うなと。今なら、わかる。 きっとあれは、自分にも言い聞かせていた言葉だったのだ。私は、ギッと 〝先生〟を睨み付けた。「お願いだっ! 治療を中止してくれっ……! こんなの、あまりにも酷すぎるっ……!」 「酷すぎる? 君が言うのかい?」心外だと言わんばかりに 、〝先生〟は両手を肩の高さで広げた。「言っておくけど、ここに〝王様〟を連れてきたのは誰だ? 彼が服用していた薬を作ったのは? 電気治療を始めたのは? 一体、誰だと思う?」〝先生〟のひとさし指が、告発するようにこちらを指し示
〝先生〟が、後ろに向かって顎をしゃくる。「〝笑い犬〟。彼を保護棟に連れていってくれ」 「はい」〝笑い犬〟が 〝先生〟を追い越し、私に近づいてくる。 その手には、銀色の手錠が握られていた。私は反射的に後ろへ下がる。 背中がデスクにぶつかり、衝撃で一枚の写真がすべり落ちた。今よりもずっと健康的で精悍な顔立ちの〝王様〟。 その瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。──逃げろ。 頭の奥に、彼の声が木霊する。「……ッ」私は咄嗟に身を低くし、勢いよく駆け出した。 〝笑い犬〟の手をすり抜け、〝先生〟の脇を抜けて、出口へと手を伸ばす。──あと少し、あと少しだ!「どこへ行くんです?」後ろからグンと腕を掴まれた。 瞬間、強い力で引き戻され、両手を後ろ手にねじられる。「まさか逃げられると思ったんですか?」嘲笑を含んだ〝笑い犬〟の吐息が、耳元に生ぬるくかかる。 ギリギリと、筋が引きちぎれそうなほど強く拘束され、喉からか細い悲鳴が漏れた。「……ッ!」 「抵抗してもいいですよ。私がこのあと保護室で可愛がってあげます。今まで貴方にやられた分、たっぷりとね」暗い笑い声に、ぞくりと背中の産毛が逆立つ。「そこまでにしなさい、〝笑い犬〟」ずっと傍観していた〝先生〟が、ようやく口を開いた。 その声音には、あくまで穏やかな調子が含まれている。「保護房には〝王様〟もいる。今日は、彼と二人っきりにしてあげなさい」一瞬、彼の目が私を捉える。 その瞳には、労りとも哀れみともつかぬ感情が浮かんでいた。「彼らは一度、心を通わせた者同士だ。最後に、つもる話もあるだろう?」あくまでも冷静な〝先生〟の声音が、余計に私の不安をかき立てた。「あぁ、そうだ」〝先生〟がわざとらしく、思い出したように口を開いた。
〝笑い犬〟は、無表情のまま〝先生〟の背後に立ち、影のようにぴたりと寄り添う。「彼は、僕の忠実な部下でね。——いや、一番忠実なのは、〝ご主人様〟である君に対してかな」 〝笑い犬〟と〝先生〟に視線を向けながら、私は額をつたって流れる冷たい汗を感じた。「ご主人様って……」答えたのは〝先生〟だった。「君は、彼にとっての絶対者だった。痛みと快楽、恐怖と崇拝──君が与えるあらゆる刺激は、彼にとっては至上の喜びだったんだ」〝先生〟の語り口が、わずかに嘲弄を帯びる。「カルテにも書いてあるけど、〝笑い犬〟は重度の異常性欲者だ。サディズム、マゾヒズム、果てはネクロフィリアにまで及ぶ倒錯の持ち主でね」〝先生〟は、口にするのも憚られるかのように言った。「レイプ、墓荒らし、あらゆる犯罪で警察に目をつけられていた彼を、更生できずに手を焼いた警察が、最後に行きついたのが……この病院さ」思わず後ずさる私を見て、〝先生〟は楽しげに肩をすくめた。「彼は、ここに来るや否や君に夢中になった。君から受ける〝実験〟にすっかり虜になって──いや、正確には、君自身の虜になっていったのさ。美しく、非道、それでいて無垢な君の事を、次第に目で追いかけるようになっていった」ちらりと後ろの〝笑い犬〟を見やってから、〝先生〟はにこやかに——しかし、より不穏に続けた。「だから僕は、彼の観察を通して君の変化に気づくことができた。そう、君がある人物にだけ、心を動かしたあの時に──」 「……あの時……?」問い返す声が、かすれた。 自分の声が、まるで針のように喉をひりつかせる。〝先生〟は、静かに頷く。「そう。どんな刺激にも反応しなかった〝人形〟だった君が──ただ一人にだけ、関心を抱いた」〝先生〟は手術台に近づき、指先で冷たい縁を撫でながら囁くように言った。「もうわかっているだろう? 〝王様〟さ」その名を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと絞られた。