ホテルのロビーには、もうほとんど人影がなかった。 数時間前まであれほど賑わっていた祝宴の喧騒は跡形もなく消え、ピアノの旋律だけが静かに流れている。 ワインの香りと花の残り香が、ほのかに夜気の中に漂っていた。 俊介は、出口近くの柱に背を預け、グラスを片手に立っていた。 赤い液面が揺れるたび、ホテルのシャンデリアの光がかすかに映り込む。 しかし彼の視線は、ずっとロビーの奥――いや、ガラス越しの外に向けられていた。「……どこ行ったんだ、結衣。」 小さく呟いた声は、ピアノの音に溶けて消える。 結衣の姿を最後に見たのは、ほんの三十分ほど前。 如月会長に促され、東条玲央と共にロビーを出て行く後ろ姿を、俊介は遠目に見ていた。 それきり、彼女は戻ってこない。 結衣がどんな顔をしていたか、俊介は今でも鮮明に覚えている。 普段は誰よりも凛とした彼女が、その夜はまるで糸の切れた操り人形のように、どこか儚げだった。 あの表情――会社でも、家でも、見たことがなかった。 俊介はグラスの中のワインを一気に飲み干し、ため息を吐く。 氷のように冷えた夜気が、喉を刺した。 そのとき、ふと視線の先に、動く影が見えた。 ホテルのエントランスの向こう―― 街灯に照らされ、二つの人影が並んで歩いていた。 女性のドレスが風に揺れる。その黒髪、背筋の伸びたシルエット。 見間違えるはずがない。結衣だった。 そして、その隣を歩く高身長の男性。 整った顔立ち、落ち着いた物腰。 俊介の脳裏に、その姿が一致した瞬間、思わず息を呑んだ。(……東条玲央。) 財界の新星――東条コンツェルンの若き代表。 ここ数年で急速に勢力を拡大し、如月グループとも業務提携の話が進んでいると聞く。 冷静で聡明、だが情熱を秘めた男。 俊介が、かつて新聞記事で読んだそのままの印象だった。 その男が、結衣と並んで歩いている。 しかも、彼女の肩には東条のジャケットがかけられていた。 胸の奥で、何かが音を立てていた。 それが嫉妬なのか、心配なのか――自分でもわからない。 ただ、喉の奥に苦い熱がこみ上げた。 俊介はグラスを柱の根元に置き、コートの襟を立てた。 そして、二人の後を追うように、静かにロビーを後にした。
Terakhir Diperbarui : 2025-11-18 Baca selengkapnya